大学時代を思ってみれば…

3章 一人での時間の過ごし方…( 5 / 36 )

28 スケッチブックを持って:四谷から赤坂へ

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3章 一人での時間の過ごし方…( 6 / 36 )

スケッチブックを持って:四谷から赤坂へ

 

地雷原には立ち入らないのが鉄則だが、日々の生活で避けて通れない場所もイッパイある。そんな場所は、あえて地雷を爆破しておくほうが安全だ。

 

そんな目的で、いくつかの道を安全にしておくつもりで書いてます。

 

スケッチブックを持って、Nさんとよく東京のいろんな所に出かけたものだ。スケッチブックはGEKKOSOのもので、縁がもうボロボロになっていた。

 

その日は、丸の内線の四谷の駅を降りて、旧国会図書館、今の迎賓館の並木道に出た。プラタナスの大きな木たちだったと思う。坂を下っていくと、上智大学のグランドの見渡せるところにでる。足元から、地下鉄丸の内線の四谷駅の発着音、赤坂見付けに降りるカーブのトンネルに向かう車輪の線路に擦れるキーン、キーンという音が聞こえる。グランドでは、学生の出す大きな声が聞こえてくる。のどかな午後だった。

 

左手の紀尾井坂のそばに、完成したばかりのとてつもなく目立つ、センスの悪いホテル・ニューオータニがぬっと立つ。金色にちかいカーテン・ウォールが周りとマッチしないので落ち着かない建物だ。高速の橋脚をみながらカーブした坂を下ると、そこは江戸城の外堀の延長の弁慶掘だ。弁慶橋にはボート屋さんがあって、その頃オールを漕いだことがある。渋谷からの246との交差点を過ぎて、もう赤坂見付だ。その頃はまだ、東急ホテルの派手な赤白の軍艦パジャマはできていなくて、その先の日比谷高校の崖の下に、後で燃えたホテル・ニュージャパンがあった。

 

ここには、その頃の東京では珍しいオープン・カフェが外堀通りに面して店を開けていた。パリのシャンゼリゼをまねて作られ、夜も魅力的な店でガラスの囲いがキラキラと輝いていて、そこだけが街に浮きだしたかんじだった。このオープン・カフェはホテル・ニュージャパンのむかって右側のウイングにあって、その名は、シャンゼリゼだった。

 

このホテルには外国人観光客も多く、とてもおしゃれなスポットだった。いくつかの個性のある店が入っていて、今で言うブティックのはしりだった。日本ではなかなか見られない色とか、デザインが僕たちの目をひきつけて離さない。生活の質のギャップを感じたものだ。こんな場所に出くわすと、外国に行ってやろうとますます心を動かされた風景でもあった。

 

僕たちには金がなかったから、雰囲気だけでもと、そのカフェに入って、きっとコーヒーかシャーベットくらいですませたのだろうと思う。痩身なNさんはその小さな頭の形で、この世界にぴったりと収まっていた。僕たちは、ちゃんとその雰囲気を味わったに違いない。このエッセイにつけた僕のへたくそなスケッチにも、そんなおしゃれな感じが出ているようだ。

 

ウンと後になって、パリの本物のシャンゼリゼのカフェに何度か自分を置いてみたけれど、このニュージャパンの店は結構ちゃんとした感じになっていたことは確かだ。あえて言えば、問題は前の外堀通りが、シャンゼリゼ通りに比べてスケールが1/10位だったことからくる、せせこましさと、緑のなさだったかもしれない。Nさんもその後、パリに何年か住んでいたと聞いたから、きっと同じ印象を持ったのだろうと思うけれど、それを確かめることはできないその後の二人だ。

 

ニュージャパンはその後、火災を起こして悲劇を引き起こすことになったのだが、そんな先のことなど、この時の白い照明に浮き出たホテル・ニュージャパンには、うかがい知ることなどできなかった。

3章 一人での時間の過ごし方…( 7 / 36 )

29 スケッチブックを持って:日比谷をぬけて西銀座へ

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3章 一人での時間の過ごし方…( 8 / 36 )

スケッチブックを持って:日比谷をぬけて西銀座へ

 

地雷原には立ち入らないのが鉄則だが、日々の生活で避けて通れない場所もイッパイある。そんな場所は、あえて地雷を爆破しておくほうが安全だ。そんな目的で、いくつかの道を安全にしておくつもりで書いてます。

 

地雷の処理の続き

 

皇居のお堀に、白鳥ならぬ黒鳥がいるときいて二人で出かけたことがある。

 

建て替え前のレンガの警視庁のすぐ前に、桜田門があって、そこにどういう訳か小さな交番があった。建物がオモチャみたいな感じで、絵になりそうだったけれど、スケッチブックには残っていない。警視庁のすぐ前に、なぜ交番が必要だったのだろう? 今もその疑問が残っている。かわりに、この黒鳥が残っていて、そんな時間を思いださせてくれる。

 

日比谷にはいろいろ思い出がある。

 

日比谷公会堂の狭い椅子の席に耐えられず、途中で逃げ出したこととか、日比谷の図書館、少し陰鬱な感じのする半円ドームの野外音楽堂とか、松本楼とかだ。北西のほうからだと、隣接してイイノホールがあって、ヴァイオリンとかピアノの演奏会に出かけたことを思い出す。

 

日比谷の森は結構な種類の植物があって、みどりの散歩道となっていた。当時は珍しかった、パンパス・グラスの白い穂をよく覚えている。公園のなかにテニスコートもあった。明るいのは、やはり小音楽堂とか、大噴水だろう。鳩がいつも餌をねだっていた。その頃OLという言葉があったかどうか忘れているけれど、明るい顔をした制服の若い子がイッパイいたものだ。日比谷通りには、花屋さんが店を出していた。運がよいと、小音楽堂でブラスが演奏していたりもした。

 

通りをわたると帝国ホテルだ。ここのコーヒー・ショップのカレーはとても旨かったと記憶がある。四季の「オンディーヌ」をみた日生劇場や、東宝を過ぎて、ゆっくりガードに向かっていく。ガードの手前からは左手に、その頃みんなの人気スポットになった「有楽町そごう(今のヨドバシカメラ)」が見えた。外国人がお目当ての日本的な土産専門店が、ガード下にたくさん並んでいた。

 

ガードを抜けると、そこはもう銀座。そこにはお気に入りの画材屋さん、GEKKOSOがあって前を通ると必ず立ち寄ったものだ。今も、手元のどこかにGEKKOSOのスケッチブックが使われないまま、残っていると思う。

 

僕は画材屋さんとか文房具屋さんに目がなくて、立ち寄ると時間がドンドン過ぎていってしまったものだ。斜向かいには泰明小学校のグランドがあって、その並びの小さなビルにジェルマニアというドイツ料理屋さんがあった。もうないかもしれないけれど、美味しいドイツ家庭料理を出してくれていた。さらにそのまま行くと、西銀座の数寄屋橋公園だ。目の前にはマリオンになる前の、朝日新聞社と日劇が見えたものだ。

 

ここいらあたりは、もう地雷処理済で安全地帯になっている。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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