4.頑丈さと切れ味
刀の頑丈さと切れ味、この二つは相反するものである。
材質と構造が同じであれば、頑丈に作るとなれば当然鎬を分厚くしなければならない、その結果、刃の角度は大きくなる。
反対に切れ味をよくしようと思えば刃の角度は小さく、刀身の厚みを薄くしなければならない。
例えて言えば出刃包丁と柳刃包丁を比べてみるとよい。
出刃包丁は、鯛などの硬い骨も断ち切ることができるし、少しぐらい手荒く扱っても刃こぼれすることはない。
しかし、柳刃包丁で鯛の頭を断ち割ればたちまち刃は欠け、なまくらな包丁だと折れたり曲がったりするかもしれない。
柳刃包丁で人を切ったり突き刺したりすれば、刃先は折れる。これは不謹慎を覚悟で例えてみれば、世田谷一家惨殺事件をみればよくわかる。
このとき、主人を刺したとき刃先が折れ、被害者宅の文化包丁で殺人を終えている。
この文化包丁も刃が曲がっていたという。
これは、柳刃包丁や文化包丁などの身の厚みの無い刃ものでは人を切ったり刺したりするには向いていないということであろう。
硬く焼きの入った柳刃包丁は刃先が折れ、なまくらな文化包丁は曲がってしまった。
この場合、被害が反撃してこなかっからいいようなものの、もし、相手が刃物を持って向かってきた場合、この手に傷を負い、先が折れたり曲がったりした包丁を持っていた犯人は果たして無事に逃げおおせたどうかわからない。
柳刃包丁は、本来、刺し身などを造る為の包丁である。柔らかい魚の身を組織を崩すことなく薄く削ぎ取るためにはできるだけ鋭利な刃でなければならない。
その為に極めて薄く作られている。硬い骨や獣肉を斬るものではないのでそこに頑丈さは全く必要ない。
この様な包丁で切り合ったらどうであろう。刃と刃を打ち合わせればたちまち刃はぼろぼろとなり、強く当たれば折れる。
また、人を突き刺して抉ればこれも折れたり曲がったり折れたりするであろう。
一方、出刃包丁は身は厚く極めて頑丈にできている。硬い骨や魚の頭を断ち割るためにある程度の重量がある。
これならば、人の一人や二人突き殺したり、斬り殺したりしてもなんでもあるまい。
いささか極端な例ではあるが、これらを戦国期の実用刀と幕末期の切れ味や美術的価値を重視した刀に例えてみれば理解しやすいと思う。
実際の戦場に於いて、カミソリのように良く切れるということはさほど重要ではない。
実は、人体ほどひ弱なものはないのである。首を落とすにも、腕を斬り落とすにもさほど鋭利な刃は必要ない。ろくな刃もついていない中国の青龍刀でさえいとも容易く人間の首ぐらいはおとすことができる。
良く切れるということは、単に大した力を入れずとも切れるというぐらいの意味でしかない。
実用刀としてそれより大切なことは、少しぐらい乱暴に扱っても折れず曲がらずということが必要不可欠なのである。
そうでなければ、多くの敵と渡り合い、いつ果てるともわからぬ戦闘の長丁場を耐え抜くことなどできはしない。
しかし、いくら頑丈に作られた実用刀といえ、現代の剣道のような使い方をしていたのでは刃こぼれや損傷はする。
このことは以前詳しく書いたとおり。
では、なぜ、現在ではその事が忘れられ、良く切れることばかり重要視されるようになったのか。
それは江戸時代の太平の世を経て、実際に刀をもって切り合うことがなくなり、刀の価値は丈夫さよりもその美術的価値や切れ味が重視されたためである。
戦争が無くなり、実際に刀で斬り合ってその頑丈さを試すことができなくなったので、自然、その評価は処刑された罪人の体を試し切りすることによって切れ味を試すしかなくなった。
つまり、罪人の体二つ胴、三つ胴も容易く切れる切れ味が要求されたのである。
その結果、シャープな切れ味に劣り、重い戦場実用刀は敬遠され、切れ味がよく軽いが頑丈さに劣る刀ばかりが珍重されるようになった。
そして、重く、頑丈な刀は薄く研ぎ減らされ、あるいは、短く切られて脇差に姿を変えたのであろう。
幕末動乱期に至り、刀による斬り合いが横行する。
その時に使われたのが上記のような頑丈さに欠ける刀である。
このような切れ味優先の軟弱ないわば柳場包丁のような刀の刃と刃を思い切り打ち合わせれば、たった一度の戦闘で刀として使いものにならなくなってしまうのはあたりまえのこと。
武器というものは、その構造が簡単であればある程、それを扱う人間の技量によって大きな差がでてくる。
特に日本刀のように片刃で反りがあり、かなり重量のある武器はその傾向が強い。
その技術を習得する為に多くの剣術流派が生まれた。
しかし、いまや、江戸以前にまで遡る実戦技を保存している流派は極めて少ない。
ほとんどの日本人はその様な流派がある事さえ知らない。その極めて古い剣術の技法を知らなければ、戦国期の斬り合いの実像など知るよしもなく、従ってどの様な刀が使われたかなど想像もできないだろう。
現在美術品として高い評価を受けている、姿かたちの美しい日本刀を見て、この軟弱な刀が実際に戦場で使われたと思い込んでいるかぎり、本物の実用刀はわからないし、戦国合戦の実像は見えて来ない。
5.刀の下げ緒について
最近、摸擬刀を購入したが下げ緒の寸法が七尺四寸もある。
なんだか長すぎて邪魔で仕方がない。
時代小説でよく見る表現に、刀の下げ緒を外して襷を掛けて決闘に臨むという記述がある。
居合の流派のなかにもこういった口伝のあるものがあるそうであるが、実際はどうであろう。
いやしくも命のやりとりをする場に、襷も用意せず、刀の下げ緒で間に合わせることなどあるであろうか。
襷にするには大体六尺六寸ほどあれば足りると思われるので七尺四寸もあれば十分である。
それ以前骨董屋で買った摸擬刀の下げ緒は五尺三寸である。
これでは襷には短い。
江戸期の下げ緒の長さは、栗形に通して二つにし、こじり下一握りというものであったらしい。
当時、公許された最も長い刀は刃渡り二尺八寸であるから、下げ緒の長さは五尺六寸である。
これでも十文字に襷掛けするには一尺足りない。
先に骨董屋で買った昔の摸擬等と最近買った居合刀。さて、襷には短い下げ緒と十分襷掛け可能な下げ緒のついた最近の居合刀、どちらが正しいのか。
これは使ってみればすぐわかる。
下げ緒が長いと邪魔になって仕方がない。特に、柄で相手の刀を受けたり、当身を入れたりする場合ははなはだ扱いづらいのである。
この場合は、短い下げ緒のほうがはるかに扱いやすい。
現代の居合道などのようにあまり柄を使う技法がなく、ただ、刀を抜き、収めるだけなら、少々下げ緒が長くてもあまり邪魔にならないであろう。
しかし、きわめて古い古流においては、柄を十分に活用する技法も含まれている。
これは主に柔を主体とする流派に多くみられるようだ。
私の昔習った流派にも居合が併伝されていた。
但し、私たちはそれを習っていない。
というのも、私たちの師匠は、「剣はいったん抜いてしまえば居合は必要ない」という考えであったので、ことさら居合抜刀の類には興味を持つことがなかったのである。
ところがある時、近くで稽古している居合の先生に実際に刀を持たせてもらったことがある。
私の若い頃、師匠はよく錆刀を持ち出して、その重さや振り具合などを実感させてくれていた。
そのころは特に感じるものはなかったのだがこのたびは大きな衝撃を受けた。
私たちの使う竹刀や木刀とはまるで違う。
重心が竹刀や木刀より遥かに先にあり、実際以上に重く感じる。
したがって小手先の技は通用しない。
十分腰を据えて刃筋に沿って切らなければならないし、竹刀や木刀のつもりで不用意に切り込めば、自分の下半身を傷つけることにもなりかねない。
このとき、はっきり悟ったのである。これはぜひとも刀の扱いを覚えなければならない。
剣術とは、本来、刀の使い方を稽古するもので、実際に刀が使えないからその代り木刀や竹刀を使うのである。
つまり、竹刀や木刀は単に刀の代用であり、いかにその代用品で稽古を積んでも、実際にその技法が真剣で使えなければ全く意味はない。
これは是非とも刀がいる。
そう思ったが、本物の刀なぞ年金暮らしの私には手が届く代物ではない。
思い悩んだ挙句、なじみの骨董屋で摸擬刀を手に入れた。
しかし、相当使い込んでいるらしく、柄の部分にわずかにガタがあるような気がする。
これでは危なくて安心して使えない。
そこで、ネットから新品の居合用摸擬刀を購入したのである。
こうして二振りの摸擬刀を手に入れたのであるが、冒頭にも言ったように下げ緒の長さが違う。
一体どちらが正しいのだろう。
そう思って、いろいろ調べてゆくうちに成瀬関次氏の「随筆 日本刀」という本に、上記ような記述があった。
つまり、江戸期の下げ緒は短く、これで襷を十文字に掛けることはできないということなのである。
私が昔習った流派には、本来、居合があったことは前述のとおり。
そして、幾度か、師匠が「我が流派の居合とはこうやるんだ」と言って見せてくれた覚えはある。
しかし、あれから四十年近く経過し、その記憶もはっきりしなくなってしまった。
そして、その師匠が亡くなって十数年が経つ。
なんとか当流に伝わる居合を知る手立てはないものだろうか。
そう考えて思いだしたのが、私たちの師匠の二代前の家元が書いた本である。
それに詳しくその技法が載っていた。
なるほど、師匠の言っていたとおり基本的な技が八本詳しく説明されている。
そのなかに、稽古前の礼のとき、正座した膝前に柄がしらを左側に一文字に刀を横たえ、
右掴み手は、そのまま下げ緒を鞘に添って撫で下ろし、その手を再び栗形の上において一礼をなすというものがあった。
この場合、この下げ緒が短いと全く違和感なくこの動作ができるのである。
このことは何を意味するのか。
それは、少なくとも明治末のころまでは刀の下げ緒は短く、これで十文字に襷を掛けることなどできなかったということなのである。
前にも触れたが、江戸期の武術と現代の武道とは全く違うものである。
現代人の最大の誤解は、この二つが同じものだと思いこんでいることであろう。
これに関連するが、戦後の小説や芝居、映画、テレビドラマで描写されている稽古や試合のシーンは全くのでたらめである。
まず、よくある稽古や試合の場面では、木刀で打ち合うということをやっている。
しかしちょっと考えてもわかることであるが、実際に木刀で思い切り打たれるとどういうことになるか。
打ち身ぐらいでは済まない。下手をすれば命の危険さえある。
日々の稽古でこんなことをやっていたのでは体がいくつあってもたりないではないか。
では、どの様な稽古が行われていたのかというと、江戸中期までの稽古は、主に木刀か袋竹刀をもって行われた。
流派によって様々だが、多くは、木刀による形稽古であった。この場合、実際に当ててしまうと危険であるため、寸止めである。
又、袋竹刀の場合は、現在の剣道の竹刀のような堅いものではなく、割った竹に革の袋をかぶせたもので、実際に打たれてもダメージを受けることがなかったから実際に当てて稽古した。この場合も形稽古であるのは言うまでもない。
稽古法ががらりと変わったのは江戸中期に竹具足と鉄面が発明されてからである。
これにより思い切り打ち込むことができるようになり、現在の剣道のような打ち込み稽古が始まった。
従来の形稽古では一度に多くの弟子に稽古をつけることができない。
基本的にはマンツーマンの個人指導であるから一度に稽古をつけることのできる人数は限られている。多くの弟子に指導できるようになるには数人の代稽古のできる高弟を育ててからのことであり、道場経営上はなはだ不利なものであった。
ところが防具の発明により、現代の剣道のような打ち込み稽古がはじまると様相は一変した。
最初は形稽古の完成度を試す為に試合形式でやっていたと思われるが、次第にこちらの方のウエイトが重くなった。
それは、はっきりと勝敗が分かれる為、誰が見てもわかりやすいし、何よりも面白い。
また、形稽古に比べて一度に多くの弟子を取ることができる。
基本的な竹刀の振り方、扱い方を教えれば、後はお互いに打ち合いをさせればよいのだから指導するほうは楽である。このため、一度に何十人も稽古することが可能になった。
このように、一度に大勢の弟子に稽古をさせることのできる打ち込み稽古は、マンツーマンの形稽古に比べて道場経営上非常に有利であることは誰の目にも明らかである。
この点は、過去、ほとんど指摘されることはなかったが極めて重要なことではなかろうか。
幕末のころ、江戸で一世を風靡した北辰一刀流、鏡心明智流、神道無念流、心形刀流などが繁栄を極めたのは、この打ち込み稽古を採用した為なのである。
この時期、これらの剣術道場に通ったのは武士階級だけではなかった。
経済力のある百姓町人も多く弟子入りしていた。
武士だけなら限界もあろうが、百姓町人も加わることによりこの時代の剣術道場は大いに繁栄したのである。
そこで誤解の無いように付け加えておくが、幕末の剣術各流派は従来の形稽古を捨てて、打ち込み稽古ばかりやっていたわけではない。車の両輪のように形稽古もしっかりやっていた。
これは、日本剣道形として各流派から代表的な技を一本づつ採用して今に残っていることからも理解していただけると思う。
同じような防具をつけ、同じ竹刀をもって行う打ち込み稽古は、個人の資質や体力によるところが大きい。
運動神経や動体視力に優れていれば、入門してしばらくした後でも、先輩の兄弟子を打ち負かすことは可能である。修業年限は関係なく、素質しだいでいくらでも強くなれた。
このことが後世に大きな誤解を残すこととなったのである。
つまり、試合で強ければ修業年限に関係なく免許皆伝をもらうことができるというものである。
これは、今の剣道しか知らない現代人にはそういう理解しかできないであろうが、事実はそうではない。
三年に満たない北辰一刀流の修行で、剣の腕は一流であったと言われている坂本龍馬。
実は、取得したのは長刀の初伝のみであり、実際の剣術の腕はさほどでもなかった。
それ故拳銃を持ち歩いたのである。
また、武市瑞山は、江戸に出て修行一年で免許皆伝を受けたということが定説である。
これもこの人物が人格に優れ、天賦の才に恵まれた故との評価がなされているが、こんな理屈に合わぬ話はない。
天下の名流、鏡心明智流の宗家、桃井春蔵が与える免許皆伝がそんな軽いものである筈はない。
実は、武市は土佐で十三年間みっちり鏡心明智流の修行を積んでいた。それ故、江戸で一年の仕上げの後免許皆伝を受けることができたのである。
以上の二例は、前に私が詳しく説明したとおりである。
この様に、江戸期の武術の実体は殆ど知られていない。
そこで、後世、小説家が勝手な憶測や創作をつけ加えていい加減なことを書き、それを映画やドラマでさらに尾ひれをつけて実態とは大きくかけ離れたものとなってしまった。
では、事実はどうであったのか。
先に述べたように、江戸初期から中期にかけては、木刀による形稽古。或いは袋竹刀による形稽古である。
中期以降は、今の剣道とほぼ同じく、鉄面、竹具足をつけて、竹刀による打ち込み稽古と併せて、昔ながらの木刀による形稽古が行われていた。
何れにせよ、木刀で打ち合うような危険な稽古はやる筈がなかったのである。
剣術の試合について
江戸初期を除いて、後の太平の世では、決闘や極僅かな例外を除いて木刀で打ち合うことはなかった。
しかし、確かに戦国時代や江戸のごく初期に於いては、こういったことが全く無かったとは言い切れない。
この時代は実に殺伐とした時代で、人の命など羽毛のように軽かった。
小は村同志の小競り合いから大は戦国大名同志の合戦など、常に死は隣に存在していた時代である。
そこでは、自分や家族を守るものは自分自身でしかなく、百姓町人と言えども武器を持ち、その扱いには習熟していた。
自分の利益のために相手を打ち殺したり不具にするなど何でもなかった。何よりも強いということが最大の価値があったのである。
このような殺伐とした風潮は、江戸のごく初期まで続いたが、太平の世になり、世の中が落ち着いてくると、木刀で打ち合うような危険な試合はやらなくなった。
少なくとも、今日、映画やドラマ、小説で描写されているようなものはなかったのである。
例えば、講談で有名な寛永御前試合など、後世の創作であり、あのようなものは存在しなかった。
ただ、江戸のごく初期までは、このような試合が全く存在しなかったかというとそうともいいきれない。この場合、まだ戦国の荒々しい気風の残る中での個人的な私闘というべきものであろう。
他流試合が行われなかった最大の理由は、当時の武術各流派は、ほとんどが形稽古であった為、その形そのものを試合で使うことは、即、その技を他流に盗まれ、あるいは研究されてそれに勝つ技術を考案される可能性があったためである。
それ故、多くの流派では、この形は門外不出とされ、秘密は厳格に守られていた。
ところが江戸中期に防具が工夫され、打ち込み稽古が盛んになると、当然のことながらその延長線上に試合も行われるようになる。
当初は練習試合のようなものであったと思われるが、こうなると流儀の意義そのものが薄れてくる。
竹刀で打ち合うということは、刀の切り合いと違って流派による差異が出にくいものである。
単に相手より早く、面、胴、籠手を打てばよい。そこには流派の区別はない。
流派の垣根が低くなると、当然他流試合も盛んに行われるようになる。
こうして竹刀の打ち合いに特化した所謂「撃剣」が剣術の主流を占めるに至り、剣術は刀の使い方を学ぶ刀法からかけ離れた竹刀競技に姿を変えたのである。
これが今の剣道の元であり、刀を使う為の技術である剣術とは全く別物となってしまった。
以上の如く、江戸時代のごく初期においては、木刀や真剣による試合は皆無とは言わないが極めて少なかった。そしてそれは、試合というよりは決闘、や喧嘩の類のものがほとんどであり、純粋に技量の優劣を競うものではなかった。
この稽古としての流派内の試合稽古の場合は、木刀なら寸止め、袋竹刀なら軽く打ち込む程度のもので本格的な試合と呼べるものではない。
ましてや、他流試合などは上記の理由により、特別な場合を除いては、ありはしなかったのである。
ところが、防具が発明され、打ち込み稽古が盛んになると、様相は一変する。
稽古自体が模儀試合のようなものであるから、当然試合は何のためらいもなく行われた。
また、他流試合も大いに活発に行われ、流派の垣根を越えて日本全国にひろまった。
このころの試合風景は、ほぼ、現在の剣道と同じようなものであろう。
但し、当時の試合は相当荒っぽく、体当たりや足っ払いなど当り前であった。
以上の如く、映画やテレビでよく描写されているような、木刀で打ち合う試合など殆どなかったのである。