武の歴史の誤りを糺す

真実の歴史を

歴史の英雄、偉人の真実

 

日本人はよほど歴史が好きらしい。

もっとも、好きと言っても、そのほとんどが真実の歴史を伝えたものではなく、江戸時代では講釈や歌舞伎、浄瑠璃など、明治以降は、立川文庫や著名小説家の書いた創作を、実際にあったことと思は思わないまでも、大体において全くの創作とは言えないだろうと考える人も少なくない。

また、小説ならずとも、プロ、アマを通じて、実に多くの研究者が、それぞれが自分の研究や考えを本にして出版していることも、以前書いたとおりである。

特に多いのは、歴史上の、英雄、豪傑、偉人、武将などをテーマにしたものであろう。

しかし、これらの出版物を読んでみると、ほとんどの著者がその人物のフアンか、信奉者である。

勿論、その歴史上の人物に興味を持たなければ、人知を傾けて研究などできるものではない。
本を書くということは、大変な努力と忍耐と根気のいる仕事である。

さまざまな古文書などの資料を調べ、仔細に検討を加え、文章にまとめあげることは、並大抵の作業ではない。

この気の遠くなるような努力をやり遂げることができるのは、その人物が好きであることが、大きな推進力となることは間違いのないことであろう。

問題なのは、その人物を敬慕のあまり、贔屓の引き倒しになりがちであるということである。

歴史的事実は一つしかない。それには好き嫌いを超越した客観的な視点がなければならない。これは極めて大切なことである。

ところが、この基本的なことが守られていない。

まず、資料の選定である。

ところが、その資料となる古文書で信用に足る一級資料は極めて少ない。

江戸時代、様々な歴史上の人物や事件を扱った文書や記録が書かれた。

また、将軍家や各大名家の官製文書、地方に於いては、各村落の物産、歴史、名所などの地誌を大名家に報告した差し出し帳の類もあり、その数は膨大のものとなる。

このうち、官製図書は別として、一般に流布していた書籍のなかで、本当に信用できるものは極めて少ないのである。

特に、先の戦国時代のものについては、どこまで信用して良いかということよくわからない。

それは、戦国時代に書かれた一次資料が少ないことによる。

例えば、現在、さも良くわかったようにテレビで放送されている織田信長や豊臣秀吉の軍隊の詳細など何一つ信用に足る資料が発見されていないのである。

織田信長にしても、大田牛一の信長公記が、唯一のある程度信用できる資料といえる。

一方、これを下敷きにした小瀬甫庵の信長記があるが、これは記録というよりはむしろ小説である。

信長記と紛らわしい表題をつけたためよく混同されるが、信長公記を下敷きにしてそれに創作を加え、尾ひれをつけて話を面白くした。

後世、この創作部分が定説となり、現在の信長像が出来上がったのである。

織田信長は、我が国歴史上、屈指の人気者である。

当然フアンも多く、何を勘違いしたものか、NHKの大河ドラマの俳優を、信長のイメージとダブらせている女性フアンも多かった。

これらのフアンを満足させる。あるいは自身が熱烈なる信長信奉者である場合、もし、資料として、この信長公記と信長記の二種の資料を見せられた場合、どちらを選ぶかは自明の理であろう。

信長の功績をより面白く具体的に書いている小瀬甫庵の信長記を選ぶに違いない。

そして、小説に書く場合、さらにこれを骨組みとして、さらに偉大な人物として1を2にも3にも書くだろう。

そうして、実像とはかけ離れた、神の如き偉大な人物像が出来上がる。

我が国の歴史上の人物は、ほとんどがこの虚像が独り歩きしていて、多くのフアンはこの虚像の部分に心酔しているのである。

もっとも、これは日本に限らず国の東西を問わず同じことをやっている。

しかし、欧米諸国では、学者がきちんとした本物の歴史を国民の前に示し、けっして我が国のように、専門の学者までがテレビでいい加減なことを言ったり、作家や漫画家が大きな顔をして、珍説奇説の類や、歴史雑学とでもいうものをしゃべり散らすことはない。

また、彼らの書いた与太話が書店の売り場で花盛りであるのも、国民大衆に間違った歴史を教えることになる。

まあ、これは、歴史に何の知識もない愚かなテレビ局の担当者や出版社の編集者の知的レベルが低いことの何よりの証明なのだが。

では、なぜこうなってしまったのか。

それは、我が国の歴史というものを、国がちゃんと教えてこなかったことが最大の原因である。

普通、学校の歴史教科書で正しい歴史を教えていればこれほどひどい状態にはならなかった筈だ。

ところが、学校の歴史教科書自体が、旧態依然とした唯物史観、階級闘争の歴史として書かれているため、必ずしも無色透明で真実のみの記述とは言えないのである。

また、最新の学説を素早く採用しているとは言い難い。

これは教育界が、依然として日教組の左翼教育の頸木から逃れることができていないことによる。

そして、何よりも、教科書に書かれている歴史は面白くないのである。
面白くなければ、頭にも残らない。学校を卒業すればみな忘れてしまう。

ところが、本屋を覗けば、面白い本がいっぱいある。

学校で習ったことと違い、こちらは面白い。いろいろなヒーローが、大活躍する。恋愛もあれば、血わき肉躍る大冒険も、肉弾相撃つ戦闘シーンもある。

こういったことは学校では習わない。

しかし、である。

この面白い部分の殆どは、作家が作り出した創作なのである。だから面白い。面白くしているのだから当然であろう。

現実はそんなものではない。実際の歴史というものは、そんな小説に描かれるような、神のような叡智を備えた軍師も、不敗の剣豪も、武田の騎馬隊も、織田信長の鉄砲三千挺の三段撃ちも存在しなかった。

実際の英雄、ヒーロー、剣豪、賢人、佳人といわれている人達は、いずれも決して、神のような叡智、不敗の剣、絶対的な英雄などではなかった。

いずれも、生身の人間、喜怒哀楽を備え、失敗も負けもする一人の人間であったのである。

今、もっとも求められることは、彼らの人間としての真実の歴史である。

そして、それを好き嫌いは抜きにして、完全に客観的に、厳密に事実だけで構築された本当の日本史の登場が待たれるのである。

騎馬民族征服王朝説

江上波夫

 

我が国の歴史は、過去のイデオロギーにより、歪められ、貶められてきた。

では、専門家である学者はどうなのか。

実は、真実を追求すべき学者そのものが社会主義思想に汚染されていて、戦前の歴史を唯物史観で解釈し、階級闘争の歴史として位置づけていたのである。

戦後、そのような左翼的風潮のなかで、天皇や皇室を貶めることがむしろ歓迎される風潮があった。

そういった風潮のなかで、大ブームを起こしたのが江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」である。

当時、東大教授であったので、その社会的信頼性は確固たるものがある。その、東大の教授が書いた新学説ということで実に多くの人達がこの説を信じこんだ。

今現在でも、政界、財界の要人に多くこの信奉者がいる。

民主党の小沢一郎が韓国でこの説に基づいて、日本の皇室の祖先は朝鮮半島から来たと言って物議を醸したことは記憶に新しい。

私も若いころ、これを読んだことがある。これが東大教授、大先生が書いたものか。なんじゃいこりゃあ。奇想天外なおとぎ話ではないか。こんなとんでもない説を信じる奴はよほど馬鹿に違いない。

政治家なぞという輩は、ろくな知性も持たない俗物ばかりだから、自分の政治的主義主張のためには、俗説珍説の類からも都合の良いところだけをかじり取って利用する。

この説は、まず、天皇家は朝鮮半島からやってきたという結論が先にあり、それにそって論理を組み立てている。これは、学問ではない。八切止夫ばりの奇説珍説の類だ。

学者らしく、古事記、日本書紀などの記紀、他の文献資料や当時発掘されていた考古学資料を駆使しての論理の展開は、如何にも本当らしく見える。

しかし、如何にいってもこの説は古い。その始まりはもう60年以上の前のことだから。

その後、多くの考古学的発見や新学説が相次ぎ、多くの学者による反論によりこの説はほぼ否定されている。

江上波夫は一体どういうつもりでこの論文を書いたのだろうか。

ただ、単に戦前の皇国史観への反動だけではない筈だ。

そう思ってWikipedia を見ていると以下の文言が目に止まった。

「この説が言い出されたのは終戦間もない1948年、東京・お茶の水駅近くの喫茶店に江上と岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の学究仲間3氏が集った座談会で披露され、「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」という特集記事で発表された。かかわりの深かった研究誌『民族学研究』の出版元が経済的に困っているので売れる論文を書いて助けようと座談会が企画されたという。」

これで疑問が解けた。

この論文の目的は、崇高な真理の探究などではなかったのだ。この新学説でひと儲けを企んだ。それだけのことである。
それなら、金儲けのために創作した疑似論文に口角泡を飛ばして論争することもなかった筈であるが、予想以上の反響に、江上自身が引くに引けなくなり、反論に反論を重ねてきたものと思われる。

この例のように、専門家の学者といえども信用はできない。

特に日本最高の大学である東京大学の後に名誉教授にまでなった人物でさえこれである。

分野は違うが、この前大震災の折の地震学者や原発事故のときの専門家と称する学者どものいい加減さを見てもわかるであろう。

如何に彼らが権力に面ね、単なる御用学者と化して自己の利益のみを図り、真理の探究などに真摯に取り組んでいない連中がこの学問の世界で重きをなしていることか。

歴史の分野では、国立大学の教授でありながら、NHKの御用学者と化して他の歴史ワイドショーに出演して、もはや古くなった学説を相も変わらず喋りつづけている人物もいる。

このように、大学教授だからと言って頭から信用してかかるわけにはいかないことは、真実の歴史を求める人たちにとって一体何を信じて良いかわからないといった困った状況なのである。

 

イデオロギーと歴史

イデオロギーの介在

 

これまで私が述べてきたことは、如何に我が国の歴史が歪められ、変形されて伝えられえてきたかという事であった。

これは、過去の時代の国や政府などの権力により規制され、あるいは誇張され利用されたという面もあったが、そればかりではない。

最も大きく変えたものは、イデオロギーと人間の欲望であろう。

我々日本国民は、大東亜戦争までは皇国史観に基づいた歴史を学ばされたし、戦後はその逆で、社会主義のイデオロギーの強い影響下にあった。

特に、戦後の昭和30年代以降の学校教育の場において、その影響は強かった。

子供の頃にこのような偏った教育受けると、当然のことながら、戦前のものはみな悪であるという固定観念をその純真な心に植えつけられることになる。

特に江戸時代以前の封建社会は、すべて支配者と被支配者とに大別され、支配者たる武士が一方的に被支配者である百姓、町人を搾取し抑圧するといった暗黒の時代のように教えられてきた。

それゆえ、この時代の教育を受けた人たちは、どうしてもその先入観が抜けきらず、江戸以前の我が国の歴史を異常なほど貶めて見がちである。

また、この時代に発表された小説や映画、テレビドラマは、こういった視点から書かれたものや制作されたものが多い。

例えば、黒沢明の「七人の侍」はどうであろう。

これは、戦国時代の百姓が無力で弱い存在であることが大前提となっている。たとえ、山賊に奪略され、危害加えられ、命を奪われても何も抵抗できない弱い存在として描かれている。

しかし、実際は大いにちがう。

各村々には土豪がおり、その下に組織化された武力を持つ集団がいて、その地方を支配する国人領主や、戦国大名の下知に従っていたことは、私が以前書いたとおりである。

1991年のソ連崩壊ののち、社会主義の世界的後退から、我が国もやっと社会主義の階級闘争史観から抜け出すことができ、はじめてイデオロギー抜きで歴史の真実の探求にに向き合うことができるようになったのである。

司馬遼太郎について

司馬遼太郎の罪

 

いままで述べてきたこと。

それは、日本史の偉人、英雄については、ほとんど、その生身の人間としての実像は、大衆にはわからなくなっているということだ。

「何を言うのか。過去、あれだけ偉人、英雄について散々小説が書かれ、映画やドラマになっているではないか。」そのように反論される人も多いと思う。

しかし、皆さんお好きな、織田信長や、真田幸村、豊臣秀吉、近くは、坂本龍馬など、ほとんどが小説家の脳みそから紡ぎ出された創作なのだ。

もちろん、確実にわかっている歴史的事実はある。

それを骨組みとして、おもしろおかしく肉付けをして小説を書き、それがヒットすれば映画やテレビで映像化され、なおさらそれに尾ひれが付き、事実とはかけ離れた偉人や英雄となる。

つまり、多くの日本人が信じて疑わない宮本武蔵像は、吉川英治の捏ね上げたものであるし、織田信長の英雄的部分は江戸初期に小瀬甫庵が太田牛一の「信長公記」を脚色した「信長記」がもとになっている。

それを下敷きにして、多くの小説家がそれぞれ色をつけ脚色して今、一般に理解されているような信長像ができあがっているのである。

真田幸村に至っては、そんな名前の人物は存在しなかった(名前が違う)。これは、江戸初期に使われはじめ、明治中期に大流行した立川文庫で日本国中の少年の英雄となった。

戦国時代以前の英雄豪傑は、そのほとんどが江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃、戯作や講釈の題材に取り上げられ、荒唐無稽な物語の主人公として庶民のアイドルとなってゆき、それをもとに、明治以降の講談本や小説が書かれた。

戦後、国民の大衆文学が大いに花開いたのは良いのだが、この戦後書かれた小説の大半は、それまで形成された英雄像を下敷きにしており、ますますその実像とはかけ離れたものとなってしまった。

戦後の時代小説家、五味康祐、柴田練三郎などは、その最たるものであろう。

しかし、これは小説であれば当然のことである。

私は決して時代小説や時代劇が悪いと言っているのではない。

小説は面白くなければならない。史実を正確になぞっても面白くもなんともない。

大いに創作の羽を広げ大洞を吹きまくって面白い小説を書くことは、彼らの仕事である。

様々な時代小説家が表れて、面白い小説を書く。これには大いに楽しみとすべきことである。

しかし、大切なことは、この大洞、虚像の時代小説とは別に、ちゃんとした、正確な歴史人物像が描かれたものが存在しなければならない。

そして、この役割は、面白い話をでっち上げる小説家ではなく、地道な研究を積み重ねている歴史学者が担うべきものである。

決して、小説家がこの領域に踏み込んではならない。

今から40年前、八切止夫という小説家がいた。
この人は、それまでの定説を覆し、多くのとんでも本を書いた。

上杉謙信は女だったとか、織田信長を殺したのは明智光秀ではないなどと、とんでもない説を唱え、八切史観と称して話題となっていた。

当時、この説は誰からも本気で相手にされず自然に消えていったのだが、最近のテレビの特番などでこの類の珍説奇説を放映しているのはこの八切史観なるもの系統を引くものであろう。

五味康祐、柴田練三郎、海音寺潮五郎、山岡荘八、司馬遼太郎。時代小説の大御所である。

この内、五味、柴田は、ほとんど史実とは関係ないところで小説を書いている。
これらは、いわゆる純粋娯楽として楽しめばよい。
読者もこれが史実だとは誰も思わない。

ところが、後の三者はいささか趣が違っている。
この三人は、その題材に、いわゆる歴史上の人物や事件を描いている。

海音寺潮五郎は平将門、藤原純友、上杉謙信などや元寇を描き、山岡荘八は徳川家康、柳生但馬守宗矩を、司馬遼太郎は坂本龍馬をはじめ、歴史上の人物のめぼしいものは片っ端から小説にとりあげている。
この三人は、前の二人とは違い、荒唐無稽なところは少ない。
相当、資料を集め、それを骨組みとして小説を展開している。

海音寺潮五郎は実に面白かった。資料を十分活用しているがどこにもそれと感じさせるような押し付けがましいところがない。山岡荘八は文献資料ばかりでなく、実地に新陰流の継承者と交流を持ち、そのアドバイスをもとに春の坂道を書いている。

問題は司馬遼太郎だ。
面白さでは、前二者に劣る。元々が新聞記者上がりということもあって、新聞記事のような硬さがある。資料の使い方も不徹底で、押しつけがましい。史料の吟味をろくにせず、自分の小説に都合の良いところだけ摘まみぐいして、それに尾ひれを付け、見てきたような大嘘を書く。
このこと自体は、別に非難するにはあたらない。
私も、これが悪いと言うのではない。

問題なのは、自分が書いた膨大な数の歴史小説を、その書かれた当時の歴史認識や価値観で染め上げていることであろう。

彼の考えや思想は、当時の日本人に共通するものであった。それゆえに当時の一般大衆の支持を集め、発表する小説はつぎつぎにベストセラーになっていった。

ある意味、これもやむを得ないところである。

彼の小説の舞台は戦国から幕末、明治の日清、日露戦争までに及ぶ。

当然、使用する史料は膨大な数にのぼる。とてもこれだけの多量の史料に詳細、正確な検討を加えることなど無理な話である。資料の原書にあたるなど不可能であろう。

勢い人の書いた小説や、珍説、俗説の類を取り入れることになる。小説であるから、正確さや真実よりも面白さを選ぶ。

そうして、物語としては面白い作品ができあがるが、これはあくまで話としては面白くはあっても事実ではない。

確かに、面白く、魅力のある小説が発表されること自体は大いに歓迎すべきことではある。

問題はその内容である。創作であり小説であるものを、何を勘違いしたものか自分の小説をあたかも歴史的事実であったかのような論評を加えている。

河井継之助はこうだ、坂本龍馬はああだと勝手な解説をいれる。これが、いわゆる司馬史観というものであり、後世、政治家や経済界、マスコミ関係者に多くの信奉者を出した。

問題なのは、この部分である。歴史上の人物をその結果から逆算し、推論して物語を組み立ている。
おまけに、終戦後特有の自虐史観で評論を加える。

まるで自分が神様にでもなったつもりなのかと思わせるような断定的な語り口には、正直行って辟易させられたものだ。

坂の上の雲では、乃木希典をまるで戦術的能力のないボンクラとして描き、児玉源太郎を戦術の天才としてもちあげる。

坂本龍馬に至っては何をやらしても天才的能力を持ち、剣術は強く、女は身を挺してこの男に尽す。
先見の明は神のごとく、まるで一人で明治維新を引っ張ってきたように描いている。
おまけに、この日本の存亡の危機に、天がこの時代に遣わした天の使いであるかのような説明を加えているのだ。

そんなことがあるものか。実際はそうではない。剣術の名人どころか、北辰一刀流では初伝さえも受けていないのだ。

ただ、唯一、貰った免状は、なぎなたの初伝目録でしかない。正味三年余りの修行期間では、それがせいぜいといったところであろう。

又、土佐で修行したのは剣術ではなく柔術である。

龍馬が土佐で習った小栗流は、その主体は和術(柔、柔術)であり、剣術は、その基礎的な五本の型を習ったにすぎない。

このことから、はっきり言えることは、坂本龍馬は剣術はからっきしダメだったということなのである。

それゆえ、護身用に拳銃を持ち歩いた。

人を切らなかったから平和主義者だったなどと惚けたことをいう人間もいるが、これは切らなかったのではない。切れなかったのである。ただそれだけのこと。平和主義者でもなんでもない。

小栗流は、柔術を主として、居合、棒、剣などを教養程度に指導したが、薙刀はない。それゆえ、北辰一刀流では、薙刀を力を入れて習ったと思われる。

では、柔術は強かったのかというと、それなりであったということができよう。
決して弱くはなかったが、そう並外れて強かったわけではない。

当時の武士は、剣術や柔術は当然習うべきものであった。武士の本性は兵士である。戦があれば主人の為に戦わなければならない。

当然、土佐藩士のほとんどは、剣、柔術は徹底的にやったはずだ。当然、小栗流に於いても、龍馬程度の段階の免許を受けた門弟は少なくなかったであろう。

だから、それなりなのである。決して、龍馬が柔術の名人であったわけではない。

これが、史料を忠実に読んだ結果である。先入観や贔屓を排し、客観的に素直に読むとこうなる。
これは、私ならずとも、だれがやっても同じであろう。

ところが、司馬遼太郎はこの龍馬の前半の最も大切な部分を端折ってしまった。

龍馬が剣術の名人でなければならない理由があった。そうでなければ千葉定吉の娘、鬼小町と言われたおさなさんとの恋愛がうまくつながらないし、小説としての面白さが半減する。

剣が強かったが平和主義者であった為に人を切らなかったというのと、剣術は下手っぴいだったというのでは小説の価値が違ってくる。

彼の主義主張からすれば龍馬が剣術が得意でなかったという事実は到底受け入れることができなかったと思われる。

このように、司馬の小説は、創作であり、事実ではない。

本気で史料を読めば、龍馬が剣術はさほど修練を積んでいなかったことと、土佐で学んだ小栗流は、剣術ではなく柔術であったことぐらい容易に察しがついたはずだ。

これからわかるように、司馬遼太郎は歴史学者ではなく、只の小説家にすぎないのだ。
彼の描く歴史人物像は実像ではなく、司馬遼太郎という戯作者の煙草のやにで黄色く染まった脳みそが作り出した虚像なのである。
それを、あたかも歴史的事実のように主張することや、自分のでっちあげた小説を事実だといって宣伝することは決して許されるべきことではない。

歴史的知識のない一般大衆は、いともたやすくこれを信じ込む。最も困ることは、政治家がこの司馬史観なるものに心酔してその信奉者となることである。

この事実ではない人物像を見習って、実際にはやりもしなかったことを手本に政治をやられたのではかなわない。

政治家のほとんどは、俗物である。まともな教養など無きに等しい。そういった連中が司馬史観の虜になれば一体どういうことになるか。考えるだに鳥肌がたつ。

最悪であることは、この司馬遼太郎以降の小説家が、何を勘違いしたものか歴史意外の分野でも大きな影響力を持ち始めたことであろう。

小渕恵三内閣のとき、ある小説家を経済企画長長官にに任命し、ろくな成果も挙げられなかったことは、苦々しい記憶として心の隅に残っている。
これなど、小渕敬三という俗物総理が、小説家をその実力以上に買いかぶった結果である。

司馬以降、作家の学者気取りは続く。NHKの歴史番組では、もはや古くなったような説を解説している者もいるし、トンチンカンなことを言う奴もいる。

これは民放でも同じで、最近は、小説家だけではなく、漫画家まで、偉そうに解説し、本まで出してしまった。
誤解してもらっては困るのだが、漫画家が歴史を語って悪いといっているのではない。

ちゃんと調べて正しい事を言うのなら問題はない。正式に、歴史の勉強や古文書について学んでのことなら納得もできよう。

しかし、そうではない。今まで形成された歴史雑学とでも称すべき俗説の類を取り上げて、さも専門の学者気取りで得々としゃべる。

これなど、司馬遼太郎の学者気どりの悪影響にひとつといえよう。

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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