武の歴史の誤りを糺す

江戸、幕末( 14 / 18 )

薩摩の剣術

 

明治維新を成し遂げた薩摩、長州の二雄藩の武力の基本となるもののイメージは大きく違っている。

薩摩と言えば示現流。

しかし、長州藩の剣術についてはあまり知られていない。

 

これには理由がある。

 

長州藩においては、戊辰戦争で活躍したのは主に武士以外の出身者で構成された奇兵隊等の諸隊であった。

 

武士の正規軍は、主に藩校の明倫館で柳生新陰流を学んでいたが、当時流行していた神道無念流を学ぶものも少なくなかった。

 

しかし、維新の戦闘の主体はあくまでも奇兵隊などの諸隊であり、剣技より新式銃を駆使して戦果をあげたので、剣術はあまり重要視されなかったと思われる。

 

一方、薩摩藩では事情が異なる。

 

薩摩島津家では、兵士の主体は薩摩藩士である。

 

武士の出ではないが、京都で人切りと恐れられた田中新兵衛、桜田門外の変で井伊直弼の首を打った有村次左衛門、生麦事件で英人リチャードソンを切った奈良原喜左衛門など剣をもって名をあげた人物も多い。

また、幕末から明治の西南戦争に至るまで、その剣技の峻烈さは、敵の恐怖の的であった。

これらの薩摩藩士などが使ったのが示現流と薬丸自顕流である。

 

示現流は飯篠長威斎の神道流から分派したものである。

三代盛近の門人十瀬与三左衛門長宗が自分の工夫を加えて天真正自顕流と名付けた。

長宗の弟子、金子新九郎盛貞の弟子赤坂弥九郎は僧となって善吉と号し、師の曇吉に従い上京した折、薩摩島津家家来、東郷重位と出会う。

 

東郷重位はタイ捨流を修めていたが、京都で剣僧善吉に秘伝を授けられ、島津家久の言により流名を示現流と改めた。

 

薩摩島津家家中の武士はほとんどこの示現流を学んだため、薩摩においては、他流の入り込む余地はほとんどなかったと言われている。

 

薬丸自顕流は一名野太刀自顕流ともいい、示現流の開祖、東郷肥前守重位に示現流を学んだ薬丸刑部左衛門兼陳が始めた流派で、基本は殆ど示現流と同じである。

この二流派のうち、示現流は主に城下士が習い、薬丸示現流は下士や郷士階級が使ったものとされているが、実際に暗殺剣を振るったり、人を切ったのものの多くは、殆ど下士であり、薬丸自顕流を使ったものである。

 

示現流と薬丸自顕流の基本は同じである。

左右の高い八双から、気合いとともに敵の首筋へ打ち込む。これを素早く右、左と繰り返す。これは両流とも変わらない。

 

大きく違うのは、示現流は組太刀の形があり、薬丸自顕流はこれが無い。

 

あるのは稽古法が数種類あるだけである。

 

その稽古法は、多くの木を束ねたものを横木に渡し、それをひたすら左右の蜻蛉という構えから交互に斜めに打つ。

また、立木を走り寄って打つ。或いは、十数本の木を立ててそれに陣笠をかぶせたものを順番に走って打つ「打ち廻り」、また、刀を抜きざま、下から片手切りに切り上げるなどの稽古法である。

 

この二つの流派の特徴は、ひたすら木を打つ稽古により、斬撃力が極めて強くなるということである。

 

ただ、示現流の方は、組太刀により、様々な実戦に即した精妙な技法を習得することができるが、当然、打太刀である教授者による仕太刀への細かい指導が必要となり、全ての組太刀の形に習得するにはかなりの時間を要する。

 

ところが、薬丸自顕流は難しい組太刀の形を習う必要がない。

つまり、師匠などの教授者が居なくても、稽古のやり方さえ覚えれば一人で稽古もできる。

何よりも有利であるのは、一度に多くの門弟の稽古ができるということであろう。しかも努力次第では短期間で強力な斬撃力が身につく。

 

これは、一度に多くの兵士を短期間に養成することができるという他流には見られない優れた特徴といえる。

 

司馬遼太郎氏や津本陽氏がその著作のなかで登場人物に言わせたり解説したりしていることの多くは素人の思いつき以外なにものでもない。

 

司馬遼太郎はずぶの素人であるし津本陽は剣道経験者である。

 

示現流のような極めて特殊な流派では、実際にに入門して学んでみなければ、その本質は決してわからないものである。

 

それを素人が文献資料や演武を見てああだこうだと言ってもその本質を言い表すことはできない。

いたずらに、誤ったイメージを一般読者に与えるだけである。

 

津本陽氏は剣道の有段者だと聞く。

 

しかし、前にも口をすっぱくして言ったことであるが、剣道と古流の剣術とは全く別物である。

剣道の立場から古流の剣術を云々しても、なんら素人と変わらない解説しかできない。

 

却って剣道の有段者であるがゆえに誤った認識を読者に植え付けかねない。

 

これは厳に慎むべきことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸、幕末( 15 / 18 )

陳元贇のこと

 

陳元贇・・・(日本柔術の祖)は誤り。

 

私の若い頃、一般には日本柔術は江戸時代初期、明から陳元贇なる人物が渡来し、三人の浪人に教えたのが始まりとされていたと思う。

陳元贇が江戸麻布国正寺に仮遇していたおり、磯貝次郎左衛門、福野七郎右衛門、三浦与次右衛門の三名の浪人に人を捕うる術を教え、これにこの浪人たちが工夫を加えて作りだしたのが我が国の柔術であるとされていた。

 

これは、「本朝武芸小伝」「武術流祖録」「本朝世事談綺」などに記載され、後に「国史大辞典」にまで収録されているために、陳元贇が日本柔術の祖となったという説が定説化したものと思われる。

これに対し、最初に反論を試みたのは、実は柔道の創始者、嘉納治五郎なのである。

嘉納はT.リンゼイと共著で英文で「柔術・伝統あるサムライの武器なき格闘術」という論文を著し、明治二十一年に発表した。

詳しくは、[yawara 知られざる日本柔術の世界…山田實著]に詳しいが、結論を言えば、陳元贇が柔術を日本にもたらしたということは否定し、柔術の起源を中国にもとめるのは「わが国の恥辱である」と言っている。

 

これは全くその通りである。

 

その一例として、文献で確認される最古のものは竹内流がある。

これは、天文元年(1532年)、美作国の住人竹内中務太夫久盛が、一人の修験者から小具足の術を学んで始めたとされている。

しかし、これは、文献などで確認されているものであり、当然同時代、あるいはそれ以前にも同様の技術が存在したことは間違いないことであろう。

 

日本は、武士が発生以来、千年以上にわたって膨大な数の合戦が行われてきた。

平家物語や源平盛衰記に見られるとおり、鎧組打ちは、数限りなく行われてきた。

特に、首取りの伝統は、この鎧組打ち無しには成り立たない。

当然、戦乱の世にあっては、この鎧組打ちの術は日本各地に於いて工夫、改良され発展してきたと考えるのが自然である。

 

竹内流はその一つにすぎない。

重要なことは、竹内流が今に現存し、伝えられていることである。それが故にこの小具足術発祥の事実が今に伝えられているのである。

恐らく、戦国当時あった同様の組打ち技の流派は、江戸の太平のなかで消えていったものと思われる。

 

しかし、その技法は現存する柔術各流派の技法の中にしっかり残されていることでも納得できよう。

 

誤解の元となったのは、「武芸小伝」の記述である。

 

これによると、小具足と拳と分けられており、小具足の元祖は竹内流とされているが、拳の方は相手に従うことにより勝利を得る術(柔術)で、この起源が陳元贇を始祖とする。

 

この「相手に従うことにより勝利を得る術」というのは、即ち、紛れもなく柔術のことを指している。

しかし、これを柔術、或いは柔、和と呼ばないのは何故なのであろうか。

何故、ことさら拳の文字を用いたのであろうか。

 

これは、明らかに陳元贇を無理やり持って来てこの場所にくっつけた為に、日本固有の技術である柔術、柔、和の名前を使うとどうしても不自然さを覆い隠すことができない。

そこで、中国渡来の技らしく拳という字を使ったのであろう。

 

では、何故ということになる。

 

これはひとえに権威づけのためである。

 

我が日本人は、外国かぶれがその最大の欠点である。これは今も昔も変わらない。

 

戦後は、日本国中がアメリカの真似をした。

 

歌手はアメリカのヒット曲を歌い、日活の無国籍映画などは、日本を舞台にアメリカのカウボーイの格好をした俳優にギターなぞ持たせて拳銃をぶっ放し、西部劇まがいの映画が作られた。

若者のファッションもすべて欧米の流行をまねした。

一時期、日本人は猿まねばかりしていると欧米人に思われていた時期が長く続いたのである。

 

昭和40年代後半になり、ブルースリーの映画がヒットすれば猫も杓子もそのまねをする。

反面、我が国伝統の文化は全く顧みられることはなく次々に衰亡し、消え去っていった。 

これが我が日本人である。これは、太古の昔から我が民族のDNAに埋め込まれた宿痾のようなものかもしれない。

 

その例にもれず、江戸時代は、全て中国から来たものが最高のものとされた。

 

特に文化人はその傾向が強かった。

それはそうであろう。当時の学問は全て漢学であり、医術も漢方、お茶も中国の真似をして煎茶の法ができたほどである。そして、その煎茶道具も全て中国からの輸入品が最上のものとされていた。

急須も、茶碗も、何から何まで、全ての中国からの輸入品が目の玉が飛び出るほどの高値で取引された。

 

つまり、江戸時代の日本人、特に知識人はすべて中国文化に大かぶれしていたのである。

当時の日本人の中国文化への憧憬は、現在の日本人には理解できないであろう。

 

これは、武術に於いても例外ではない。

 

故に、柔術の起源に於いても権威付けの為に中国からの渡来人を据えた。それが陳元贇である。

この陳元贇に教えを受けたとされる三浦、福野、磯貝の三人から発生した柔術流派の資料がこの「本朝武芸小伝」などの著者の手元にたまたまあった。

それで何の疑問も持たずそのまま使ったとしても不思議はない。

 

どうも、中国を有難がる風潮は他の流派にも見られる。

 

大流派の一つである揚心流の開祖である長崎の医師、秋山四郎兵衛が中国へ渡り、搏打の術と蘇生術を学んだとされている。

全てが嘘とは言わないが、かなりの創作があると考えざるを得ない。

 

何故かと言うと、その中国から学んできた搏打の法や陳元贇が教えた技(これも搏打の法と思われる)と現在伝わっている柔術の技とが余りにかけ離れているからである。

これは、嘉納治五郎もその論文のなかで言っていることである。

 

嘉納が学んだ起倒流は福野から出たものだし、天神真揚流の元は秋山の揚心流とその揚心流から出た真之神道流である。

 

いずれもその起源は中国人から習ったとされる中国拳法の搏打の術である。

もし、日本柔術の祖が陳元贇や中国人であるならば、この中国由来の搏打の法が起倒流や天神真揚流に残っていなければならない。

そして、この二流派を極めた嘉納治五郎がこのことを知らないわけがない。

 

ところが、嘉納自身がこの中国由来説を否定している。

 

このことは何を意味するか。

 

日本柔術の祖を陳元贇や秋山が中国に渡って搏打の法を習ったとされる中国人であるとするのは誤りであるということなのである。

 

実は、この誤りの元は「武芸小伝」の記述で、小具足と拳を分けたことによる。

 

「拳」は誤りであり、これは柔術、或いは柔とすべきものなのである。

 

何故ならば、この小具足も柔も同じものであるからだ。

 

古流柔術は様々なものが含まれていて、小具足も鎧組打ちも柔術の一形態であるのであり、基本となる技法は同じものである。

 

結論を言えば、日本柔術の始まりは、記録に残っているものとしては竹内柔術であるといって差し支えないと思う。

 

 

 

 

 

江戸、幕末( 16 / 18 )

赤穂浪士の吉良邸討ち入りについての疑問

 

鎖帷子・・・赤穂浪士の場合

 

江戸中期、元禄年間の赤穂浪士の吉良邸討ち入りと、幕末の新撰組池田屋強襲事件。

この二つの事件を見るに、同じ疑問が湧いてくる。

 

まず、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件。

吉良方は百四十名(はっきりしたことは諸説ありわからない)、赤穂浪士は四十七名である。

結果は吉良方の死者十六名負傷者二十三名(これも諸説ある)。対して、赤穂浪士は死者は無く、負傷者は二名だけ、原惣右衛門は邸内に落ちた際に足をくじき、近松勘六は大腿部に突き傷を受けていたという。

これを見ると、戦闘で傷を受けたのは近松勘六一人ということになる。

吉良方は四十名近くの死傷者を出し、浪士の方は、戦って負傷したのは唯の一人である。

 

なぜこの様に戦果に差が出てしまったのか。しかも圧倒的に吉良方が人数が多く有利であったはずなのに。

それほど赤穂方が強く、吉良方が弱かったとでもいうのであろうか。

 

しかし、ここで考えなければならないのは、赤穂方には7人もの還暦を過ぎた老人がいたということである。

このような老人が血気盛んな壮年の吉良方とまともに戦って無事ですむわけがない。

堀部弥兵衛は七十七歳、寺坂吉衛門に至っては八十三歳、よぼよぼである。

しかし、この老人たちは、目につくほどの手傷を負った者は誰一人いない。

 

この様な老若入り混じった混成部隊の四十七人で、如何に周到に計画を練り、準備万端整えて打ち入り、敵の寝込みを襲っても、三倍近くの吉良方と戦って勝てるわけがないことは誰の目にもあきらかであろう。

 

周囲の長屋で寝ていた吉良方百人近くを長屋に封じ込めて出られないようにしたとしても、母屋で警護に当たっていた者は襲撃した赤穂方より人数が多いのである。

 

如何に寝込みを襲い不意打ちをかけたとしてもこれだけの戦果をあげるのは常識で考えれば到底無理な話である。

 

敵一人に三人でかかっていったから勝てたという説もあるが、これはおかしい。

単純計算で敵の三倍の人数が必要であるが、実際は赤穂方の方が少ない。これでどうやって一人の敵に三人が掛れるのか。理論的に説明がつかない。

 

しかし、結果は歴史の示すとおりである。

 

吉良方は当主の首を取られ、多くの死傷者を出した。これは納得できる。寝込みを襲われ、寝巻一枚で戦ったのだから。

素肌武者ほど弱い者はない。ここでいう素肌とは裸のことではない。身に鎧冑などの防具を着けない状態をいう。

 

刀が肌に触れればたやすく傷をうける。深く切り込まれれば容易に致命傷となる。

 

吉良方は寝巻一枚で完全武装の赤穂浪士を戦ったのだ。これだけの大損害を受けることは当然の結果といえよう。ここに不思議は何もない。

 

問題は赤穂浪士のほうである。

 

激しい肉弾戦である。乱戦のなか、赤穂の体に一本も吉良方の刃がとどかなかった筈はない。

ましてや吉良方の方が人数が多い。前の敵と渡り合っている横や後ろから別の敵に切りつけられたことも少なくなかったであろう。

しかし、高股を切られた一人を除いて他に刀傷を受けた者はいないのである。

これを不思議と言わずして何と言おう。

 

まるで鎧冑で完全武装していたかのようである。

先祖伝来の鎧冑で完全武装していれば、この様な一方的な結果となったとしても不思議はない。

 

しかし、記録によると、当日、甲冑で完全武装したものは誰もいない。とすれば、彼らは一体何を着こんでいたのか。

当夜、赤穂浪士は甲冑にかわる敵の刃を防ぐものを着こんでいたとしか考えられない。

 

討ち入り時の服装については、歌舞伎や映画のだんだら模様の揃いの制服はうそである。

 

正確なところはわからないが、諸記録の一致するところでは、鎖帷子に火事場装束、冑の鉢金をかぶっていたようである。

 

鎖帷子について誤解がある。

これは着込みともいい、着物の下に着るものであるからその防禦力は限定的であるかのように思われていて、従来、さほど重要視されてこなかった。

 

また、昔の錦絵や映画に、鎖帷子はまるで漁師の網のように表現されていた。

一般の人たちがあのような目の粗いものを鎖帷子と認識していれば、あまり防御力に期待できないと思うのも無理はない。

実際にあのような雑なものなら殆ど刀槍の攻撃を防ぐのは無理である。

 

実際の鎖帷子は、小さな鎖をつなぎ合わせて作られていて、実に堅牢なものである。

形も筒袖の着物の形に仕立てられ、裏地の布に縫い付けられていて、その長さは膝近くまである。

これを着れば胴部への刀槍の攻撃は殆ど防ぐことができよう。

 

正式の鎧に比べ、槍や刀剣の突きには弱いと言われているが、これとてあくまで甲冑に比べてのはなしであって、よほど体重をかけて渾身の力をふり絞って突いたものでなければこの鎖の目を突き破ることは難しい。

 

無我夢中の乱戦のなかで、槍ならともかく刀ではその様な効果的な突きは望めまい。

せいぜい鎖の一つ二つ突き破ったぐらいでは、大した傷を負わせることは難しい。

 

初期の鎖はただ針金を丸く輪をつくり、突き合わせただけであったので、槍や矢などで突かれるとこの継ぎ目が開き、突き破ることができたが、後になるとこの欠点を無くす為、様々な工夫が凝らされてこの欠点を小なくしている。

 

鎖で構成された防具の優秀性は既に戦国期、籠手などに使用されたことでも実証できるが、

これは外国の鎧が鎖鎧(チエインメイル)を多用したことでも理解できよう。

 

古代ローマ、帝政以前の共和制の時代、領土を盛んに拡大していた頃のローマ兵の鎧がこれであったし、十字軍の騎士は、この鎖鎧で全身を覆って戦った。

対するイスラム教徒の鎧も基本的にはこれであり、重要部分のみ鉄板で補強したものが使われた。

このような諸外国の事例を見ても、鎖鎧がいかに有用であったかということがおわかり頂けたことと思う。

 

赤穂浪士の使ったと言われている鎖帷子を見てみると、これはまさしく鎖鎧そのものであり、外国の鎖鎧に比べてもそん色ないものといえる。

記録には、吉良方が赤穂浪士に一太刀あびせがたが、はね返されて敵に手傷一つおわせることが出来なかったとの記述もあることから、この鎖の着込みは十分にその効力を発揮したことは間違いない。

 

また、胴体はわかるが、頭部はどうだという疑問もあろう。

ある記録によれば、冑の鉢金を火事頭巾の中に縫いこんでかぶり、籠手、脛当てを着け、帯にも鎖を入れていたという。

 

冑の鉢金とは、冑の本体部分であり、これは、冑から首を守る「しころ」の部分を取り外したもので、事実上、冑をかぶっていたということになるのである。

 

火事頭巾は、丈夫な刺子で構成され、中に石綿を縫いこんであるもので、この時代、もし、この様な防火頭巾が既に使用されていたのであれば、例え鉢金は無くてもかなりの防禦力があったと思われる。

この鉢金と火事頭巾の組み合わせは実によく考えられた工夫というべきで、室内の切り合いでは殆どの刀の切り込みを防ぐことができたのではないか。

 

こうして見てくると、籠手や脛当ても、甲冑の部品であるので、ほとんど甲冑と同じ完全武装で吉良邸の襲撃をおこなったということが言えるのである。

ただ、正規の甲冑より遥かに軽く、着物の下に着ていたので、目立たなかっただけである。

 

赤穂浪士は、ほぼ甲冑に準ずる完全装備で吉良邸襲撃に臨んだ。

これが赤穂浪士に殆ど死傷者が出なかった本当の理由である。

 

 

 

江戸、幕末( 17 / 18 )

池田屋事件について

鎖帷子・・・新撰組の場合

 

新撰組の活動のなかで、最も有名なものは池田屋事件であろう。

 

詳しい経過は、様々な小説家の著作の中で言い尽くされているのでここでは触れない。

 

ここでも、赤穂浪士の吉良邸打ち入りと同じ疑問がもち上がる。

 

勤皇志士側の二十数人に対し、池田屋を襲った新撰組側は、局長の近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四人である。

他の六名は表と裏の出口を抑えていた。

 

そのうち、永倉と藤堂は階下で待ち伏せ、二階に踏み込んだのは近藤と沖田の二人である。

なんと、二十数人、十倍以上の敵にたった二人で切り込んだのである。

近藤達にとってこれほど不利な戦いはない。それを承知で踏み込んだのである。

 

その豪胆さには舌を巻くばかりであるが、これはよほど腕に自信があるか、あるいは相手からは切られないと言う信念があったに違いない。それは一体何であろうか。

 

近藤達に踏み込まれた志士達は階下に飛びおり、下で待ち受けた永倉、藤堂と切り合いになった。

 

また、裏口には十数人が飛びおりて長州藩邸へ逃走をはかり、ここで待ち受けていた奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門の三人と戦闘が始まった。

 

結果は、勤皇方の宮部鼎蔵、吉田稔麿など九名を討ち取り、四名を捕縛した。

後から駆けつけた土方歳三率いる二十三名を加えて三十二名でこの戦果をあげたのである。

その後、応援の会津、桑名藩兵と協力して二十数人を捕縛した。

 

新撰組側の被害は、裏口にいた奥沢栄助は死亡、安藤早太郎と新田革左衛門は重傷を負い、ひと月後に死亡した。

新撰組側の死者はこの三名だけであるが、沖田総司は持病の発作で昏倒して戦闘から離脱し、藤堂は汗で鉢金がずれたところを切られて血が目に入った為に戦えなくなった。

 

これが池田屋事件のあらましである。

 

この池田屋襲撃の場合、条件は赤穂浪士吉良邸襲撃事件と良く似ている。

襲撃側は鎖頭巾に鉢金、鎖帷子に籠手と脛当てで完全武装して、準備万端整えて襲撃した。

 

これに対し、勤皇志士側は寝てこそいなかったが全く油断していた。

これは、万が一、幕吏に踏み込まれても長州藩邸まで約300m。いざとなれば長州藩邸に逃げ込めばよかったという事情もあったであろう。

その服装も、ごく普通の服装で、身を守る防具の類は何一つ身につけていなかった。

 

新撰組が鎖頭巾、鉢金、鎖帷子、籠手、脛当てなどの完全装備で池田屋に踏み込んだのとは格段の相違である。

 

前にも言ったが身に何の防具もつけない素肌で闘争の場に臨むことほど不利なことはない。

しかし、如何に完全武装で切り合いに臨んだとしても、防具の隙間を狙われたり、寄ってたかって切りつけられれば当然無事には済まない。

裏口を固めていた奥沢、安藤、新田の三名が死に至る重傷を受けたのはこの故である。

 

初め近藤、沖田の両名が二階に踏み込んだとき、二十人以上いた勤皇の志士達は一斉に裏口に殺到して長州藩邸に逃げようとした。

そこに新撰組側の三名が待ちかまえていて切り合いになった。所詮、多勢に無勢、寄ってたかって切りつけられられ、一人が死亡し二人が重傷を負った。

 

これは、近藤、沖田ほどの剣の実力があれば何とか凌いだと思われるが、所詮平隊士である。それだけの経験も実力もなかったということであろう。

この事件の場合も近藤、沖田の二名で数倍の敵と渡り合い、身に傷ひとつ受けていない。

また、階下にいた藤堂、永倉も、二階から大挙して押し寄せてきた敵に立ち向かい、永倉は無傷、藤堂は額の傷から流れ出る血が目にはいり戦闘を離脱したがこれは傷のせいではない。

なお、藤堂の傷は、鉢金が汗でずれたところを切り込まれたので、もし、鉢金がずれなければこの傷は受けることはなかった。

 

こうして見てみると、この新撰組の池田屋襲撃も、赤穂浪士の吉良邸打ち入りと同じく、

鎖帷子、鉢金を着用し、籠手、脛当ての完全武装のお陰で殆ど無傷でこれだけの大成果を上げることができたのである。

 

なお、新撰組の場合、頭部は鎖頭巾で保護されていて、赤穂浪士よりより完全な防備をしていたということができよう。

 

これまで江戸中期と幕末に起きたこの二大事件は、いろいろとその大戦果の原因を考察されてきたが、この鎖帷子の効果があまり重要視されてこなかったように思う。

ネット上では、この鎖帷子の効果について言及するものもあったが、あまり多くを語っていない。

 

このような鎖頭巾、鉢金、鎖帷子、籠手、脛当の効用について余りにも正しい認識を持って説明している著作や論文が少ないので、ここにこれら二例を提示して説明した次第である。

 

 

 

甲斐 喜三郎
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