武の歴史の誤りを糺す

実戦刀について・・・・樋の効用

実戦刀について

 

日本刀について、最後に観賞用や美術工芸品としての刀ではなく、実際に合戦や斬り合いに使う実用刀について成瀬関次氏の著作から引用してみよう。

 

1.刀の樋の効用

 

刀身についている樋は俗に血流しともいわれ、敵を斬ったとき、血がこの溝を伝って流れるためのものであると言われている。

 

また、この樋は刀の棟の方から見て右側に掻いてあるものが多い。

左ぎっちょ以外の人が人体を斬ると、多くの場合、刀の中央部から先が左へ曲がるが、右側に樋が掻いてあればその曲がりを幾分抑えることができるということである。

 

このように、昔の実戦刀は、命の取り合いである斬り合いに際し、敵に後れを取らぬ為に極限までの工夫が凝らされ、何一つ無駄なことはないというということがわかる。

 

最近の居合の演武を見ていると、刀を振るごとにヒュッと音がする。

実際の刀はかなり重いものである。

この重い刀を振って風切り音を出すとは相当早く刀を振らなければならない。

不思議に思ってその刀を良く見ると、刀身の両側に溝が切ってある。

なるほど、そういうことか。この刀の両側に切ってある溝により刀を振ると風切り音がでていたのだ。

しかし、刀の両脇に溝を掘ったのであれば、上記の刀身が曲がるのを防ぐことはできない。

この場合の樋の役割は、血流しとこの風切り音による威嚇効果だけということになる。

 

この実用上の目的、刀の曲がりを防ぐという最重要の役割がないとすれば、この刀身の両側の樋は、単に風切り音を発生するだけの目的で彫り込まれているにすぎない。

 

最近の話である。

武道場でいつも一緒になる居合の先生がいた。

広島県内では相当高位の人らしいが、自然に話すようになり、稽古に使っている刀を見せてもらった。

ずしりと重い。

聞けば1kgもないという。しかし、私が昔作った2.5kgの大太刀の木刀と変わらぬように感じられる。

しかも、先端が遥かに重く、バランスが全然違うのである。

 

ショックであった。

木刀や竹刀と全く違う。別物である。

これではいくら木刀や竹刀をうまく使えても、必ずしも真剣を上手につかえるとは限らないし、木刀や竹刀の技法も再検討しなければならない。

真剣では役に立たない技もかなりある。

これは是非とも錆刀でも良いから一本手に入れて実際に使ってみる必要がある。

この場合、却って刃がついていると危険なので刃引きをしなければならないだろう。

 

そう思って、ふと気が付いた。

実は昔、日本刀を使って生木を試し切りしたことがある。

私の若い頃、新年の稽古始めには師匠が錆刀を持ちだして、弟子全員に生木の枝を斬らせるのが通例であった。

しかし、その時は何にも感じなかった。

何故だろうと考えた。それは、当時、師匠も若く元気であった為、全て師匠にお任せで、何一つ自分で考えることはなかった。そして、その時は、使いなれぬ真剣を振りまわす緊張感と、皆の手前、巧く切らなければということが頭一杯で、その他のことに気を回す余裕がなかった。そういうことだったのだろう。

 

ここではたと困った。本物の日本刀など到底買えるしろものではない。

件の居合いの先生に聞いたところ、その人の刀は400万円もしたという。

40年ほど前、入門当時、師匠は新たに新刀を造らせると50万円ほどかかると言っていたっけ。

現役で働いていた当時でさえ当時の50万円は大金であった。ましてや、年金生活でぎりぎりの生活をしている者にとって、これは考えることもできない大金である。

 

何とか、ボロ刀でもないかと思って骨董屋を数件当たって見たが何所にも置いていないという。

しかし、古い居合用の模擬刀ならあるとのこと。

頼んで見せてもらった。

店主は、奥から二振りの模擬刀を持ち出してきた。

そのうちに一振りは重い。計ってみると刀身だけで1kgある。これはちょうどよい。素振りにはもってこいだ。但し、材質は何でできているかわからない。

かなり古い。しかし、多分、アルミダイキャスト製であろうからそんな昔ではない筈だ。

安かったので買って帰った。

帰って、振って見ると実に重い。片手で抜き打つのがやっとである。

両手で振って見る。

小さな風切り音がするが、居合いの演武で見られるようなはっきりした音ではない。

 

この模擬刀には樋は掻いていない。樋がない場合、よほど早く振らないとあの風切り音はでないものらしい。

しばらく使っているうちに少し柄にガタがきたような気がした。

模擬刀といえどこれは危険である。

 

意を決して新しい模擬刀を買うことにした。

注文してひと月余り、新しい模擬刀が届いた。

これには刀身の両側に樋が掻いてある。

重さは1kgに足らぬぐらい。

 

振ってみると、片手で抜き打ってもはっきり聞こえるほどの風切り音がする。

やはり、現代の居合刀の刀身の両側の溝は、この風切り音を出す為ものであった。

 

ここで一つの疑問。

この風切り音、威嚇の効果が果たしてあるものだろうか。これは相手によって様々であろう。敵の10人が十人、恐怖を感じるものであるならばこの樋の効果はあるといえるだろうが、人によって効果のない者がいるとすればこの樋を掻いてまで刀の強度を落とす意味はなかろう。

現代の居合刀は、この刀身の両側に樋を掻くことによって派手な風切り音を発し、演武時のかっこよさ、つまり舞台効果を狙ったもののように思える。

つまり、この樋を彫った部分だけの重量軽減効果はあるであろうが、実用上の有効性はないと思われる。

 

 

 

2.刀の切先と鍔元

 

刀の切先は、日本刀の部位で最も大切なところである。

 

物打ちというは、通常横手筋から3、4寸ほど柄の方によった個所をいうが、この部位でもって敵を切るのがもっとも良いとされている最重要部位である。

そのため、この切先から物打にかけては、その鍛錬や焼き入れは細心の注意を払って行わなければならない。

 

また、その作りは、小鎬と三つ頭のあたりを特に厚く頑丈にし、棟のほうから見ると丁度小蛇の首のように見えるという。

それから、横手筋角、即ち刃の三つ角をかっきり鋭く尖り気味に研ぎ合わせる。

 

この上記二つの条件を満たした切っ先なら、折れもせず、また引き切りに敵を切ったとき、この三つ角の鋭い尖り角が作用して、一段と切れの冴を見せるのであると成瀬氏は言っている。

 

また、切っ先とは反対側、鍔元から3~4寸までは刃を引いておくということがある。

なぜならば、誤って自分自身が怪我をするのは、多くの場合この場所であるから。

 

また、よく誤解される言葉に、鍔元三寸で敵を切るようにせよというものがある。

この場合、この鍔元3~4寸に刃はついていなければ、この部分で敵を斬ることができないではないかという理屈になろう。

 

しかし、これは、実際に刀の鍔元で敵を斬るという意味ではない。

 

いざ、斬り合いとなり目前に敵の剣尖を突きつけられれば、恐怖のあまりその間合いを見誤り勝ちである。心理的に相手の姿が大きく見え、恐怖のあまり腕は縮こまり踏み込みも浅くなる。

その様な状態で切りおろしても、剣尖は敵に届きもしない。

そこで、云われていることは、敵の股ぐらに足をふみこみ、刀の鍔先三寸で敵を斬るぐらいの心持で懸らねば、敵に致命傷を与えることができないということなのである。

 

つまり、古来云われている刀の鍔で敵の頭を割るつもりで懸れとか、鍔元三寸で敵を切れということは、それくらい思い切って接近して切れという意味で、実際に鍔元三寸で敵を斬るということではない。つまり言葉のあやであり、心得なのである。

 

 

 

3.鍔の役割

 

鍔の役割も意外と知られていない。

最も知られているものに敵の刀の斬り込みを受けるというものがある。

この場合、直接鍔で受けるのではなく、鎬で斜に迎えの上を滑らせて鍔で受けることのほうが多い。

軍記物によく書かれている「鎬を削り、鍔を割る」といって、激しく斬り合うこと意味表現がこれであろう。

但し、剣術流派によってはこれをやらない流派もある。

 

もうひとつ。

これは意外と知られていないことであるが、敵を突く場合、手が滑って自分の刀の刃で手を斬る事が多い。

多くの刃物を使った通り魔事件で、鍔の無い刃物で人を刺した場合ほとんど例外なく自分の手を切っている。

有名な例では、世田谷一家殺人事件では、柳場包丁や文化包丁で一家を突き殺しているが、この犯人も手に怪我を負っている。

これは、何回も人を突き刺しているうちに血で手が滑ったか、あるいは手が疲れて握力が鈍り、突いた拍子に刃の部分で自分の手を切ったものであろう。

 

刀は突くこともあるし、敵の切込みを受けることもある。

そのとき、我が手を護り、また、刀の重量のバランスをとるために、鍔は必要なのである。

 

西洋の剣でこの鍔が棒状のものがかなりある。

一見、十字架を模したようにも思えるが、これは単なる宗教的意味だけではなく、敵の体を突き刺したとき、手が滑って自分の手を傷つけないためのものであろう。

 

 

 

 

4.頑丈さと切れ味

 

刀の頑丈さと切れ味、この二つは相反するものである。

材質と構造が同じであれば、頑丈に作るとなれば当然鎬を分厚くしなければならない、その結果、刃の角度は大きくなる。

反対に切れ味をよくしようと思えば刃の角度は小さく、刀身の厚みを薄くしなければならない。

 

例えて言えば出刃包丁と柳刃包丁を比べてみるとよい。

出刃包丁は、鯛などの硬い骨も断ち切ることができるし、少しぐらい手荒く扱っても刃こぼれすることはない。

しかし、柳刃包丁で鯛の頭を断ち割ればたちまち刃は欠け、なまくらな包丁だと折れたり曲がったりするかもしれない。

 

柳刃包丁で人を切ったり突き刺したりすれば、刃先は折れる。これは不謹慎を覚悟で例えてみれば、世田谷一家惨殺事件をみればよくわかる。

このとき、主人を刺したとき刃先が折れ、被害者宅の文化包丁で殺人を終えている。

この文化包丁も刃が曲がっていたという。

これは、柳刃包丁や文化包丁などの身の厚みの無い刃ものでは人を切ったり刺したりするには向いていないということであろう。

硬く焼きの入った柳刃包丁は刃先が折れ、なまくらな文化包丁は曲がってしまった。

 

この場合、被害が反撃してこなかっからいいようなものの、もし、相手が刃物を持って向かってきた場合、この手に傷を負い、先が折れたり曲がったりした包丁を持っていた犯人は果たして無事に逃げおおせたどうかわからない。

 

柳刃包丁は、本来、刺し身などを造る為の包丁である。柔らかい魚の身を組織を崩すことなく薄く削ぎ取るためにはできるだけ鋭利な刃でなければならない。

その為に極めて薄く作られている。硬い骨や獣肉を斬るものではないのでそこに頑丈さは全く必要ない。

この様な包丁で切り合ったらどうであろう。刃と刃を打ち合わせればたちまち刃はぼろぼろとなり、強く当たれば折れる。

また、人を突き刺して抉ればこれも折れたり曲がったり折れたりするであろう。

 

一方、出刃包丁は身は厚く極めて頑丈にできている。硬い骨や魚の頭を断ち割るためにある程度の重量がある。

これならば、人の一人や二人突き殺したり、斬り殺したりしてもなんでもあるまい。

 

いささか極端な例ではあるが、これらを戦国期の実用刀と幕末期の切れ味や美術的価値を重視した刀に例えてみれば理解しやすいと思う。

 

実際の戦場に於いて、カミソリのように良く切れるということはさほど重要ではない。

実は、人体ほどひ弱なものはないのである。首を落とすにも、腕を斬り落とすにもさほど鋭利な刃は必要ない。ろくな刃もついていない中国の青龍刀でさえいとも容易く人間の首ぐらいはおとすことができる。

 

良く切れるということは、単に大した力を入れずとも切れるというぐらいの意味でしかない。

実用刀としてそれより大切なことは、少しぐらい乱暴に扱っても折れず曲がらずということが必要不可欠なのである。

そうでなければ、多くの敵と渡り合い、いつ果てるともわからぬ戦闘の長丁場を耐え抜くことなどできはしない。

 

しかし、いくら頑丈に作られた実用刀といえ、現代の剣道のような使い方をしていたのでは刃こぼれや損傷はする。

このことは以前詳しく書いたとおり。

 

では、なぜ、現在ではその事が忘れられ、良く切れることばかり重要視されるようになったのか。

それは江戸時代の太平の世を経て、実際に刀をもって切り合うことがなくなり、刀の価値は丈夫さよりもその美術的価値や切れ味が重視されたためである。

 

戦争が無くなり、実際に刀で斬り合ってその頑丈さを試すことができなくなったので、自然、その評価は処刑された罪人の体を試し切りすることによって切れ味を試すしかなくなった。

つまり、罪人の体二つ胴、三つ胴も容易く切れる切れ味が要求されたのである。

 

その結果、シャープな切れ味に劣り、重い戦場実用刀は敬遠され、切れ味がよく軽いが頑丈さに劣る刀ばかりが珍重されるようになった。

そして、重く、頑丈な刀は薄く研ぎ減らされ、あるいは、短く切られて脇差に姿を変えたのであろう。

 

幕末動乱期に至り、刀による斬り合いが横行する。

その時に使われたのが上記のような頑丈さに欠ける刀である。

このような切れ味優先の軟弱ないわば柳場包丁のような刀の刃と刃を思い切り打ち合わせれば、たった一度の戦闘で刀として使いものにならなくなってしまうのはあたりまえのこと。

 

武器というものは、その構造が簡単であればある程、それを扱う人間の技量によって大きな差がでてくる。

特に日本刀のように片刃で反りがあり、かなり重量のある武器はその傾向が強い。

その技術を習得する為に多くの剣術流派が生まれた。

 

しかし、いまや、江戸以前にまで遡る実戦技を保存している流派は極めて少ない。

ほとんどの日本人はその様な流派がある事さえ知らない。その極めて古い剣術の技法を知らなければ、戦国期の斬り合いの実像など知るよしもなく、従ってどの様な刀が使われたかなど想像もできないだろう。

 

現在美術品として高い評価を受けている、姿かたちの美しい日本刀を見て、この軟弱な刀が実際に戦場で使われたと思い込んでいるかぎり、本物の実用刀はわからないし、戦国合戦の実像は見えて来ない。

 

 

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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