皆さん、パラドクスです。
トビウオ氏、貴兄の無手勝流にはほとほとため息が出ます。
夫をぶっ飛ばしたカズ氏のぶっ飛んだデザイン楽しみです。
僕はまた迷い出しましたが、森氏の理性的な解決生活がうらやましいです。
グズリ氏よ、利口のほうが勝ってますよ、
威勢がよくてうらやましいな。
かごめ氏、貴兄のかごめ生活の炉心爆発に乾杯!やってますね。
さて、時間のパラドックスという表現がSFドラマでは使われていますが、僕ら女の改造にもパラドックス的なところがあるのは賢明な氏らもご承知のことと思います。
この近代社会で、男女の平等な人権はもはや議論の余地なき前提であるとしましょう。
実際は程遠いとしても。
つまり、平等と言いながら男女の役割には差異があり、機会均等ではなく従って不平等である、つまり女性の果たすべき役割は決まってペイの小さなもの、無料であるもの、となっております。
現実は、これまで男性が社会の多面的進化を担ってきた。
女性がその面において無能であったからか?
この問いにまつわるノウという答は僕らには常識であります。
女性にやらせてくれても同じほどの成果に達したことであろう。
動物の世界を見よ。
メスがかよわく無能であるとはいえない。
雌雄の身体の差が異なることに何らかの本質的な意味を付与してはいけない。
単に、進化圧の問題だ。
そして進化の方向は必ずしも理想とは一致しない。
とすれば人類のここ数千年の雌雄個体差も偶然である。
僕らのこの状態も当然のことに進化の途中なのだ。
信じるな。
子宮と乳房の意味は固定されていないかもしれない、どうだろう。
僕らの先進近代科学時代は人類に対してより真実らしい事実
を提示するだろう。
より調和的な男女の共存を可能にするであろう。
僕らは慌てずに、この数千年の思い込みがひっくり返される革新の刻々たる歩みに付き従おう。
希望しよう。
しかし現実には、夫が現に生活費を稼いでくる場合が多い。
その仕事が過酷なものであれ、遊び半分のものであれ。
この事柄はどうしても男女の価値判断に影響する。
とりわけサラリーマンが大勢を占める日本社会の単純さといまもって強い儒教の影響とがあいまって、僕ら日本の女を苦しめている。
僕はここまですらすらと論を運んだように見えるかもしれない。
実は、至る所、論のかどかどにパラドックスの深い穴があったのだ。
僕はそのたびに引きずり込まれまいと論を立て直したのだ。
この深い穴は恐ろしい。
僕ら自身が女を自然の中の劣ったもの、苦しんで出産するためだけの存在であると感じてしまうのだ。
夫に愛されるように美しく装い、かいがいしく夫の身の回りの世話をする妻のイメージ、だれがこれを僕らにポジティヴなものとして植えつけたのだ! だれだって自分で生きろ!
だれでも自分の食事を作るがいい!
女は男をつかまえて一生働かせて、だれでもするはずの食事を自分のために作るのに、それをついでに男にも食わせているだけだ、とはよく聞く男性の言だ。
僕ら女を逆に加害者に仕立てている。
そうなのか? 僕らは男を食っているのか?
そうとも見えるようにまでうまうまと仕立てられたのか。
封建時代と明治時代を通じて?
そうだとすれば余りにも僕ら女は愚かではないか?
この逆説的な問いを皆さんに投げかけておきます。