女性たちの足跡

はじめに( 1 / 1 )

 

 僕の中には、友達の「親しさ度合い」のスケールがある。

 

 「僕の友達」と呼べるようになるには、8時間(例えば1日)x5日(例えば1週間)=40時間以上を二人で共有すること、つまり、二人きりでしゃべりまくってもいいし、同じ空間や場所を共有しても構わない、旅に出かけても構わない、音楽を聴いても構わない、何でも構わない。ぶっ続けでなくても構わない、間隔を置いての時間であっても構わない。

 

 ただし、仕事とかでの共有時間は、このスケールの時間には入らない。

 

 さらに、それが2週分(80時間)超えにでもなれば、もう間違いなく「僕の大切な友達」だ。お互いが、自分の友達としての資質を持っていることの証明でもある。その人は同性でも異性でもいい。

 

 あなたは今までの人生の時間の中で、こうした時間を共有した人を、どれだけ持っているだろうか。一般的にいって、そう多くはないと思う。

 

 僕の友人たちを、こうした友達のスケールで選んでみると、同性も異性も含めても、そう数多くは浮かび上がってはこない。

 

 社会心理学的に言えば、この時間に親密(intimacy)の4要素のすべてが現れ、二人で達成される時間と理解することができる。

          ・インターラクションの頻度と時間(接触とか、連絡とか)

          ・透明性(お互いに自分を相手に開示する)

          ・脆弱性(お互いの脆弱性の認識と、その承認と支援)

          ・互恵性(心理的な、物理的な。その関係がお互いにとって満足)

 

 

 僕はBookとしてはまだ発表していないものも含めて、この10年でざっと500くらいのエッセイを書いている。そのうち、Book3「親父から僕へ、そして君たちへ」(http://forkn.jp/book/2064/)迄で110のエッセイを発表している。さらにBookにできそうな未発表のエッセイは、120くらいはある。

 

 Bookにしてこれまで発表したものは、どちらかというと、時系列に乗っけた人生の期間、区切りのような形で、まとめてきたようだ。

 

 フッと気がつくと、こんな切り口でしか、僕の足跡は切り出せないのかなぁ…といつも考えていた。

 

 思いついたのは、時間の流れにとらわれないで、僕の発表済みのものも、未発表のエッセイも、横断的に一つのテーマで追っかけて一つのBookにしてみたら…ということだった。

 

 その切り口が先に述べた、時間スケール、もしくは、親密度の4要素で切り出された「僕の女友達」であっても不思議ではないし、面白いかもしれないと考えた。すでにBookに載せたエッセイも含めて、この切り口で選びなおして、さらに新しいものを書いてみると、いつの間にか僕の女性との足跡みたいなものが出来上がった。

 

 僕の女性に対する、心の動き、ときめき、感動、絶望、断絶などをこうして並べてみると、自分自身に対しての発見があった。

 

 その発見については、「あとがき」に託すとして、まずは読んでみて頂きたいとまとめてみました。

 

 結果的には、いくつかBook2の「大学時代を思ってみれば…」(http://forkn.jp/book/1983/)に採録したものが混ざっている。Book2を読まれた方は、斜め読みで何が書いてあったかをさっと思い出してもらえば、それで充分です。再録は目次に*で注を振ってあります。

 

 はたして、どんな世界が透けて見えるのか、お楽しみください。

1.枯れた紫陽花( 1 / 1 )

01枯れ紫陽花.jpg 

 

(これは1966年、大学のクラブの文集に書いたものです)

 

 

 記憶というもの、思い出というものは、断片的なものであるようだ。思い出たちは歩んできた日々の中に、どこあるということもなく、ちらばっているものであるようだ。心は全てを記憶しているかのようではあるが、しかし、その記憶は一本の糸につながるものでは決してない。

 

 六月にはめずらしい台風が近づいてきた今日、歩んだ北鎌倉から由比ヶ浜までの道にも、私にとっての古いそして懐かしい思い出達が待っていた。北鎌倉の駅をぽいと左側におりると円覚寺の森が見える。いつも、この時期のこのあたりは、紫陽花と葵の赤い色が目にとびこんでくる。

 

 鎌倉の寺々にも永遠の時間は流れていないようだ。円覚寺も、きてみると拝観料をとるようになっていた。山門も、それに続くすりへってしまった石段も変わりはないのだけれど、人の心をしばる垣根や立ち入り禁止の札が心を重く、さびしくする。

 

 奈苗ときた時の思い出達は、洞穴の暗やみに立つ石仏の中に、金木犀の木に私の心をひきつけるけれども、その物達は私の心のながれとは別の時の流れの中に存在していつづけるのだった。

 

 この北鎌倉の里は、決して奈苗だけとの思い出の場ではないのだけれど、やはり、心に重く存在し続けるものが、小さなきっかけの中に私の心に蘇ってくるのだ。去年は歩かなかったこの道だけれど、一昨年の、その前の、そして幾年も前の思い出が、私の歩みの一歩ごとによみがえってくる。円覚寺の前の池から、浄智寺への道は、日にてらされた線路のそばを、小川の中の緑の芹のならびをみながら歩む道である。

 

 奈苗のぺったんこの靴に軽いほこりがかすめた日、そして今日は多くの人達の足下に,同じ軽いほこりがまいあがっている。腕にさげた籐のかごに、白いあわい花もようのハンカチがかけてあったあの日の奈苗は、明るく笑っていた。サングラスの奥の目は、私への注意深い視線をなげかけてくれていたのに。

 

 一人、線路を渡って浄智寺への道に入る。「唐寺」と奈苗の呼んだ名前が、あざやかな葵の花とともに浮かんでくる。石橋から足下の泉をみおろすとき、あの日の濃い緑の藻は失われ、きよかった水の面は、ガムの包みの紙を浮かべている。時間が流れ去っていったのだ。あれほど幸せだった時間が、僕達の間にあったこともあるのに。

 

 奈苗は何を考えていたのだろうか。秋の深い日に、小雨の中に、奈苗はこの山門の小さなやどりに、木立の中のバラついた雨のしたたりをきいていたのだ。そして僕も。

 

 あの時には通じた裏へのくぐり戸は、今日は堅く閉ざされて、ハイキングのグループの笑い声が響いて私の歩みをのろくする今日。

 

 思い出は決して立ちかえらないものだろうか、と考える。あの緊張した心の交流を、かすかな目まいが、その崩壊をもたらしてしまった。軽い心のあまえと、たゆたいが、この北鎌倉のこの道を私にとってブルーな思い出の場所にしてしまったのだ。明るすぎる庭をすぎて、いつも左足が次の段をふむようになっているこの石段を一人下りる。すれちがう二人づれの目の中に、あまりにも明るい光を見出して、目をふせた。

 

 光は、この梅雨の空に、似つかわしくなく強く照り返している。左手に小川の流れをみて、ぞろぞろとつづく人の流の中を、明月院への小さな道をたどる。

 

 花の中で一番すきな花は、やはり紫陽花。心がわりの花と人はいう。うすいかすかな赤みの中から、青みがだんだんましてきて、いつか、輝くコバルト色になるころ、その花の命は果てる。

 

 人ごみの中に、花たちは疲れた顔をあげて青く青く咲いている。もう今年も、彼らにとっては終わりなのだ。いつまでも続く、この真夏の人の流れも途絶えてしまった秋にかかるころ、かさかさした枯あじさいの時がくるのだ。花は枯れて、あの梅雨時の水々しさを失って、とおる風にかさかさと鳴る枯れた深みのある、あの茶色の群にかわるのだ。秋の風がそよがせて通る。

 

 あじさい寺は、二つの思い出があるのだ。奈苗が、絵のモチーフにするために、あの枯紫陽花を僕と一緒にもらいに来た、あの深い秋と、そして水々しい花のこの頃と。深い秋に、ちょうど梅雨の雨しずくを宿したあじさいの花のごとくに、あの枯れたあじさいを腕にして、雨粒のような涙をその目に光らせた奈苗。僕には、奈苗の心の苦しみが、胸をしめつける重い心が、さほど強くはひびいてこなかったのだ。

 

 心がわりは、あじさいの花ことばだけれど、私の心は、自分のまわりをつつむしあわせの空気に気づかず、遠くに目を転じていたころだった。愛は真剣な見つめ合いなのだ。紫陽花のうすい青に目を近づけ、その小さな花弁に浮く葉脈をみつめるように、みつめ合わなければならない。宿った水玉も、見逃すことなく、通る風に揺れ動く、その動きに合わせ、心を見つめなければならない。その真剣な凝視に飽いて、目をただ遠くに転じる時、はりつめた愛の緊張は、力なくしおれていく。

 

 奈苗は、遠く転じられた私の目を、見続けていたのだ。不安と、希望と、それにともなう苦悩が、不幸が、やせっぽちの奈苗の心と、体をおそって、奈苗の目に涙の粒がいくつか宿っていたのだ。まじわらない見つめあいの中に、みつづけた奈苗は疲れていた。紫陽花は、その青みの梅雨の頃をすぎて、なえて、しおれて、いつか、あの茶色な枯紫陽花になっていく。滑りやすくなった石段を、振り返りながら下っていく時、奈苗の指が私の腕にあった。

 

 あつい日ざしの時間を歩いて、建長寺をすぎる。円応寺の小さな石段は、扉を閉ざした閻魔堂につうじる。かすかな線香の香がながれて、悪戯っぽい目つきを思い出させる。安産の仏は、その時の僕たちの心には、近くひびかなかったけれど、その悪戯っぽい目の中に、奈苗の遠い先の明るい希望がひそんでいたのかもしれない。山門のところの風は心地よくつめたい。

 

 永久に幸福であることはできない。しあわせは、一瞬一瞬に飛びかう短い時間の中に存在するのだ。ただその瞬時のしあわせの中に、そのしあわせの永続性を願う心がある。

 

 今日につづく、昨夜の二人の秘密が、私の心に、たまらなく奈苗をいとおしく思わせた。そのいとおしさのあまり、奈苗の腕をとり、二人は池に広がる小雨の水面を見つめていた。胸にみちあふれてくる熱いものが心を圧倒し、唇を噛みしめさせた。

 

 そんな思い出が、あつい日の光の中、近代美術館のテラスにすわる今日の私の心に沸きあがってくる。今の私の目は輝いてはいない。光を失った疲れきった目だ。けだるく、足下から疲れがはいあがってくる。

 

 鳥居屋の風鈴は、浜へ歩む私の耳におとずれて、夏のくることをおしえてくれる。

 

 浜、海、台風の近づく浜は、白い大波が、いくつもいくつもおしよせて、唇に海の香りをおくってくる。

 

 そう、奈苗は枯れた紫陽花の花束をもって、僕の前を、海に向かって、どこまでも歩んでいくかのように、歩いていった。秋の海には人影もなく、浜には、波と、奈苗との無言の対話が流れた。奈苗の振りむいた顔は自信なくほほえんでいたけれど、そのほほえみは、私のたった一言で、たとえ、それがどんな言葉であろうと、失われ、真剣な、もっと必死な凝視にかわるだろうと思われる、どこかひきつれた不確かなほほえみだった。

 

 

 

 その私の言葉から、私の心を知ろうとする必死な思考の深みへ、自信のなさの混乱の思いの中へ身をおこうとする奈苗だったのだ。見つめ続けたそれらの日々が、一番恐れている二人の現実の姿を知る日に至るという不安な予見を感じつつ、奈苗は、そうでないことへの祈りの中に、私の目と、言葉を待っていたのにちがいないと思うのだ。

 

 見つめることを怠った私の心は、かなしみの中に入り込み、苦悩に対峙している奈苗の後姿を透視することもできず、ただ、奈苗の後姿と、その先にうちよせる波を、夕陽を、漠然と見ていたのだった。

 

 遠くを見ていた目を奈苗に戻したとき、すでに、奈苗の心は、枯紫陽花の姿で、私のもとを離れ、迷いの、絶望の世界を、その後姿をみせて、ぽつぽつと歩みつづけていったのだ。

 

 今日も、鎌倉の浜に、台風の前ぶれ大波が数限りなくおしよせ、私の心の中に、過ぎ去った取り返すことのできない永遠の時間を思い出させている。

 

 

<この写真は、flikrからdichohechoさんの“枯紫陽花”をお借りしました>

 

Creative Commons ライセンスの“BY=表示”です

2.負けて残念、じゃんけんぽん( 1 / 1 )

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 アルバイト先の課長さんご夫妻が、2週間ほど旅行されることになった。

可愛がってもらっていた僕が、その間留守番することになった。

 

 場所は、大久保と新の久保のどちらから歩いても10分以内の位置関係。新宿に出るには好都合だ。友達を呼んでもかまわないって奥さんが、予備の夜具も用意してくれた。冷蔵庫には簡単に食べられるものまで、しっかり準備してもらった。

 

 谷中の寂しげなアトリエに比べるともちろん内湯もあり、ステキな時間が持てそうだった。特に何かを頼まれた記憶がないが、ベランダの植物たちに水をあげることだけは仕事だった。

 

 そんな時、高校時代の同級生で、僕たちのマドンナ的存在だったSKさんと新宿で会う事になっていた。けっこう立派なうちのお嬢さんで、女子大に通うために東京にいた。哲学堂の近くの、彼女と妹さんが住んでいたアパートには何度か遊びに行っていた。でも、もうSKさんには彼がいて、僕の出る幕はないと決めての友達付き合いだった。

 

 最近、彼と何だかしっくりしないなどと、相談されたりする間柄だった。新宿で会って、今留守番役をやってるんだって話したら、どんなマンションか見てみたいと言い出した。じゃ遊びに来るかって、気楽に案内した。

 

 どんな時間をそのマンションで二人が過ごしたのか、もう覚えてはいない。どちらにしても、清らかなものだったのは間違いない。

 

 夕方、もう帰る時間だということで、二人でぶらぶら大久保駅までの道を歩いていた。なんとなく、名残惜しいって気がするお互いだった。

 

 

 果物屋さんの明るい店頭で、何か美味しそうな果物を見つけて買いたいなって思った。でも一人でマンションに帰って食べるのもつまらなくって、どうだ今夜、あそこに泊まっていくかって僕が聞いた。SKさんは、エッて顔をして、僕の顔をみた。瞬間、間があった。僕はじゃんけんして僕が勝ったら泊まっていく、負けたら帰るといった。

 

 

 彼女の顔に笑いが戻った。歩道で、二人立ち止まって、大きな声でじゃんけんぽんと言いながら、手を出した。僕の負けだった。真剣な顔だったと思う。

 

 しょうがないか…って言って、また二人で駅のほうに歩みだした。もう一回って言いたい気持ちを押し殺して、僕は歩いた。そして駅で別れた。一人、マンションに帰って残念でしたと自分に言った。

 

 SKさんはその後、テレビ朝日の前身のNETにアナウンサーとして入社した。六本木の、今のテレビ朝日のある場所に、彼女を訪ねたことが何度かある。好きな気持ちはあったけれど、その後も相変わらずの友達付き合いで終わってしまった。

 

 年賀状のやり取りがその後も続いていたが、いつかSKさんは神戸に帰って結婚していた。

 

 その後、妹さんから便りが来て、交通事故で亡くなったと教えてもらった。

 

 親友のTも憧れていたから、ウンと後になってこのじゃんけんの話をしたら、バカだなー、何度でもじゃんけんすればよかったのに、と言われた。そうだったなあと思ったけれど、本当に後の祭りだった。

 

 あのじゃんけんに勝っていたら、もっと別の僕のその後があっただろうなって思う。あれは、本当に大変なじゃんけんだった。

3.A級ライセンスの助手席に座ってみると( 1 / 1 )

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新しい足跡が新宿から始まったのは自然だった。紫陽花の後のことだ。

ひとりぼっちの歩みは、ヤッパリチョッコリつまらないものだった。急に思い出して電話して呼び出せるような人はいなかった。自分で新しい場所に自分を置くのが自然だった。

 

紀伊国屋書店が新しいビルをつくって、新しい空気を新宿通りに創ったのは1964年だった。本屋さんにホールを作ったり、画廊を作ったり、喫茶店を店の中に作ったり、一階とか二階に個人の特色がある店を招いたりした。

 

それは、神田・神保町の三省堂とか、古本屋街とは違った新しい人たちを呼び込んだ。○I○Iが今のヤング館を作って、新宿に月賦屋さんのイメージを大きく変える新しい店を作ったのもその頃だったと思う。

 

その○I○Iの裏口を右に出て、正面にアリゾナという店があった。しっかり覚えていないけれど、アリゾナとしておく。

 

基本的には、スタンド・バーで、カウンターの中に店の人がいてサービスをしてくれる。サボテンの絵があったような気がしている。とにかくアメリカの西部のような雰囲気を売り物にしている店だった。女が売り物ではなく、男の人もカウンターの中にいた。気取った感じではなくて、気楽な感じで食べ物も出していた。

 

その店に色の白い、でも健康でけっこう肉付きのいい感じのバー・マンならぬ、女の人がいた。感じのおもしろい人で、小型のテンガロン・ハットの黒いのをかぶっていて、ワイン・レッドのベストがよく似合う人がいた。何回も通っているうちに話をするようになった。ホントの名前は、覚えていない。僕はアコさんとよんでいた。だんだん冗談も言い合うようになっていった。

 

いつだったか彼女が兄貴と呼んでいる男の人と一緒に住んでいる、代々木上原の家に招ばれて、下手なマージャンを一緒にした記憶がある。ホントに兄貴だったかどうかは定かではない。

 

親しくなって、ドライブに誘われた。その頃、僕はまだ免許を持っていなかった。行き先は、江ノ島。

 

自分の車を持っている人って、すごく少なかった時代だ。普通の人がなんとか車を持てるようになったのは、僕が就職してしばらく経って、ホンダ800とかパブリカが出てきてからだから、それ以前に車はなかなか持てる様な物ではなかった。

 

アコは、A級ライセンスを持っているといっていた。とにかくレースをやるんだと言っていたから、へーって信じていた。女性が免許を持っている事だって、不思議な気がした。車は、その頃ルノーと技術提携して日野が作っていたコンテッサ、貴婦人という名前のFR車だった。エンジンルームを開けてみると、小さなエンジンがちょこんと乗っかっている感じだった。そういえば、ビートルとよく似たルノーの車も同じような構造だった。

 

助手席に乗っけてもらって、江ノ島までけっこうなスピードで運転するアコを羨ましく見ていた、自分を思い出す。旧東海道の雰囲気を残す戸塚の松並木を過ぎて、左折して遊行寺の坂を下る。藤沢橋を曲がって江ノ島だ。

 

江ノ島で、どう時間を過ごしたのか覚えていない。僕に悲劇が起こったのは、帰りがけだった。藤沢橋のたもとのガソリンスタンドで給油することになった。アコは、ちょっとトイレ…とかいって、車を離れた。

 

僕は、チョコンと助手席に座って待っていた。スタンドの人が、ちょっと車を動かしてもらえますか、次の給油があるので…といわれた。エッと、答えにつまった。僕は、この車をどうやって動すのかを知らなかった。僕は運転できないのですが…といった時、スタンドの人の目がエッと動いた。仏丁面をして、店の人が運転してスタンドの一番端っこに止めた。

 

何だ、女に運転してもらって、てめえは運転もできないんだ、といっているように思えてならなかった。ちょっとバカにされた感じだった。しばらくしてアコが戻ってきた。僕たちは、東京に向かって帰り始めた。

 

別のある時、コンテッサに乗って、夜、多摩川堤をドライブしていたら、思いがけず、ちょっと試してみようかとアコが言った。何の事だかわからなかった。アコは持っていたグランドマットを持って、多摩川の河川敷の芝生にそのマットを敷いた。二人で、唇を合わせ、抱き合い、まさぐってみたけれど、アコはカラカラ。そのうち二人とも吹き出してしまって、ダメに終わってしまった。

 

アコとは長く友達だったが、お嫁にいくとか言って、突然水戸へ帰っていった。結局、女性レーサーにはならなかったようだ。

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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