女性たちの足跡

3.A級ライセンスの助手席に座ってみると( 1 / 1 )

03コンテッサ.jpg

 

新しい足跡が新宿から始まったのは自然だった。紫陽花の後のことだ。

ひとりぼっちの歩みは、ヤッパリチョッコリつまらないものだった。急に思い出して電話して呼び出せるような人はいなかった。自分で新しい場所に自分を置くのが自然だった。

 

紀伊国屋書店が新しいビルをつくって、新しい空気を新宿通りに創ったのは1964年だった。本屋さんにホールを作ったり、画廊を作ったり、喫茶店を店の中に作ったり、一階とか二階に個人の特色がある店を招いたりした。

 

それは、神田・神保町の三省堂とか、古本屋街とは違った新しい人たちを呼び込んだ。○I○Iが今のヤング館を作って、新宿に月賦屋さんのイメージを大きく変える新しい店を作ったのもその頃だったと思う。

 

その○I○Iの裏口を右に出て、正面にアリゾナという店があった。しっかり覚えていないけれど、アリゾナとしておく。

 

基本的には、スタンド・バーで、カウンターの中に店の人がいてサービスをしてくれる。サボテンの絵があったような気がしている。とにかくアメリカの西部のような雰囲気を売り物にしている店だった。女が売り物ではなく、男の人もカウンターの中にいた。気取った感じではなくて、気楽な感じで食べ物も出していた。

 

その店に色の白い、でも健康でけっこう肉付きのいい感じのバー・マンならぬ、女の人がいた。感じのおもしろい人で、小型のテンガロン・ハットの黒いのをかぶっていて、ワイン・レッドのベストがよく似合う人がいた。何回も通っているうちに話をするようになった。ホントの名前は、覚えていない。僕はアコさんとよんでいた。だんだん冗談も言い合うようになっていった。

 

いつだったか彼女が兄貴と呼んでいる男の人と一緒に住んでいる、代々木上原の家に招ばれて、下手なマージャンを一緒にした記憶がある。ホントに兄貴だったかどうかは定かではない。

 

親しくなって、ドライブに誘われた。その頃、僕はまだ免許を持っていなかった。行き先は、江ノ島。

 

自分の車を持っている人って、すごく少なかった時代だ。普通の人がなんとか車を持てるようになったのは、僕が就職してしばらく経って、ホンダ800とかパブリカが出てきてからだから、それ以前に車はなかなか持てる様な物ではなかった。

 

アコは、A級ライセンスを持っているといっていた。とにかくレースをやるんだと言っていたから、へーって信じていた。女性が免許を持っている事だって、不思議な気がした。車は、その頃ルノーと技術提携して日野が作っていたコンテッサ、貴婦人という名前のFR車だった。エンジンルームを開けてみると、小さなエンジンがちょこんと乗っかっている感じだった。そういえば、ビートルとよく似たルノーの車も同じような構造だった。

 

助手席に乗っけてもらって、江ノ島までけっこうなスピードで運転するアコを羨ましく見ていた、自分を思い出す。旧東海道の雰囲気を残す戸塚の松並木を過ぎて、左折して遊行寺の坂を下る。藤沢橋を曲がって江ノ島だ。

 

江ノ島で、どう時間を過ごしたのか覚えていない。僕に悲劇が起こったのは、帰りがけだった。藤沢橋のたもとのガソリンスタンドで給油することになった。アコは、ちょっとトイレ…とかいって、車を離れた。

 

僕は、チョコンと助手席に座って待っていた。スタンドの人が、ちょっと車を動かしてもらえますか、次の給油があるので…といわれた。エッと、答えにつまった。僕は、この車をどうやって動すのかを知らなかった。僕は運転できないのですが…といった時、スタンドの人の目がエッと動いた。仏丁面をして、店の人が運転してスタンドの一番端っこに止めた。

 

何だ、女に運転してもらって、てめえは運転もできないんだ、といっているように思えてならなかった。ちょっとバカにされた感じだった。しばらくしてアコが戻ってきた。僕たちは、東京に向かって帰り始めた。

 

別のある時、コンテッサに乗って、夜、多摩川堤をドライブしていたら、思いがけず、ちょっと試してみようかとアコが言った。何の事だかわからなかった。アコは持っていたグランドマットを持って、多摩川の河川敷の芝生にそのマットを敷いた。二人で、唇を合わせ、抱き合い、まさぐってみたけれど、アコはカラカラ。そのうち二人とも吹き出してしまって、ダメに終わってしまった。

 

アコとは長く友達だったが、お嫁にいくとか言って、突然水戸へ帰っていった。結局、女性レーサーにはならなかったようだ。

 

4.Fugetsudoでの別れと白髯橋 ( 1 / 1 )

04白鬚橋.jpg

 

 

バイト先の室町の小さな会社の宣伝部に出入りしていた、某美大卒のグラフィック・デザイナーと付き合ったことがある。

 

少し丸顔の、少し太めの可愛い感じの色の白い子だった。その子のほうが積極的に近づいてきて、僕が気づかない間に距離を狭めていた。君の事が好きらしいよって、バイト先の先輩が僕に耳打ちしてくれて、あっそうなんだと思ったくらいだった。

 

僕は奈枝さん以降全くの空家だったし、バイトと学校で忙しくしていたから、適当にしか付き合えなかった。でも断りもしなかった。

 

家は下町、白鬚橋の川向こうの向島・寺島の町屋の女の子だった。気さくな家族に紹介された。その時はじめて向島百花園に行った。モダンなグラフィック・デザインを勉強するようになったのか不思議な環境だった。しかも、学生時代に日宣美で賞を取った才能のある子だった。僕には才能のある人にあこがれるところがあって、へーって感心して、うだうだと煮え切らないままで付き合っていた。

 

デザインでの仕事振りとは全く違って、性格的には自分でものごとを決められない、自分の意見がない、いつも誰かに頼っているって感じの子だった。それはそれで、可愛いと考えることもできた。

 

ある日、新宿の武蔵野館で洋画を二人で見た。映画はなんだったか、内容は覚えていない。帰りにいつものようにFugetsudoに入ってコーヒーを飲んで話している時、見てきた映画の筋について、その子がたずねてきた。僕はその前から、少し苛立っていたのかもしれない。自分で見てきたんだろ、人にたずねるなよ!って言っていた。

 

そういったとたん、急にその子のすべてが嫌になってきた。1960年初頭にエリック・バーン博士が確立したTA心理学でいう所の、「適応した子供」のパーソナリティの要素が全く欠けていた僕は、我慢することが全く出来なかったのだと後でわかった。自分を抑えることが苦手だったのだ。

 

何だか人に頼られることが嫌になっていたのだろうと思う。そのわずらわしさが前面に出てきたのだと思う。自分自身のない人とは付き合いたくないと強く思った。

 

今日を最後にして別れようって言っていた。その子の大きな目から、ポロリと涙がこぼれた。その子は、どうして…と言って、後が続かなかった。

 

僕としても、もうどうしようもない感じだった。僕の学生時代の初めてのセックスを経験した、その娘とはそこで別れた。これでFugetsudoは、僕にとってわびしい気持ちにさせる場所にもなった出来事だった。

 

この時、なまじ本気になれない付き合いは、決してすまいと自分に誓った。それからは、本気になれる女性が身近に現れなくなってしまったような気がする。それは、自分で自分自身にかけた呪術だったのかもしれない。

 

自分で迷い出た道は、どの方向に向かうのか全くわからなくなっていた。

 

5.宮益坂あたりの記憶( 1 / 1 )

 05児童館.jpg

 

 ほとんど毎日、バイトで宮益坂を半分あたりまで登っていた。この坂は、渋谷駅の向こうにある道玄坂に比べればかなり地味で、食べ物屋の少ない事務所の多い単なる青山に登る道でしかなかった。

 

 そんな所だから、昼飯を食うとなるといつも困った。宮益坂に出ても、サンドイッチを食わせる喫茶店とか、蕎麦屋さんが一軒くらいしかなかった。渋谷の駅まで降りることもあったが、めんどくさいので、みんなで近くを探索することになる。宮益坂の上にはいくつか店もあったが、登りたくもない。

 

 横に出てみると児童館のある坂になる。その坂道の途中に、夜はいわゆる「バー」に変わる小さな喫茶店があった。昼時の客のために、そこも軽食を出していた。そこにバイトで、YYさんがいた。

 

 僕は結構人見知りするほうだから、(友人はそうは思っていない。本当は自分を奮い立たせて、初対面の人とは話しているのだが…)簡単に話しかけられるような感じでは、最初はかった。

 

 結構美人で、仕事の先輩や同じバイト仲間と2~3人で昼飯を食いに出かけるようになった。しかし、YYさんと話をする間柄になるには時間がかかった。なんとなく間を取り持ってくれたのは、その店のちょっと太目のオーナー兼ママだった。店の名前はもう覚えていない。

 

 YYさんは、女性のみでアマチュア・バンドを組んでいて、そこでドラムをたたいていた。まだまだ、女性だけのバンドは現れていなかったし、ドラムなんてやる女性はほとんどいなかった時代だ。僕の悪いくせで、才能がありそうだと、急に近づいてみたくなる。

 

 昼間だけではなく、YYさんがバイトしている特定の夜にも、僕はその店に現れるようになっていった。学生の身分で金がないから、そう頻繁には出かけられなかった。この店で初めてブラックライトに出くわして、驚いた記憶がある。薄暗い店に、白のワイシャツの袖口が紫色に浮き出して見えるのだ。まさにナイトクラブの雰囲気だった。

 

 そんなこんなで、だんだん親しく話すようになった。見場は美人で派手なのだが、中身はしっかりした人だった。僕よりすこし、年上だったかもしれない。

 

 その年のXmasパーティを大学の仲間たちと企画しているとき、その店を使うことを僕が提案した。何人かで、下見に行ったと思う。ママは大乗り気で、YYさんも大賛成。自分のバンドを連れてくると約束してくれた。有料で、といっても今の金で3~4千円くらいの会費を取って、その店を一晩借り切ってパーティーをやった。大学の仲間2~30人が中心で、他にはアルバイト先の偉い人の秘書さんも来てくれて、賑やかな思い出になった。今でこそ、学生たちが自分でパーティを開いたりするのは普通だけれど、その頃はまだとても斬新な企画だった。

 

 そんな経緯もあって、YYさんとは外でも軽いデートをするようになっていった。でもその頃は、男と女の関係って、今ほど簡単なものではなかったから、抱あって唇を合わせるくらいが上出来だったところだ。何度か、渋谷橋で都電に乗って、赤羽橋の彼女の家まで夜遅く送っていったものだ。

 

 彼女のお袋さんには、僕はちょっと睨まれていたと思う。古くからの畳屋さんで、しっかりものの職人さんの家だ。訳のわからない学生との付き合いなんかにうるさいのは当たり前だったのだと思う。

 

 その後大学を終えても、時には渋谷まで出かけていたけれど、いつか疎遠になっていったのは、このお袋さんの存在あったように思う。就職した会社の最初の年の赤坂でのXmasのパーティにもYYさんを連れて行った位だったから、僕もまんざらではなかったのだが…。

 

 日本を離れていて、3年ほどたってから赤羽橋のうちに電話したら、お袋さんが出てきて、YYさんは結婚して家にはもう居ないと聞かされた。

 

 これが、宮益坂のバイト先のあたりであった、チョット寂しげな僕の思い出です。

 

(このスケッチは、小田切通安さんの「イラストスケッチ展示室」から、ご本人の了解を得て借用した「三竹の児童館」のスケッチです)http://www.h2.dion.ne.jp/~otagiri/portfolio(sakuhinten).htm

 

P.S.

その後偶然、その店の名前は、ニューオーリンズだと判明した。

6.雪の大岡山( 1 / 1 )

06雪階段Dan Zen flickr by.jpg 

 

 最近は少なくなったけれど、3月の東京に雪が降るってのは、しょっちゅうだった。特に、春分の日を過ぎあたりがあぶなかった。車が30センチぐらいの雪に埋もれたことだって記憶にあるし、山の手線だって雪で一時運休ってことだってあった。

 

 あの夜もそんな雪が降り続いていた。

 

 深夜もう電車がなくなって、大岡山のOさんのアパートから、僕は雪の中を歩いて帰っていた。東急線も、最近いろいろ名前が変わったりしているけれど、大井町線の大岡山から二駅、自由が丘の僕のアパートまで、夜道、雪に足をとられながら、かじかんだ手をポケットに突っ込んで歩いていた。

 

 Oさんは、僕が使っていた偏頭痛の特効薬を作っているスイスの会社の青山にあるオフイスに勤めていた。歳は僕より6~7歳は上だったと思う。小柄の、でも目に力のある人だった。

 

 知り合ったきっかけは、そのスイスの会社が毎年作っている、月ごとの見開きスケジュールの美しいブルーの手帳。向こうでは、薬を処方してくれる医者から手に入れていたのだが、日本に帰ってくると、そんなカレンダーなんてありはしない。いろいろ探してみたが、だいたいそんな形の手帳そのものが、その頃の日本になかった。

 

 僕は、スイスの本社に手紙を書いた、手帳がほしいので送ってくれないかって… でも、何ヶ月も音沙汰はなく、歳も明けていた。僕はもう諦めていた。

 

 と、ある日、ちょっと厚みのある封書が届いた。その会社の青山の事務所からだった。開けてみると、ほしかったブルーの手帳が入っていた。その送り状を書いてくれたのがOさんだった。スイス本社の指示で、この手帳を送りますとあった。しっかりとした文字で綴ってあった。

 

 すっかり喜んだ僕は、すぐに青山のオフイスに電話してOさんを呼び出した。落ち着いたアルトの声が応えた。僕は、一面識もないOさんに、若さに任せてぶっきらぼうにクラシックはお好きですかと訊ねていた。ハイと答えを貰った。お礼にチケットを送りますがいかがでしょうかと僕はかさねて訊ねていた。

 

 こうして、東京文化会館の音楽会の開演前に、はじめてOさんに会った。何の公演だったかなんかはもう忘れている。

 

 でも、とにかく僕はOさんと知り合った。

 住まいも、大岡山と自由が丘、お互いに近かったのも偶然。独身の僕は、自由が丘を中心にOさんと一緒に食事をしたり、チョッと飲みにいったりし始めた。彼女はフランス語ができた。あこがれた。20歳の半ば過ぎの僕にとっては、彼女は本当にしっかりした初めての30過ぎの年上の女性だった。でも彼女はどちらかというと、引いた感じだったのだが…。次の冬には、大岡山のアパートまで送っていくような親しい友達になっていた。

 

 その雪の日も、どこかで飲んでOさんを大井町線で大岡山まで送っていったのだと思う。大岡山の駅から左に、東工大の柵に沿ってチョッと歩くとすぐの小さなアパートの2階に部屋を借りていた。大人の女の人の部屋に入るのは、それが初めてだった。未経験の濃密な女性の気配がした。湿度のある空気がその部屋を満たしていた。

 

 部屋で飲んでいて時間がたって気がついてみると、外はしんしんと雪が降り積もっていた。そして、電車はもうなかった。タクシーなんてさがせない雪だから歩いて帰るしかない。僕は普通の靴で、雪道に滑りながら、雪に降られながら自由が丘まで帰ってきた。

 

 アパートに入れば、暖かくなれると僕は、鍵を探した。が、ない。全てのポケットを探したけれどない。不幸にも、大家さんはそこには住んでいなかった。

 

 大岡山のアパートに落としてきたのかもしれないと思った。でも、もう真夜中過ぎだから、呼び出し電話はかけられない。もう一度歩いて行くしか方法はなかった。帰ってきた道を雪の中、自分自身に恨み事をいいながら、どこかに鍵が落ちていないか探しながら、寒さに震えながら大岡山に戻る羽目になった。

 

 Oさんは僕が雪まみれになって、戻ってきたのでびっくりしていた。でも、そこに鍵はなかった。

 

 もう今夜はしょうがないから泊まっていけば…と言ってくれた。震えていたに僕は、ありがたかった。しかし、予備の夜具は少なかった。寒かった。疲れているのになかなか眠りに入れなかった。緊張していたのだろう、きっと。

 

 しばらくして、ベッドにいるOさんがこっちに来るって声をかけてくれた。僕はありがとうとOさんのベッドに入った。後は、もう男と女の体の挨拶しかない。初めて年上の女の人に接した。少しやせぎすな感じの体だった。Oさんのカサついた、乾いた唇が印象的だった。

 

 これが、雪の大岡山の思い出。こうして始まった大岡山通いは一年ちょっと続いた。いわゆる愛人、アマンって関係だった。

 

 そんな話は聞いたことがなかったのだけれど、ある日、Oさんは近くパリに引っ越すんだって僕に告げた。そして、だれか見つけて、結婚したら、って僕にいった。こんな生活、続けてちゃいけないよって言っているのがわかった。Oさんは旅立ち、大岡山の僕の物語はこうして終わった。

 

 確かにその後、僕は結婚のことを考えはじめたのだから、Oさんの一言は効いたのだ。

 

 それから大岡山の駅に降りることは二度となかった。

 

 

P.S.

先日、久しぶりに自由が丘で東横線をおりた。自由が丘ではたいていは駅を右におりて街を歩くのだが、懐かしくなって、大井町線をわったって、昔のアパートの方まで歩いてみた。もちろん僕のアパートはもうなかった。

 

<この写真は、flickrからDan Zemさんの“雪の階段”をお借りしました>

 

Creative Commons ライセンスのBY=表示”です

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
女性たちの足跡
0
  • 0円
  • ダウンロード