大学時代を思ってみれば…

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バイトのアラカルト

 

とにかくいろんなバイトをいっぱいやりました。定期的な室町の貿易の仕事のほかにも、飛び込んでくる楽しい仕事はドンドンやりました。

 

その中のいくつかですが、こんなのがありました。

 

アメリカ人の女子学生のアパート捜しのお手伝いってのがありました。今はどうかしれませんが、その頃は外国人が東京で賃貸アパートの安いのを見つけるのはとても難しかったのです。

 

その人は、青山あたりがいいというので、今の紀ノ国屋さんの裏あたりから、不動産屋さんの地図を当てにして、路地を捜したものです。今の国連大学、元の都電の青山車庫の裏とか、さらに児童館のほうに近い所とかいろいろ。今思えば、青山の一等地ではありませんか。かなり物件はあるのですが、借り手が外国人だと分かると、不動産屋さんがいろいろ理由をつけて断ってきます。たとえば、部屋が油臭くなるとか、いろんな友達をイッパイ連れてくるとか、他の住民とうまく行かないとか、契約事項を守らないとか、言葉ができないとか、とにかく外国人はいやなのです。

 

彼女が気に入ったのは、静かな環境のアパートで、南側の窓の外は寺の墓地でした。日本人はチョット敬遠するかもしれません。周旋屋さんと交渉すると、OKだというのです。しかし、結果的には大家さんがやはりアメリカ人だというので断ってきました。

 

仕方なく、高田の馬場とか、新大久保とか、捜しているうちに、彼女の友達が三宿に外人OKのアパートがあるとの情報が入ったのです。渋谷から、玉電の「ずんぐり・むっくり」に乗って出かけました。その頃は、246の上を路面電車として、この玉電がゴトゴト、チンチンとかいいながら三軒茶屋を過ぎて多摩川まで走っていたのです。三宿には、昭和女子大とかがあって静かな田舎でした。路地が輻輳していました。けっこう住みやすそうな町でした。しかし、残念。もうふさがっていました。がっかりしながら、また玉電で渋谷にもどったことがありました。

 

結果として、僕は彼女のアパートを見つけてあげることはできませんでした。バイト代はチョット心苦しかったのですが貰いました…。日本って、けっこう排他的なんだなあとの感想を持ったものです。

 

もうひとつは、英語の教室でアメリカ人の先生を、日本語で支援するバイトでした。

日本語はからきし話せないのに、日本人に、もちろん有料で英語を教えるわけです。質問が英語でくれば問題ないのですが、その教室はまだ初心者が多くて、先生と生徒の会話がまだ英語で成り立っていなかったのです。いま考えれば、メチャクチャな話です。

その教室を開いていたのがどこかは覚えていませんが、その会社もメチャクチャです。

 

彼は短期で日本に来ていて、日本をいろいろ旅する金が欲しかったのです。僕は一週間くらい、夜のコースに彼と一緒に出かけました。場所は、本郷の東大病院に入る竜岡門前にあった商業(?)高校だったと思います。

 

二人で、ひとつの教室の面倒を見たのです。通訳つきの英語教室って想像できますか。通訳の度合いが分からなくて、難しいバイトでした。全部訳すと意味がありません。質問のみを、サポートしたのかも知れません。こうして、僕は彼のバイト料の中から、僕のバイト代金を少し貰ったのです。

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一人での時間の過ごし方…

 

Nさんとの別れの後、一人で過ごす時間が多くなった。学校とバイトには行っていたが、あまり広がりはしない世界にいた。

 

その頃、谷中三崎町の空き家同然の親父のアトリエに寝起きしていたから、自然と自分の生まれた谷中近辺を歩くことになる。生活は近くですべてが足りていた。駅は日暮里。上野駅も歩きの範囲。銭湯は三崎坂の朝日湯が近い。今はギャラリーになっている柏湯も近いけれど、何だか広い道のほうにいってしまう。その頃、谷中の路地の奥の家には、普通内湯はなかった。みんな銭湯だった。

 

細い路地には、そのうちの人が大切にしている緑があった。手動の汲みあげポンプの付いた井戸もけっこうあった。ガッポ、ガッポと水をくみ上げていた。それが、路地の緑たち用の水だった。通りがかりに人にも、挨拶が自然だった。隣のうちの夫婦喧嘩まで筒抜けで、開放的というか、閉鎖的というかその兼ね合いが人によって受け取り方が違う。

 

食べ物は谷中夜店通りか、谷中銀座に行けばよかった。いまや有名になった谷中銀座だが、うちから200mもありはしない。茶畑のある真ん中の細い道を歩くとすぐだ。スーパーのはしりのようなストアがあって、たいていのものはそこで済ませた。めんどくさければ、いろんな店で食って帰ってもいいし、なんか買って帰ればそれで済む。

 

せんじつ、久しぶりに日暮里から団子坂下まで歩いてみたけれど、昔に比べると、谷中銀座はちょっとさびしいかもしれない。駅のすぐ上の、中野屋さんは元気で代替りしていた。味はしっかり受け継がれている。

 

散歩は三崎坂を登って上野に抜けるか、谷中の墓地経由で日暮里に歩くかが普通だった。でも、時には、本郷の丘を歩いたものだ。

 

三崎坂を登らないで、下って菊見せんべいの店を過ぎていくと都電通りだ。団子坂には上らないで、不忍通りを左にまがって、根津のほうに歩いていく。根津神社の手前から右に坂を登って日本医大に歩いたものだ。疲れると、坂の途中で上野のやまを見る。けっこう本郷の丘はきつい登りだ。目指すは、東大の本郷キャンパス。

 

別にルーツ探しではないのだが、東大付属病院には何だか懐かしさがついて回る。まず僕が物理的に生まれた病院。その頃の古い医学部の小さな、黒ずんだ建物が今も残っている。それから、そのころ偏頭痛に悩んで悩んで通った病院でもある。古い建物、薄暗い待合室、古めかしい先生の机と椅子などが思い出される。

 

医学部のレンガの建物の前には御殿下グランド。その奥が三四郎池のある森だ。東大のキャンパスは、その頃のイメージではけっこう広かった。東京都心に、これだけ広いキャンパスをもてたのは江戸時代の大名の屋敷跡だからだ。農学部は水戸藩の、本郷キャンパスは加賀藩の屋敷跡。すばらしい立地だ。慶応だって、あんな広い場所を確保できたのは、みんな江戸幕府のおかげ。

 

グランドからあがっていくと、三四郎池の上に立つ山に出る。けっこう深い森の感じだ。楽しめるキャンパスであることは間違いない。僕の大学のネコの額ほどのせまっくるしさから見れば、この広さは羨ましい限りだ。

 

銀杏並木や大きな欅を楽しんで、赤門を出ると、そこは本郷通り。通りを隔てて、ルオーって喫茶店があった。本物のルオーの絵が掛かっていたのを覚えている。一度閉店したと聞いた。落ち着いた店だったのだけれど…。帰りは、本郷三丁目から、切通しを歩いて御徒町に出るのがいいだろう…。こんな、一人ぼっちの日々が続く頃だった。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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