武の歴史の誤りを糺す

江戸、幕末( 16 / 18 )

赤穂浪士の吉良邸討ち入りについての疑問

 

鎖帷子・・・赤穂浪士の場合

 

江戸中期、元禄年間の赤穂浪士の吉良邸討ち入りと、幕末の新撰組池田屋強襲事件。

この二つの事件を見るに、同じ疑問が湧いてくる。

 

まず、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件。

吉良方は百四十名(はっきりしたことは諸説ありわからない)、赤穂浪士は四十七名である。

結果は吉良方の死者十六名負傷者二十三名(これも諸説ある)。対して、赤穂浪士は死者は無く、負傷者は二名だけ、原惣右衛門は邸内に落ちた際に足をくじき、近松勘六は大腿部に突き傷を受けていたという。

これを見ると、戦闘で傷を受けたのは近松勘六一人ということになる。

吉良方は四十名近くの死傷者を出し、浪士の方は、戦って負傷したのは唯の一人である。

 

なぜこの様に戦果に差が出てしまったのか。しかも圧倒的に吉良方が人数が多く有利であったはずなのに。

それほど赤穂方が強く、吉良方が弱かったとでもいうのであろうか。

 

しかし、ここで考えなければならないのは、赤穂方には7人もの還暦を過ぎた老人がいたということである。

このような老人が血気盛んな壮年の吉良方とまともに戦って無事ですむわけがない。

堀部弥兵衛は七十七歳、寺坂吉衛門に至っては八十三歳、よぼよぼである。

しかし、この老人たちは、目につくほどの手傷を負った者は誰一人いない。

 

この様な老若入り混じった混成部隊の四十七人で、如何に周到に計画を練り、準備万端整えて打ち入り、敵の寝込みを襲っても、三倍近くの吉良方と戦って勝てるわけがないことは誰の目にもあきらかであろう。

 

周囲の長屋で寝ていた吉良方百人近くを長屋に封じ込めて出られないようにしたとしても、母屋で警護に当たっていた者は襲撃した赤穂方より人数が多いのである。

 

如何に寝込みを襲い不意打ちをかけたとしてもこれだけの戦果をあげるのは常識で考えれば到底無理な話である。

 

敵一人に三人でかかっていったから勝てたという説もあるが、これはおかしい。

単純計算で敵の三倍の人数が必要であるが、実際は赤穂方の方が少ない。これでどうやって一人の敵に三人が掛れるのか。理論的に説明がつかない。

 

しかし、結果は歴史の示すとおりである。

 

吉良方は当主の首を取られ、多くの死傷者を出した。これは納得できる。寝込みを襲われ、寝巻一枚で戦ったのだから。

素肌武者ほど弱い者はない。ここでいう素肌とは裸のことではない。身に鎧冑などの防具を着けない状態をいう。

 

刀が肌に触れればたやすく傷をうける。深く切り込まれれば容易に致命傷となる。

 

吉良方は寝巻一枚で完全武装の赤穂浪士を戦ったのだ。これだけの大損害を受けることは当然の結果といえよう。ここに不思議は何もない。

 

問題は赤穂浪士のほうである。

 

激しい肉弾戦である。乱戦のなか、赤穂の体に一本も吉良方の刃がとどかなかった筈はない。

ましてや吉良方の方が人数が多い。前の敵と渡り合っている横や後ろから別の敵に切りつけられたことも少なくなかったであろう。

しかし、高股を切られた一人を除いて他に刀傷を受けた者はいないのである。

これを不思議と言わずして何と言おう。

 

まるで鎧冑で完全武装していたかのようである。

先祖伝来の鎧冑で完全武装していれば、この様な一方的な結果となったとしても不思議はない。

 

しかし、記録によると、当日、甲冑で完全武装したものは誰もいない。とすれば、彼らは一体何を着こんでいたのか。

当夜、赤穂浪士は甲冑にかわる敵の刃を防ぐものを着こんでいたとしか考えられない。

 

討ち入り時の服装については、歌舞伎や映画のだんだら模様の揃いの制服はうそである。

 

正確なところはわからないが、諸記録の一致するところでは、鎖帷子に火事場装束、冑の鉢金をかぶっていたようである。

 

鎖帷子について誤解がある。

これは着込みともいい、着物の下に着るものであるからその防禦力は限定的であるかのように思われていて、従来、さほど重要視されてこなかった。

 

また、昔の錦絵や映画に、鎖帷子はまるで漁師の網のように表現されていた。

一般の人たちがあのような目の粗いものを鎖帷子と認識していれば、あまり防御力に期待できないと思うのも無理はない。

実際にあのような雑なものなら殆ど刀槍の攻撃を防ぐのは無理である。

 

実際の鎖帷子は、小さな鎖をつなぎ合わせて作られていて、実に堅牢なものである。

形も筒袖の着物の形に仕立てられ、裏地の布に縫い付けられていて、その長さは膝近くまである。

これを着れば胴部への刀槍の攻撃は殆ど防ぐことができよう。

 

正式の鎧に比べ、槍や刀剣の突きには弱いと言われているが、これとてあくまで甲冑に比べてのはなしであって、よほど体重をかけて渾身の力をふり絞って突いたものでなければこの鎖の目を突き破ることは難しい。

 

無我夢中の乱戦のなかで、槍ならともかく刀ではその様な効果的な突きは望めまい。

せいぜい鎖の一つ二つ突き破ったぐらいでは、大した傷を負わせることは難しい。

 

初期の鎖はただ針金を丸く輪をつくり、突き合わせただけであったので、槍や矢などで突かれるとこの継ぎ目が開き、突き破ることができたが、後になるとこの欠点を無くす為、様々な工夫が凝らされてこの欠点を小なくしている。

 

鎖で構成された防具の優秀性は既に戦国期、籠手などに使用されたことでも実証できるが、

これは外国の鎧が鎖鎧(チエインメイル)を多用したことでも理解できよう。

 

古代ローマ、帝政以前の共和制の時代、領土を盛んに拡大していた頃のローマ兵の鎧がこれであったし、十字軍の騎士は、この鎖鎧で全身を覆って戦った。

対するイスラム教徒の鎧も基本的にはこれであり、重要部分のみ鉄板で補強したものが使われた。

このような諸外国の事例を見ても、鎖鎧がいかに有用であったかということがおわかり頂けたことと思う。

 

赤穂浪士の使ったと言われている鎖帷子を見てみると、これはまさしく鎖鎧そのものであり、外国の鎖鎧に比べてもそん色ないものといえる。

記録には、吉良方が赤穂浪士に一太刀あびせがたが、はね返されて敵に手傷一つおわせることが出来なかったとの記述もあることから、この鎖の着込みは十分にその効力を発揮したことは間違いない。

 

また、胴体はわかるが、頭部はどうだという疑問もあろう。

ある記録によれば、冑の鉢金を火事頭巾の中に縫いこんでかぶり、籠手、脛当てを着け、帯にも鎖を入れていたという。

 

冑の鉢金とは、冑の本体部分であり、これは、冑から首を守る「しころ」の部分を取り外したもので、事実上、冑をかぶっていたということになるのである。

 

火事頭巾は、丈夫な刺子で構成され、中に石綿を縫いこんであるもので、この時代、もし、この様な防火頭巾が既に使用されていたのであれば、例え鉢金は無くてもかなりの防禦力があったと思われる。

この鉢金と火事頭巾の組み合わせは実によく考えられた工夫というべきで、室内の切り合いでは殆どの刀の切り込みを防ぐことができたのではないか。

 

こうして見てくると、籠手や脛当ても、甲冑の部品であるので、ほとんど甲冑と同じ完全武装で吉良邸の襲撃をおこなったということが言えるのである。

ただ、正規の甲冑より遥かに軽く、着物の下に着ていたので、目立たなかっただけである。

 

赤穂浪士は、ほぼ甲冑に準ずる完全装備で吉良邸襲撃に臨んだ。

これが赤穂浪士に殆ど死傷者が出なかった本当の理由である。

 

 

 

江戸、幕末( 17 / 18 )

池田屋事件について

鎖帷子・・・新撰組の場合

 

新撰組の活動のなかで、最も有名なものは池田屋事件であろう。

 

詳しい経過は、様々な小説家の著作の中で言い尽くされているのでここでは触れない。

 

ここでも、赤穂浪士の吉良邸打ち入りと同じ疑問がもち上がる。

 

勤皇志士側の二十数人に対し、池田屋を襲った新撰組側は、局長の近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四人である。

他の六名は表と裏の出口を抑えていた。

 

そのうち、永倉と藤堂は階下で待ち伏せ、二階に踏み込んだのは近藤と沖田の二人である。

なんと、二十数人、十倍以上の敵にたった二人で切り込んだのである。

近藤達にとってこれほど不利な戦いはない。それを承知で踏み込んだのである。

 

その豪胆さには舌を巻くばかりであるが、これはよほど腕に自信があるか、あるいは相手からは切られないと言う信念があったに違いない。それは一体何であろうか。

 

近藤達に踏み込まれた志士達は階下に飛びおり、下で待ち受けた永倉、藤堂と切り合いになった。

 

また、裏口には十数人が飛びおりて長州藩邸へ逃走をはかり、ここで待ち受けていた奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門の三人と戦闘が始まった。

 

結果は、勤皇方の宮部鼎蔵、吉田稔麿など九名を討ち取り、四名を捕縛した。

後から駆けつけた土方歳三率いる二十三名を加えて三十二名でこの戦果をあげたのである。

その後、応援の会津、桑名藩兵と協力して二十数人を捕縛した。

 

新撰組側の被害は、裏口にいた奥沢栄助は死亡、安藤早太郎と新田革左衛門は重傷を負い、ひと月後に死亡した。

新撰組側の死者はこの三名だけであるが、沖田総司は持病の発作で昏倒して戦闘から離脱し、藤堂は汗で鉢金がずれたところを切られて血が目に入った為に戦えなくなった。

 

これが池田屋事件のあらましである。

 

この池田屋襲撃の場合、条件は赤穂浪士吉良邸襲撃事件と良く似ている。

襲撃側は鎖頭巾に鉢金、鎖帷子に籠手と脛当てで完全武装して、準備万端整えて襲撃した。

 

これに対し、勤皇志士側は寝てこそいなかったが全く油断していた。

これは、万が一、幕吏に踏み込まれても長州藩邸まで約300m。いざとなれば長州藩邸に逃げ込めばよかったという事情もあったであろう。

その服装も、ごく普通の服装で、身を守る防具の類は何一つ身につけていなかった。

 

新撰組が鎖頭巾、鉢金、鎖帷子、籠手、脛当てなどの完全装備で池田屋に踏み込んだのとは格段の相違である。

 

前にも言ったが身に何の防具もつけない素肌で闘争の場に臨むことほど不利なことはない。

しかし、如何に完全武装で切り合いに臨んだとしても、防具の隙間を狙われたり、寄ってたかって切りつけられれば当然無事には済まない。

裏口を固めていた奥沢、安藤、新田の三名が死に至る重傷を受けたのはこの故である。

 

初め近藤、沖田の両名が二階に踏み込んだとき、二十人以上いた勤皇の志士達は一斉に裏口に殺到して長州藩邸に逃げようとした。

そこに新撰組側の三名が待ちかまえていて切り合いになった。所詮、多勢に無勢、寄ってたかって切りつけられられ、一人が死亡し二人が重傷を負った。

 

これは、近藤、沖田ほどの剣の実力があれば何とか凌いだと思われるが、所詮平隊士である。それだけの経験も実力もなかったということであろう。

この事件の場合も近藤、沖田の二名で数倍の敵と渡り合い、身に傷ひとつ受けていない。

また、階下にいた藤堂、永倉も、二階から大挙して押し寄せてきた敵に立ち向かい、永倉は無傷、藤堂は額の傷から流れ出る血が目にはいり戦闘を離脱したがこれは傷のせいではない。

なお、藤堂の傷は、鉢金が汗でずれたところを切り込まれたので、もし、鉢金がずれなければこの傷は受けることはなかった。

 

こうして見てみると、この新撰組の池田屋襲撃も、赤穂浪士の吉良邸打ち入りと同じく、

鎖帷子、鉢金を着用し、籠手、脛当ての完全武装のお陰で殆ど無傷でこれだけの大成果を上げることができたのである。

 

なお、新撰組の場合、頭部は鎖頭巾で保護されていて、赤穂浪士よりより完全な防備をしていたということができよう。

 

これまで江戸中期と幕末に起きたこの二大事件は、いろいろとその大戦果の原因を考察されてきたが、この鎖帷子の効果があまり重要視されてこなかったように思う。

ネット上では、この鎖帷子の効果について言及するものもあったが、あまり多くを語っていない。

 

このような鎖頭巾、鉢金、鎖帷子、籠手、脛当の効用について余りにも正しい認識を持って説明している著作や論文が少ないので、ここにこれら二例を提示して説明した次第である。

 

 

 

江戸、幕末( 18 / 18 )

犯人捕縛の実際

 

犯人捕縛の実際

 

 

最近テレビがおもしろくない。というより下らない。特に地デジ放送は一体何なのだろう。

こんなのばかりみているとろくなことは無い。

特に、子供達には見せたくないものばかりである。

 

民放が下らないならNHKはどうか。公共放送だから幾分はましなのではないかと思われるむきもあろう。

しかし、これも歴史番組、特に大河ドラマには注意が必要だ。最近のものはその内容も時代考証も実にお粗末である。

これは、ちゃんとした原作もなしにろくな歴史の基礎知識も持たぬ脚本家が現代劇ののりで歴史ドラマを作るからである。

問題なのは、歴史のあるテーマを取り上げて、作家や学者、タレントなどに解説させる歴史検証番組である。

一般の視聴者はこれを真実と信じ込んで見ているようだが、実はこれさえも実にいい加減なものであることはこれまでさんざん言ってきたところである。

ということで、地上デジタル放送はほとんど見たいとも思わない。

 

しかし、もともとテレビで育った年代である。

何かないかと、BS放送を探して見た。こちらの方が遥かにましである。

但し、大ウソの韓流ドラマが今なお幅を利かせているのは気に食わないが、これは見なければよい。

 

BS放送は、過去のドラマの再放送が多いので、昔懐かしい俳優や女優の若かりし頃の姿が見られるのも楽しい。

 

私は時代劇はあまり見ない。

しかし、昔の時代劇の雰囲気は嫌いではない。年のせいもあるのであろう。

 

最近良く見ているものに池波正太郎原作の「鬼平犯科帳」がある。

 

主演は松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之介、中村吉右衛門などであるが、丹波哲郎や萬屋錦之介は少々個性が強すぎてうっとおしい。

 

主に見ているのは、初代の松本幸四郎と、その息子の中村吉右衛門である。

脇役も当時の実力派が固めていて結構楽しめる。

しかし、立ち回りや、こまかいところに不満な所もなくは無いが、以前、チャンバラについて詳しく述べたので、立ち回りについてはこれ以上は言わない。

本物の切り合いの描写は、今までの殺陣師で知っている者など誰もいないからだ。

まず、現段階ではあんなものであろう。

 

これは、この鬼平シリーズだけではなく、所謂、捕り物帳もの全般について言えることであるが、捕り物の様子が全く間違っている。

 

その最大の間違いは、捕物の服装である。

 

どのドラマも、同心はせいぜい鉢巻に襷がけ程度の身ごしらえで凶悪犯に立ち向かっている。

又、鬼平の場合は刀を使っている場面もあるが、その他の捕り物帳では十手一本で犯人を捕縛している。

こんな馬鹿なことはない。

巡回中のふいの切り合いならともかく、犯人捕縛に向かう場合はそれなりの準備をしてかかるのが当り前である。

これでは相手が刀や脇差で抵抗した場合、あるいは匕首で懸ってきたばあいでさえも、同心の方も手傷を負い、あるいは最悪の場合、死に至ることもあり得るのだ。

 

昔、何かの本で読んだ覚えがある。

それによると、実際に捕縛にあたる同心は、籠手、脛当てをつけ、鎖帷子を着こみ、額には鉢金をあてて敵の刃を防ぐ。

こうでなければならぬ筈だ。これなら、よほどの事でもない限り、同心が手傷を負うことは無い。

また、映画やドラマではやたらと峰打ちを使うが、これも事実に反する。

刀は峰打ちをするようには出来ていないし、使いにくいものである。

相手も必死である。これがために不覚をとるようなことがあってはならない筈だ。

そのため、同心は、刃引きの刀を使うのである。これなら、犯人を殺すこともなく、せいぜい骨折や打ち身ぐらいで捕えることができる。

 

かねてそう思っていたところ、それを裏付ける記述を見つけた。

 

東京大学史料編纂所教授の山本博文氏著、「江戸のお白州【資料が語る犯科帳の真実】」である。

 

その部分は以下の通り。

 

【 捕物出役の時、奉行は、与力には「検使に行け」と命じ、同心には「十分に働け」と命ずる。

『江戸町奉行事績問答』(佐久間長敬著・南和夫注、東洋書院、1967年)によれば、与力は、火事羽織・野袴・陣笠を着用し、緋房のついた指揮十手を持ち、侍一人・槍持一人・草履取り一人を従える。

一方同心は、鎖帷子・鎖鉢巻・籠手・臑当などを着用し、十手と長脇差を持つ。長脇差は、相手が激しく抵抗した時に使うもので、これで相手の刀を払い落したり、相手を打ったりする。ただし、致命傷を与えないよう、刃は挽いてある。】

 

なお、実際の切り合いでもっとも手傷を負い易いのは両手、両腕であるので、この部分を完全に防備すればかなりの防禦力がある。また、相手が槍や長刀を持ち出してきた場合は、臑を切られることが多いので臑当ても重要である。

 

この籠手、臑当ては、鉄板と鎖で構成された至極頑丈なもので、多くは具足(鎧)の籠手、臑当てを使用した。

 

この様に、鉢巻、襷がけだけの素肌(裸ではない。鎧や防具をつけない状態をいう)で犯人捕縛にあたることはなかったのである。

 

 

 

 

明治以降( 1 / 7 )

 

明治初期の武道界

 

明治になり、文明開化の世になると、武士の身分は廃止され、続いて廃刀令が施行された。武術の基盤であった武士がいなくなり、江戸以来の剣術、柔術などの古流武術はほとんど時代遅れの古臭いものとして顧みられることがなくなった。

その為。入門者が激減し、たちまちそれらの道場主達は生活に困窮していった。

また、剣術にしても、柔術にしても、主に形稽古をやる流派は、一度に多数の門弟を指導することができない。

これで益々生活が苦しくなり、整骨や内職などでかろうじて糊口をしのぐ有様であったという。

 

剣術では、北辰一刀流や鏡心明智流、神道無念流など、主に防具をつけて竹刀で打ち合う稽古法、打ちこみ稽古でであったのでまだましであった。

それでも、直新影流の榊原鍵吉などが中心となり、撃剣興業をやったのである。

これは、今でいう異種格闘技のようなもので、これには当時の錚々たる名人、達人達が名を連ねていた。

このことを見ても、そのころ、如何に武術が衰退し、当時の武術家たちが危機感を抱いていたかわかる。

この剣術の打ち込み稽古をやる流派は、一度に多数の門弟に稽古をつけることが出来る為、営業上非常に有利であったことは前に書いたとおりである。

この打ちこみ稽古は、今の剣道とほとんど変わらない近代的な稽古法であったので、明治になってもその命脈を保ちつづけ、大正になって、流派を超えて大同団結して剣道となるのである。

 

ところが柔術の多くの流派では、旧態依然とした形稽古であった為、弟子の数が減るとたちまち経営難に陥ってしまい、その道場主たちは、他に生活の糧を求めなければならなかった。

形稽古は、マンツーマンで教えるので、一度に多くの弟子をとることができないからである。

このときに登場したのが嘉納治五郎である。

彼は、天神真楊流と起倒流の二流派の柔術を納め、それに独自の工夫を加えて明治15年に講道館を開設し、従来の柔術という呼称をやめて柔道という名前を使った。

今日の柔道の始まりである。

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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