僕ら女の

第三章 結束( 3 / 8 )

拝啓、二番目です。通称森です。
僕の提案は、まさにこの「僕」という字の
ことなのですが、男性言葉のなかでへりく
だった自己判断を示していて、まだ女性
だったときはもっとも好きな言い方でした。
で、「僕」つまり下僕の僕ですが、これ以
外に何か考えられるでしょうか。女でない、
とか中性だとか、そんなものでは力になら
ない、だからこそ「男である」、という意
識を植えつけて女性役割からすっくりと足
を洗うためのキーワード、大事な自己名称
です。別案があるのではなく、ただ一考の
価値があると思ったので。

ところで、自己紹介のようなもの。

僕の場合も結構明白でした。夫婦とも中学
校教員、年齢も仕事の中身も給料も疲れも
差がなくて帰宅後も何かと仕事絡みです。

小学生の子供二人、家事の分担は必要不可
欠でした。二人で料理するのではなく、一
人ずつ時間が取れるように分担することで
す。いろいろ試しました。料理と茶わん洗
いに分ける、掃除と洗濯同時進行で家事時
間短縮、あるいは一日交代、一週間交代、
ときには出前、時には市の派遣お手伝いを
頼みます。
余談ですが、セックスも臨機応変に設定を
変えて可!! すんなり移行派です。

第三章 結束( 4 / 8 )

返信、トビちゃん、たぶん僕は三番手です。
通称ぐずり。グズだけど利口だからですよ、皆様。

僕は、もともとバリバリのフェミニズム信奉者ですっ。筋金入りのっ。

だから結婚などしておりません。別にホモセクシャルでもございません。
不自由はしておりませんし、こうなりますとわざわざ「僕」という必要も感じないのですが。

女の意識でけっこうヨ、女であって何が悪いノ、男性社会に切り込んでいく女性の権利をできるだけ引き上げるワ、という強い決意と確信があります。

これは理屈で学んだものではありませぬ。
生まれつきの女の自信ナノ。
もちろん女の色香など利用しません、踊らされません。

女性ホルモンは天然に働くんですから、男性ホルモンにこちらだって天然に引っかかるわけですし、この点ではお互い様のはずです。

ただ、男どもは権力欲と占有慾のために女も人間なことを忘れがちなのです。
これをちょっと教育してやれば彼らも男女同権論者に変身しますね。
このための手段として僕というもヨシ。

こんな生き方を可能にするのは僕が手に職を持っているからです。以上っ!



拝啓、四番目は多分僕かごめです。

かごの中のとり、という連想は当然当たっていますが、「かご」的存在でもあります。

運命は皮肉なものです。

僕はいわゆる平凡な生活を当たり前のこととして、女はそうして生きていくものだと思って、良妻賢母良き嫁でありました。

夫となった人、その両親、親せき、小都市の共同体の常識にピッタリ合致して生きていて、それなりによい生活でした。
思いもかけずまだ還暦前だったしゅうと夫婦が次々に倒れてしまうまでは。
ありがちな不運です。

僕は逃げられません。僕が男であれ女であ
れ、人間として逃げられません。
僕に頼りきっている人々を食べさせ洗ってやり絶えず家の中を動き回って世話することを止めるわけにいかないのです。
夫は小さな金物屋をやっていて、店を離れるわけにいかない。
二年くらいたつと、僕は過労からウツになりました。

実の親に会う暇もなく、ひたすら身を粉にし手を荒らして若い盛りをこうして過ごす事になったのは、嫁いできたからだと思うようになりました。

そしてある日、自分を締めつけているのは社会の圧力だ、と分かったのです。
同情心はあります。袖すり合うも他生の縁ではあります。
しかし夫とはいえ他人の親のために何故他人の僕がここまで犠牲になる? 

理由は一つ、みんながそれを常識と考えているからだ。
嫁である女の立場の情けなさが僕を鬼にした。

いっそ彼らを捨てたであろう。
僕がいるから彼らは別の手段を考えなかった。

女を止めた。嫁を止めた。
頭の中がすっかり常識から外れた。
ただ、同情心は同じくらい強かった。

では、非人間にはなりたくない、ということであれば人間にとどまるほかない。
新しい人格を想い描き、僕と名乗った。
からだは女であり周囲も女とみなしていたが、意識は女ではなくなった。
僕、と言い続けることで別の発想と手段に至った。
嫁がすべてをしょい込む時代は終わっていたのだ。

介護保険を使い、地域のボランティアを頼み、ヘルパーや弁当配達、シフト訪問、短期入所、いろいろな方法があった。

僕を解放することは可能だったのだ。「僕」への変身は単純に人間であることの現われだった。
いかがですか、こんな自己紹介ですが。
またの機会に。

第三章 結束( 5 / 8 )

皆さん、パラドクスです。

トビウオ氏、貴兄の無手勝流にはほとほとため息が出ます。

夫をぶっ飛ばしたカズ氏のぶっ飛んだデザイン楽しみです。

僕はまた迷い出しましたが、森氏の理性的な解決生活がうらやましいです。

グズリ氏よ、利口のほうが勝ってますよ、
威勢がよくてうらやましいな。

かごめ氏、貴兄のかごめ生活の炉心爆発に乾杯!やってますね。

さて、時間のパラドックスという表現がSFドラマでは使われていますが、僕ら女の改造にもパラドックス的なところがあるのは賢明な氏らもご承知のことと思います。

この近代社会で、男女の平等な人権はもはや議論の余地なき前提であるとしましょう。

実際は程遠いとしても。
つまり、平等と言いながら男女の役割には差異があり、機会均等ではなく従って不平等である、つまり女性の果たすべき役割は決まってペイの小さなもの、無料であるもの、となっております。

現実は、これまで男性が社会の多面的進化を担ってきた。
女性がその面において無能であったからか?
この問いにまつわるノウという答は僕らには常識であります。

女性にやらせてくれても同じほどの成果に達したことであろう。

動物の世界を見よ。
メスがかよわく無能であるとはいえない。
雌雄の身体の差が異なることに何らかの本質的な意味を付与してはいけない。
単に、進化圧の問題だ。
そして進化の方向は必ずしも理想とは一致しない。

とすれば人類のここ数千年の雌雄個体差も偶然である。
僕らのこの状態も当然のことに進化の途中なのだ。
信じるな。
子宮と乳房の意味は固定されていないかもしれない、どうだろう。
僕らの先進近代科学時代は人類に対してより真実らしい事実
を提示するだろう。
より調和的な男女の共存を可能にするであろう。
僕らは慌てずに、この数千年の思い込みがひっくり返される革新の刻々たる歩みに付き従おう。
希望しよう。

しかし現実には、夫が現に生活費を稼いでくる場合が多い。
その仕事が過酷なものであれ、遊び半分のものであれ。

この事柄はどうしても男女の価値判断に影響する。
とりわけサラリーマンが大勢を占める日本社会の単純さといまもって強い儒教の影響とがあいまって、僕ら日本の女を苦しめている。

僕はここまですらすらと論を運んだように見えるかもしれない。
実は、至る所、論のかどかどにパラドックスの深い穴があったのだ。

僕はそのたびに引きずり込まれまいと論を立て直したのだ。
この深い穴は恐ろしい。
僕ら自身が女を自然の中の劣ったもの、苦しんで出産するためだけの存在であると感じてしまうのだ。
夫に愛されるように美しく装い、かいがいしく夫の身の回りの世話をする妻のイメージ、だれがこれを僕らにポジティヴなものとして植えつけたのだ! だれだって自分で生きろ! 

だれでも自分の食事を作るがいい!
女は男をつかまえて一生働かせて、だれでもするはずの食事を自分のために作るのに、それをついでに男にも食わせているだけだ、とはよく聞く男性の言だ。
僕ら女を逆に加害者に仕立てている。

そうなのか? 僕らは男を食っているのか? 
そうとも見えるようにまでうまうまと仕立てられたのか。
封建時代と明治時代を通じて?

そうだとすれば余りにも僕ら女は愚かではないか?

この逆説的な問いを皆さんに投げかけておきます。

第三章 結束( 6 / 8 )

パラドクス氏は課題のなかに巻き込まれて自己紹介を忘れたようだ。

僕らの間ではすでに共有情報となっている氏の離婚調停問題は、財産分与と親権をめぐって社会と僕らとの間にあるまがまがしい溝の深さを、まるで最終戦争のようなありさまで提している。

カツラ氏の結婚相手が、おおっぴらに自らには多くを許し、妻には服従を要求するたぐいの男であったとすれば、僕の結婚相手はもっぱら僕を彼の愛の真綿で締めつけて僕を閉じ込め不自由にした。

愛がもっとも大事だと言いながら、自分にはたくさんの活動領域を当然のように擁した、それに対し僕には一つの役割のみを要求した、彼の人生のアクセサリーだ。

僕を人形のように飾りたて自慢して連れて歩いた。
すべてを決定し買い物にも付き合った。
もう少し人件費が安かったら家政婦すら雇っただろう。
僕は、幸せな妻であるはずだった。

基本的には、パラドクス氏の婚姻関係も似たものであったらしい。
僕らは単に無い物ねだりで足るを知らざるつけあがった女である。

僕トビウオは傀儡の異名のとおり、裕福な生活の誘惑を断ち切ることのできない、どっちつかずの人間だ。
せめて、「僕」と名乗ることよってその概念が革新的な生き方の実際へと導いてくれることを、心を無にして待っているのだ。
あと二十年あるはずの寿命を使って。


カツラ氏はといえば、チャンスをうかがっている。
夫の変革が中途半端になりそうなら、飛び立った方がいいだろう。
子どもたちは飛び立っていったしカツラ氏は五十才を過ぎたばかりなのだ。


で、本題のパラドクス氏だが氏は三十代半ばで、二人の子息は十歳前後である。結婚相手はそこそこの学歴と能力をもった人物でおまけにハンサムだった。
実はその美しい外見ゆえについ若かったパラドクス氏は惚れ込んでしまったという。
結婚を迫ったのは氏の方だったそうだが、相手は気難しく心を開いてくれなかった。
つまりパラドクス氏は夫から愛されなかったのだ。

「どんなに訴えても、愛し合うことを生活のなかで実践しようと誘っても、僕を、僕の願いを人間の願いとは受けとってくれませんでした。
僕は生活のすべてを愛する夫と一緒に行いたかった。仕事も家事も育児も。
自分の領域などほしくなかった、二人で同じ領域で同じ活動をしたかったのです」

パラドクス氏はこう説明してくれた。
熱い愛情だったのだと思う。
二人の愛の証としての子どもたちをとても愛して育てた。
残念ながら、氏はいつも母子家庭のように捨て置かれた。不幸なことだった。
淋しさがその顔に現われていた。

「あの人にとって私は人間ではない。わたしの願うことは人間の願いではないのだ、あの人にとっては」
と、女言葉で当時氏は日記に書いた。

そこへ、偶然が不運と共にやって来た、大学時代の同級の知人、生物の教師になっていた女性であるが、近所に引っ越してきた。
道で出合った。言葉を交わした。

思いもかけないことが世の中には起こるものだ。
懐かしさに圧倒された、パラドクス氏の前身である女性、環さんは彼女、道代さんなる人に交際を申し入れた。

東天
僕ら女の
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