大学時代を思ってみれば…

2章 奇妙な同棲生活、そして別れ( 1 / 36 )

8 早稲田から、鍋屋横丁へ

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2章 奇妙な同棲生活、そして別れ( 2 / 36 )

早稲田から、鍋屋横丁へ

僕が、一人で東京に戻ると言ったとき、 親父は「まさかの時にはこいつらに会え」と、3人の名前を教えてくれた。

 

一人は、東横線の日吉。一人は埼玉県の川口市だったけれど、草加に近いところだった。そしてもう一人が、中野に住んでいた。

 

早稲田・面影橋のTの下宿、3帖はやはり二人が住めるようなものではなかった。1ヶ月ぐらいは居候をしていたと思う。下宿屋のおばさんにもだんだん睨まれるようになった。でも、自分で家賃をはらって部屋を借りる余裕は、まだ無かった。日吉も、川口も転がり込めるような状況にはなかった。親切にはしてもらったけれど。

 

最後に、相談を持ちかけたのは、中野に住んでいた女性で、2つ年上だったNさん。簡単に、「同居してる人がOKって言ったら、うちにくれば」といってくれた。

 

「新中野」という、面白みのない名前の駅を降りて「鍋屋横丁」を中野に向かって下っていく。神田川の支流、桃園川の三味線橋のたもと、7.5畳のアパートで、女二人と男一人の3人での奇妙な生活がはじまった。神田川にそって、その上流に引っ越したわけだ。

 

台所は共同。トイレも共同。洗面所も共同。風呂は近くの銭湯だった。Nさんは、きれいな人で素敵だった。僕とのウマも合った。でも、男と女の関係には成れなかった。だれも信じないが、本当だった。そうでも無ければ、女二人と男一人が同じ部屋で住めるわけがない、1年近くも。

 

Nさんには、会う少し以前に深刻な性的トラウマにあっていた。

ひとり上京して、大学に入ったとき、後見人になるべき人から性的暴力受けたようだ。そして、その影響は長く続いていた。それいらい、この精神的原因で男と女の関係には入れなくなってしまっていた。才能もあり、美しくもあり、チャーミングだったのだけれど。正直いうと、何度かは試してみたのだけれど、でも駄目だった。しかし、それ以外ではすべてうまく行った。幸福な時間だったといえるかもしれない。

 

同じ部屋にいた、Kさんも才能があったが、僕とはチョット距離があった。それで、一緒に住めたのだろう。一番入り口に近いところに僕が寝て、まんなかにNさん、そしてKさんと3本川で寝たものだ。シュラフを買わされたのを覚えている。

 

そういえば、Nさんと最初に待ち合わせたのが、やっぱりFugetsudoだった。そして、通りの反対側にあった地下の店で二人とも、その晩、そのまま酔っぱらっていた。ウマが合った。異性にはいい友達はできないというけれど、それは間違いだと思う。

 

このNさんとの出会いは、その後、僕の生き方に大きく影響していった。

2章 奇妙な同棲生活、そして別れ( 3 / 36 )

9 海の外に僕の目が向いたわけ

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2章 奇妙な同棲生活、そして別れ( 4 / 36 )

海の外に僕の目が向いたわけ

ぼくに大きな影響を与えたのは、まぎれもなく親父だった。

 

ぼくの知っているかぎり、彼は金と縁のない貧乏油絵描きだった。若い頃、一時的に若手の画家として認められ、絵もけっこう売れた時もあったようだ。友達と渡仏祝いに繰り出して、渡航費用を飲んじまったとか聞いたことがある。

 

そんな親父の世界は、ヨーロッパに向いて広がっていたのはあたりまえ。とくに、家にはフランスの画集がいっぱいあった。親父が好きだったのは、若いときは、ブラマンク、佐伯、ユトリロ。年取ってくると、ルオーになっていった。

 

貧乏だったけれど、油絵の具には金をかけていた。ニュートンとか外国の物を使っていた。家はいつもターペンタインのにおいにあふれていた。

 

画集でパリ・モンマルトルの風景を見ていると、絶対に自分で歩いてみたいと思った。

 

中学2年のある日、学校から帰ってくると親父が僕にぽろっと言った。「高校から先は、もう責任もてないな…」と。谷中のアトリエを空襲で焼き、遠い親戚を頼って疎開した一家だった。

 

親父の言葉の意味はすぐには分からなかったが、その後じわっと伝わってきた。学校の先生に相談すると、入試前に試験を受けて特別奨学生に選ばれると、高校入学から奨学金がもらえるという。勉強した。そして高校に入った。

 

これがぼくの突然の独り立ちだった。「モラトリアム人間の時代」って、小此木啓吾先生は言ったけれど、そんな時間は全くなかった。その後、自分の事は全部自分でやるということになった、大学も含めて。

 

「モンマルトルを歩こう、パリ乞食でも…」が、その後、僕のキャッチフレーズになった。

 

親父のほかに、僕の目を海の外に向けた人がいる。それは、アメリカ人と日本人のミックスのJちゃん。高校時代、ガールフレンドの家で、出会った10才くらいで、かわいい女の子だった。アメリカ育ちで、日本語はからっきし話せなかった。僕のほうが、つたない英語をしゃべるしかなかった。

 

単純だから、のって英語を勉強し始めた。受験英語もさることながら、話す、聞くができること、それが目的。FENを聞き始めたのも、ジャズっぽいものを聞き始めたのも、それがきっかけだった。

 

それはその後役立った。バイトや、友達の広がりとか、大学のクラブ、やがて就職で…。

そんなこんなで、いつか僕の目は海の向うに焦点が合ってきた。

 

大阪での60年安保闘争の挫折と、その後の息苦しさが、同じく僕を後ろから押し出していったのかもしれない。

 

(親父が描いた教会)

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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