武の歴史の誤りを糺す

江戸、幕末( 11 / 18 )

知られざる維新の功労者 月性

海防僧 月性

 

先日、山口県東部、柳井市にある月性展示館に行った。

山口に住む大学時代の親友、Y氏と近くのJR柳井港駅で落ち合い、彼の車で国道188号線を東に大畠方面に向かって少し走ると、左手に細い通りが現れる。

その道を入って東に進むと妙円寺という浄土真宗のお寺が見えてくる。

このお寺の門を入った正面に本堂。門の右脇に2階建ての月性展示館がある。

本堂の左には、維新の多くの人材を薫陶した私塾「清狂草堂」がひっそりと佇む。

また、お寺の南側に隣接して郷土民俗資料館があり、その前に受付があって、そこで入館料200円を払い、住所、氏名を記帳した。

帳面に名前を書き終わると、受付の女性が席を立ち、ついて説明をしてくれるという。

まず、清狂草堂の雨戸をあけ、中をみせてもらった。屋根は藁ぶき、8畳二間があるだけの簡素な造りである。

この二つの間の中央にある丸窓から光が入り、質素な部屋を柔らかく包む。何とも言えず懐かしく心和む空間だ。

一方、月性展示館は、大きくはないが2階建ての立派な造りの建物である。

展示品はさほど多くはない。

受付の女性は実に懇切丁寧に説明してくれる。

その説明を聞いているうちに、この月性という海防僧、明治維新における功績は、吉田松陰にも劣らない、いや、もしかすると松陰以上の功労者ではなかったのかと思うに至った。

吉田松陰は、明治維新の最大の功労者として知らぬ者はいない。

それは、松陰の松下村塾の門弟達、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎など、尊王攘夷から明治維新に至る倒幕の立役者達であり、また、後には明治政府の顕職を占めたからに他ならない。

たった二年余りという極めて短期間に、よくこれだけの人材を育てあげたものだと感心するが、実際はどうであったのか。

もし、倒幕が失敗していて、明治維新が違う形で進んでいたらどうであろう。

歴史というものは紙一重で大きくかわる。それは人知を超えたところにあり、決して、個人やある一定の集団の意のままに進むことはない。

多くの歴史家や作家が、その論文や作品で、ある特定の偉人、英雄の考えや意思により、次の時代の幕を開けたかのように言う事が多い。

話としては面白い。小説としてはそれでよいかもしれない。しかし、学者がそれを言うべきではなかろう。

現代人は、その結果がどうなったか知っている。

吉田松陰の門下生が尊王攘夷から倒幕運動へ進み、四境戦争から江戸城開城、戊辰戦争の結果、明治維新を迎える。

その明治維新から逆算して、現代人の視点から、倒幕に至るさまざまな彼らの行動を解釈するのは間違いである。

明治の元勲たる伊藤博文、山県有朋、奇兵隊創始者にして初代総督高杉晋作、禁門の変で戦死した久坂玄瑞、池田屋事件で命を落とした吉田稔麿など、いずれ劣らぬ勤王倒幕の大物たちである。

このように、綺羅星のごとき偉大な政治家や軍人、勤皇の志士たちを輩出した松下村塾は、如何に師の吉田松陰が偉大であり、その教えが先見の明があったかということが語られることが多い。

だが、果たして弟子が大業を成し遂げたからといって、その功績全てが師の薫陶の成果であったと言えるのであろうか。

当時、日本各地に多くの私塾があり、優れた学者、先覚者達が多くの弟子を育成していた。

そのなかで、毛利藩中では、西の松下村塾と並び称されたのが、東の時習館(清狂草堂)なのである。

では、何故、松陰は日本中で知らぬものがいないほど有名であるのに、月性は、西郷隆盛とともに入水した月照と混同されるほど知名度が低いのか。

同じ「げっしょう」と読むため、混同されたようだが、その功績たるや比較にならない。

月照は、西郷隆盛と入水したことにより、実績よりその名前の方が有名となった。

ところが、月性の方はどうであろう。

彼は、僧侶であるので仏典の研鑽は当然のことであるが、極めて優れた詩人でもあった。

「将東遊壁題」の後半、「男児立志出郷関 学若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人間到処有青山」の最後の一節「人間到る処青山有り」はある程度の教養のある人なら誰でも知っているほどの有名な句であるが、これが月性の作であることも、月性という名前も知らない人がほとんどなのではあるまいか。

月性は千篇を超える優れた詩を作ったといわれている。

その著書「「清狂吟稿」は、吉田松陰が、月性の護国論とこの吟稿を松下村塾において出版し、天下の同志に配布せしめるよう「留魂録」に書き遺したほどであった。

彼は、当時第一級の碩儒高僧と交わり、文人としても極めて高い評価を受けていた。

しかし、彼の功績の真骨頂は、教育者、海防僧としての一面である。

清狂草堂で月性の薫陶を受けた門人には、赤根武人、世良修蔵、大洲鉄然、大楽源太郎、
入江石泉、和真道、天地哲雄、芥川義天などがおり、多くの志士文人の交流の場となっていた。

彼は、多くの若者を、その卑賎を問わず訓育し、維新の原動力となる人材を育成している。

中でも第3代奇兵隊総督、赤根武人、奥羽鎮撫使参謀、世良修蔵などは、後世の歴史から必要以上に貶められて伝えられているが、師の月性同様、もっと正当に評価されてしかるべき人物であろう。

月性の最大の功績は、何といっても、長州藩に海防の重要性を認識させ、武士だけの軍隊ではなく、百姓町人をも入れた近代軍隊の必要性を説いたことである。

彼の著作、「意見封事」は藩政改革の必要性を説き、また、「内海杞憂」は海防五策をたてて外夷に備え、士農工商を問わず志の有るものをもって新しい軍制を創立すべきことを主張した。
これは、後に、高杉晋作の奇兵隊、および諸隊結成のもととなったのである。

つまり、奇兵隊の構想は、高杉晋作の創案などではなく、実に、月性の海防理論の具現化であったのである。

しかし、思うに、この様な筆先一本で、防長二州の多くの草莽の士を決起させたとは考えにくい。

彼の最大の功績は、何といっても、毛利家重臣、村田清風、益田弾正、福原越後、浦靭負等を心服せしめ、彼らの領地を始め、防長二ケ国の各村落にまで足をのばし、広く大衆一般にまで外国の脅威を説き、海防の必要性を認識させたことである。

確かに、松陰門下の塾生は、歴史の表舞台で活躍したことは間違いない。

久坂玄瑞、吉田稔麿は志半ばで倒れ、高杉晋作は奇兵隊を組織し、また、藩内の俗論党をクーデターにより倒し、長州藩を倒幕論に纏め上げた。

そして、維新の元勲となり、果ては、総理大臣までなった伊藤博文、山県有朋。

しかし、如何に彼らが歴史の表舞台で活躍しようとも、軍事的勝利がなければ、明治維新は達成できなかった筈だ。

戦争というものは、指揮官だけで勝てるものではない。

兵士ひとりひとりの兵士としての優秀さと、何よりも強固な赤心愛国の志がなくてはならない。

明治維新とは、単に、数名の勤王の志士や英雄の力で勝ち取ったものではない。

実に多くの、名もなき草莽の士の血で購ったもの。多くの郷村から、月性の呼び掛けに応じて奇兵隊やその他の諸隊に参加した名もなき百姓町人、下級武士達が勝ち取ったものなのだ。

いわば、土を耕し、肥料を入れ、種をまき、苗が育つところまでを月性がやり、花を咲かせ、実を取り入れたのが、松陰の弟子達であるといえよう。

そのことを考えれば、如何に月性の功績が大きかったかということを、今一度再評価されなければならないのではないか。

それ故、吉田松陰より月性の方が、明治維新に果たした役割は大きいというのである。

 


 

江戸、幕末( 12 / 18 )

世良修蔵への誤解

世良修蔵。正しく伝えられるべき人物

 

世良修蔵は周防大島郡椋野村の庄屋中司家で生まれている。

誰かが何所かに書いていたように漁師の出ではない。

17歳のとき、萩の明倫館、次いで月性の時習館(清狂草堂)に学ぶ。

さらに江戸に出て、儒者、安井息軒の三計塾で塾長代理を務めた。

このことから、これだけの教育を受けさせた世良の実家の財力がかなりの
ものであったことがわかるのである。

そのような勉学の結果、周防の浦靱負の私塾克己堂の兵学講師となる。

奇兵隊には赤根武人の勧めにより入隊し、その後、第二奇兵隊軍監となり、
第二次長州征伐、大島口に於いて、松山藩などの幕府軍を破った。

また、鳥羽伏見の戦いでは、第二奇兵隊や遊撃隊を指揮して戦い戦功を
あげている。

問題なのはその後である。

奥羽鎮撫総督府下参謀となり、福島に於いて、仙台藩士らにより斬首され、
非業の死を遂げた。

司馬遼太郎の「惨殺」によれば、世良は、傲岸無礼、無教養で粗野な人間
であったように描かれている。

しかし、それは、世良修蔵本人の実像からは遥かにかけ離れているように思える。

彼は、萩の明倫館、月性の時習館で学び、江戸の三計塾では塾長代理を務めるなど、
極めて優れた教養人であり、司馬が言うような無知暗愚な人間ではなかった事
だけは確かである。

また、上記のごとく軍人としても優れた指導力を持ち、軍功も申し分ない。

この二つを総合して見るに、世良修蔵という人物は、決して無教養で
愚かな人間などではなく、教養豊かで、軍人としても優秀な人間で
あった。

奥羽鎮撫総督府下参謀の時、参謀添役として後に総理大臣になった桂太郎が
いたが、もしこの時、世良が殺害されていなかったらどうであろう。

明治政府で重用され、この様に後世、小説家によって悪役に仕立られずに
済んだのではないだろうか。

なお、世良が新政府内でかなりの評価を受けていたことは、後に
従四位の官位を授けられた事でも明らかである。

「斬殺」の記述は、司馬遼太郎が如何にいい加減な事を書くかという、
悪しき一例である。


この世良暗殺事件について、公正な観点から説明した一文を見つけたので
紹介する。


<a href="http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme13a.htm" target="_blank">「世良修蔵暗殺事件の周辺」 -奥羽鎮撫総督府」の結成から世良暗殺まで-</a>

 

江戸、幕末( 13 / 18 )

海防論

海防論について

 

よく誤解されているのだが、ペリーの黒船によって日本人が初めて外国の脅威を知ったわけではない。
それまでに多くの外国船が来ていて、様々な問題が起きている。

典型的な例は、ペリー来航の50年前に起きたフェートン号事件であろう。
この時、長崎奉行の松平図書頭康平は、責任を取って自刃し、警備の佐賀藩士16名も長崎市街から峠を越えた場所で腹を切っている。

この場所は、今も腹切り坂として残っていて、十年近く前、長崎街道を歩いたときにこの記憶がある。

長崎は天領で、福岡藩と佐賀藩の両藩が輪番で警備を担当していたので、この事件の時の佐賀藩が責任を取らされたわけだ。

このような事件を経験したので、当然、佐賀藩は、藩主自らが海防の必要性を痛感し、十代藩主、鍋島閑叟は藩政改革により、藩の財政を立て直した後、嘉永3年(1850)から嘉永5年(1852)の二年間で日本で最初の反射炉を作っている。

また、同時期に長崎の海防の重要性を幕府に訴えたところ、財政難という理由で取り上げてもらえず、自力で長崎に台場を作り、砲台を建設した。

また、この反射炉により多くの大砲を鋳造し、品川台場に大砲を据え付け、文久3年(1863)には、自力でアームストロング砲まで造ってしまった。

この様に、こと、海防に関しては、日本で一番意識が高く、藩全体が一丸となって実行したのが佐賀藩なのである。

また、薩摩藩も、琉球を窓口にして、外国の脅威は感じていて、砲台や軍艦を建造して備えていたので、薩英戦争のとき、英軍の最新兵器を相手にして、旧式兵器でかなりの戦果をあげることができた。

実は、この月性の活動期は日本国中海防論が盛んな時期であった。

薩摩や佐賀は、藩を挙げて海防に尽力しているのに、毛利家は、表だってそのような活動はみられない。

月性が何故、海防の重要性を思い知らされたかというと、若い頃長崎に遊学しオランダ船の大砲や軍備を目の当たりにしたからだと言われている。
これは、ぺリーが来る20年近くも前のことであった。

そしてその後に大阪で梅田雲浜等の攘夷論者との交流に於いて、この意は確固たるものとなり、帰国して海防の緊急性を説いて歩くようになる。その後、尊王攘夷の志士、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内大学、宍戸佐馬介、などとの交流によりますます危機感を募らせてゆく。

しかし、上記の尊王攘夷家達は安政の大獄により弾圧をうけ、安政六年(1859)、頼三樹三郎は吉田松陰とともに死罪となった。そのとき、すでに月性は前年の安政5年に病没している。
享年42歳。吉田松陰より12歳年上であった。

このように、海防論は、月性の活動時期には最高潮に達していたし、危機感を持った佐賀、薩摩などの西国雄藩は、国を挙げてその対策に腐心していた。
つまり、海防論は月性のみの持論ではなく、当時、先見の明のある知識階級には共通の認識であったと言ってよい。

しかし、月性の偉大なところは、ただの海防論者、単なる口舌の徒にとどまらなかったことである。

当時の毛利家の藩主や重臣達を説いて海防の重要性を認識させたことも重要であるが、最大の功績はそのことではない。

それは、私塾、清狂草堂において、優秀な子弟を教育し、また、防長二州の郷村をまわり、百姓、町人たちに外国の脅威を訴えたことであろう。

そして、この外国の侵略に対抗するには、士農工商を問わず、志ある者をもって新しい軍隊を創設しなければならないと説いた。

これにより、後年、高杉晋作が奇兵隊を創設し、身分にかかわらず広く隊員を募集したとき、武士以外の階層から多くの隊士が集まったのである。
そのなかに、月性の弟子である赤根武人、世良修蔵がいた。
赤根武人は後に第三代騎兵隊総督となり、世羅修蔵は奥羽鎮撫使参謀となっている。

もし、月性の在地の子弟の教育と、防長二州の遊説がなかったならば、奇兵隊をはじめ、多くの諸隊にこれだけの人材が集まることがなかったであろう。

これらの草莽の士からなる長州藩の諸隊が、四境戦争から戊申戦争まで、明治維新に極めて大きな貢献をしたことを考えると、月性の遊説がいかに大きな効果をもたらしたかということがわかるのである。

江戸、幕末( 14 / 18 )

薩摩の剣術

 

明治維新を成し遂げた薩摩、長州の二雄藩の武力の基本となるもののイメージは大きく違っている。

薩摩と言えば示現流。

しかし、長州藩の剣術についてはあまり知られていない。

 

これには理由がある。

 

長州藩においては、戊辰戦争で活躍したのは主に武士以外の出身者で構成された奇兵隊等の諸隊であった。

 

武士の正規軍は、主に藩校の明倫館で柳生新陰流を学んでいたが、当時流行していた神道無念流を学ぶものも少なくなかった。

 

しかし、維新の戦闘の主体はあくまでも奇兵隊などの諸隊であり、剣技より新式銃を駆使して戦果をあげたので、剣術はあまり重要視されなかったと思われる。

 

一方、薩摩藩では事情が異なる。

 

薩摩島津家では、兵士の主体は薩摩藩士である。

 

武士の出ではないが、京都で人切りと恐れられた田中新兵衛、桜田門外の変で井伊直弼の首を打った有村次左衛門、生麦事件で英人リチャードソンを切った奈良原喜左衛門など剣をもって名をあげた人物も多い。

また、幕末から明治の西南戦争に至るまで、その剣技の峻烈さは、敵の恐怖の的であった。

これらの薩摩藩士などが使ったのが示現流と薬丸自顕流である。

 

示現流は飯篠長威斎の神道流から分派したものである。

三代盛近の門人十瀬与三左衛門長宗が自分の工夫を加えて天真正自顕流と名付けた。

長宗の弟子、金子新九郎盛貞の弟子赤坂弥九郎は僧となって善吉と号し、師の曇吉に従い上京した折、薩摩島津家家来、東郷重位と出会う。

 

東郷重位はタイ捨流を修めていたが、京都で剣僧善吉に秘伝を授けられ、島津家久の言により流名を示現流と改めた。

 

薩摩島津家家中の武士はほとんどこの示現流を学んだため、薩摩においては、他流の入り込む余地はほとんどなかったと言われている。

 

薬丸自顕流は一名野太刀自顕流ともいい、示現流の開祖、東郷肥前守重位に示現流を学んだ薬丸刑部左衛門兼陳が始めた流派で、基本は殆ど示現流と同じである。

この二流派のうち、示現流は主に城下士が習い、薬丸示現流は下士や郷士階級が使ったものとされているが、実際に暗殺剣を振るったり、人を切ったのものの多くは、殆ど下士であり、薬丸自顕流を使ったものである。

 

示現流と薬丸自顕流の基本は同じである。

左右の高い八双から、気合いとともに敵の首筋へ打ち込む。これを素早く右、左と繰り返す。これは両流とも変わらない。

 

大きく違うのは、示現流は組太刀の形があり、薬丸自顕流はこれが無い。

 

あるのは稽古法が数種類あるだけである。

 

その稽古法は、多くの木を束ねたものを横木に渡し、それをひたすら左右の蜻蛉という構えから交互に斜めに打つ。

また、立木を走り寄って打つ。或いは、十数本の木を立ててそれに陣笠をかぶせたものを順番に走って打つ「打ち廻り」、また、刀を抜きざま、下から片手切りに切り上げるなどの稽古法である。

 

この二つの流派の特徴は、ひたすら木を打つ稽古により、斬撃力が極めて強くなるということである。

 

ただ、示現流の方は、組太刀により、様々な実戦に即した精妙な技法を習得することができるが、当然、打太刀である教授者による仕太刀への細かい指導が必要となり、全ての組太刀の形に習得するにはかなりの時間を要する。

 

ところが、薬丸自顕流は難しい組太刀の形を習う必要がない。

つまり、師匠などの教授者が居なくても、稽古のやり方さえ覚えれば一人で稽古もできる。

何よりも有利であるのは、一度に多くの門弟の稽古ができるということであろう。しかも努力次第では短期間で強力な斬撃力が身につく。

 

これは、一度に多くの兵士を短期間に養成することができるという他流には見られない優れた特徴といえる。

 

司馬遼太郎氏や津本陽氏がその著作のなかで登場人物に言わせたり解説したりしていることの多くは素人の思いつき以外なにものでもない。

 

司馬遼太郎はずぶの素人であるし津本陽は剣道経験者である。

 

示現流のような極めて特殊な流派では、実際にに入門して学んでみなければ、その本質は決してわからないものである。

 

それを素人が文献資料や演武を見てああだこうだと言ってもその本質を言い表すことはできない。

いたずらに、誤ったイメージを一般読者に与えるだけである。

 

津本陽氏は剣道の有段者だと聞く。

 

しかし、前にも口をすっぱくして言ったことであるが、剣道と古流の剣術とは全く別物である。

剣道の立場から古流の剣術を云々しても、なんら素人と変わらない解説しかできない。

 

却って剣道の有段者であるがゆえに誤った認識を読者に植え付けかねない。

 

これは厳に慎むべきことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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