女性たちの足跡

5.宮益坂あたりの記憶( 1 / 1 )

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 ほとんど毎日、バイトで宮益坂を半分あたりまで登っていた。この坂は、渋谷駅の向こうにある道玄坂に比べればかなり地味で、食べ物屋の少ない事務所の多い単なる青山に登る道でしかなかった。

 

 そんな所だから、昼飯を食うとなるといつも困った。宮益坂に出ても、サンドイッチを食わせる喫茶店とか、蕎麦屋さんが一軒くらいしかなかった。渋谷の駅まで降りることもあったが、めんどくさいので、みんなで近くを探索することになる。宮益坂の上にはいくつか店もあったが、登りたくもない。

 

 横に出てみると児童館のある坂になる。その坂道の途中に、夜はいわゆる「バー」に変わる小さな喫茶店があった。昼時の客のために、そこも軽食を出していた。そこにバイトで、YYさんがいた。

 

 僕は結構人見知りするほうだから、(友人はそうは思っていない。本当は自分を奮い立たせて、初対面の人とは話しているのだが…)簡単に話しかけられるような感じでは、最初はかった。

 

 結構美人で、仕事の先輩や同じバイト仲間と2~3人で昼飯を食いに出かけるようになった。しかし、YYさんと話をする間柄になるには時間がかかった。なんとなく間を取り持ってくれたのは、その店のちょっと太目のオーナー兼ママだった。店の名前はもう覚えていない。

 

 YYさんは、女性のみでアマチュア・バンドを組んでいて、そこでドラムをたたいていた。まだまだ、女性だけのバンドは現れていなかったし、ドラムなんてやる女性はほとんどいなかった時代だ。僕の悪いくせで、才能がありそうだと、急に近づいてみたくなる。

 

 昼間だけではなく、YYさんがバイトしている特定の夜にも、僕はその店に現れるようになっていった。学生の身分で金がないから、そう頻繁には出かけられなかった。この店で初めてブラックライトに出くわして、驚いた記憶がある。薄暗い店に、白のワイシャツの袖口が紫色に浮き出して見えるのだ。まさにナイトクラブの雰囲気だった。

 

 そんなこんなで、だんだん親しく話すようになった。見場は美人で派手なのだが、中身はしっかりした人だった。僕よりすこし、年上だったかもしれない。

 

 その年のXmasパーティを大学の仲間たちと企画しているとき、その店を使うことを僕が提案した。何人かで、下見に行ったと思う。ママは大乗り気で、YYさんも大賛成。自分のバンドを連れてくると約束してくれた。有料で、といっても今の金で3~4千円くらいの会費を取って、その店を一晩借り切ってパーティーをやった。大学の仲間2~30人が中心で、他にはアルバイト先の偉い人の秘書さんも来てくれて、賑やかな思い出になった。今でこそ、学生たちが自分でパーティを開いたりするのは普通だけれど、その頃はまだとても斬新な企画だった。

 

 そんな経緯もあって、YYさんとは外でも軽いデートをするようになっていった。でもその頃は、男と女の関係って、今ほど簡単なものではなかったから、抱あって唇を合わせるくらいが上出来だったところだ。何度か、渋谷橋で都電に乗って、赤羽橋の彼女の家まで夜遅く送っていったものだ。

 

 彼女のお袋さんには、僕はちょっと睨まれていたと思う。古くからの畳屋さんで、しっかりものの職人さんの家だ。訳のわからない学生との付き合いなんかにうるさいのは当たり前だったのだと思う。

 

 その後大学を終えても、時には渋谷まで出かけていたけれど、いつか疎遠になっていったのは、このお袋さんの存在あったように思う。就職した会社の最初の年の赤坂でのXmasのパーティにもYYさんを連れて行った位だったから、僕もまんざらではなかったのだが…。

 

 日本を離れていて、3年ほどたってから赤羽橋のうちに電話したら、お袋さんが出てきて、YYさんは結婚して家にはもう居ないと聞かされた。

 

 これが、宮益坂のバイト先のあたりであった、チョット寂しげな僕の思い出です。

 

(このスケッチは、小田切通安さんの「イラストスケッチ展示室」から、ご本人の了解を得て借用した「三竹の児童館」のスケッチです)http://www.h2.dion.ne.jp/~otagiri/portfolio(sakuhinten).htm

 

P.S.

その後偶然、その店の名前は、ニューオーリンズだと判明した。

6.雪の大岡山( 1 / 1 )

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 最近は少なくなったけれど、3月の東京に雪が降るってのは、しょっちゅうだった。特に、春分の日を過ぎあたりがあぶなかった。車が30センチぐらいの雪に埋もれたことだって記憶にあるし、山の手線だって雪で一時運休ってことだってあった。

 

 あの夜もそんな雪が降り続いていた。

 

 深夜もう電車がなくなって、大岡山のOさんのアパートから、僕は雪の中を歩いて帰っていた。東急線も、最近いろいろ名前が変わったりしているけれど、大井町線の大岡山から二駅、自由が丘の僕のアパートまで、夜道、雪に足をとられながら、かじかんだ手をポケットに突っ込んで歩いていた。

 

 Oさんは、僕が使っていた偏頭痛の特効薬を作っているスイスの会社の青山にあるオフイスに勤めていた。歳は僕より6~7歳は上だったと思う。小柄の、でも目に力のある人だった。

 

 知り合ったきっかけは、そのスイスの会社が毎年作っている、月ごとの見開きスケジュールの美しいブルーの手帳。向こうでは、薬を処方してくれる医者から手に入れていたのだが、日本に帰ってくると、そんなカレンダーなんてありはしない。いろいろ探してみたが、だいたいそんな形の手帳そのものが、その頃の日本になかった。

 

 僕は、スイスの本社に手紙を書いた、手帳がほしいので送ってくれないかって… でも、何ヶ月も音沙汰はなく、歳も明けていた。僕はもう諦めていた。

 

 と、ある日、ちょっと厚みのある封書が届いた。その会社の青山の事務所からだった。開けてみると、ほしかったブルーの手帳が入っていた。その送り状を書いてくれたのがOさんだった。スイス本社の指示で、この手帳を送りますとあった。しっかりとした文字で綴ってあった。

 

 すっかり喜んだ僕は、すぐに青山のオフイスに電話してOさんを呼び出した。落ち着いたアルトの声が応えた。僕は、一面識もないOさんに、若さに任せてぶっきらぼうにクラシックはお好きですかと訊ねていた。ハイと答えを貰った。お礼にチケットを送りますがいかがでしょうかと僕はかさねて訊ねていた。

 

 こうして、東京文化会館の音楽会の開演前に、はじめてOさんに会った。何の公演だったかなんかはもう忘れている。

 

 でも、とにかく僕はOさんと知り合った。

 住まいも、大岡山と自由が丘、お互いに近かったのも偶然。独身の僕は、自由が丘を中心にOさんと一緒に食事をしたり、チョッと飲みにいったりし始めた。彼女はフランス語ができた。あこがれた。20歳の半ば過ぎの僕にとっては、彼女は本当にしっかりした初めての30過ぎの年上の女性だった。でも彼女はどちらかというと、引いた感じだったのだが…。次の冬には、大岡山のアパートまで送っていくような親しい友達になっていた。

 

 その雪の日も、どこかで飲んでOさんを大井町線で大岡山まで送っていったのだと思う。大岡山の駅から左に、東工大の柵に沿ってチョッと歩くとすぐの小さなアパートの2階に部屋を借りていた。大人の女の人の部屋に入るのは、それが初めてだった。未経験の濃密な女性の気配がした。湿度のある空気がその部屋を満たしていた。

 

 部屋で飲んでいて時間がたって気がついてみると、外はしんしんと雪が降り積もっていた。そして、電車はもうなかった。タクシーなんてさがせない雪だから歩いて帰るしかない。僕は普通の靴で、雪道に滑りながら、雪に降られながら自由が丘まで帰ってきた。

 

 アパートに入れば、暖かくなれると僕は、鍵を探した。が、ない。全てのポケットを探したけれどない。不幸にも、大家さんはそこには住んでいなかった。

 

 大岡山のアパートに落としてきたのかもしれないと思った。でも、もう真夜中過ぎだから、呼び出し電話はかけられない。もう一度歩いて行くしか方法はなかった。帰ってきた道を雪の中、自分自身に恨み事をいいながら、どこかに鍵が落ちていないか探しながら、寒さに震えながら大岡山に戻る羽目になった。

 

 Oさんは僕が雪まみれになって、戻ってきたのでびっくりしていた。でも、そこに鍵はなかった。

 

 もう今夜はしょうがないから泊まっていけば…と言ってくれた。震えていたに僕は、ありがたかった。しかし、予備の夜具は少なかった。寒かった。疲れているのになかなか眠りに入れなかった。緊張していたのだろう、きっと。

 

 しばらくして、ベッドにいるOさんがこっちに来るって声をかけてくれた。僕はありがとうとOさんのベッドに入った。後は、もう男と女の体の挨拶しかない。初めて年上の女の人に接した。少しやせぎすな感じの体だった。Oさんのカサついた、乾いた唇が印象的だった。

 

 これが、雪の大岡山の思い出。こうして始まった大岡山通いは一年ちょっと続いた。いわゆる愛人、アマンって関係だった。

 

 そんな話は聞いたことがなかったのだけれど、ある日、Oさんは近くパリに引っ越すんだって僕に告げた。そして、だれか見つけて、結婚したら、って僕にいった。こんな生活、続けてちゃいけないよって言っているのがわかった。Oさんは旅立ち、大岡山の僕の物語はこうして終わった。

 

 確かにその後、僕は結婚のことを考えはじめたのだから、Oさんの一言は効いたのだ。

 

 それから大岡山の駅に降りることは二度となかった。

 

 

P.S.

先日、久しぶりに自由が丘で東横線をおりた。自由が丘ではたいていは駅を右におりて街を歩くのだが、懐かしくなって、大井町線をわったって、昔のアパートの方まで歩いてみた。もちろん僕のアパートはもうなかった。

 

<この写真は、flickrからDan Zemさんの“雪の階段”をお借りしました>

 

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7.芝公園のプール( 1 / 1 )

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 皆さんは、「しりとり」って遊びをしたことがありますか? 実に単純な遊びです。けっこう長く遊べます。

 

 アッペは、僕の高校時代の二年後輩。

 

 その頃、僕は高校の演劇部で第一回の自主公演をやろうとプロジェクトを立ち上げて、芝居ができない演出家をやっていた。しかも、高校生の演劇部としては不釣合いな太宰治の作品を取り上げて、受験勉強をほっぽりだして熱中していた。その演劇部に、新入生の新人としてアッペは入ってきた。

 

 どことなく大人っぽくて、田舎には珍しく東京弁でしゃべる彼女は目立っていた。目のきれいな、センスいい、きれいな女の子だった。神戸に近い、その田舎町の名家の娘で、姉がアメリカ人と結婚して、ジャネットというミックスを僕に会わせてくれた。とてもかわいくって、ジャネットの虜になった。と言っても、ジャネットはまだ小学生くらいで、好きというレベルにはあまりにも若すぎた。

 

 でもそれが、僕が英語を話したいと強く思うきっかけだった。その頃、生の英語はFENで聞くしかなかった。とにかくジャネットと話したいと思って、学校の英語は別にして、FENにおぼれていった日々だった。

 

 アッペは演劇部の新人で役は振れないから、しかたなくプロンプターの役割にした、きれいな標準語はうってつけだった。

 

 僕が、僕の中にあるアッペへのけっこう熱い気持ちに気が付いたのは、僕の卒業間近になってからだった。アッペは、ずっと僕にシグナルを出してくれていたのだけれど、僕はそれに気がつかなかった。

 

 その頃の僕の憧れは、いつだったかこのブログに書いた「負けて悔しいじゃんけんぽん」のSKさんだった。結果的には、彼女ともプラトニックな愛で終わったのだが、高校三年の頃は、アッペにたいして自分の気持ちが動いているなんて、全く気が付かなかった。しかし、アッペが本当の僕の初恋の人だったのだ。

 

 どういう経緯だったか覚えていないが、いつかアッペの家に遊びに行くようになっていた。弁護士だった親父さんは亡くなっていて、お袋さんが税理士の仕事をして稼いでいた。僕の東京弁も、おふくろさんには懐かしかったのかもしれない。

 

 卒業が目の前に迫ったとき、アッペの部屋で、なれない唇を重ねるベーゼというものをしていた二人が見える。アッペの部屋の窓からは、元城址だった小さな山の斜面が見はらせた。僕たちは唇を重ねるほかには、さらに進む方法も、何をすれば気持ちが伝えられるのかも分からなかった。抱きあって、はじめてのキスをしているだけだった。

 

 高校時代は終わり、僕は大阪の大学に入ったのだが、安保で学校をやめて東京に一人で出た。それからアルバイトをしながらの学生の時間、生活が続いた。

 

 アッペとは、その後は連絡も取らず、彼女が東京の経済系の大学に入ったと噂に聞いていた。特に会いたいとも思わなかった。高校三年のあの感情はなんだったのか分からない。

 

 だが、偶然が僕たちを引き合わせた。ある日、渋谷駅で山手線を待っていたら、どこかで見たことがある女の子が同じホームにいた。はじめは思いつかなかったのだが、目があったので、アッペと声をかけてみた。アッペはビックリして僕の名前を口にした。

 

 それから、連絡が取れるようになったのだけれど、彼女は東京のアメリカの企業に勤めていたが、その後、大阪に別の仕事を見つけて東京を離れた。

 

 それから何年後だったはっきりしないが、アッペが東京に出てきた時には、何度か食事したような気がする。でも彼女が、はっきりと僕の目の前に立つ日がくるとは思っていなかった。

 

 あれは、僕がそろそろ結婚しようかなと、心を決めた頃だった。そんな話をアッペにもしたようだ。もう、渋谷駅で再会してから67年たっていたと思う。

 

 アッペは、東京に行きます、時間をあけておいてくださいと僕に連絡してきた。彼女は、その後焼け落ちた「ホテル・ニュージャパン」に宿をとっていた。僕は彼女に会いに赤坂見附に出かけた。

 

 僕に、アッペはハッキリとは言わなかったのだけれど、初恋の私のことちゃんと覚えてくれているのと、僕の結婚に疑問を持っているような話しをした。あぁ、僕はアッペに、ちゃんとおとしまえをつけていなかったのだとやっと自覚した。僕の中では、高校生のいわゆる初恋、恋愛ごっこみたいにしか思っていなかったからだ。

 

 その夜、二人は新宿と渋谷でかなり飲んだ。けっこう酔っ払ったアッペは一人では赤坂には帰りたくないと、駄々をこねた。僕は、その頃、自由が丘のボロアパートに姉といたから、泊まらせるわけにはいかなかった。かといって、深夜に赤坂までアッペを送っていくのは面倒と思ったのだと思う。

 

 昔、渋谷でバイトをしていた会社の前に、いわゆるラブホテルがあるのを知っていた僕は、じゃあそこに泊まりに行こうとアッペに肩を貸して宮益坂を上っていった。

 

 判然としない記憶の時間があって、気が付いたら、アッペの小さなパンティがバスタブの底に揺らいでいた。どこかに、最初で最後っていう気持ちが二人にはあったのだと思う。あぁ、男と女の世界に入り込んだんだと、ちょっと残念だった。それが何故、残念だったのかわからない。

 

 その日の午後、二人は芝公園のプールで水着のまま、昼寝をかねて布のデッキ・チェアーに横たわりながら、半分寝ぼけてしりとりを何時間もしていた。前の夜のことは、二人とも口にしなかった。これが初恋の人としての結末だった。

 

 その後、僕は決めていた人と結婚した。

 

 アッペとその後会ったのは、さらに20年ほどたってからだった。その間に、彼女はシングル・マザーになっていた。どことなく正体不明のコンサルの会社を作って自分で経営していた。アッペの娘、A子ちゃんは小学2年生でかわいくて、しかも父親がいないから淋しくて、僕と会うと甘えた。A子ちゃんと一緒にゲームで遊んだり、行きたがるファミレスに連れて行くために、何度、田園調布のアッペの小さなアパートまで足を運んだかわからない。

 

 そうしているうちに、アッペは行方不明になった。経営が苦しくなったのだろう。逃げ出したのだ。

 

 やっとアッペの住処を見つけたのは数年前。グーグルのおかげ。行方不明になってから、もう20年くらいが経っていた。アッペの名前で検索したら、新しい事務所を起こしていた。メールしたら、ビックリして、近くにいらしたら、お会いしたいわ、って言ってきた。かわいかったA子ちゃんは、今は法科大学院で司法試験にチャレンジ中と言う。

 

 先日、自由が丘でアッペと食事をしてきた。なつかしいモンブランの喫茶室で待ち合わせ。A子ちゃんは、司法試験の準備でとても、出てこれないって言うわけで二人きり。ちょっと残念。アッペはその夜、食事の時間を含めて4時ほど話しっぱなし。僕は聞き役。少し太めになったけど、高校一年生の頃の目の輝きは、まだちゃんと残っていた。

 

 食事を終わると、僕の好きな色がいっぱいの、僕のイニシアルを入れたフェィス・タオルをプレゼントしてくれた。彼女が苦しかったとき、すこし金を貸していたから、なんとなくお返しをしたかったのだろうとも思う。でも、よく僕の好きな色を覚えていたものだ。

 

 くたばるまでに会っておきたい人たちのリストに、一つ、○印がついた。

 

昨日、僕のタオルがくたびれて、この新しいタオルが洗面のタオル掛けに登場した。また何時、アッペは姿を隠すか分からない。そんな人だ。

 

 芝公園プ-ルのしりとりの夏が、今も鮮やかに思い出される。

 

<これは、ガリ判刷りで作った当時の脚本です>

8.残酷な記憶( 1 / 1 )

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 自分の過去の行動のなかに、誰かに対して、残酷だったなぁと反省することはないだろうか。僕にはそれがある。

 

 若い日の残滓のように、僕の心に残る記憶がある。長い間、連絡も取らずに過ごしてきたから、先が見えてきたからといって謝るすべもない。また、謝るべきことなのかどうかも分からない、そんな記憶がある。

 

 あれは、僕が大学の学生の頃から、僕が結婚するまでの間のことだった。

 

 あの人は、僕が高校3年生になったころの高校の一年後輩。何が二人が話すようになったきっかけだったのかは覚えていない。彼女は高校2年生の頃から、天才ピアニストとして、その小さな町では名前が知られた存在だった。仮にYさんとしておこう。

 

 ひとつだけぽつんと独立して建った音楽堂で一人、ピアノを夕暮れになって、薄暗くなるまで弾いていた少女の姿が、ボゥと浮び上がる。僕は、ピアノは憧れだったけれど、自分では弾けなかったから、尊敬の気持ちでYさんのピアノを、その薄暗い音楽室で聴いていた。ずっとクラシックばかりを聴いて育った僕の耳にも、それは普通の高校生のピアノではなかった。才能の予感をさせる響きだった。

 

 僕とYさんは、高校時代に特別親しかったわけではない。どちらかというと、ピアノに没頭するYさんに、僕がすごいなぁと目を向けていたというレベルだった。時がたって、Yさんは、その頃はまだ珍しかった私立の音楽大学の付属高校に引き抜かれて、その高校を去った。

 

 僕が大阪の大学に入った頃、彼女の音楽大学の学内のリサイタルを聴きに、一度その大学まで行ったことを覚えている。二人は、ピアノの天才少女と、一人の普通の大学生とのつながりに過ぎなかった。

 

 しかし、僕が東京の大学に転校したときから、Yさんとの距離は近くなった。

 

 僕は貧乏学生で、早稲田のTの下宿、中野・鍋屋横丁のNさんのアパート、親父の谷中のアトリエに仮住まいをしたり、姉夫妻が借りていた川口のアパートに転がり込んだりと、住みかがしょっちゅう変わった。

 

 そんな頃、Yさんは東京に現れ始めた。はじめは僕が大学の2年ぐらいのときだったろう。ふらっと、東京の僕の前に現れた。ピアノ関係のイベントにでも関連してきているのかと思ったら、そうでもない。

 

 少し天然のボゥとしか感じで、ハキハキしゃべる東京のほかの女の子達に較べると、何かゆったりした時間に住んでいる様だった。少し目じりの下がった大きな目と、いつもぬれた瞳が思い出される。関西弁のまろやかさも、そうした印象を強くしていたのかもしれない。

 

 最初は、東京まで、大阪から新幹線での日帰りだった。

 

 その頃、僕は初恋のJ美のNさんとの別れを自分で作り出し、その後は、T美卒の白鬚橋の向こうにすむグラフィック・デザイナーと「Fugetsudoで別れ」、大学では、Nさんとの別れのきっかけになった、とにかく少女のように純真なMOさんとも別れ、そのあと親しい女性はいなかった。高校時代のマドンナ的な存在だった、「じゃんけん」で負けたSKさんとも、チャンスを失って、全くの空き家だった。

 

 Yさんは、3ヶ月に一回くらいの割合で、東京まで来ていた。でも、日帰りはかわいそうな気がしてきて、狭い僕の部屋にでも泊まっていくって訊いたら、頷いた。

 

 僕は、彼女は嫌いではなかったけれど、男と女の関係になろうとは、全く思っていなかった。まぁ、イヤでなければ、僕と一緒の部屋だけど、2組、布団を敷けば、なんとか寝られないことはないと思ってそう言った。

 

 Yさんは、東京で何をしていたのか、僕はどう付き合ったのかは全く覚えていない。ただ、Yさんが僕に好意を持っているのが、だんだん分かり始めていた。もしかしたら、Yさんは僕に会いに、大阪から時々出かけて来るじゃないかって、分かり始めた。それは、僕には不思議な感覚だった。

 

 2人きりで、何度かの夜を一緒の部屋で過ごしたら、彼女もパジャマ、僕もパジャマ。隣り合って横になれば、なんとなく、深みに入るのが当たり前のような感じだったと思う。

 

 でも、僕は白鬚橋のデザイナーとの別れ以降、いい加減な気持ちで男と女の関係にはなってはいけないと、どこか心の中で決めていた。

 

 だから、Yさんと二人だけで一緒に寝ても、男と女の行為ははじめなかった。せめて、好意はあるよと示すつもりで、彼女を抱いて、僕の上に乗っけて、背中を撫でていたことが鮮明に思い出される。Yさんの柔らかい、温かい体が、うつ伏せに僕の体の上にあった。ゆりかごのように、緩やかに僕は体を揺らしていた。

 

 そんな関係が、僕が「大岡山」の年上のOさんから、もう結婚したら、と助言を受けるまで何年も続いた。この間、僕は就職しYさんもプロの音楽の世界にすみ始めていた。まあ半年に一度くらのYさんの上京が続いていた。

 

 結果的にはその結婚に失敗したのだが、僕が結婚をするという話をYさんにしたのは、僕の結婚の半年くらい前だったのだろうか。Yさんは上京してきた。その頃、僕は姉のアパートにいた。

 

 最後の上京の時、二人で一つの部屋に寝て、Yさんは涙ぐんでいた。僕は彼女を僕の体の上に乗せ、やはり背中を撫でていた。Yさんは何も言わなかったけれど、彼女の気持ちはあきらかだった。でも、僕にはそれ以上の行動はとらなかった。いや取れなかった。

 

 これは、彼女にとっては、ひどく残酷なことではなかったかと、その後ずっと思っている。

 

 その後、音信は途絶えた。

 

 あれから、30年以上がたつ。きっと、あれはYさんにとって、残酷な行動だったのではないかと、ずっと気にかけていた。

 

 僕は、このわだかまりをくたばる前に、解いておきたいと思った。Yさんが、その後、幸せな生活をしていて、音楽の世界も続けていると判れば、それでよかった。

 

 事情を理解してくれて、古い同窓会名簿を検索してくれる人がいて、最近、Yさんの消息がやっと分かった。Yさんは、結婚して3人の男の子の母となり、そして今も、プロとして音楽の世界にいた。若い時の、あの残酷な二人の夜のわだかまりが、僕の中ですっと解けた。

 

 あれはたしかに残酷だったけれど、あれはあれでよかったのだと、なんとなく納得している自分がいる。

 

 絵描きさん、デザイナー、音楽家、A級ライセンスのドライバー、女の子だけのバンドのドラマーとか、どちらかと言うと特異な女性達が僕の周りにいた。

 

 でも、どんな女性でも、その後を見てると、結婚に関して、みんな必要充分条件を満たしてんだと気づかされる。

 

 あれは残酷なことだったのだろうかとの謎は、今も解けない。

 

P.S.

最近、ご本人からこのエッセイを読んだ感想をいただきました。

「拝読。谷中のアトリエ、チャタレイ夫人、西川口、追分便り。 忘れられないことばかり。 おやすみなさい」

 

<この写真は、flickrからSzieaさんの“Grand Piano”をお借りしました>

 

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徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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