大学時代を思ってみれば…

3章 一人での時間の過ごし方…( 9 / 36 )

30 スケッチブックを持って:不忍池の蓮たち

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3章 一人での時間の過ごし方…( 10 / 36 )

スケッチブックを持って:不忍池の蓮たち

 

地雷原には立ち入らないのが鉄則だが、日々の生活で避けて通れない

場所もイッパイある。そんな場所は、あえて地雷を爆破しておくほうが

安全だ。そんな目的で、いくつかの道を安全にしておくつもりで書いてます。

 

地雷の処理が続きます。

 

朝の蓮の花が咲く「音」を描いてみたいとNさんが言い出した。何だか僕も、「ポッツ!」という音を聞いてみたくなって、上野の不忍池まで出かけることになった。僕の頭には、蓮の花が咲く場所としては不忍池しか思いつかなかったのだ。

 

中野からだから、かなり朝早くアパートを出たのに違いない。蓮の花が咲くのは真夏の早朝。その頃Nさんは60号の製作にかかっていたから、きっとそのネタを仕入れたかったのだろうと思う。

 

その頃はまだ都電が池之端七軒町から上野の山の下を、道と池との間に敷かれた専用線路をかなりの速度でから上野公園入り口まで走っていた。そう、水上動物園に下る動物園のモノレールの下をくぐって…。

 

不忍池は水質の問題が起きていて、弁天島にしても、弁天堂にしても、またボート乗り場あたりにしても、なんとなく足が遠のいたものだ。水が臭いっていうか、汚いっていうかそんな感じだった。蓮は水上音楽堂のあたりに群生していた。緑に包まれてしまえば、水質なんて問題はない。しかし、水辺に下りると、なんとなく水は汚れていた。

 

目を蓮に近づけてみると、葉脈の浮く大きな葉の上には、コロコロ転がる水玉がたくさんできていて、薄毛に覆われたような葉の上できれいだった。吹く風に大きな葉が揺れて、水玉たちは危なっかしくその位置を変えていた。花は薄いピンク。蓮の花ときくと、なんとなく地味な感じで思ってしまうが、本当は美しく凛とした花だった。

 

がんばってみたけれど、花が咲くときの「ポッ」という音は聞こえなかった。やはり想像の世界の音だったのだろう。僕はたちまち飽きてしまって、2、3枚のスケッチを乱雑に描いて終わってしまったが、Nさんは真剣そのもの。細密に蓮の茎とか葉っぱ、花を描いていた。もう、いつものやさしさなぞ消えた画家の目だった。

 

かなりの時間、僕は一人で池を廻ったり、上野の山の五重塔のほうに登ってみたり、はたまた春日通りに出たりしていた。本郷への切り通しのほうには、それこそデラックス・マンションのはしりのような建物ができていた。

 

やっと納得したNさんが、道具をしまったのはかなり日中に近い頃だった。上野広小路で、風月堂に入ってお茶を飲んだ。

 

F60号の立派な蓮の絵が完成したのは、かなり経ってからで、それまで狭い一間に蓮が変化していく様子を見ている僕だった。

3章 一人での時間の過ごし方…( 11 / 36 )

31 バイトのアラカルト

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3章 一人での時間の過ごし方…( 12 / 36 )

バイトのアラカルト

 

とにかくいろんなバイトをいっぱいやりました。定期的な室町の貿易の仕事のほかにも、飛び込んでくる楽しい仕事はドンドンやりました。

 

その中のいくつかですが、こんなのがありました。

 

アメリカ人の女子学生のアパート捜しのお手伝いってのがありました。今はどうかしれませんが、その頃は外国人が東京で賃貸アパートの安いのを見つけるのはとても難しかったのです。

 

その人は、青山あたりがいいというので、今の紀ノ国屋さんの裏あたりから、不動産屋さんの地図を当てにして、路地を捜したものです。今の国連大学、元の都電の青山車庫の裏とか、さらに児童館のほうに近い所とかいろいろ。今思えば、青山の一等地ではありませんか。かなり物件はあるのですが、借り手が外国人だと分かると、不動産屋さんがいろいろ理由をつけて断ってきます。たとえば、部屋が油臭くなるとか、いろんな友達をイッパイ連れてくるとか、他の住民とうまく行かないとか、契約事項を守らないとか、言葉ができないとか、とにかく外国人はいやなのです。

 

彼女が気に入ったのは、静かな環境のアパートで、南側の窓の外は寺の墓地でした。日本人はチョット敬遠するかもしれません。周旋屋さんと交渉すると、OKだというのです。しかし、結果的には大家さんがやはりアメリカ人だというので断ってきました。

 

仕方なく、高田の馬場とか、新大久保とか、捜しているうちに、彼女の友達が三宿に外人OKのアパートがあるとの情報が入ったのです。渋谷から、玉電の「ずんぐり・むっくり」に乗って出かけました。その頃は、246の上を路面電車として、この玉電がゴトゴト、チンチンとかいいながら三軒茶屋を過ぎて多摩川まで走っていたのです。三宿には、昭和女子大とかがあって静かな田舎でした。路地が輻輳していました。けっこう住みやすそうな町でした。しかし、残念。もうふさがっていました。がっかりしながら、また玉電で渋谷にもどったことがありました。

 

結果として、僕は彼女のアパートを見つけてあげることはできませんでした。バイト代はチョット心苦しかったのですが貰いました…。日本って、けっこう排他的なんだなあとの感想を持ったものです。

 

もうひとつは、英語の教室でアメリカ人の先生を、日本語で支援するバイトでした。

日本語はからきし話せないのに、日本人に、もちろん有料で英語を教えるわけです。質問が英語でくれば問題ないのですが、その教室はまだ初心者が多くて、先生と生徒の会話がまだ英語で成り立っていなかったのです。いま考えれば、メチャクチャな話です。

その教室を開いていたのがどこかは覚えていませんが、その会社もメチャクチャです。

 

彼は短期で日本に来ていて、日本をいろいろ旅する金が欲しかったのです。僕は一週間くらい、夜のコースに彼と一緒に出かけました。場所は、本郷の東大病院に入る竜岡門前にあった商業(?)高校だったと思います。

 

二人で、ひとつの教室の面倒を見たのです。通訳つきの英語教室って想像できますか。通訳の度合いが分からなくて、難しいバイトでした。全部訳すと意味がありません。質問のみを、サポートしたのかも知れません。こうして、僕は彼のバイト料の中から、僕のバイト代金を少し貰ったのです。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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