女性たちの足跡

2.負けて残念、じゃんけんぽん( 1 / 1 )

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 アルバイト先の課長さんご夫妻が、2週間ほど旅行されることになった。

可愛がってもらっていた僕が、その間留守番することになった。

 

 場所は、大久保と新の久保のどちらから歩いても10分以内の位置関係。新宿に出るには好都合だ。友達を呼んでもかまわないって奥さんが、予備の夜具も用意してくれた。冷蔵庫には簡単に食べられるものまで、しっかり準備してもらった。

 

 谷中の寂しげなアトリエに比べるともちろん内湯もあり、ステキな時間が持てそうだった。特に何かを頼まれた記憶がないが、ベランダの植物たちに水をあげることだけは仕事だった。

 

 そんな時、高校時代の同級生で、僕たちのマドンナ的存在だったSKさんと新宿で会う事になっていた。けっこう立派なうちのお嬢さんで、女子大に通うために東京にいた。哲学堂の近くの、彼女と妹さんが住んでいたアパートには何度か遊びに行っていた。でも、もうSKさんには彼がいて、僕の出る幕はないと決めての友達付き合いだった。

 

 最近、彼と何だかしっくりしないなどと、相談されたりする間柄だった。新宿で会って、今留守番役をやってるんだって話したら、どんなマンションか見てみたいと言い出した。じゃ遊びに来るかって、気楽に案内した。

 

 どんな時間をそのマンションで二人が過ごしたのか、もう覚えてはいない。どちらにしても、清らかなものだったのは間違いない。

 

 夕方、もう帰る時間だということで、二人でぶらぶら大久保駅までの道を歩いていた。なんとなく、名残惜しいって気がするお互いだった。

 

 

 果物屋さんの明るい店頭で、何か美味しそうな果物を見つけて買いたいなって思った。でも一人でマンションに帰って食べるのもつまらなくって、どうだ今夜、あそこに泊まっていくかって僕が聞いた。SKさんは、エッて顔をして、僕の顔をみた。瞬間、間があった。僕はじゃんけんして僕が勝ったら泊まっていく、負けたら帰るといった。

 

 

 彼女の顔に笑いが戻った。歩道で、二人立ち止まって、大きな声でじゃんけんぽんと言いながら、手を出した。僕の負けだった。真剣な顔だったと思う。

 

 しょうがないか…って言って、また二人で駅のほうに歩みだした。もう一回って言いたい気持ちを押し殺して、僕は歩いた。そして駅で別れた。一人、マンションに帰って残念でしたと自分に言った。

 

 SKさんはその後、テレビ朝日の前身のNETにアナウンサーとして入社した。六本木の、今のテレビ朝日のある場所に、彼女を訪ねたことが何度かある。好きな気持ちはあったけれど、その後も相変わらずの友達付き合いで終わってしまった。

 

 年賀状のやり取りがその後も続いていたが、いつかSKさんは神戸に帰って結婚していた。

 

 その後、妹さんから便りが来て、交通事故で亡くなったと教えてもらった。

 

 親友のTも憧れていたから、ウンと後になってこのじゃんけんの話をしたら、バカだなー、何度でもじゃんけんすればよかったのに、と言われた。そうだったなあと思ったけれど、本当に後の祭りだった。

 

 あのじゃんけんに勝っていたら、もっと別の僕のその後があっただろうなって思う。あれは、本当に大変なじゃんけんだった。

3.A級ライセンスの助手席に座ってみると( 1 / 1 )

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新しい足跡が新宿から始まったのは自然だった。紫陽花の後のことだ。

ひとりぼっちの歩みは、ヤッパリチョッコリつまらないものだった。急に思い出して電話して呼び出せるような人はいなかった。自分で新しい場所に自分を置くのが自然だった。

 

紀伊国屋書店が新しいビルをつくって、新しい空気を新宿通りに創ったのは1964年だった。本屋さんにホールを作ったり、画廊を作ったり、喫茶店を店の中に作ったり、一階とか二階に個人の特色がある店を招いたりした。

 

それは、神田・神保町の三省堂とか、古本屋街とは違った新しい人たちを呼び込んだ。○I○Iが今のヤング館を作って、新宿に月賦屋さんのイメージを大きく変える新しい店を作ったのもその頃だったと思う。

 

その○I○Iの裏口を右に出て、正面にアリゾナという店があった。しっかり覚えていないけれど、アリゾナとしておく。

 

基本的には、スタンド・バーで、カウンターの中に店の人がいてサービスをしてくれる。サボテンの絵があったような気がしている。とにかくアメリカの西部のような雰囲気を売り物にしている店だった。女が売り物ではなく、男の人もカウンターの中にいた。気取った感じではなくて、気楽な感じで食べ物も出していた。

 

その店に色の白い、でも健康でけっこう肉付きのいい感じのバー・マンならぬ、女の人がいた。感じのおもしろい人で、小型のテンガロン・ハットの黒いのをかぶっていて、ワイン・レッドのベストがよく似合う人がいた。何回も通っているうちに話をするようになった。ホントの名前は、覚えていない。僕はアコさんとよんでいた。だんだん冗談も言い合うようになっていった。

 

いつだったか彼女が兄貴と呼んでいる男の人と一緒に住んでいる、代々木上原の家に招ばれて、下手なマージャンを一緒にした記憶がある。ホントに兄貴だったかどうかは定かではない。

 

親しくなって、ドライブに誘われた。その頃、僕はまだ免許を持っていなかった。行き先は、江ノ島。

 

自分の車を持っている人って、すごく少なかった時代だ。普通の人がなんとか車を持てるようになったのは、僕が就職してしばらく経って、ホンダ800とかパブリカが出てきてからだから、それ以前に車はなかなか持てる様な物ではなかった。

 

アコは、A級ライセンスを持っているといっていた。とにかくレースをやるんだと言っていたから、へーって信じていた。女性が免許を持っている事だって、不思議な気がした。車は、その頃ルノーと技術提携して日野が作っていたコンテッサ、貴婦人という名前のFR車だった。エンジンルームを開けてみると、小さなエンジンがちょこんと乗っかっている感じだった。そういえば、ビートルとよく似たルノーの車も同じような構造だった。

 

助手席に乗っけてもらって、江ノ島までけっこうなスピードで運転するアコを羨ましく見ていた、自分を思い出す。旧東海道の雰囲気を残す戸塚の松並木を過ぎて、左折して遊行寺の坂を下る。藤沢橋を曲がって江ノ島だ。

 

江ノ島で、どう時間を過ごしたのか覚えていない。僕に悲劇が起こったのは、帰りがけだった。藤沢橋のたもとのガソリンスタンドで給油することになった。アコは、ちょっとトイレ…とかいって、車を離れた。

 

僕は、チョコンと助手席に座って待っていた。スタンドの人が、ちょっと車を動かしてもらえますか、次の給油があるので…といわれた。エッと、答えにつまった。僕は、この車をどうやって動すのかを知らなかった。僕は運転できないのですが…といった時、スタンドの人の目がエッと動いた。仏丁面をして、店の人が運転してスタンドの一番端っこに止めた。

 

何だ、女に運転してもらって、てめえは運転もできないんだ、といっているように思えてならなかった。ちょっとバカにされた感じだった。しばらくしてアコが戻ってきた。僕たちは、東京に向かって帰り始めた。

 

別のある時、コンテッサに乗って、夜、多摩川堤をドライブしていたら、思いがけず、ちょっと試してみようかとアコが言った。何の事だかわからなかった。アコは持っていたグランドマットを持って、多摩川の河川敷の芝生にそのマットを敷いた。二人で、唇を合わせ、抱き合い、まさぐってみたけれど、アコはカラカラ。そのうち二人とも吹き出してしまって、ダメに終わってしまった。

 

アコとは長く友達だったが、お嫁にいくとか言って、突然水戸へ帰っていった。結局、女性レーサーにはならなかったようだ。

 

4.Fugetsudoでの別れと白髯橋 ( 1 / 1 )

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バイト先の室町の小さな会社の宣伝部に出入りしていた、某美大卒のグラフィック・デザイナーと付き合ったことがある。

 

少し丸顔の、少し太めの可愛い感じの色の白い子だった。その子のほうが積極的に近づいてきて、僕が気づかない間に距離を狭めていた。君の事が好きらしいよって、バイト先の先輩が僕に耳打ちしてくれて、あっそうなんだと思ったくらいだった。

 

僕は奈枝さん以降全くの空家だったし、バイトと学校で忙しくしていたから、適当にしか付き合えなかった。でも断りもしなかった。

 

家は下町、白鬚橋の川向こうの向島・寺島の町屋の女の子だった。気さくな家族に紹介された。その時はじめて向島百花園に行った。モダンなグラフィック・デザインを勉強するようになったのか不思議な環境だった。しかも、学生時代に日宣美で賞を取った才能のある子だった。僕には才能のある人にあこがれるところがあって、へーって感心して、うだうだと煮え切らないままで付き合っていた。

 

デザインでの仕事振りとは全く違って、性格的には自分でものごとを決められない、自分の意見がない、いつも誰かに頼っているって感じの子だった。それはそれで、可愛いと考えることもできた。

 

ある日、新宿の武蔵野館で洋画を二人で見た。映画はなんだったか、内容は覚えていない。帰りにいつものようにFugetsudoに入ってコーヒーを飲んで話している時、見てきた映画の筋について、その子がたずねてきた。僕はその前から、少し苛立っていたのかもしれない。自分で見てきたんだろ、人にたずねるなよ!って言っていた。

 

そういったとたん、急にその子のすべてが嫌になってきた。1960年初頭にエリック・バーン博士が確立したTA心理学でいう所の、「適応した子供」のパーソナリティの要素が全く欠けていた僕は、我慢することが全く出来なかったのだと後でわかった。自分を抑えることが苦手だったのだ。

 

何だか人に頼られることが嫌になっていたのだろうと思う。そのわずらわしさが前面に出てきたのだと思う。自分自身のない人とは付き合いたくないと強く思った。

 

今日を最後にして別れようって言っていた。その子の大きな目から、ポロリと涙がこぼれた。その子は、どうして…と言って、後が続かなかった。

 

僕としても、もうどうしようもない感じだった。僕の学生時代の初めてのセックスを経験した、その娘とはそこで別れた。これでFugetsudoは、僕にとってわびしい気持ちにさせる場所にもなった出来事だった。

 

この時、なまじ本気になれない付き合いは、決してすまいと自分に誓った。それからは、本気になれる女性が身近に現れなくなってしまったような気がする。それは、自分で自分自身にかけた呪術だったのかもしれない。

 

自分で迷い出た道は、どの方向に向かうのか全くわからなくなっていた。

 

5.宮益坂あたりの記憶( 1 / 1 )

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 ほとんど毎日、バイトで宮益坂を半分あたりまで登っていた。この坂は、渋谷駅の向こうにある道玄坂に比べればかなり地味で、食べ物屋の少ない事務所の多い単なる青山に登る道でしかなかった。

 

 そんな所だから、昼飯を食うとなるといつも困った。宮益坂に出ても、サンドイッチを食わせる喫茶店とか、蕎麦屋さんが一軒くらいしかなかった。渋谷の駅まで降りることもあったが、めんどくさいので、みんなで近くを探索することになる。宮益坂の上にはいくつか店もあったが、登りたくもない。

 

 横に出てみると児童館のある坂になる。その坂道の途中に、夜はいわゆる「バー」に変わる小さな喫茶店があった。昼時の客のために、そこも軽食を出していた。そこにバイトで、YYさんがいた。

 

 僕は結構人見知りするほうだから、(友人はそうは思っていない。本当は自分を奮い立たせて、初対面の人とは話しているのだが…)簡単に話しかけられるような感じでは、最初はかった。

 

 結構美人で、仕事の先輩や同じバイト仲間と2~3人で昼飯を食いに出かけるようになった。しかし、YYさんと話をする間柄になるには時間がかかった。なんとなく間を取り持ってくれたのは、その店のちょっと太目のオーナー兼ママだった。店の名前はもう覚えていない。

 

 YYさんは、女性のみでアマチュア・バンドを組んでいて、そこでドラムをたたいていた。まだまだ、女性だけのバンドは現れていなかったし、ドラムなんてやる女性はほとんどいなかった時代だ。僕の悪いくせで、才能がありそうだと、急に近づいてみたくなる。

 

 昼間だけではなく、YYさんがバイトしている特定の夜にも、僕はその店に現れるようになっていった。学生の身分で金がないから、そう頻繁には出かけられなかった。この店で初めてブラックライトに出くわして、驚いた記憶がある。薄暗い店に、白のワイシャツの袖口が紫色に浮き出して見えるのだ。まさにナイトクラブの雰囲気だった。

 

 そんなこんなで、だんだん親しく話すようになった。見場は美人で派手なのだが、中身はしっかりした人だった。僕よりすこし、年上だったかもしれない。

 

 その年のXmasパーティを大学の仲間たちと企画しているとき、その店を使うことを僕が提案した。何人かで、下見に行ったと思う。ママは大乗り気で、YYさんも大賛成。自分のバンドを連れてくると約束してくれた。有料で、といっても今の金で3~4千円くらいの会費を取って、その店を一晩借り切ってパーティーをやった。大学の仲間2~30人が中心で、他にはアルバイト先の偉い人の秘書さんも来てくれて、賑やかな思い出になった。今でこそ、学生たちが自分でパーティを開いたりするのは普通だけれど、その頃はまだとても斬新な企画だった。

 

 そんな経緯もあって、YYさんとは外でも軽いデートをするようになっていった。でもその頃は、男と女の関係って、今ほど簡単なものではなかったから、抱あって唇を合わせるくらいが上出来だったところだ。何度か、渋谷橋で都電に乗って、赤羽橋の彼女の家まで夜遅く送っていったものだ。

 

 彼女のお袋さんには、僕はちょっと睨まれていたと思う。古くからの畳屋さんで、しっかりものの職人さんの家だ。訳のわからない学生との付き合いなんかにうるさいのは当たり前だったのだと思う。

 

 その後大学を終えても、時には渋谷まで出かけていたけれど、いつか疎遠になっていったのは、このお袋さんの存在あったように思う。就職した会社の最初の年の赤坂でのXmasのパーティにもYYさんを連れて行った位だったから、僕もまんざらではなかったのだが…。

 

 日本を離れていて、3年ほどたってから赤羽橋のうちに電話したら、お袋さんが出てきて、YYさんは結婚して家にはもう居ないと聞かされた。

 

 これが、宮益坂のバイト先のあたりであった、チョット寂しげな僕の思い出です。

 

(このスケッチは、小田切通安さんの「イラストスケッチ展示室」から、ご本人の了解を得て借用した「三竹の児童館」のスケッチです)http://www.h2.dion.ne.jp/~otagiri/portfolio(sakuhinten).htm

 

P.S.

その後偶然、その店の名前は、ニューオーリンズだと判明した。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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