自分の過去の行動のなかに、誰かに対して、残酷だったなぁと反省することはないだろうか。僕にはそれがある。
若い日の残滓のように、僕の心に残る記憶がある。長い間、連絡も取らずに過ごしてきたから、先が見えてきたからといって謝るすべもない。また、謝るべきことなのかどうかも分からない、そんな記憶がある。
あれは、僕が大学の学生の頃から、僕が結婚するまでの間のことだった。
あの人は、僕が高校3年生になったころの高校の一年後輩。何が二人が話すようになったきっかけだったのかは覚えていない。彼女は高校2年生の頃から、天才ピアニストとして、その小さな町では名前が知られた存在だった。仮にYさんとしておこう。
ひとつだけぽつんと独立して建った音楽堂で一人、ピアノを夕暮れになって、薄暗くなるまで弾いていた少女の姿が、ボゥと浮び上がる。僕は、ピアノは憧れだったけれど、自分では弾けなかったから、尊敬の気持ちでYさんのピアノを、その薄暗い音楽室で聴いていた。ずっとクラシックばかりを聴いて育った僕の耳にも、それは普通の高校生のピアノではなかった。才能の予感をさせる響きだった。
僕とYさんは、高校時代に特別親しかったわけではない。どちらかというと、ピアノに没頭するYさんに、僕がすごいなぁと目を向けていたというレベルだった。時がたって、Yさんは、その頃はまだ珍しかった私立の音楽大学の付属高校に引き抜かれて、その高校を去った。
僕が大阪の大学に入った頃、彼女の音楽大学の学内のリサイタルを聴きに、一度その大学まで行ったことを覚えている。二人は、ピアノの天才少女と、一人の普通の大学生とのつながりに過ぎなかった。
しかし、僕が東京の大学に転校したときから、Yさんとの距離は近くなった。
僕は貧乏学生で、早稲田のTの下宿、中野・鍋屋横丁のNさんのアパート、親父の谷中のアトリエに仮住まいをしたり、姉夫妻が借りていた川口のアパートに転がり込んだりと、住みかがしょっちゅう変わった。
そんな頃、Yさんは東京に現れ始めた。はじめは僕が大学の2年ぐらいのときだったろう。ふらっと、東京の僕の前に現れた。ピアノ関係のイベントにでも関連してきているのかと思ったら、そうでもない。
少し天然のボゥとしか感じで、ハキハキしゃべる東京のほかの女の子達に較べると、何かゆったりした時間に住んでいる様だった。少し目じりの下がった大きな目と、いつもぬれた瞳が思い出される。関西弁のまろやかさも、そうした印象を強くしていたのかもしれない。
最初は、東京まで、大阪から新幹線での日帰りだった。
その頃、僕は初恋のJ美のNさんとの別れを自分で作り出し、その後は、T美卒の白鬚橋の向こうにすむグラフィック・デザイナーと「Fugetsudoで別れ」、大学では、Nさんとの別れのきっかけになった、とにかく少女のように純真なMOさんとも別れ、そのあと親しい女性はいなかった。高校時代のマドンナ的な存在だった、「じゃんけん」で負けたSKさんとも、チャンスを失って、全くの空き家だった。
Yさんは、3ヶ月に一回くらいの割合で、東京まで来ていた。でも、日帰りはかわいそうな気がしてきて、狭い僕の部屋にでも泊まっていくって訊いたら、頷いた。
僕は、彼女は嫌いではなかったけれど、男と女の関係になろうとは、全く思っていなかった。まぁ、イヤでなければ、僕と一緒の部屋だけど、2組、布団を敷けば、なんとか寝られないことはないと思ってそう言った。
Yさんは、東京で何をしていたのか、僕はどう付き合ったのかは全く覚えていない。ただ、Yさんが僕に好意を持っているのが、だんだん分かり始めていた。もしかしたら、Yさんは僕に会いに、大阪から時々出かけて来るじゃないかって、分かり始めた。それは、僕には不思議な感覚だった。
2人きりで、何度かの夜を一緒の部屋で過ごしたら、彼女もパジャマ、僕もパジャマ。隣り合って横になれば、なんとなく、深みに入るのが当たり前のような感じだったと思う。
でも、僕は白鬚橋のデザイナーとの別れ以降、いい加減な気持ちで男と女の関係にはなってはいけないと、どこか心の中で決めていた。
だから、Yさんと二人だけで一緒に寝ても、男と女の行為ははじめなかった。せめて、好意はあるよと示すつもりで、彼女を抱いて、僕の上に乗っけて、背中を撫でていたことが鮮明に思い出される。Yさんの柔らかい、温かい体が、うつ伏せに僕の体の上にあった。ゆりかごのように、緩やかに僕は体を揺らしていた。
そんな関係が、僕が「大岡山」の年上のOさんから、もう結婚したら、と助言を受けるまで何年も続いた。この間、僕は就職しYさんもプロの音楽の世界にすみ始めていた。まあ半年に一度くらのYさんの上京が続いていた。
結果的にはその結婚に失敗したのだが、僕が結婚をするという話をYさんにしたのは、僕の結婚の半年くらい前だったのだろうか。Yさんは上京してきた。その頃、僕は姉のアパートにいた。
最後の上京の時、二人で一つの部屋に寝て、Yさんは涙ぐんでいた。僕は彼女を僕の体の上に乗せ、やはり背中を撫でていた。Yさんは何も言わなかったけれど、彼女の気持ちはあきらかだった。でも、僕にはそれ以上の行動はとらなかった。いや取れなかった。
これは、彼女にとっては、ひどく残酷なことではなかったかと、その後ずっと思っている。
その後、音信は途絶えた。
あれから、30年以上がたつ。きっと、あれはYさんにとって、残酷な行動だったのではないかと、ずっと気にかけていた。
僕は、このわだかまりをくたばる前に、解いておきたいと思った。Yさんが、その後、幸せな生活をしていて、音楽の世界も続けていると判れば、それでよかった。
事情を理解してくれて、古い同窓会名簿を検索してくれる人がいて、最近、Yさんの消息がやっと分かった。Yさんは、結婚して3人の男の子の母となり、そして今も、プロとして音楽の世界にいた。若い時の、あの残酷な二人の夜のわだかまりが、僕の中ですっと解けた。
あれはたしかに残酷だったけれど、あれはあれでよかったのだと、なんとなく納得している自分がいる。
絵描きさん、デザイナー、音楽家、A級ライセンスのドライバー、女の子だけのバンドのドラマーとか、どちらかと言うと特異な女性達が僕の周りにいた。
でも、どんな女性でも、その後を見てると、結婚に関して、みんな必要充分条件を満たしてんだと気づかされる。
あれは残酷なことだったのだろうかとの謎は、今も解けない。
P.S.
最近、ご本人からこのエッセイを読んだ感想をいただきました。
「拝読。谷中のアトリエ、チャタレイ夫人、西川口、追分便り…。 忘れられないことばかり。 おやすみなさい」
<この写真は、flickrからSzieaさんの“Grand Piano”をお借りしました>
Creative Commons ライセンスの“BY=表示”です
2007年6月5日
HY様 徳山てつんど
大切な、しかし大変悲しいお知らせをいただきました。
でも、ご通知いただいたことを心から感謝しています。
それは、櫻さんへの感謝のメッセージを送ることが出来るからです。
知らないままでいたら、もっと後で辛くなっただろうと思います。
添付のメールのコピーのとおり、櫻さんは最後の出社日の夕方に、メールをくれました。
僕はそれに返事を出せぬまま、櫻さんの達筆の便りを待ち続けていました。
時間が過ぎるにしたがって、不安が大きくなっていきました。そして…。
お知らせによると、入院一週間ほどで天国に召されたようですね。安らかだったことを祈っています。
櫻さんのことは、「サックラさん」と僕は呼んでいました。
櫻さんと知り合ったのは、彼女が愛した、僕も大好きなマルク・シャガールの「ある絵」がそのきっかけでした。
1970年代の後半、竹橋でシャガール展を見て、ある一枚の絵が気に入り、そのポスターを購入しました。その後、その絵はずっと僕の生活といっしょにありました。会社のオフイスにもフレームに入れて壁にあり、退職してからも僕のリビングにずっと掛けられていたものです。ですから30年くらいは見ていたわけです。
ある日、明るいところで見ると色が退色していることがわかり、早速新しいポスターか複製を捜し始めました。世界中のヤフーやグーグルでインターネット上のシャガールの絵を片っ端から捜しましたが、見つかりませんでした。絵の名前も分からなかったので、たいへんな時間とエネルギーでした。
あきらめかけたとき、専門家に聞くのがいいと気がつきました。
2001年に訪れた、日本で唯一のシャガール・コレクションの展示を始めた表参道のギャラリーと、そこでお会いした感じのいいキューレーターの方を思い出したのです。
早速、退色した絵を写真にとって添付し、ギャラリー宛てメールしました。何という絵なのか、どこかで入手できないかという問い合わせでした。
それが、2003年だったと思います。
この僕の突然の頼みに対応してくださったのが、櫻さんでした。
サックラさんは、僕の頼みに応じて、その絵を探し始めてくれました。他のシャガール関係の専門家や、画廊や、今の損保ジャパンの絵の収集家とか、ギャラリーの資料とか…。
彼女は何ヶ月もかけて、スイス・ルツェルンの画廊が絵の在りかを知っていて、ドイツで出版された一冊の画集にその絵が収録されているのを見つけてくれました。そしてその絵の名前が「The Yellow Face」でした。
僕はこの発見にとても感激し、2004年、直接お会いして、自分のために買ったけれど、僕には似合わなかった「dunhill」の男物の時計をお礼にと差し上げ感謝を申し上げました。サックラさんにも気に入っていただきました。
僕は画集を購入し、その絵を原寸大に拡大するよう印刷屋さんに頼み、鮮やかな色を取り戻したコピーを一応は手にいれました。しかし残念ながら、もとの絵と比べるとデジタル・スキャンの画像の質は悪いのは致し方ありません。今僕んちのリビングに元のフレームに入って掛かっています。
その後も二人はあきらめず、複製を捜し続けていました。僕はルツェルンの画廊にメールしたり、ドイツの出版社とコンタクトしたりして、その絵の持ち主を知ろうとしましたが、結局はルツェルンの画廊から先は糸が解けませんでした。いまも目的は達成できていません。
最後まで解けないミステリーのようです。サックラさんは「この絵を見つけるのは今や、ライフワークだ」とまで言っていました。フランスやスペインに出かけたときも写真を持って行って捜してくれました。最近は、名刺大のパウチを作って、絵を持ち歩いて、心当たりをさがしていてくれたようです。
サクッラさんは、はじめパソコンが出来ず、でもとても達筆で、メールと達筆のやりとりでした。その後、お互いの病気の話しなども出て、お互いに励ましあうみたいになりました。ちなみに、僕は遺伝性の「肥大型心筋症」で、不整脈発作を持っています。昨年の9月には心不全で、救急入院などもあり、彼女にも心配をかけました。この病気も不治のもので、最新技術のオペもやりましたが、結果は思わしくなく、今はとにかく薬で抑えている感じです。
一昨年(2005)10月にギャラリーは閉鎖されて、サックラさんはキューレーターとしての仕事が終わり、一般事務の仕事をし始めていましたが、気落ちしていたようにみえました。昨年10月には、体調がかなり悪い感じで、こちらも心配していました。
でも昨年のクリスマスとか、今年のバレンタインとかには、僕を慰める手紙やメールやプレゼントをいただきました。かなり明るい感じでした。
今から思えば天国へ旅立つ約一週間前の、最後の出社の折、「これからまた入院です。青山墓地の両親の墓参りをして退社します。落ち着いたらアナログの手紙を…。頑張りまーす」とメールしてきて、その後音沙汰なしで、カミさんと二人で心配していました。
そこにHY様からの便りです。「ア~ア」といった感じでとても寂しくなりました。僕にとってサックラさんは、「The Yellow Face」が取持った、物語めいたお付き合いになった大切な女友達でした。今では、この絵が櫻さんのポートレートのように見えてきました。
残念ながら今の僕の体調は、僕に東京の櫻の会まで出かけることを許してくれません。こちらにいて、サックラさんとの物語の続きを解いていきたいと思います。
サックラさんへのメッセージを同封します。
ご友人の櫻さんへの思いやり、天国の櫻さんに必ず届くと思います。ありがとうございました。
櫻さん、
本当にあっという間に逝ってしまわれたのですね。
年寄りのぼくなんかをおいてけぼりにして…。
櫻さんからの達筆の便りを届くのを、ぼくはずっと待っていのですが…。
シャガールのあの絵を捜すという根気のいる仕事で、櫻さんがやってくださった沢山なこと、またその本気さに、ぼくはあらためて「有難う」と、申しあげます。
櫻さんのご努力で、絵の名前が判ったとき、そしてそれが掲載されている画集が判明したとき、ぼくは、本当にうれしくなりました。つい「ヤッター」と叫んでいました。
櫻さんも、「やったよ!!」という感じで話していらしたのを思いだします。
でも、あれはほんの第一歩。
後に櫻さんご自身が「これは私のライフ・ワークかもしれない」とおっしゃっていらしたように、この絵のありかを突き止めて、その複製かポスターを手に入れる目的は、ぼくたちにとってまだ達成できてはいないのです。
櫻さんの旅立ちで、ぼくは共通の目標を一緒になって追い求める唯一の友達を失いました。そう、この世界には、櫻さんはもう居ないのだと思うと、寂しさがこみ上げてきます。
櫻さん、苦しい病気との闘いは、残念ながら終わりましたね。
天国で、あのお茶目な面を見せながら明るく過ごしていらっしゃる姿を想像しています。
櫻さん、本当に有難うございました。決して忘れることはありません。
そうです。「The Yellow Face」が、ぼくにとって櫻さんのポート・レートになりました。
ありがとう、そしてさようなら。
徳山徹人(てつんど)
2006/10/13 てつんど to 櫻さん 「カレンダー2007年」
櫻さん、
シャガールのカレンダー、今朝受け取りました。
ありがとうございます。
ギャラリーはクローズされても、カレンダーではシャガールがみんなに公開されているわけですね。
存在を主張し続けて行って欲しいです。櫻さんも。
今年は、僕のほうはご無沙汰でしたが、それは心臓のなせる業です。
昨年5月に、手術をして今年の始めまでは快調でしたが、なぜか1月に再び不整脈が起こって、
その後二回目のオペを3月に予定していましたが、僕が体調を崩してダメ。
薬で抑える生活になってしまいました。普通の6~7割の動きしかできません。
物理的にも心理的にも今のところ東京は遠いです。
そちらも入院、オペとか。どうなさったのかと心配です。
それにしても、メールがうてるようになって本当によかった。気軽に話せます。
業務以外は禁止かもしれないですが…。
親の仕掛けた時限爆弾といわれる遺伝性のこの病気、誰を責めようにも持って行き場がありません。
なんとか折り合っていくしかないのでしょう。
カrンダー、もう一冊は行き先が決まりました。ぼくの知っている内科の先生の奥様がシャガール好きで、
いくつかの絵をお持ちです。きっと喜ばれると思います。
隣にロシア人のお母さんを持つ男の子がいます。当たってみます。ロシアの香りが漂うかもしれないので。
それにしてもありがとう。そして、メール開通うれしいです。
ではまた。
2006/10/15 櫻 to てつんど 「Re: カレンダー2007年」
Mailありがとうございました。
14日は休みましたので、今日拝見いたしました。
徳山様も大変な一年だったと知り驚いております。
私はずっと喉の痛みがあり、会社近くの耳鼻咽喉科に通院していましたが、一向に良くならず、
ちょうど一年前(2005)の今頃、従姉紹介の国立国際医療センターで入院検査を受けるようにと言われました。
でも10月30日でギャラリー・クローズとなるため、11月までは休めない旨医師に伝えると、
「そんな事を言っていたらステージがあがる!」と言われ、「それって癌のことですか?」と半信半疑で
聞くとあっさり「そうです。」とのこと。両親を癌で亡くしているのでいずれは・・・・と思っていましたが、まさかこんなに早く、それもなるなら乳癌か子宮癌かなと毎年検査はしていたのですが。
11月の検査の結果、下咽頭にステージ4ただし5に近い癌と食道に初期の癌が見つかりました。
早い手術が望ましいと言われましたが、食道・気管・声帯を切除後、腸を移植するもので、声を失い食事も
細かく刻むとのこと。仕事はもちろん、1人暮らしの私には通常生活は無理だと思いました。
セカンドオピニオンとして有明の癌研を紹介され、生存率は下がっても放射線と抗癌剤治療を選びました。
12月~2月まで入院し一応完治と思われたのですが、入院直後内視鏡であっさり切除してへっちゃらだった
食道が、軽視されたのが面白くなかったのか再発し、5月に再度入院切除しました。
6月には下咽頭の転移でリンパ節に3ヵ所見つかり、今度こそ手術と言われましたが、ずっと信頼している
主治医に「もし声帯に及んでいたら、そこだけ切除しないで下さいネ!」と力説、先生は「それでは手術の
意味が無いけれど・・・・」と言いつつも合意?していただき、8月に行ないました。幸い声帯は逸れていましたが片方を縛って麻痺した為、ハスキーヴォイスになってしまいました。
鎖骨も削り、かなり大きく凹んでいるので制服も私だけタートルネック着用で通常勤務に戻っております。
ギャラリーが終了した途端に色々な事が起こりましたが、私の大好きな職務が完了するのを待っていてくれたのかと、今は納得しています。
抗癌剤服用と通院はずっと続くと思いますが、私もなんとか折り合いをつけてゆっくりのんびり行きます。
徳山様も大変な遺産をいただいていらっしゃいますが、がんばらずにがんばりましょう。
仙台はこれから素敵な季節に入ると思いますが寒さも増してまいります。
どうぞくれぐれもご自愛下さいますよう
2006/10/15 てつんど to 櫻 「2006年とは」
櫻さん、
大変な2005~6年だったのですね。入退院と手術の繰り返し。
しかも転移した癌では、少々こたえると思います。僕も、なんだかな~という2006年です。
ハスキーヴォイスでも、大丈夫。自分ではどうにもならない部分が人生にはあるようですから、
本当の自分のペース、スタンスで行くしかありません。
本当にお大事になさってください。
「Yellow Face」の作ってくれたご縁ですから…。
ではまた。
P.S.
いただいたショコラとオレンジのステイック、味をしめて、友人たちへの贈り物に使わせていただいています。大好評です。
2006/10/16 櫻 toてつんど 「Mailはとっても便利」
おはようございます。
早速のお返事ありがとうございました。
こんなに便利なMailを今迄使わなかったのは、宝の持ち腐れでした。
9月にB1Fギャラリー跡がウエディングのホワイエとなり、シャガールのエスタンプを10点程飾りましたが、
商社より購入する際、何点かの中からピックアップするのにもMailの画面からできました。
以前なら直接足を運ぶか写真を送付してもらう方法しか無かったでしょう。
そういえば、徳山様との「YELLOW FACE」のご縁もMailの画面でしたね。
エスタンプを選ぶ際も、もしやと思って聞いてみたのですが・・・・。
「幻のYELLOW FACE」と言うのも何やらミステリアスで、いつの日かという夢があっていいですね。
書き出したのは朝でしたが、週始めで朝礼や雑務(庶務2)に追われお昼近くになってしまいました。
お体大切になさって下さい。病気は大事にすると逃げていくとか。
2006/12/20 てつんど to 櫻 「カレンダー」
サックラさん、
いかがおすごしでしょうか。
表参道にイルミネーションが戻ったということで、見てみたらかなり以前と違います。
幻想的にも見えますが…。
いただいたカレンダーは、一部は僕の部屋に、シャガールの好きなお医者さんの奥様のところで喜ばれ、
もう一部は隣のロシヤ人とドイツ人のミックスのカレンダー好きの男の子のところに行きました。
みんなに喜ばれて幸せです。
お忙しい中で時間があるかどうか分かりませんが、グリーティング・カードをインターネットでおくりたいと思います。
ごらんになる前にパソコンの音量調整をして、無音か、小さな音で見てみてください。
そうでないと、フロアに聞きなれない音が響くとまずいので、前もってお知らせします。
僕の体調ほうは、まあまあというところでしょうか。またお目にかかれるのを楽しみにしています。
仙台は、二度ほど小雪がこの冬になって舞いました。
では、また明日。
2006/12/23 てつんど to 櫻 「ありがとう」
サックラさん、
思いもかけないプレゼント、先ほど受け取りました。
息子さん(猫のミムシー)のシールつきの「The yellow face」パウチとクリスマス・キャンドル。
そして、櫻さんの広い美術関連のいろんな方々からの情報収集のご努力、本当に感謝しています。
「The yellow face」は、やはり mysterious なままでいたいのかもしれません。
いいクリスマスをお迎えください。そして、いい来年が迎えられるよう願っています。
てつんど
2007/01/18 てつんど to 櫻 「いいアイデアですね」
サックラさん、
手書きの年賀状受け取りました。ありがとう。
真ん中のドットをうまく使って、イノシシを隠しましたね。
きっと手書きだと思いますが…。
表の達筆とのコントラスト、おもしろいです。
僕のほうは、寒くなっただけチョット手足が冷たいことをのぞけば、まあまあの時間を過ごしています。
幸い、今年の仙台は雪がほとんどありません。
そちらも、どうぞ体を大切になさってください。
ではまた。
2007/01/19 櫻 to てつんど 「バレマシタ…?」
お年賀状の時期がはずれた為はがきが無く、ANNIVERSAIREの以前作成した在り物利用でした。
昨日人伝に知った評判の民間療法に行ってまいりました。
何をするのかもよく分からずに吉祥寺までいったのですが、ようは背骨矯正と気功により自然治癒力
を引き出す療法でしたが、私には明るい光が見えてきたように思えました。
木曜日の午前の先生(上田先生)が特に優秀らしく、待合室はお年寄りの男女であふれていたのですが、
通常の治療は一人1分位で、事実治療前に痛かった箇所が力も加えられずに消えました。
残念ながら1番気になる喉の痛みはまだとれませんが、暫く通ってみようと思います。
そこにいらした年配の女性は(私とそんなに変わらないのかも)ギックリ腰は一度で治ったとのこと。
合う人と合わない人もいるらしいのですが、北海道を本拠地に全国数箇所にあるそうです。
仙台にも支所があるのですが、そこだけなぜか旅館なので何だか胡散臭く思われるかも知れませんが、
あらゆる病気に効果あるとのこと、パンフを後日お送りしますのでご覧になって下さい。
一回行っただけなのに何だか保険の勧誘のおばちゃんになったような気がしますが、(本当はもっと通ってすごい効果が見られてからお薦めしたいのですが、メールを拝見したらぜひお知らせしたいと思ってしまって。
では詳細は私の領域の手書き手紙で・・・・。
高橋 櫻
2007/02/14 てつんど to 櫻 「“バレマシタ…?” メールとショコラ」
サックラさん、
今朝、思いがけずショコラいただきました。
どうもありがとう、気にかけてくださって…。
仙台は雪まじりの雨ですが、おかげでぱっと部屋が明るくなりました。
実は、ちょっと気になっていました。前のメールで、
>では詳細は私の領域の手書き手紙で・・・・
と書かれた、民間治療(?)の情報届かないので(期待して待っているということではないのですが)、サックラさんの調子が悪いか、もしかして、僕のマンションのメールボックスへの郵便屋さんの投函の仕方がいい加減で、どっかに行っちゃったのかとも思ったりしていました。
サックラさんの元気は確認できました。安心です。
ではまた。
2007/02/14 櫻 to てつんど 「早速のメールありがとうございます」
ご心配おかけして申し訳ございません。
実は仙台支所が転居とのことで、診療所に地図がまだ設置されていませんでした。
はっきりしてからお送りしようと、そのままにしてしまいました。
病気の時は「便りの無いのは良い知らせ」という訳にはいきませんね。
お蔭さまでズボラナな私も目から鱗、今日にも心配してくれている友人達に連絡とります。
こちらも今日は肌寒く小雨模様です。ご自愛ください。
2007/03/01 てつんど to 櫻 「便りのないのは…」
サックラさん
「便りのないのは良い知らせ」とは限らないという話をしましたが、
資料を受け取りながら、その旨も知らせず失礼してしまいした。
心配していただいて「ありがとう」です。
心臓の機能低下から来る、抹消血管の血流が悪くなり、いろんないたずらをしています。
手足に痺れとか、思いもよらない痔(手術も受けたのですが)とか、難聴とか etc., etc.
結果、ちょっとフットワークが悪くなっています。心臓の先生にいわせると通常の半分ぐらいの活動レベルとか。
自分かカミさんの車での移動が主になりました。
背骨にいろんな神経が集まっていて、そこを整体すると、いろいろないい効果があると聞いていましたので、そうかもしれないと思います。それにしても、キリストの御技を実現するというのはとてもすごいですね。
春になって、フットワークが少し軽くなったら、試してみるかもしれません。
今年は幸い仙台も今のところ雪が少なく、助かっています。
「頑張らないで頑張る」っていい言葉ですね。
そんなスタンスで、明るい時間をお過ごしください。
2007/03/09 櫻 to てつんど 「Thank You for White Day's Present」
ホワイトディのプレゼントありがとうございました。
通院日だったりで久々に出社したところ、机上に徳山様からの宅配便がデンと置かれていました。
ずっと「マリアージュ」はお菓子やサンドウィッチetc.,との相性からの洒落たネーミングだとばかり
思っていましたが、今回リーフレットを見て初めて”マリアージュ家”と知りました。
日本じゃ考えられない苗字ですもの。
早く暖かくなって散策がお楽しみになれるようだと良いですね。
皆様のご健勝を・・・・。
2007/03/10 てつんど to櫻 「マリアージュ」
サックラさん、
Thanks メールありがとう。
こないだのバレンタイン・ショコラうれしかったので、「なにか」と考えたのですが、仙台地場のもので、
オフイスに送って持って帰ってもらうには適当なものが見当たりませんでした。
何しろ、牛タンとか、長なすの漬物だとか、蒲鉾だとかになってしまって…。
ちょうど、カミさんが偶然マリアージュのマルコ・ポーロを飲んでいて、櫻さんの送ってくださった
ショコラとの相性が抜群だったので、マリアージュに絞って捜してみました。
SAKURAというのがあって、これってネーミングがばっちりとは思ったのですが、試していないので、
マリアージュがいいと自分で確信できているマルコ・ポーロにしました。
ショコラは送りませんので、ご自分で入手して(笑)その相性の抜群さをお試しください。
名前の由来は僕も知りませんでした。
春がそこまで来ました。
表参道の町並みも春めいていることだろうと思います。
ご自愛を…。
てつんど
2007/03/20 櫻 to てつんど 「せっかく慣れたMail 暫しClose・・・・」
桜の開花宣言もアタフタな定まらないお天気が続いております。
体調いかがでしょうか?
私は又、入院となりました。今日引継ぎやらあれこれで半日出社しましたが、これから両親のお墓(外苑前)にお彼岸の挨拶をしながら帰宅しますので、徳山様のご返信拝見できません。 残念!
落ち着いたら、得意のアナログ(アナクロに近い?)お手紙いたします。
お体くれぐれもご自愛下さいますよう。
私も前向きにガンバリまーす。
櫻