武の歴史の誤りを糺す

江戸、幕末( 12 / 18 )

世良修蔵への誤解

世良修蔵。正しく伝えられるべき人物

 

世良修蔵は周防大島郡椋野村の庄屋中司家で生まれている。

誰かが何所かに書いていたように漁師の出ではない。

17歳のとき、萩の明倫館、次いで月性の時習館(清狂草堂)に学ぶ。

さらに江戸に出て、儒者、安井息軒の三計塾で塾長代理を務めた。

このことから、これだけの教育を受けさせた世良の実家の財力がかなりの
ものであったことがわかるのである。

そのような勉学の結果、周防の浦靱負の私塾克己堂の兵学講師となる。

奇兵隊には赤根武人の勧めにより入隊し、その後、第二奇兵隊軍監となり、
第二次長州征伐、大島口に於いて、松山藩などの幕府軍を破った。

また、鳥羽伏見の戦いでは、第二奇兵隊や遊撃隊を指揮して戦い戦功を
あげている。

問題なのはその後である。

奥羽鎮撫総督府下参謀となり、福島に於いて、仙台藩士らにより斬首され、
非業の死を遂げた。

司馬遼太郎の「惨殺」によれば、世良は、傲岸無礼、無教養で粗野な人間
であったように描かれている。

しかし、それは、世良修蔵本人の実像からは遥かにかけ離れているように思える。

彼は、萩の明倫館、月性の時習館で学び、江戸の三計塾では塾長代理を務めるなど、
極めて優れた教養人であり、司馬が言うような無知暗愚な人間ではなかった事
だけは確かである。

また、上記のごとく軍人としても優れた指導力を持ち、軍功も申し分ない。

この二つを総合して見るに、世良修蔵という人物は、決して無教養で
愚かな人間などではなく、教養豊かで、軍人としても優秀な人間で
あった。

奥羽鎮撫総督府下参謀の時、参謀添役として後に総理大臣になった桂太郎が
いたが、もしこの時、世良が殺害されていなかったらどうであろう。

明治政府で重用され、この様に後世、小説家によって悪役に仕立られずに
済んだのではないだろうか。

なお、世良が新政府内でかなりの評価を受けていたことは、後に
従四位の官位を授けられた事でも明らかである。

「斬殺」の記述は、司馬遼太郎が如何にいい加減な事を書くかという、
悪しき一例である。


この世良暗殺事件について、公正な観点から説明した一文を見つけたので
紹介する。


<a href="http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme13a.htm" target="_blank">「世良修蔵暗殺事件の周辺」 -奥羽鎮撫総督府」の結成から世良暗殺まで-</a>

 

江戸、幕末( 13 / 18 )

海防論

海防論について

 

よく誤解されているのだが、ペリーの黒船によって日本人が初めて外国の脅威を知ったわけではない。
それまでに多くの外国船が来ていて、様々な問題が起きている。

典型的な例は、ペリー来航の50年前に起きたフェートン号事件であろう。
この時、長崎奉行の松平図書頭康平は、責任を取って自刃し、警備の佐賀藩士16名も長崎市街から峠を越えた場所で腹を切っている。

この場所は、今も腹切り坂として残っていて、十年近く前、長崎街道を歩いたときにこの記憶がある。

長崎は天領で、福岡藩と佐賀藩の両藩が輪番で警備を担当していたので、この事件の時の佐賀藩が責任を取らされたわけだ。

このような事件を経験したので、当然、佐賀藩は、藩主自らが海防の必要性を痛感し、十代藩主、鍋島閑叟は藩政改革により、藩の財政を立て直した後、嘉永3年(1850)から嘉永5年(1852)の二年間で日本で最初の反射炉を作っている。

また、同時期に長崎の海防の重要性を幕府に訴えたところ、財政難という理由で取り上げてもらえず、自力で長崎に台場を作り、砲台を建設した。

また、この反射炉により多くの大砲を鋳造し、品川台場に大砲を据え付け、文久3年(1863)には、自力でアームストロング砲まで造ってしまった。

この様に、こと、海防に関しては、日本で一番意識が高く、藩全体が一丸となって実行したのが佐賀藩なのである。

また、薩摩藩も、琉球を窓口にして、外国の脅威は感じていて、砲台や軍艦を建造して備えていたので、薩英戦争のとき、英軍の最新兵器を相手にして、旧式兵器でかなりの戦果をあげることができた。

実は、この月性の活動期は日本国中海防論が盛んな時期であった。

薩摩や佐賀は、藩を挙げて海防に尽力しているのに、毛利家は、表だってそのような活動はみられない。

月性が何故、海防の重要性を思い知らされたかというと、若い頃長崎に遊学しオランダ船の大砲や軍備を目の当たりにしたからだと言われている。
これは、ぺリーが来る20年近くも前のことであった。

そしてその後に大阪で梅田雲浜等の攘夷論者との交流に於いて、この意は確固たるものとなり、帰国して海防の緊急性を説いて歩くようになる。その後、尊王攘夷の志士、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内大学、宍戸佐馬介、などとの交流によりますます危機感を募らせてゆく。

しかし、上記の尊王攘夷家達は安政の大獄により弾圧をうけ、安政六年(1859)、頼三樹三郎は吉田松陰とともに死罪となった。そのとき、すでに月性は前年の安政5年に病没している。
享年42歳。吉田松陰より12歳年上であった。

このように、海防論は、月性の活動時期には最高潮に達していたし、危機感を持った佐賀、薩摩などの西国雄藩は、国を挙げてその対策に腐心していた。
つまり、海防論は月性のみの持論ではなく、当時、先見の明のある知識階級には共通の認識であったと言ってよい。

しかし、月性の偉大なところは、ただの海防論者、単なる口舌の徒にとどまらなかったことである。

当時の毛利家の藩主や重臣達を説いて海防の重要性を認識させたことも重要であるが、最大の功績はそのことではない。

それは、私塾、清狂草堂において、優秀な子弟を教育し、また、防長二州の郷村をまわり、百姓、町人たちに外国の脅威を訴えたことであろう。

そして、この外国の侵略に対抗するには、士農工商を問わず、志ある者をもって新しい軍隊を創設しなければならないと説いた。

これにより、後年、高杉晋作が奇兵隊を創設し、身分にかかわらず広く隊員を募集したとき、武士以外の階層から多くの隊士が集まったのである。
そのなかに、月性の弟子である赤根武人、世良修蔵がいた。
赤根武人は後に第三代騎兵隊総督となり、世羅修蔵は奥羽鎮撫使参謀となっている。

もし、月性の在地の子弟の教育と、防長二州の遊説がなかったならば、奇兵隊をはじめ、多くの諸隊にこれだけの人材が集まることがなかったであろう。

これらの草莽の士からなる長州藩の諸隊が、四境戦争から戊申戦争まで、明治維新に極めて大きな貢献をしたことを考えると、月性の遊説がいかに大きな効果をもたらしたかということがわかるのである。

江戸、幕末( 14 / 18 )

薩摩の剣術

 

明治維新を成し遂げた薩摩、長州の二雄藩の武力の基本となるもののイメージは大きく違っている。

薩摩と言えば示現流。

しかし、長州藩の剣術についてはあまり知られていない。

 

これには理由がある。

 

長州藩においては、戊辰戦争で活躍したのは主に武士以外の出身者で構成された奇兵隊等の諸隊であった。

 

武士の正規軍は、主に藩校の明倫館で柳生新陰流を学んでいたが、当時流行していた神道無念流を学ぶものも少なくなかった。

 

しかし、維新の戦闘の主体はあくまでも奇兵隊などの諸隊であり、剣技より新式銃を駆使して戦果をあげたので、剣術はあまり重要視されなかったと思われる。

 

一方、薩摩藩では事情が異なる。

 

薩摩島津家では、兵士の主体は薩摩藩士である。

 

武士の出ではないが、京都で人切りと恐れられた田中新兵衛、桜田門外の変で井伊直弼の首を打った有村次左衛門、生麦事件で英人リチャードソンを切った奈良原喜左衛門など剣をもって名をあげた人物も多い。

また、幕末から明治の西南戦争に至るまで、その剣技の峻烈さは、敵の恐怖の的であった。

これらの薩摩藩士などが使ったのが示現流と薬丸自顕流である。

 

示現流は飯篠長威斎の神道流から分派したものである。

三代盛近の門人十瀬与三左衛門長宗が自分の工夫を加えて天真正自顕流と名付けた。

長宗の弟子、金子新九郎盛貞の弟子赤坂弥九郎は僧となって善吉と号し、師の曇吉に従い上京した折、薩摩島津家家来、東郷重位と出会う。

 

東郷重位はタイ捨流を修めていたが、京都で剣僧善吉に秘伝を授けられ、島津家久の言により流名を示現流と改めた。

 

薩摩島津家家中の武士はほとんどこの示現流を学んだため、薩摩においては、他流の入り込む余地はほとんどなかったと言われている。

 

薬丸自顕流は一名野太刀自顕流ともいい、示現流の開祖、東郷肥前守重位に示現流を学んだ薬丸刑部左衛門兼陳が始めた流派で、基本は殆ど示現流と同じである。

この二流派のうち、示現流は主に城下士が習い、薬丸示現流は下士や郷士階級が使ったものとされているが、実際に暗殺剣を振るったり、人を切ったのものの多くは、殆ど下士であり、薬丸自顕流を使ったものである。

 

示現流と薬丸自顕流の基本は同じである。

左右の高い八双から、気合いとともに敵の首筋へ打ち込む。これを素早く右、左と繰り返す。これは両流とも変わらない。

 

大きく違うのは、示現流は組太刀の形があり、薬丸自顕流はこれが無い。

 

あるのは稽古法が数種類あるだけである。

 

その稽古法は、多くの木を束ねたものを横木に渡し、それをひたすら左右の蜻蛉という構えから交互に斜めに打つ。

また、立木を走り寄って打つ。或いは、十数本の木を立ててそれに陣笠をかぶせたものを順番に走って打つ「打ち廻り」、また、刀を抜きざま、下から片手切りに切り上げるなどの稽古法である。

 

この二つの流派の特徴は、ひたすら木を打つ稽古により、斬撃力が極めて強くなるということである。

 

ただ、示現流の方は、組太刀により、様々な実戦に即した精妙な技法を習得することができるが、当然、打太刀である教授者による仕太刀への細かい指導が必要となり、全ての組太刀の形に習得するにはかなりの時間を要する。

 

ところが、薬丸自顕流は難しい組太刀の形を習う必要がない。

つまり、師匠などの教授者が居なくても、稽古のやり方さえ覚えれば一人で稽古もできる。

何よりも有利であるのは、一度に多くの門弟の稽古ができるということであろう。しかも努力次第では短期間で強力な斬撃力が身につく。

 

これは、一度に多くの兵士を短期間に養成することができるという他流には見られない優れた特徴といえる。

 

司馬遼太郎氏や津本陽氏がその著作のなかで登場人物に言わせたり解説したりしていることの多くは素人の思いつき以外なにものでもない。

 

司馬遼太郎はずぶの素人であるし津本陽は剣道経験者である。

 

示現流のような極めて特殊な流派では、実際にに入門して学んでみなければ、その本質は決してわからないものである。

 

それを素人が文献資料や演武を見てああだこうだと言ってもその本質を言い表すことはできない。

いたずらに、誤ったイメージを一般読者に与えるだけである。

 

津本陽氏は剣道の有段者だと聞く。

 

しかし、前にも口をすっぱくして言ったことであるが、剣道と古流の剣術とは全く別物である。

剣道の立場から古流の剣術を云々しても、なんら素人と変わらない解説しかできない。

 

却って剣道の有段者であるがゆえに誤った認識を読者に植え付けかねない。

 

これは厳に慎むべきことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸、幕末( 15 / 18 )

陳元贇のこと

 

陳元贇・・・(日本柔術の祖)は誤り。

 

私の若い頃、一般には日本柔術は江戸時代初期、明から陳元贇なる人物が渡来し、三人の浪人に教えたのが始まりとされていたと思う。

陳元贇が江戸麻布国正寺に仮遇していたおり、磯貝次郎左衛門、福野七郎右衛門、三浦与次右衛門の三名の浪人に人を捕うる術を教え、これにこの浪人たちが工夫を加えて作りだしたのが我が国の柔術であるとされていた。

 

これは、「本朝武芸小伝」「武術流祖録」「本朝世事談綺」などに記載され、後に「国史大辞典」にまで収録されているために、陳元贇が日本柔術の祖となったという説が定説化したものと思われる。

これに対し、最初に反論を試みたのは、実は柔道の創始者、嘉納治五郎なのである。

嘉納はT.リンゼイと共著で英文で「柔術・伝統あるサムライの武器なき格闘術」という論文を著し、明治二十一年に発表した。

詳しくは、[yawara 知られざる日本柔術の世界…山田實著]に詳しいが、結論を言えば、陳元贇が柔術を日本にもたらしたということは否定し、柔術の起源を中国にもとめるのは「わが国の恥辱である」と言っている。

 

これは全くその通りである。

 

その一例として、文献で確認される最古のものは竹内流がある。

これは、天文元年(1532年)、美作国の住人竹内中務太夫久盛が、一人の修験者から小具足の術を学んで始めたとされている。

しかし、これは、文献などで確認されているものであり、当然同時代、あるいはそれ以前にも同様の技術が存在したことは間違いないことであろう。

 

日本は、武士が発生以来、千年以上にわたって膨大な数の合戦が行われてきた。

平家物語や源平盛衰記に見られるとおり、鎧組打ちは、数限りなく行われてきた。

特に、首取りの伝統は、この鎧組打ち無しには成り立たない。

当然、戦乱の世にあっては、この鎧組打ちの術は日本各地に於いて工夫、改良され発展してきたと考えるのが自然である。

 

竹内流はその一つにすぎない。

重要なことは、竹内流が今に現存し、伝えられていることである。それが故にこの小具足術発祥の事実が今に伝えられているのである。

恐らく、戦国当時あった同様の組打ち技の流派は、江戸の太平のなかで消えていったものと思われる。

 

しかし、その技法は現存する柔術各流派の技法の中にしっかり残されていることでも納得できよう。

 

誤解の元となったのは、「武芸小伝」の記述である。

 

これによると、小具足と拳と分けられており、小具足の元祖は竹内流とされているが、拳の方は相手に従うことにより勝利を得る術(柔術)で、この起源が陳元贇を始祖とする。

 

この「相手に従うことにより勝利を得る術」というのは、即ち、紛れもなく柔術のことを指している。

しかし、これを柔術、或いは柔、和と呼ばないのは何故なのであろうか。

何故、ことさら拳の文字を用いたのであろうか。

 

これは、明らかに陳元贇を無理やり持って来てこの場所にくっつけた為に、日本固有の技術である柔術、柔、和の名前を使うとどうしても不自然さを覆い隠すことができない。

そこで、中国渡来の技らしく拳という字を使ったのであろう。

 

では、何故ということになる。

 

これはひとえに権威づけのためである。

 

我が日本人は、外国かぶれがその最大の欠点である。これは今も昔も変わらない。

 

戦後は、日本国中がアメリカの真似をした。

 

歌手はアメリカのヒット曲を歌い、日活の無国籍映画などは、日本を舞台にアメリカのカウボーイの格好をした俳優にギターなぞ持たせて拳銃をぶっ放し、西部劇まがいの映画が作られた。

若者のファッションもすべて欧米の流行をまねした。

一時期、日本人は猿まねばかりしていると欧米人に思われていた時期が長く続いたのである。

 

昭和40年代後半になり、ブルースリーの映画がヒットすれば猫も杓子もそのまねをする。

反面、我が国伝統の文化は全く顧みられることはなく次々に衰亡し、消え去っていった。 

これが我が日本人である。これは、太古の昔から我が民族のDNAに埋め込まれた宿痾のようなものかもしれない。

 

その例にもれず、江戸時代は、全て中国から来たものが最高のものとされた。

 

特に文化人はその傾向が強かった。

それはそうであろう。当時の学問は全て漢学であり、医術も漢方、お茶も中国の真似をして煎茶の法ができたほどである。そして、その煎茶道具も全て中国からの輸入品が最上のものとされていた。

急須も、茶碗も、何から何まで、全ての中国からの輸入品が目の玉が飛び出るほどの高値で取引された。

 

つまり、江戸時代の日本人、特に知識人はすべて中国文化に大かぶれしていたのである。

当時の日本人の中国文化への憧憬は、現在の日本人には理解できないであろう。

 

これは、武術に於いても例外ではない。

 

故に、柔術の起源に於いても権威付けの為に中国からの渡来人を据えた。それが陳元贇である。

この陳元贇に教えを受けたとされる三浦、福野、磯貝の三人から発生した柔術流派の資料がこの「本朝武芸小伝」などの著者の手元にたまたまあった。

それで何の疑問も持たずそのまま使ったとしても不思議はない。

 

どうも、中国を有難がる風潮は他の流派にも見られる。

 

大流派の一つである揚心流の開祖である長崎の医師、秋山四郎兵衛が中国へ渡り、搏打の術と蘇生術を学んだとされている。

全てが嘘とは言わないが、かなりの創作があると考えざるを得ない。

 

何故かと言うと、その中国から学んできた搏打の法や陳元贇が教えた技(これも搏打の法と思われる)と現在伝わっている柔術の技とが余りにかけ離れているからである。

これは、嘉納治五郎もその論文のなかで言っていることである。

 

嘉納が学んだ起倒流は福野から出たものだし、天神真揚流の元は秋山の揚心流とその揚心流から出た真之神道流である。

 

いずれもその起源は中国人から習ったとされる中国拳法の搏打の術である。

もし、日本柔術の祖が陳元贇や中国人であるならば、この中国由来の搏打の法が起倒流や天神真揚流に残っていなければならない。

そして、この二流派を極めた嘉納治五郎がこのことを知らないわけがない。

 

ところが、嘉納自身がこの中国由来説を否定している。

 

このことは何を意味するか。

 

日本柔術の祖を陳元贇や秋山が中国に渡って搏打の法を習ったとされる中国人であるとするのは誤りであるということなのである。

 

実は、この誤りの元は「武芸小伝」の記述で、小具足と拳を分けたことによる。

 

「拳」は誤りであり、これは柔術、或いは柔とすべきものなのである。

 

何故ならば、この小具足も柔も同じものであるからだ。

 

古流柔術は様々なものが含まれていて、小具足も鎧組打ちも柔術の一形態であるのであり、基本となる技法は同じものである。

 

結論を言えば、日本柔術の始まりは、記録に残っているものとしては竹内柔術であるといって差し支えないと思う。

 

 

 

 

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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