武の歴史の誤りを糺す

江戸、幕末( 10 / 18 )

武市瑞山の剣術

 

小野派一刀流と鏡心明智流

 

坂本龍馬と並んで幕末の日本に大きな影響を与えたのは、土佐勤皇党の盟主、武市半平太(瑞山)である。
土佐勤皇党は、国元で藩の参政吉田東洋暗殺を皮切りに、京都や大阪で多くの天誅と称した暗殺事件を起こし、天誅事件などの政治テロの中心的役割を果たした。
彼らの暗殺は、町人、公家、武士等見境いなく行われた。
これにより、有為の人材が多く失われた為に、その後の日本の未来に大きな影響をあたえたと言われている。

武市半平太、号、瑞山は、文政十二年(1829)に生れた。
天保十二年(1841)、一刀流、千頭伝四郎に入門したが嘉永三年(1850)師の千頭が死亡したのを機に高知城下に移り住み、小野派一刀流の麻田勘七に師事する。
麻田に入門して間もなく初伝を受けた。千頭に入門して以来、九年も修行してやっと初伝である。
如何にも遅いと思われるが、おそらく、最初の師、千頭伝四郎は、門弟に指導する資格はあったが免許の発行権はなかったと考えられる。

その後、技は長足の進歩を遂げ、嘉永五年(1852)に中伝、二年後の嘉永七年(1854)には皆伝を受けた。
同年、免許皆伝を許されたのを機に新道場を開いたが、創建間もなく地震にて家屋が倒壊した為に、道場も失うことになる。
翌安政二年(1855)、新たに道場を再建した。

この新道場は大いに栄え、中岡慎太郎、岡田以蔵、吉村虎太郎など120名以上の門弟を抱えるまでになる。これが、後の土佐勤皇党の母体である。

安政三年(1856)八月、藩の命により、岡田以蔵、五十嵐文吉等数人の弟子を伴って江戸に上り、鏡心明智流の士学館に入門した。
ここでは、師の桃井春蔵の信任厚く、間もなく塾監を任され、門下生の綱紀粛正に成果をあげる。
次年、安政四年には相次いで免許を許され、最後には允可まで授けられている。
安政四年(1857)9月、土佐へ帰国。

これをみると、江戸に滞在し、士学館で鏡心明智流を学んだのはたった一年であることがわかる。

注目すべきは、入門して間もなく、塾監に任用されたばかりでなく、入門一年を待たずして允可まで受けている。

普通、これは常識では考えられない。普通では絶対に有り得ぬことだ。
藩命での修行、いわば官費留学であり、バックに土佐山内家がついていて、さらに門弟数人を引き連れての入門であったとはいえ、これは如何にも早すぎる。

塾監に任じ、門弟の生活指導をやらせたことは、武市の人柄や指導力を見込んでのことであるから理解できる。
しかし、入門一年も経たないうちに允可を与えたとなると問題は別だ。如何に人格に優れ、土佐藩の後ろ盾があったとしてもこれは無理だ。鏡心明智流の免許がそんなに軽い筈はない。
 
当初、これは、武市瑞山を英雄に祭り上げるための後世の創作かと思った。

しかし、この伝書は現存するという。高知県立民俗資料館が所蔵しているとか。

では、この事実をどう説明すればよいのか。

鏡心明智流が、一刀流の系統であればある程度理解できる。しかし、そうではない。この流派は桃井八郎左衛門直由が無辺流槍術、戸田流、一刀流、柳生流、堀内流などを学び、安永二年、江戸にでて士学館を開いたことに始まる。どう見ても一刀流の系統ではない。

もしやと思い、武芸流派大事典を開いてみた。

なんと、そこに、武市の一刀流の師である麻田勘七の名があるではないか。

これによると、麻田は、武市の師である桃井春蔵直正の先代、桃井春蔵直雄の高弟の一人であったのだ。

なるほど、これで一気に謎が解けた。武市は、小野派一刀流を十三年修行して皆伝を得ている。

今まで一刀流とされていたものが、実は鏡心明智流であったとすれば、全ての説明がつく。

武市は鏡心明智流を十三年も修行していた。

師は先代の桃井春蔵の高弟麻田勘七である。

つまり、武市は、土佐で十三年、鏡心明智流の修行を積んでいた。
江戸に出て士学館に入門した時点ですでにこの流派の允可を受けるだけの実力を備えていたと考えれば、入門後一年で允可を得た説明がつく。

ただ、これでは、土佐側の記録とは食い違いがでてくる。

武市の師の麻田勘七は小野派一刀流であり、鏡心明智流との記録は土佐側にはない。
土佐藩の藩校である致道館の剣術教授に小野派一刀流、麻田勘七の名がある。

これから考えるに、麻田は、小野派一刀流と鏡心明智流の二流派を修めていたと思われる。
ただ、小野派一刀流は免許の発行権を持っていたので武市に土佐で免許皆伝を与えることができたが、鏡心明智流ではそれが無かった。
その為、武市に鏡心明智流の免許を出すことが出来なかったというわけである。

これで、武市が江戸で小野派一刀流に入門せず、鏡心明智流に入門した理由がわかった。

武市が、江戸に出て、士学館に入門したのは、ゼロからこの流派を修行するのが目的ではなく、いままで長年積んだ鏡心明智流剣術の成果を士学館主、桃井春蔵直正に確認してもらい、允可を受けることであったのだ。

これが、武市半平太がたった一年で鏡心明智流の免許を允可まで許された本当の理由である。

江戸、幕末( 11 / 18 )

知られざる維新の功労者 月性

海防僧 月性

 

先日、山口県東部、柳井市にある月性展示館に行った。

山口に住む大学時代の親友、Y氏と近くのJR柳井港駅で落ち合い、彼の車で国道188号線を東に大畠方面に向かって少し走ると、左手に細い通りが現れる。

その道を入って東に進むと妙円寺という浄土真宗のお寺が見えてくる。

このお寺の門を入った正面に本堂。門の右脇に2階建ての月性展示館がある。

本堂の左には、維新の多くの人材を薫陶した私塾「清狂草堂」がひっそりと佇む。

また、お寺の南側に隣接して郷土民俗資料館があり、その前に受付があって、そこで入館料200円を払い、住所、氏名を記帳した。

帳面に名前を書き終わると、受付の女性が席を立ち、ついて説明をしてくれるという。

まず、清狂草堂の雨戸をあけ、中をみせてもらった。屋根は藁ぶき、8畳二間があるだけの簡素な造りである。

この二つの間の中央にある丸窓から光が入り、質素な部屋を柔らかく包む。何とも言えず懐かしく心和む空間だ。

一方、月性展示館は、大きくはないが2階建ての立派な造りの建物である。

展示品はさほど多くはない。

受付の女性は実に懇切丁寧に説明してくれる。

その説明を聞いているうちに、この月性という海防僧、明治維新における功績は、吉田松陰にも劣らない、いや、もしかすると松陰以上の功労者ではなかったのかと思うに至った。

吉田松陰は、明治維新の最大の功労者として知らぬ者はいない。

それは、松陰の松下村塾の門弟達、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎など、尊王攘夷から明治維新に至る倒幕の立役者達であり、また、後には明治政府の顕職を占めたからに他ならない。

たった二年余りという極めて短期間に、よくこれだけの人材を育てあげたものだと感心するが、実際はどうであったのか。

もし、倒幕が失敗していて、明治維新が違う形で進んでいたらどうであろう。

歴史というものは紙一重で大きくかわる。それは人知を超えたところにあり、決して、個人やある一定の集団の意のままに進むことはない。

多くの歴史家や作家が、その論文や作品で、ある特定の偉人、英雄の考えや意思により、次の時代の幕を開けたかのように言う事が多い。

話としては面白い。小説としてはそれでよいかもしれない。しかし、学者がそれを言うべきではなかろう。

現代人は、その結果がどうなったか知っている。

吉田松陰の門下生が尊王攘夷から倒幕運動へ進み、四境戦争から江戸城開城、戊辰戦争の結果、明治維新を迎える。

その明治維新から逆算して、現代人の視点から、倒幕に至るさまざまな彼らの行動を解釈するのは間違いである。

明治の元勲たる伊藤博文、山県有朋、奇兵隊創始者にして初代総督高杉晋作、禁門の変で戦死した久坂玄瑞、池田屋事件で命を落とした吉田稔麿など、いずれ劣らぬ勤王倒幕の大物たちである。

このように、綺羅星のごとき偉大な政治家や軍人、勤皇の志士たちを輩出した松下村塾は、如何に師の吉田松陰が偉大であり、その教えが先見の明があったかということが語られることが多い。

だが、果たして弟子が大業を成し遂げたからといって、その功績全てが師の薫陶の成果であったと言えるのであろうか。

当時、日本各地に多くの私塾があり、優れた学者、先覚者達が多くの弟子を育成していた。

そのなかで、毛利藩中では、西の松下村塾と並び称されたのが、東の時習館(清狂草堂)なのである。

では、何故、松陰は日本中で知らぬものがいないほど有名であるのに、月性は、西郷隆盛とともに入水した月照と混同されるほど知名度が低いのか。

同じ「げっしょう」と読むため、混同されたようだが、その功績たるや比較にならない。

月照は、西郷隆盛と入水したことにより、実績よりその名前の方が有名となった。

ところが、月性の方はどうであろう。

彼は、僧侶であるので仏典の研鑽は当然のことであるが、極めて優れた詩人でもあった。

「将東遊壁題」の後半、「男児立志出郷関 学若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人間到処有青山」の最後の一節「人間到る処青山有り」はある程度の教養のある人なら誰でも知っているほどの有名な句であるが、これが月性の作であることも、月性という名前も知らない人がほとんどなのではあるまいか。

月性は千篇を超える優れた詩を作ったといわれている。

その著書「「清狂吟稿」は、吉田松陰が、月性の護国論とこの吟稿を松下村塾において出版し、天下の同志に配布せしめるよう「留魂録」に書き遺したほどであった。

彼は、当時第一級の碩儒高僧と交わり、文人としても極めて高い評価を受けていた。

しかし、彼の功績の真骨頂は、教育者、海防僧としての一面である。

清狂草堂で月性の薫陶を受けた門人には、赤根武人、世良修蔵、大洲鉄然、大楽源太郎、
入江石泉、和真道、天地哲雄、芥川義天などがおり、多くの志士文人の交流の場となっていた。

彼は、多くの若者を、その卑賎を問わず訓育し、維新の原動力となる人材を育成している。

中でも第3代奇兵隊総督、赤根武人、奥羽鎮撫使参謀、世良修蔵などは、後世の歴史から必要以上に貶められて伝えられているが、師の月性同様、もっと正当に評価されてしかるべき人物であろう。

月性の最大の功績は、何といっても、長州藩に海防の重要性を認識させ、武士だけの軍隊ではなく、百姓町人をも入れた近代軍隊の必要性を説いたことである。

彼の著作、「意見封事」は藩政改革の必要性を説き、また、「内海杞憂」は海防五策をたてて外夷に備え、士農工商を問わず志の有るものをもって新しい軍制を創立すべきことを主張した。
これは、後に、高杉晋作の奇兵隊、および諸隊結成のもととなったのである。

つまり、奇兵隊の構想は、高杉晋作の創案などではなく、実に、月性の海防理論の具現化であったのである。

しかし、思うに、この様な筆先一本で、防長二州の多くの草莽の士を決起させたとは考えにくい。

彼の最大の功績は、何といっても、毛利家重臣、村田清風、益田弾正、福原越後、浦靭負等を心服せしめ、彼らの領地を始め、防長二ケ国の各村落にまで足をのばし、広く大衆一般にまで外国の脅威を説き、海防の必要性を認識させたことである。

確かに、松陰門下の塾生は、歴史の表舞台で活躍したことは間違いない。

久坂玄瑞、吉田稔麿は志半ばで倒れ、高杉晋作は奇兵隊を組織し、また、藩内の俗論党をクーデターにより倒し、長州藩を倒幕論に纏め上げた。

そして、維新の元勲となり、果ては、総理大臣までなった伊藤博文、山県有朋。

しかし、如何に彼らが歴史の表舞台で活躍しようとも、軍事的勝利がなければ、明治維新は達成できなかった筈だ。

戦争というものは、指揮官だけで勝てるものではない。

兵士ひとりひとりの兵士としての優秀さと、何よりも強固な赤心愛国の志がなくてはならない。

明治維新とは、単に、数名の勤王の志士や英雄の力で勝ち取ったものではない。

実に多くの、名もなき草莽の士の血で購ったもの。多くの郷村から、月性の呼び掛けに応じて奇兵隊やその他の諸隊に参加した名もなき百姓町人、下級武士達が勝ち取ったものなのだ。

いわば、土を耕し、肥料を入れ、種をまき、苗が育つところまでを月性がやり、花を咲かせ、実を取り入れたのが、松陰の弟子達であるといえよう。

そのことを考えれば、如何に月性の功績が大きかったかということを、今一度再評価されなければならないのではないか。

それ故、吉田松陰より月性の方が、明治維新に果たした役割は大きいというのである。

 


 

江戸、幕末( 12 / 18 )

世良修蔵への誤解

世良修蔵。正しく伝えられるべき人物

 

世良修蔵は周防大島郡椋野村の庄屋中司家で生まれている。

誰かが何所かに書いていたように漁師の出ではない。

17歳のとき、萩の明倫館、次いで月性の時習館(清狂草堂)に学ぶ。

さらに江戸に出て、儒者、安井息軒の三計塾で塾長代理を務めた。

このことから、これだけの教育を受けさせた世良の実家の財力がかなりの
ものであったことがわかるのである。

そのような勉学の結果、周防の浦靱負の私塾克己堂の兵学講師となる。

奇兵隊には赤根武人の勧めにより入隊し、その後、第二奇兵隊軍監となり、
第二次長州征伐、大島口に於いて、松山藩などの幕府軍を破った。

また、鳥羽伏見の戦いでは、第二奇兵隊や遊撃隊を指揮して戦い戦功を
あげている。

問題なのはその後である。

奥羽鎮撫総督府下参謀となり、福島に於いて、仙台藩士らにより斬首され、
非業の死を遂げた。

司馬遼太郎の「惨殺」によれば、世良は、傲岸無礼、無教養で粗野な人間
であったように描かれている。

しかし、それは、世良修蔵本人の実像からは遥かにかけ離れているように思える。

彼は、萩の明倫館、月性の時習館で学び、江戸の三計塾では塾長代理を務めるなど、
極めて優れた教養人であり、司馬が言うような無知暗愚な人間ではなかった事
だけは確かである。

また、上記のごとく軍人としても優れた指導力を持ち、軍功も申し分ない。

この二つを総合して見るに、世良修蔵という人物は、決して無教養で
愚かな人間などではなく、教養豊かで、軍人としても優秀な人間で
あった。

奥羽鎮撫総督府下参謀の時、参謀添役として後に総理大臣になった桂太郎が
いたが、もしこの時、世良が殺害されていなかったらどうであろう。

明治政府で重用され、この様に後世、小説家によって悪役に仕立られずに
済んだのではないだろうか。

なお、世良が新政府内でかなりの評価を受けていたことは、後に
従四位の官位を授けられた事でも明らかである。

「斬殺」の記述は、司馬遼太郎が如何にいい加減な事を書くかという、
悪しき一例である。


この世良暗殺事件について、公正な観点から説明した一文を見つけたので
紹介する。


<a href="http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme13a.htm" target="_blank">「世良修蔵暗殺事件の周辺」 -奥羽鎮撫総督府」の結成から世良暗殺まで-</a>

 

江戸、幕末( 13 / 18 )

海防論

海防論について

 

よく誤解されているのだが、ペリーの黒船によって日本人が初めて外国の脅威を知ったわけではない。
それまでに多くの外国船が来ていて、様々な問題が起きている。

典型的な例は、ペリー来航の50年前に起きたフェートン号事件であろう。
この時、長崎奉行の松平図書頭康平は、責任を取って自刃し、警備の佐賀藩士16名も長崎市街から峠を越えた場所で腹を切っている。

この場所は、今も腹切り坂として残っていて、十年近く前、長崎街道を歩いたときにこの記憶がある。

長崎は天領で、福岡藩と佐賀藩の両藩が輪番で警備を担当していたので、この事件の時の佐賀藩が責任を取らされたわけだ。

このような事件を経験したので、当然、佐賀藩は、藩主自らが海防の必要性を痛感し、十代藩主、鍋島閑叟は藩政改革により、藩の財政を立て直した後、嘉永3年(1850)から嘉永5年(1852)の二年間で日本で最初の反射炉を作っている。

また、同時期に長崎の海防の重要性を幕府に訴えたところ、財政難という理由で取り上げてもらえず、自力で長崎に台場を作り、砲台を建設した。

また、この反射炉により多くの大砲を鋳造し、品川台場に大砲を据え付け、文久3年(1863)には、自力でアームストロング砲まで造ってしまった。

この様に、こと、海防に関しては、日本で一番意識が高く、藩全体が一丸となって実行したのが佐賀藩なのである。

また、薩摩藩も、琉球を窓口にして、外国の脅威は感じていて、砲台や軍艦を建造して備えていたので、薩英戦争のとき、英軍の最新兵器を相手にして、旧式兵器でかなりの戦果をあげることができた。

実は、この月性の活動期は日本国中海防論が盛んな時期であった。

薩摩や佐賀は、藩を挙げて海防に尽力しているのに、毛利家は、表だってそのような活動はみられない。

月性が何故、海防の重要性を思い知らされたかというと、若い頃長崎に遊学しオランダ船の大砲や軍備を目の当たりにしたからだと言われている。
これは、ぺリーが来る20年近くも前のことであった。

そしてその後に大阪で梅田雲浜等の攘夷論者との交流に於いて、この意は確固たるものとなり、帰国して海防の緊急性を説いて歩くようになる。その後、尊王攘夷の志士、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内大学、宍戸佐馬介、などとの交流によりますます危機感を募らせてゆく。

しかし、上記の尊王攘夷家達は安政の大獄により弾圧をうけ、安政六年(1859)、頼三樹三郎は吉田松陰とともに死罪となった。そのとき、すでに月性は前年の安政5年に病没している。
享年42歳。吉田松陰より12歳年上であった。

このように、海防論は、月性の活動時期には最高潮に達していたし、危機感を持った佐賀、薩摩などの西国雄藩は、国を挙げてその対策に腐心していた。
つまり、海防論は月性のみの持論ではなく、当時、先見の明のある知識階級には共通の認識であったと言ってよい。

しかし、月性の偉大なところは、ただの海防論者、単なる口舌の徒にとどまらなかったことである。

当時の毛利家の藩主や重臣達を説いて海防の重要性を認識させたことも重要であるが、最大の功績はそのことではない。

それは、私塾、清狂草堂において、優秀な子弟を教育し、また、防長二州の郷村をまわり、百姓、町人たちに外国の脅威を訴えたことであろう。

そして、この外国の侵略に対抗するには、士農工商を問わず、志ある者をもって新しい軍隊を創設しなければならないと説いた。

これにより、後年、高杉晋作が奇兵隊を創設し、身分にかかわらず広く隊員を募集したとき、武士以外の階層から多くの隊士が集まったのである。
そのなかに、月性の弟子である赤根武人、世良修蔵がいた。
赤根武人は後に第三代騎兵隊総督となり、世羅修蔵は奥羽鎮撫使参謀となっている。

もし、月性の在地の子弟の教育と、防長二州の遊説がなかったならば、奇兵隊をはじめ、多くの諸隊にこれだけの人材が集まることがなかったであろう。

これらの草莽の士からなる長州藩の諸隊が、四境戦争から戊申戦争まで、明治維新に極めて大きな貢献をしたことを考えると、月性の遊説がいかに大きな効果をもたらしたかということがわかるのである。

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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