武の歴史の誤りを糺す

5.刀の下げ緒について

 

最近、摸擬刀を購入したが下げ緒の寸法が七尺四寸もある。

 

なんだか長すぎて邪魔で仕方がない。

 

時代小説でよく見る表現に、刀の下げ緒を外して襷を掛けて決闘に臨むという記述がある。

居合の流派のなかにもこういった口伝のあるものがあるそうであるが、実際はどうであろう。

いやしくも命のやりとりをする場に、襷も用意せず、刀の下げ緒で間に合わせることなどあるであろうか。

 

襷にするには大体六尺六寸ほどあれば足りると思われるので七尺四寸もあれば十分である。

それ以前骨董屋で買った摸擬刀の下げ緒は五尺三寸である。

これでは襷には短い。

江戸期の下げ緒の長さは、栗形に通して二つにし、こじり下一握りというものであったらしい。

当時、公許された最も長い刀は刃渡り二尺八寸であるから、下げ緒の長さは五尺六寸である。

これでも十文字に襷掛けするには一尺足りない。

 

先に骨董屋で買った昔の摸擬等と最近買った居合刀。さて、襷には短い下げ緒と十分襷掛け可能な下げ緒のついた最近の居合刀、どちらが正しいのか。

 

これは使ってみればすぐわかる。

下げ緒が長いと邪魔になって仕方がない。特に、柄で相手の刀を受けたり、当身を入れたりする場合ははなはだ扱いづらいのである。

この場合は、短い下げ緒のほうがはるかに扱いやすい。

 

現代の居合道などのようにあまり柄を使う技法がなく、ただ、刀を抜き、収めるだけなら、少々下げ緒が長くてもあまり邪魔にならないであろう。

しかし、きわめて古い古流においては、柄を十分に活用する技法も含まれている。

これは主に柔を主体とする流派に多くみられるようだ。

 

私の昔習った流派にも居合が併伝されていた。

但し、私たちはそれを習っていない。

というのも、私たちの師匠は、「剣はいったん抜いてしまえば居合は必要ない」という考えであったので、ことさら居合抜刀の類には興味を持つことがなかったのである。

 

ところがある時、近くで稽古している居合の先生に実際に刀を持たせてもらったことがある。

 

私の若い頃、師匠はよく錆刀を持ち出して、その重さや振り具合などを実感させてくれていた。

そのころは特に感じるものはなかったのだがこのたびは大きな衝撃を受けた。

私たちの使う竹刀や木刀とはまるで違う。

重心が竹刀や木刀より遥かに先にあり、実際以上に重く感じる。

したがって小手先の技は通用しない。

十分腰を据えて刃筋に沿って切らなければならないし、竹刀や木刀のつもりで不用意に切り込めば、自分の下半身を傷つけることにもなりかねない。

このとき、はっきり悟ったのである。これはぜひとも刀の扱いを覚えなければならない。

 

剣術とは、本来、刀の使い方を稽古するもので、実際に刀が使えないからその代り木刀や竹刀を使うのである。

つまり、竹刀や木刀は単に刀の代用であり、いかにその代用品で稽古を積んでも、実際にその技法が真剣で使えなければ全く意味はない。

 

これは是非とも刀がいる。

そう思ったが、本物の刀なぞ年金暮らしの私には手が届く代物ではない。

 

思い悩んだ挙句、なじみの骨董屋で摸擬刀を手に入れた。

しかし、相当使い込んでいるらしく、柄の部分にわずかにガタがあるような気がする。

これでは危なくて安心して使えない。

 

そこで、ネットから新品の居合用摸擬刀を購入したのである。

 

こうして二振りの摸擬刀を手に入れたのであるが、冒頭にも言ったように下げ緒の長さが違う。

一体どちらが正しいのだろう。

そう思って、いろいろ調べてゆくうちに成瀬関次氏の「随筆 日本刀」という本に、上記ような記述があった。

つまり、江戸期の下げ緒は短く、これで襷を十文字に掛けることはできないということなのである。

 

私が昔習った流派には、本来、居合があったことは前述のとおり。

そして、幾度か、師匠が「我が流派の居合とはこうやるんだ」と言って見せてくれた覚えはある。

しかし、あれから四十年近く経過し、その記憶もはっきりしなくなってしまった。

そして、その師匠が亡くなって十数年が経つ。

 

なんとか当流に伝わる居合を知る手立てはないものだろうか。

そう考えて思いだしたのが、私たちの師匠の二代前の家元が書いた本である。

 

それに詳しくその技法が載っていた。

 

なるほど、師匠の言っていたとおり基本的な技が八本詳しく説明されている。

 

そのなかに、稽古前の礼のとき、正座した膝前に柄がしらを左側に一文字に刀を横たえ、

右掴み手は、そのまま下げ緒を鞘に添って撫で下ろし、その手を再び栗形の上において一礼をなすというものがあった。

この場合、この下げ緒が短いと全く違和感なくこの動作ができるのである。

 

このことは何を意味するのか。

それは、少なくとも明治末のころまでは刀の下げ緒は短く、これで十文字に襷を掛けることなどできなかったということなのである。

 

 

 

時代劇の誤り・・・剣術の稽古

 

前にも触れたが、江戸期の武術と現代の武道とは全く違うものである。

 

現代人の最大の誤解は、この二つが同じものだと思いこんでいることであろう。

 

これに関連するが、戦後の小説や芝居、映画、テレビドラマで描写されている稽古や試合のシーンは全くのでたらめである。

 

まず、よくある稽古や試合の場面では、木刀で打ち合うということをやっている。

しかしちょっと考えてもわかることであるが、実際に木刀で思い切り打たれるとどういうことになるか。

打ち身ぐらいでは済まない。下手をすれば命の危険さえある。

日々の稽古でこんなことをやっていたのでは体がいくつあってもたりないではないか。

 

では、どの様な稽古が行われていたのかというと、江戸中期までの稽古は、主に木刀か袋竹刀をもって行われた。

流派によって様々だが、多くは、木刀による形稽古であった。この場合、実際に当ててしまうと危険であるため、寸止めである。

又、袋竹刀の場合は、現在の剣道の竹刀のような堅いものではなく、割った竹に革の袋をかぶせたもので、実際に打たれてもダメージを受けることがなかったから実際に当てて稽古した。この場合も形稽古であるのは言うまでもない。

 

稽古法ががらりと変わったのは江戸中期に竹具足と鉄面が発明されてからである。

これにより思い切り打ち込むことができるようになり、現在の剣道のような打ち込み稽古が始まった。

 

従来の形稽古では一度に多くの弟子に稽古をつけることができない。

基本的にはマンツーマンの個人指導であるから一度に稽古をつけることのできる人数は限られている。多くの弟子に指導できるようになるには数人の代稽古のできる高弟を育ててからのことであり、道場経営上はなはだ不利なものであった。

 

ところが防具の発明により、現代の剣道のような打ち込み稽古がはじまると様相は一変した。

最初は形稽古の完成度を試す為に試合形式でやっていたと思われるが、次第にこちらの方のウエイトが重くなった。

それは、はっきりと勝敗が分かれる為、誰が見てもわかりやすいし、何よりも面白い。

また、形稽古に比べて一度に多くの弟子を取ることができる。

基本的な竹刀の振り方、扱い方を教えれば、後はお互いに打ち合いをさせればよいのだから指導するほうは楽である。このため、一度に何十人も稽古することが可能になった。

 

このように、一度に大勢の弟子に稽古をさせることのできる打ち込み稽古は、マンツーマンの形稽古に比べて道場経営上非常に有利であることは誰の目にも明らかである。

この点は、過去、ほとんど指摘されることはなかったが極めて重要なことではなかろうか。

 

幕末のころ、江戸で一世を風靡した北辰一刀流、鏡心明智流、神道無念流、心形刀流などが繁栄を極めたのは、この打ち込み稽古を採用した為なのである。

この時期、これらの剣術道場に通ったのは武士階級だけではなかった。

経済力のある百姓町人も多く弟子入りしていた。

武士だけなら限界もあろうが、百姓町人も加わることによりこの時代の剣術道場は大いに繁栄したのである。

 

そこで誤解の無いように付け加えておくが、幕末の剣術各流派は従来の形稽古を捨てて、打ち込み稽古ばかりやっていたわけではない。車の両輪のように形稽古もしっかりやっていた。

 

これは、日本剣道形として各流派から代表的な技を一本づつ採用して今に残っていることからも理解していただけると思う。

 

同じような防具をつけ、同じ竹刀をもって行う打ち込み稽古は、個人の資質や体力によるところが大きい。

運動神経や動体視力に優れていれば、入門してしばらくした後でも、先輩の兄弟子を打ち負かすことは可能である。修業年限は関係なく、素質しだいでいくらでも強くなれた。

このことが後世に大きな誤解を残すこととなったのである。

つまり、試合で強ければ修業年限に関係なく免許皆伝をもらうことができるというものである。

これは、今の剣道しか知らない現代人にはそういう理解しかできないであろうが、事実はそうではない。

 

三年に満たない北辰一刀流の修行で、剣の腕は一流であったと言われている坂本龍馬。

実は、取得したのは長刀の初伝のみであり、実際の剣術の腕はさほどでもなかった。

それ故拳銃を持ち歩いたのである。

 

また、武市瑞山は、江戸に出て修行一年で免許皆伝を受けたということが定説である。

これもこの人物が人格に優れ、天賦の才に恵まれた故との評価がなされているが、こんな理屈に合わぬ話はない。

天下の名流、鏡心明智流の宗家、桃井春蔵が与える免許皆伝がそんな軽いものである筈はない。

実は、武市は土佐で十三年間みっちり鏡心明智流の修行を積んでいた。それ故、江戸で一年の仕上げの後免許皆伝を受けることができたのである。

 

以上の二例は、前に私が詳しく説明したとおりである。

 

この様に、江戸期の武術の実体は殆ど知られていない。

そこで、後世、小説家が勝手な憶測や創作をつけ加えていい加減なことを書き、それを映画やドラマでさらに尾ひれをつけて実態とは大きくかけ離れたものとなってしまった。

 

では、事実はどうであったのか。

先に述べたように、江戸初期から中期にかけては、木刀による形稽古。或いは袋竹刀による形稽古である。

中期以降は、今の剣道とほぼ同じく、鉄面、竹具足をつけて、竹刀による打ち込み稽古と併せて、昔ながらの木刀による形稽古が行われていた。

 

何れにせよ、木刀で打ち合うような危険な稽古はやる筈がなかったのである。

 

 

 

 

時代劇の誤り・・・剣術の試合

 

剣術の試合について

 

 江戸時代の剣術の試合も小説や映画、ドラマの描写は間違っている。

江戸初期を除いて、後の太平の世では、決闘や極僅かな例外を除いて木刀で打ち合うことはなかった。

 

しかし、確かに戦国時代や江戸のごく初期に於いては、こういったことが全く無かったとは言い切れない。

 

この時代は実に殺伐とした時代で、人の命など羽毛のように軽かった。

小は村同志の小競り合いから大は戦国大名同志の合戦など、常に死は隣に存在していた時代である。

 

そこでは、自分や家族を守るものは自分自身でしかなく、百姓町人と言えども武器を持ち、その扱いには習熟していた。

自分の利益のために相手を打ち殺したり不具にするなど何でもなかった。何よりも強いということが最大の価値があったのである。

 

このような殺伐とした風潮は、江戸のごく初期まで続いたが、太平の世になり、世の中が落ち着いてくると、木刀で打ち合うような危険な試合はやらなくなった。

少なくとも、今日、映画やドラマ、小説で描写されているようなものはなかったのである。

 

例えば、講談で有名な寛永御前試合など、後世の創作であり、あのようなものは存在しなかった。

ただ、江戸のごく初期までは、このような試合が全く存在しなかったかというとそうともいいきれない。この場合、まだ戦国の荒々しい気風の残る中での個人的な私闘というべきものであろう。

 

他流試合が行われなかった最大の理由は、当時の武術各流派は、ほとんどが形稽古であった為、その形そのものを試合で使うことは、即、その技を他流に盗まれ、あるいは研究されてそれに勝つ技術を考案される可能性があったためである。

それ故、多くの流派では、この形は門外不出とされ、秘密は厳格に守られていた。

 

ところが江戸中期に防具が工夫され、打ち込み稽古が盛んになると、当然のことながらその延長線上に試合も行われるようになる。

当初は練習試合のようなものであったと思われるが、こうなると流儀の意義そのものが薄れてくる。

竹刀で打ち合うということは、刀の切り合いと違って流派による差異が出にくいものである。

単に相手より早く、面、胴、籠手を打てばよい。そこには流派の区別はない。

流派の垣根が低くなると、当然他流試合も盛んに行われるようになる。

こうして竹刀の打ち合いに特化した所謂「撃剣」が剣術の主流を占めるに至り、剣術は刀の使い方を学ぶ刀法からかけ離れた竹刀競技に姿を変えたのである。

これが今の剣道の元であり、刀を使う為の技術である剣術とは全く別物となってしまった。

 

以上の如く、江戸時代のごく初期においては、木刀や真剣による試合は皆無とは言わないが極めて少なかった。そしてそれは、試合というよりは決闘、や喧嘩の類のものがほとんどであり、純粋に技量の優劣を競うものではなかった。

 江戸中期になり、防具が発明されるまでは、稽古の延長としてのもの以外には本格的な試合は行われていない。

 

この稽古としての流派内の試合稽古の場合は、木刀なら寸止め、袋竹刀なら軽く打ち込む程度のもので本格的な試合と呼べるものではない。

ましてや、他流試合などは上記の理由により、特別な場合を除いては、ありはしなかったのである。

 

ところが、防具が発明され、打ち込み稽古が盛んになると、様相は一変する。

 

稽古自体が模儀試合のようなものであるから、当然試合は何のためらいもなく行われた。

また、他流試合も大いに活発に行われ、流派の垣根を越えて日本全国にひろまった。

 

このころの試合風景は、ほぼ、現在の剣道と同じようなものであろう。

但し、当時の試合は相当荒っぽく、体当たりや足っ払いなど当り前であった。

 

以上の如く、映画やテレビでよく描写されているような、木刀で打ち合う試合など殆どなかったのである。

 

 

 

映画やドラマ、小説の誤り・・・チャンバラ

 

 

日本刀の項でも説明したが、映画やドラマのチャンバラシーンは全くのでたらめである。

そして、最近量産されている時代小説のチャンバラシーンも著者の脳みそから絞り出された絵空事であり、あのようなシーンが実際にあったと思っているとこれは大間違いである。

 

この真剣による打ち合い、相手の切り込みを刃で受けたり、思い切り刃と刃をぶっつけあったりといった描写などは実際には避けなければならないことであった。

また、よく描写されている真向から竹割りや肩からの袈裟がけなどの大げさな技は、小説としては面白いが、じっさいの切り合いとなると極めてリスクの高いものであった。

何故ならば、これらの描写は、刀が刃物であるということを完全に失念しているからである。

現在の剣道のように、刀の刃を思い切り打ち合わせれば、当然のことながら、お互いの刃は大きく欠損する。又、頭蓋や太く堅い骨を絶ち割れば、よほど刃筋をたててうまく切らないかぎりは刃こぼれして使いものにならなくなる。最悪の場合は折れたり曲がったりするものである。

 

実際に切り合いをやっていた戦国時代や、その記憶の残る江戸初期までは、そのような刀の使い方はしなかった。

刀自体も頑丈で少しのことでは曲がりもしなければ折れもしない実用本位のものであったのは勿論であるが、その使い方も、後世、特に幕末期とは全く違っていた。

その正しい使い方とは、刀の特性を完全に生かした使い方で、刀身の反りや鎬をうまく使って敵の刀を抑えたり弾いたりしたもので、古い流派にみられる「そくいづけ」など、現代の剣道には思いもかけないような技が使われていた。

また、斬る場所も、剣道のように、面や胴、籠手に刀を叩きつけるのではなく、敵の急所や裏小手や首筋などの動脈を切り、骨を断ち切るような無駄なことはしなかったのである。

体の表面近くの動脈や急所を切るのであれば、堅い骨で刃を痛めることも無く、有効に敵に致命傷を与えることができた。

これが刀の刃物として、また、反りや鎬の構造の特性を十分に活用した使い方である。

 

ところが江戸期、島原の乱を最後に、実際に刀を振るっての戦闘が無くなり、平和な時代が到来すると、剣術は実用を離れ、刃物としての特性も弱点も考慮されなくなってくる。

 

刀で実際に切り合うという検証ができなくなると、剣術そのものの質がかわってきて、主に木刀の特性に特化した形稽古が主流となった。

 

どの剣術も、流祖が流派をたてたころは、形の種類も少なく、その全ては刀の実用的な使い方の稽古が主であったが、真剣が使われなくなってくると、木刀や袋竹刀を使った新しい技が考案され、その数も大幅に増えていった。

 

この時点では、真剣を使う本来の剣術からのかなりの変質がみられるが、まだまだ、江戸中期に防具が考案され流行するまでは、実用的な昔の本来の技が多く残されていた。

 

この様に、実戦から離れて木刀による形稽古が主流となってくると、当然のこととして、それに対しての疑問が起きてくる。

その一つの解決策が鉄面、竹具足、籠手を着けての実際に竹刀で打ち込む打ち込み稽古であった。

これは撃剣と呼ばれ、幕末には従来の木刀による形稽古を圧倒して隆盛を極め、日本全国に広まった。

 

そして、幕末の勤皇の志士達も、こぞって江戸にでてきて、この撃剣の道場に入門した。

 

この様に書いてくると、幕末には、ほとんどの剣術諸流派は、打ち込み稽古のみに転向したかのように見えるが、実はそうではない。

 

当時の人たちは、盛んに「撃剣」の試合や、その稽古である打ち込み稽古をやる一方、剣術流派の真髄である形稽古もちゃんと行っていた。

打ち込み稽古では、流派の特徴は殆どでない。

主にその人物の天性の資質や才能、運動神経によりその強弱は決まってくる。

しかし、それだけではその流派を習得したことにはならないのである。

 

この点が現代の剣道しか知らない小説家やドラマや映画の監督の認識の足りないところなのだ。

竹刀の打ち合い稽古や試合が強ければそれで短期間のうちに簡単に免許皆伝が貰えるものと思いこんでいる。

 

そのよい例が、坂本龍馬が三年に満たない修行期間で北辰一刀流の高位の免状を受けていたに違いないとか、武市瑞山が江戸に出て僅か一年で鏡心明智流の免許皆伝を受けたとかのいい加減な説である。

 

これが根も葉もない唯のひいきの引き倒しにしか過ぎないことは、別項にて詳しく説明したとおり。

全く無責任極まるいい加減な説であるが、これが多くの大衆に信じられていることは、実に嘆かわしい限りである。

 

そもそも、何の為に流儀があるのか。撃剣だけの稽古ならこんなにも多くの剣術流派が存在した筈がない。

現代の剣道のように一つの名前「撃剣」だけで良い筈であろう。

 

この流儀を分けていたのは、昔ながらの形なのである。

 

だから、この形の習得なしにはその流派の免許など貰えるはずがないのである。

 

この形の習得にはある一定の期間が必要であり、如何に撃剣の試合で強くても、一年や二年ぐらいの修行期間では免許皆伝など貰えるわけがなく、せいぜい初伝を与えられれば良い方であった。

 

本来、我が国の剣術は兵法ともいい、流派の系統によりそのコンセプトはまるでちがう。

つまり、流派によってその動き、構え、刀法は実に多岐に渡っていた。

これというのも、本来、日本刀というものは人を切る為のもので、よく切れる刃物以外のなにものでもない。これを如何にうまく使うかということに様々な技法が存在し、その特徴によりかくも多くの流派ができたのである。

 

くどいようであるが、ここは大切なところなので重複して説明することにする。

 

剣術の発生は、もともと戦場での戦闘の為の技術、介者剣法であった。

この技法は、鎧の隙間や弱点を狙うものであったが、島原の乱を最後に甲冑を着用しての戦闘はなくなり、剣術は介者剣法から素肌剣法へ変化していった。

 

太平の世では実際に刀で切り合うことはできない。素肌剣法といっても実戦から離れてしまう。

稽古は前述の木刀での形稽古となるが、とかく刀は刃物であるという事実が忘れられがちとなり、木刀での組太刀に特化した形が多くなったようである。

 

こうして、実際に刀での攻防ができない為、剣術は刀の使い方の技術であることが忘れられ、単なる木刀による形稽古になってしまった。

木刀や袋竹刀による形稽古に限界を感じたことにより、防具をつけて実戦さながらの打ち合いをすることが考えられ、今日の剣道の防具や竹刀の原形が工夫された。

 

この試合形式の打ち込み稽古は、見た目には実際に竹刀で打ち合っているので実戦のように見える。

ところが、実は、木刀での形稽古よりさらに実戦とはかけ離れたものとなってしまったのである。

 

つまり実戦では、如何にうまく敵を切り、致命傷を与えられるかということが大事であり、初期の剣術諸流は決して無駄な動きや派手な打ち合いはやらなかった。

 

ところが、幕末の撃剣はそうではない。面、胴、籠手をつけて思い切り竹刀で打ち合う。

強弱は、体力、体格、力、運動神経などで決まってくる。

刀の本来の使い方、斬るということは忘れられ、ただ竹刀での打ち合いになってしまった。

これでは実際の刀を持っての闘争には役にたたない。

 

撃剣の竹刀の打ち合いのように思い切り刀を打ち合えば瞬く間に刃はささらのようにぼろぼろになり、刀身は深く切り込まれ、曲がったり折れたりして使いものにならなくなる。

 

新撰組の山南敬介の描いたスケッチに、大きく刀身が切り込まれ曲がった刀の絵があるが、日本刀を今の剣道のように思い切り打ちつけ合って斬り合った結果である。

 

つまり、刀の使い方がまちがっている。刃のある刀を、刃の無い竹刀と同じように使った。これが致命的な間違いなのだ。

幕末の勤皇の志士達が新興撃剣の大流派の免許皆伝などの高位の免許を受けながら、実際の切り合いを避けた最大の理由がこれである。

当時一世を風靡した撃剣は、実際の刀をもっての切り合いには殆ど役に立たなかったということ。これが実態である。

 

ただ、前にも言ったように、この頃の剣術諸流は、現在の剣道のように打ち込み稽古しかやらなかった訳ではない。

それなりの高位の免状を受けるには形稽古もしっかりやらなければならない。

実際の切り合いで役に立ったのはこの形稽古のほうであった。

 

新撰組の天然理心流が実際の切り合いに強かったのは、あまり打ち込み稽古には力を入れず形稽古をしっかりやったことと、この流派の形が優れて実用的であったことであろう。

 

幕末の頃でさえこうである。実際に腰に二刀を差した武士階級が存在した幕末でさえ、すでにその刀の使い方がわからなくなり、ひたすら防具をつけての竹刀の打ち合いしかやらなくなった。

ましてや、武士階級の存在しなくなった明治以降ではなおさらである。

 

明治の武士階級消滅により、剣術はますます日常生活から縁遠いものとなり、国民大衆から顧みられることはなくなった。

 

剣術、柔術諸流は益々衰亡の極に達し、残るは僅かな流派が辛うじて命脈を保つ程度となっていたところ、この剣術、柔術、などの古流武術をまとめて大日本武徳会が設立された。

明治後期のことである。

 

大正にはいり、参加剣術流派の代表的な形を集めて大日本剣道形が制定された。

これは各流派の代表的な形、太刀7本、小太刀3本の計十本である。

それとともに、従来の剣術という名称は廃され、剣道という名前となり、稽古の主体は現在の剣道と同じものとなったのである。

事実上の剣道の歴史はこの時をもって始まったといってよい。

 

しかし、様々な古流剣術諸流の膨大な技術体系のなかから僅か十本のみの形を抜き出して大日本剣道形として保存されたのである。

前にも言ったように、本来、古流各流派のコンセプトはまるで違う。刀の振り方、身のこなし、足の踏み方、進退、まるで違う。

これを実質太刀形7本、小太刀3本に纏めることは到底無理であり、本来のその形の意味さえわからなくなってしまった。

そして、この剣道形さえ殆ど稽古されることなく、もっぱら竹刀の打ち合い稽古ばかりやるようになり、ますます本当の刀の使い方とは遥か遠く離れてしまったわけである。

 

こうして、明治以降、本当の刀の使い方がすっかりわからなくなってしまい、そこに付け込んで講談や小説、映画やドラマが荒唐無稽な技を作り出してなおさら混乱を極めているのである。

 

では、現在、実際にあったと一般に信じられているチャンバラは何時、どのようにして出来たのであろうか。

 

実は、この時期は大正なのである。

この頃の剣術と言えば、剣道しかない。古流剣術が国民大衆の眼から見えなくなってほぼ半世紀近くたっている。

実際の刀を振るっての切り合いなど遠い昔の話となってしまい、その実態を知る人など殆どいない。

実際に行われている剣道とは竹刀の打ち合いである。

当然、時代劇の作者や小説家、演劇の作者がイメージするのは、当時行われていた竹刀の打ち合いである剣道であろう。

それが、今に至るまで続いているのである。

 

最大の誤解は、昔の侍は剣道を使っていたという誤解である。

それに、様々な荒唐無稽な技が考案されて講談や小説に描かれ、演劇や映画、ドラマとなり、益々その実態がわからなくなり、最近では劇画やアニメ、果てはゲームでのでたらめな技を本気で信じている若い人達もいるという。

 

大切なことは、今現在、多くの出版物や映画、ドラマや演劇、劇画、アニメ、ゲームの描くチャンバラシーンなど、全てが有りもしない大ウソであるということである。

 

そのことを十分認識してそれらのものを楽しむのなら良いが、それが史実の如く勘違いされては困るのである。

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
武の歴史の誤りを糺す
8
  • 0円
  • ダウンロード

27 / 78