武の歴史の誤りを糺す

司馬遼太郎について

司馬遼太郎の罪

 

いままで述べてきたこと。

それは、日本史の偉人、英雄については、ほとんど、その生身の人間としての実像は、大衆にはわからなくなっているということだ。

「何を言うのか。過去、あれだけ偉人、英雄について散々小説が書かれ、映画やドラマになっているではないか。」そのように反論される人も多いと思う。

しかし、皆さんお好きな、織田信長や、真田幸村、豊臣秀吉、近くは、坂本龍馬など、ほとんどが小説家の脳みそから紡ぎ出された創作なのだ。

もちろん、確実にわかっている歴史的事実はある。

それを骨組みとして、おもしろおかしく肉付けをして小説を書き、それがヒットすれば映画やテレビで映像化され、なおさらそれに尾ひれが付き、事実とはかけ離れた偉人や英雄となる。

つまり、多くの日本人が信じて疑わない宮本武蔵像は、吉川英治の捏ね上げたものであるし、織田信長の英雄的部分は江戸初期に小瀬甫庵が太田牛一の「信長公記」を脚色した「信長記」がもとになっている。

それを下敷きにして、多くの小説家がそれぞれ色をつけ脚色して今、一般に理解されているような信長像ができあがっているのである。

真田幸村に至っては、そんな名前の人物は存在しなかった(名前が違う)。これは、江戸初期に使われはじめ、明治中期に大流行した立川文庫で日本国中の少年の英雄となった。

戦国時代以前の英雄豪傑は、そのほとんどが江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃、戯作や講釈の題材に取り上げられ、荒唐無稽な物語の主人公として庶民のアイドルとなってゆき、それをもとに、明治以降の講談本や小説が書かれた。

戦後、国民の大衆文学が大いに花開いたのは良いのだが、この戦後書かれた小説の大半は、それまで形成された英雄像を下敷きにしており、ますますその実像とはかけ離れたものとなってしまった。

戦後の時代小説家、五味康祐、柴田練三郎などは、その最たるものであろう。

しかし、これは小説であれば当然のことである。

私は決して時代小説や時代劇が悪いと言っているのではない。

小説は面白くなければならない。史実を正確になぞっても面白くもなんともない。

大いに創作の羽を広げ大洞を吹きまくって面白い小説を書くことは、彼らの仕事である。

様々な時代小説家が表れて、面白い小説を書く。これには大いに楽しみとすべきことである。

しかし、大切なことは、この大洞、虚像の時代小説とは別に、ちゃんとした、正確な歴史人物像が描かれたものが存在しなければならない。

そして、この役割は、面白い話をでっち上げる小説家ではなく、地道な研究を積み重ねている歴史学者が担うべきものである。

決して、小説家がこの領域に踏み込んではならない。

今から40年前、八切止夫という小説家がいた。
この人は、それまでの定説を覆し、多くのとんでも本を書いた。

上杉謙信は女だったとか、織田信長を殺したのは明智光秀ではないなどと、とんでもない説を唱え、八切史観と称して話題となっていた。

当時、この説は誰からも本気で相手にされず自然に消えていったのだが、最近のテレビの特番などでこの類の珍説奇説を放映しているのはこの八切史観なるもの系統を引くものであろう。

五味康祐、柴田練三郎、海音寺潮五郎、山岡荘八、司馬遼太郎。時代小説の大御所である。

この内、五味、柴田は、ほとんど史実とは関係ないところで小説を書いている。
これらは、いわゆる純粋娯楽として楽しめばよい。
読者もこれが史実だとは誰も思わない。

ところが、後の三者はいささか趣が違っている。
この三人は、その題材に、いわゆる歴史上の人物や事件を描いている。

海音寺潮五郎は平将門、藤原純友、上杉謙信などや元寇を描き、山岡荘八は徳川家康、柳生但馬守宗矩を、司馬遼太郎は坂本龍馬をはじめ、歴史上の人物のめぼしいものは片っ端から小説にとりあげている。
この三人は、前の二人とは違い、荒唐無稽なところは少ない。
相当、資料を集め、それを骨組みとして小説を展開している。

海音寺潮五郎は実に面白かった。資料を十分活用しているがどこにもそれと感じさせるような押し付けがましいところがない。山岡荘八は文献資料ばかりでなく、実地に新陰流の継承者と交流を持ち、そのアドバイスをもとに春の坂道を書いている。

問題は司馬遼太郎だ。
面白さでは、前二者に劣る。元々が新聞記者上がりということもあって、新聞記事のような硬さがある。資料の使い方も不徹底で、押しつけがましい。史料の吟味をろくにせず、自分の小説に都合の良いところだけ摘まみぐいして、それに尾ひれを付け、見てきたような大嘘を書く。
このこと自体は、別に非難するにはあたらない。
私も、これが悪いと言うのではない。

問題なのは、自分が書いた膨大な数の歴史小説を、その書かれた当時の歴史認識や価値観で染め上げていることであろう。

彼の考えや思想は、当時の日本人に共通するものであった。それゆえに当時の一般大衆の支持を集め、発表する小説はつぎつぎにベストセラーになっていった。

ある意味、これもやむを得ないところである。

彼の小説の舞台は戦国から幕末、明治の日清、日露戦争までに及ぶ。

当然、使用する史料は膨大な数にのぼる。とてもこれだけの多量の史料に詳細、正確な検討を加えることなど無理な話である。資料の原書にあたるなど不可能であろう。

勢い人の書いた小説や、珍説、俗説の類を取り入れることになる。小説であるから、正確さや真実よりも面白さを選ぶ。

そうして、物語としては面白い作品ができあがるが、これはあくまで話としては面白くはあっても事実ではない。

確かに、面白く、魅力のある小説が発表されること自体は大いに歓迎すべきことではある。

問題はその内容である。創作であり小説であるものを、何を勘違いしたものか自分の小説をあたかも歴史的事実であったかのような論評を加えている。

河井継之助はこうだ、坂本龍馬はああだと勝手な解説をいれる。これが、いわゆる司馬史観というものであり、後世、政治家や経済界、マスコミ関係者に多くの信奉者を出した。

問題なのは、この部分である。歴史上の人物をその結果から逆算し、推論して物語を組み立ている。
おまけに、終戦後特有の自虐史観で評論を加える。

まるで自分が神様にでもなったつもりなのかと思わせるような断定的な語り口には、正直行って辟易させられたものだ。

坂の上の雲では、乃木希典をまるで戦術的能力のないボンクラとして描き、児玉源太郎を戦術の天才としてもちあげる。

坂本龍馬に至っては何をやらしても天才的能力を持ち、剣術は強く、女は身を挺してこの男に尽す。
先見の明は神のごとく、まるで一人で明治維新を引っ張ってきたように描いている。
おまけに、この日本の存亡の危機に、天がこの時代に遣わした天の使いであるかのような説明を加えているのだ。

そんなことがあるものか。実際はそうではない。剣術の名人どころか、北辰一刀流では初伝さえも受けていないのだ。

ただ、唯一、貰った免状は、なぎなたの初伝目録でしかない。正味三年余りの修行期間では、それがせいぜいといったところであろう。

又、土佐で修行したのは剣術ではなく柔術である。

龍馬が土佐で習った小栗流は、その主体は和術(柔、柔術)であり、剣術は、その基礎的な五本の型を習ったにすぎない。

このことから、はっきり言えることは、坂本龍馬は剣術はからっきしダメだったということなのである。

それゆえ、護身用に拳銃を持ち歩いた。

人を切らなかったから平和主義者だったなどと惚けたことをいう人間もいるが、これは切らなかったのではない。切れなかったのである。ただそれだけのこと。平和主義者でもなんでもない。

小栗流は、柔術を主として、居合、棒、剣などを教養程度に指導したが、薙刀はない。それゆえ、北辰一刀流では、薙刀を力を入れて習ったと思われる。

では、柔術は強かったのかというと、それなりであったということができよう。
決して弱くはなかったが、そう並外れて強かったわけではない。

当時の武士は、剣術や柔術は当然習うべきものであった。武士の本性は兵士である。戦があれば主人の為に戦わなければならない。

当然、土佐藩士のほとんどは、剣、柔術は徹底的にやったはずだ。当然、小栗流に於いても、龍馬程度の段階の免許を受けた門弟は少なくなかったであろう。

だから、それなりなのである。決して、龍馬が柔術の名人であったわけではない。

これが、史料を忠実に読んだ結果である。先入観や贔屓を排し、客観的に素直に読むとこうなる。
これは、私ならずとも、だれがやっても同じであろう。

ところが、司馬遼太郎はこの龍馬の前半の最も大切な部分を端折ってしまった。

龍馬が剣術の名人でなければならない理由があった。そうでなければ千葉定吉の娘、鬼小町と言われたおさなさんとの恋愛がうまくつながらないし、小説としての面白さが半減する。

剣が強かったが平和主義者であった為に人を切らなかったというのと、剣術は下手っぴいだったというのでは小説の価値が違ってくる。

彼の主義主張からすれば龍馬が剣術が得意でなかったという事実は到底受け入れることができなかったと思われる。

このように、司馬の小説は、創作であり、事実ではない。

本気で史料を読めば、龍馬が剣術はさほど修練を積んでいなかったことと、土佐で学んだ小栗流は、剣術ではなく柔術であったことぐらい容易に察しがついたはずだ。

これからわかるように、司馬遼太郎は歴史学者ではなく、只の小説家にすぎないのだ。
彼の描く歴史人物像は実像ではなく、司馬遼太郎という戯作者の煙草のやにで黄色く染まった脳みそが作り出した虚像なのである。
それを、あたかも歴史的事実のように主張することや、自分のでっちあげた小説を事実だといって宣伝することは決して許されるべきことではない。

歴史的知識のない一般大衆は、いともたやすくこれを信じ込む。最も困ることは、政治家がこの司馬史観なるものに心酔してその信奉者となることである。

この事実ではない人物像を見習って、実際にはやりもしなかったことを手本に政治をやられたのではかなわない。

政治家のほとんどは、俗物である。まともな教養など無きに等しい。そういった連中が司馬史観の虜になれば一体どういうことになるか。考えるだに鳥肌がたつ。

最悪であることは、この司馬遼太郎以降の小説家が、何を勘違いしたものか歴史意外の分野でも大きな影響力を持ち始めたことであろう。

小渕恵三内閣のとき、ある小説家を経済企画長長官にに任命し、ろくな成果も挙げられなかったことは、苦々しい記憶として心の隅に残っている。
これなど、小渕敬三という俗物総理が、小説家をその実力以上に買いかぶった結果である。

司馬以降、作家の学者気取りは続く。NHKの歴史番組では、もはや古くなったような説を解説している者もいるし、トンチンカンなことを言う奴もいる。

これは民放でも同じで、最近は、小説家だけではなく、漫画家まで、偉そうに解説し、本まで出してしまった。
誤解してもらっては困るのだが、漫画家が歴史を語って悪いといっているのではない。

ちゃんと調べて正しい事を言うのなら問題はない。正式に、歴史の勉強や古文書について学んでのことなら納得もできよう。

しかし、そうではない。今まで形成された歴史雑学とでも称すべき俗説の類を取り上げて、さも専門の学者気取りで得々としゃべる。

これなど、司馬遼太郎の学者気どりの悪影響にひとつといえよう。

テレビの歴史ドラマ

テレビの罪

 

現在のマスコミのお粗末さは目に余るものがある。

一体、どんな人間が記事を書き、番組を制作しているのだろう。

特にテレビは酷い。

まともな番組はほとんどないといってよい。

最近、民放でよく歴史ものを放映しているが、実にいい加減なものだ。
おまけにコメンテーターたるや、ろくなやつがいない。

歴史番組はただ面白ければ良いといったものではないはずだ。

ちゃんと専門の学者に監修を依頼して,荒唐無稽な話や俗説の類を入れるべきではないことは,言うまでもないことであろう。

まあ、このことは、今迄さんざん言ってきたことだからこれ以上は言うまい。あまりしつこいと我ながら厭になるからだ。

ただ、民放なら、視聴率を取るためにはある程度はやむを得ないところはある。

しかし、公共放送のNHKとなると話は違う。歴史番組を制作する場合はもっと厳密な時代考証を行う必要がある。特に大河ドラマは細心の注意を払わなければならない。

先年の龍馬伝。あれはひどかった。史実を完全に無視している。

岩崎弥太郎の扱いの悪さはどうだろう。三菱の人たちが怒るのも無理はない。わざとらしい土佐弁も耳に付き不愉快極まりない。主演のイケメンの歌手の臭い芝居にも辟易させられる。

龍馬や、武市瑞山の武術の真相は、この後詳しく説明する。

もっとも、この二人の事は、間違ったことが定説となり固定化されているので、私がここで「それは違う」と大声を張り上げてもどうにもなるものではないであろうが。

そして今年の「江~姫たちの戦国~」。

これなど、現代劇をそのまま戦国時代の衣装や鎧を着せて演じているようなものだ。

時代状況も内容もまるで違う。
こんなお粗末なものを高い制作費をかけて作るなよと言いたい。視聴者を馬鹿にしているのか。我々の視聴料をこんなことにつかうな。もう受信料は払わんぞ。そう言いたい。

公共放送であるNHKがこれではいけない。民間放送と視聴率を競うために敢えて俗悪番組を作っているのか。
国民から受信料を貰っているからには、当然、真に国民のためになる番組造りを心がけなければならない。

特に報道番組は真実のみを伝えなければならないし、歴史教養番組は制作時最新の学説を紹介すべきである。
その為には、御用学者の手垢にまみれて古くなった学説や、単なる戯作者でしかない小説家の、歴史雑学や俗説を採用すべきではない。

歴史には様々な分野がある。

その分野の専門の学者の学説を取り上げるべきで、それを一般の視聴者に分かりやすく説明するのが放送局の使命ではなかろうか。

NHKの大河ドラマ

NHKの大河ドラマ

 

一昨年の「龍馬伝」から始まって、昨年の「江~姫たちの戦国~」、そして今年の「平清盛」。一体何という番組を作っているのか。
こんなものを見せられる為に高い視聴料を払っているのではない。

実に愚劣極まる番組だ。
歴史の常識も知識も持ち合わせていないど素人が寄って造ったようなつまらない番組だ。物語の展開も表現も全く面白くもなんともない。そして何よりも内容が空っぽだ。

時代背景も時代考証も無茶苦茶だ。時代考証を担当したお偉い先生方はいったい何をしているのか。
名前だけ貸してお金だけを受け取っているのではあるまいな。
もっとも、NHKのご機嫌とりに終始して古臭い持論を展開するしか能の無い国立大学の先生など、はなから正確な時代考証など期待していなかったが。

「龍馬伝」はひどかった。
とても見るに堪えない。
いくら創作とはいえ、あの岩崎弥太郎の扱いはなんだ。三菱の関係者が怒るのも無理はない。
三菱の創始者の岩崎に乞食のような格好をさせて泥の中をのたうちまわらせている。
また、岩崎は長崎にゆくまでは龍馬とは面識が無かったはずだ。こういう事実に反することを勝手にねつ造するべきではない。
歴史に知識のない一般の視聴者は、このような大ウソをたやすく信じ込む。

このように、我が国の財閥の創始者を貶めて何が嬉しいのか。
そこには、NHK独特の左翼思想、階級闘争史観が透けて見える。 
上士が下士をいたぶるシーンからは特に強くそれが感じられた。
それも実に汚らしい描写である。
これでもかという程に虐待され、奴隷のような扱いを受ける下士に対比して、高慢で血も涙も無い上士という対比は、過去、昭和の時代に使い古された左翼の階級闘争劇の再現といえよう。

また、中身のないのを主役で補うつもりか、へたくそで臭い演技しかできない、イケメン歌手を起用している。
この男の気取った演技とわざとらしい土佐弁には辟易させられたものだ。
最初は、家族が見ているのでつられて見ていたが、あまりに馬鹿馬鹿しいので見るのをやめてしまった。

次の年の「江~姫たちの戦国~」。これは、一体何なのだ。
視聴者を馬鹿にするにも程がある。これほど空っぽなドラマは見たことがない。
安土桃山時代の衣装を着た現代劇だ。

ヒロインが、太閤秀吉にむかって「さるさる」と連呼し、朝鮮征伐を止めろという。
こんなバカな話があるものか。大体、信長が秀吉を「さる」と呼んだ事実はない。
時代考証の先生よ、それで良かったのか。

内容のくだらなさ、まるで少女まんがのようだ。いや、それ以下だろう。
莫大な制作費を使って、こんなものを作るな。

今年は「平清盛」だという。
前の二作がお粗末極まるものだったので、今度は少しはましかなと思っていたらなお悪い。

時代考証の東大の先生。すこしおかしいのではないか。自分の個人的な学説を、この国民全部が見るドラマに入れるなよ。
その影響を考えろ。学者馬鹿もここに極まれりだ。

なにを指しているのかというと、劇中で役者に天皇家のことを、「王家」といわせていることだ。
平安の当時、そんな言葉はなかった筈だ。この人物は、自分の国の皇室を王家と呼ばせて自分の学説を宣伝しているつもりらしいが、これは我が皇室に対する最大の侮辱である。

天皇を王と言い張るのは、韓国人である。ということは、この学者先生、韓国か朝鮮の帰化人か、そうでなければ反日左翼であろう。

東大には、先に書いた、「騎馬民族征服王朝説」を唱えた江上波夫がいた。
彼は、この学説により我が皇室の権威を大きく損ない、後の政治家にまで誤った歴史認識を植えつけ、後の世にまで大きな負の影響を与えた、いわば国賊学者である。
東大には、まだ、この反日左翼的思想に基づいた学派がまだ幅をきかせているということなのか。
学問にイデオロギーを持ちこむことは、絶対にやってはいけないことは前にも書いたとおりである。
東大の先生だから正しいとは絶対に言えない。
時代考証をやるなら、自分の学説ばかり吹聴せず、ちゃんとした考証をやるべきだ。

まず、あの服装はなんだ。武家の棟梁たる平氏が、あんな乞喰のような汚い服装をするわけがなかろう。
汚い格好をすればリアリズムだと思い込んでいるこのデレクターもよほどの馬鹿ものである。
法皇の前に出るのにあのような汚い格好で許されるわけがない。
物語の設定そのものがありえない大ウソなのである。

また、武士を上級貴族の飼い犬のように役者に言わせているが、こんなバカな話があるものか。

平氏は源氏ととも反乱の鎮圧や盗賊の征伐にあたる軍事貴族である。

当然、御所の警備も担当したが、上級貴族の飼い犬でもなければ、ドラマのような不当な扱いを受けていたわけではない。
元をたどれば、源氏も平氏も、天皇家から出た皇族の末裔である。
臣に下ったといえ、ドラマのような飼い犬のような扱いをうける筈がなかろう。

また、白河院の描写が酷い。まるで鬼ではないか。国の頂点にたつお方が、あのような言動をなさるはずがない。

こうして見てくると、この大河ドラマのテーマが見えてくる。

それは、徹底して我が皇室を侮辱し貶めるものであり、龍馬伝にも共通した、支配者と被支配者との階級闘争史観に貫かれている反日左翼自虐史劇であるということなのである。
国民に我が皇室に嫌悪感を抱かせ、我が国の歴史を貶めることを目的に作られたことが透けて見えてくる。

国民のお金で製作され、放映されているNHKの大河ドラマが、この様に皇室や、我が国の中世史を汚く汚すものであっては絶対にならない。

早急に全スタッフを入れ替え、脚本も書きなおし、もう少しまともなドラマに作り直すべきである。

 

 

NHKの無責任さ

前にも書いた月性記念館でのことである。

月性が刀を片手に剣舞を舞っている絵があった。それを見た友が言うには、最近「古武術」についてNHKでやっていたが、あのK氏とは何者だと聞く。

確か以前にちびと痩せの糞生意気な漫才コンビの番組で、かのK氏がいろいろと変わった技(一般の人から見て)を披露していた。
この人物は、著名な学者やスポーツ選手、芸能人などと交流を持ち、それにより世間を信用させ、ついに数年前には、NHK教育テレビでシリーズとして紹介された。

その後も度々NHKにも登場し、本も数冊出している。

NHK教育の信頼性は絶大である。ほとんどの視聴者がこれですっかり信用してしまった。

その為、古武術と言えば、このK氏のパフォーマンスのことと勘違いしている人が多いのは驚くばかりである。我が友人もそう信じ込んでいる様子であった。

そもそも古武術とは、普通、古武道とも呼ばれるが、この二つは同じものである。
K氏があえて区別する為に古武術と称しているが、かえって混乱を招いている。

もともと、この名前は柔道、剣道などの現代武道と区別するために使われているが、通常、私達は古流と呼び、~流剣術、~流柔術などという。

それらの各種様々な古流の武術の流派を総称して古武道あるいは古武術というのである。

厳密な意味での定義はないが、古武道或いは古武術は、戦国から幕末までに創始された長い歴史と伝統を持つものを言う。

そして、これらの各種古流流派は、日本古武道振興会或いは日本古武道協会に所属している。

ちゃんとした正当な流派であるならば、当然、このうち一つ或いは両方に所属している筈である。

逆にいえば、この二つの団体に所属していなければ、古武道、或いは古武術として認知されていることにはならないのである

では、このK氏はどうであろう。

実は、この人物、この世界では全く相手にされていないのである。

経歴を見てみると、最初は合気道をやり、次に手裏剣、そして鹿島神流に入門して三年後に自分の道場をもっている。

このうち、古流と呼べるのは根岸流の手裏剣と鹿島神流だが、多く見積もっても三年ぐらいの修業期間では、初心者に毛の生えた程度でろくな修行も修めていないであろう。

実際、見てみると、派手なパフォーマンスばかり目立っていて、とても古武術と呼べる代物ではない。

長い伝統も歴史もなく、鹿島神流からぱくった技をもとに彼自身が工夫したけれん技でしかない。

世間知らずの学者や野球選手、芸能人相手に派手なパフォーマンスではったりを噛ませているだけである。

しかしながら細かい事を言えばきりがない。説明しても多くの人達には理解できないだろうし、いちいちK氏をこきおろすつもりもない。

彼が実際にはどれほどの実力であるかとか、強いか弱いかということには全く関心がない。

大体、彼のいうなんば歩きや、間合いもくそもない各種の技法。体の使い方。これらは古流には一切存在しないものなのである。

ただ、彼が数年修行した鹿島神流からぱくって自分流に焼きなおしたようにみえるものはあるが、これとて鹿島神流と言えるほどのものではない。ただのパフォーマンスになり下がっている。

このように、K氏がいくら古武術と言い張っても、彼の広めているものは、断じて古武術ではない。

彼の編み出した唯のパフォーマンスである。

NHKが、このような人物を担ぎ出したために、古武術に対する一般の人達の認識が全く誤ったものとなってしまった。この誤解を解くために、あえてここに声を大にして言いたい。

K氏の古武術は、断じて古武術ではない。

言いたいことはこのことに尽きるのである。

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
武の歴史の誤りを糺す
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