大学時代を思ってみれば…

4章 モラトリアムは終わって( 1 / 20 )

44 浅草って言えば…

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4章 モラトリアムは終わって( 2 / 20 )

浅草って言えば…

 

浅草って言えば、どうしても亡くなった親父との思い出になってしまう。

親父は、太平洋戦争以前の一時期、谷中にアトリエを建てるまで浅草・三筋町に住んでいたと聞いた。親父にとっても、浅草は懐かしい町だったのだ。

 

親父には僕は中学卒業で放り出されて、あとは自分でやっていけって言われたことは前に書いた。そんなわけで、一時期、親父が許せなかったし、怒ってもいた。だから、付き合いはほとんどなかった。そんな関係が少し変わってきたのは、僕が大学に入って1~2年してからだ。

 

その後親父も東京に帰ってくるのだが、彼が東京に出かけて来たときには、一緒に飯を食ったり、酒を飲んだりできる心のゆとりみたいなものができてきた。

 

浅草の並木の味の濃いだしの蕎麦や、長浦の蕎麦を教えてくれたのも親父だった。今では、いつ行っても入れないヨシカミを教えてくれたのも親父。松喜を教えてくれたのも彼。やげん掘りも親父からの受け売りがもう40年も続いているってわけだ。

 

ある年の三社祭には一緒に出かけた。そこで教えてもらったのが、松風。昭和のはじめからやってる飲み屋さんで、最近はメジャーになってきたようだ。

 

最初の頃は、何だか店の人のほうが客より偉いような感じで、飲ませてもらっているという感じが学生の分際の自分にはあった。燗番の大柄のオヤッさんがよく通る声で、「菊正が行く~、台の3番さん」とか言っている声が今でも思い出される。

 

その後、オヤッさんの息子とおぼしき人達が、3代ほど代わる代わる燗番をしているが、皆良い声をしている。女衆はお勘定場にしかいないようだ。全くの男の世界だ。きびきびしていて、気持ちがいい。当初は、お客も女の人だけってのは、いなかったような気がする。なにか、店には言わずと知れた不文律があったのかもしれない。

 

もうせんは、隣の魚屋で刺身を作ってもらって持ち込んでいる人もいた。

店には、食べ物は本当に酒のつまみという物しかない。おでんとか、煮凝りだとか、御新香だとか、小鉢が主流だ。そしてこの店のユニークさは、お一人さま、3本までと酒の量が決まっていることだ。燗が一本運ばれると、小鉢の突き出しが一緒に来る。それで、何本呑んでるか、がわかる仕組みだ。いい店だ。店の張り紙もユニーク。となりの客へのお酌も禁じている。要は、自分で自分の量をのみなさいということだ。

 

この店には、もう40年近く通っていることになる。何時だったか、いちばん古いオヤッさんが燗台にいて、僕は一人で台で飲んでいた。見てると銚子に酒を汲む枡が、もう使い慣れて手の延長のように動く。よくみるとその人の指がとても長いのに気がついた。僕に指も長いほうだが、比べてみると第一関節分くらい長い。いい手をしてますねと声をかけたら、「イヤー」といったきりだ。声は昔と変わらない。

 

僕は、日本酒を飲むときは、グラスにチェイサーとしてお水を貰うことにしている。舌を、洗うために。どんなに辛口でも銚子を一本あけると、どうしても舌が甘さを感じてしまうからだ。

 

松風で、ひとつだけ僕にとって残念なのは、昔は菊正の樽があったのだが、もう何年来樽は真澄しかないことだ。とにかく、長く元気で続いて欲しい店の筆頭だ。

4章 モラトリアムは終わって( 3 / 20 )

45 谷中の墓地と日暮里駅あたりは、

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4章 モラトリアムは終わって( 4 / 20 )

谷中の墓地と日暮里駅あたりは、

 

谷中の墓地にはいっぱい思い出があるのだが、どちらかと言うと、ちょっと暗い感じのものなのはどうしてなのだろうかと思う。

 

共に語れる身内がみんな没してしまって、共有できる者がいないからかもしれない。もう僕しか、その頃の谷中を生きていた者はこの世にいないからだ。

 

生まれは、谷中。でもそのちょっと前まで、家は道一本隔てた荒川区日暮里九丁目だったようだ。姉達は、第一日暮里小学校に通っていたという。東京で唯一、富士の見える富士見坂で有名になった今の西日暮里のほうだ。

 

山の手線の内側に、荒川区があるってことはあまり知られていない。最近、元気な商店街の代名詞みたいに言われている「谷中銀座」の、日暮里駅から階段を下りて右手は荒川区だ。

 

僕の生まれた時には、親父は谷中の墓地に隣接する所にアトリエを建てて住んでいた。結果として、谷中生まれ。

 

僕にとって、東京に最初に戻ってきて一人で住んだ谷中には現実味があるが、それ以前の話はみんな身内からの受け売りだ。3歳以前だったから、覚えていることなんてあるはずもない。

 

そんな中には、谷中の墓地で遊んでいるうちに迷子になって、上のほうの交番(今の五重塔跡の側)に連れて行かれたらすぐ分かったのに、電車の線路の下側の交番に連れて行かれたから、なかなか家に帰れなかったと言うエピソードも受け売りだ。「xxちゃんは、谷中の墓地で迷子になったんだよ」って、ずっと言われながら大きくなった。

 

日暮里駅に電車を見によく連れて行ってもらったことも、姉に話してもらったことだ。きっと、今の南口のある歩道橋が、その場所だったのではないかと思う。その道はもみじ坂と言って、登るとすぐ墓地になる。

 

先日、僕のうちのベランダに出ていたら、コトコトーン、コトコトーンと電車の音が丘の斜面を這い上がってきた。何故だか分からないけれど、ひどく懐かしさを感じた。きっと何十年も前のちっちゃい時に、この音を聞きながら過ごしたに違いないとふっと思った。それは、耳に慣れたやさしい音だったのだ。電車の音を間近に聞きながら住んだところは、谷中の他に思いつかない。僕の潜在意識のなかに、刷り込まれた音なのかも知れないとカミさんと話した。

 

確かに、焼ける前のアトリエがあったのは日暮里駅の斜め上のあたりだ。その家から電車の発着音とか、コロロコロコローンという走り去る電車の音が聞こえたに違いない。そこに立ってみると、日暮里駅の歩道橋の上からは田端にむかって、右から京成、常磐、東北、高崎と並び、最後に京浜東北と山手線が入組んで走っている。あとで新幹線が高崎線と山手線の間に割り込んできたから、日暮里はもう線路で満杯だ。

 

きっと祖母とか、母とか、姉とかに手を引かれて、ずっと電車が流れてくるのを飽きもしないで見つづけていた自分が見える。

 

谷中の墓地は桜の名所でもあるし、朝の散歩の道でもある。犬の散歩道でもある。また最近は、「谷・根・千」で有名になって、たくさんの人が歩く散策の町にもなった。みんな、セピア色の世界を夢見ているようだけれど、住んで見るとけして住み易い所ではない。丘の上はいいとしても、谷筋はちょっと…と思う。

 

谷中の墓地は平坦のようだが、線路側には開けたいくつかの斜面がある。そんな所まで入り込んでみると、静けさがある。朝露にぬれながら、東の空の太陽を仰ぎ見ることもできる。鳥の声がする。そしてそこにも、電車の音がする。

 

この谷中の墓地は、上野桜木町を通る「言問通り」(寛永寺陸橋までは名ばかりの細道だが)に向かう道でもある。この「言問通り」を通って、親父の亡がらを白山の寺まで運んだ朝を思い出す。そして翌日、告別式を終えて今度は同じ道を逆に走って、町屋の火葬場まで運んだことも思い出す。

 

親父の友達の絵描きさん達も、この谷中から、いやこの世からどんどん消えていってしまった。そんな意味では、谷中は懐かしいいけれど、僕にとっても過去の土地になりつつあるようだ。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
大学時代を思ってみれば…
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