大学時代を思ってみれば…

3章 一人での時間の過ごし方…( 1 / 36 )

26 東京に天文台があるって、知ってますか?

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3章 一人での時間の過ごし方…( 2 / 36 )

東京に天文台があるって、知ってますか?

三鷹には、いい思い出がある。大学の教養で、自然科学関係ではA先生の人柄に惹かれて、天文学を取った。その頃、天文学を教養でやっている大学はあまりなかった。

 

高校では物理とか化学とか生物などをとったけれど、天文は初めてだった。まっさらな気分で講義に出た。夜の実習があったりして、夜暗くなって屋上に出たりした。A先生は、飄々とした感じの方で、きっと小さい時からずっと自分の世界に入り込んで、そのまま学問として「天文」をやっていらしたとしか思えない。

 

目の輝きは子供のそれと全く変わらない。大学という世界でも、いろいろ政治的なことや、権力闘争的なことなどがあったが、A先生は孤高を保っていらした。娘さんが学生として大学にいらしたように、うすぼんやりだが記憶している。

 

三鷹の東京天文台でのフィールド・ワークは、星を見るのだからやはり夜だった。授業に出るという感じではなくて、ぶらりと午後遊びに出かける感じだった。

 

数人と待ち合わせて、まずは時間つぶしに深大寺に行ってみることになった。その頃三鷹近辺では、深大寺が少しずつ有名になってきていた。京王線のつつじヶ丘からバスだった。神代植物園は出来たばかりで、植物園?てな感じでしかなかった。

 

深大寺は古くからの天台の寺で、武蔵野の欅の小さな林の中に小さな寺があって、こじんまりとした武蔵野の風景を残していた。「なんじゃもんじゃ」って名前の木があった記憶がある。深大寺蕎麦がいわゆる「名物」だった。何回か深大寺には行ったことがあるが、しかし僕の記憶では、その頃の深大寺まわりの蕎麦屋には、あまりいい思い出がない。何だか、値段が高いわりにはあまり美味いとはいえない蕎麦を出していたようだ。田舎蕎麦で売っていたのかもしれないが…。最近、行っていないので確かなことはいえない。

 

その頃の東京天文台は、ほとんど一般には公開されていなくて、何だか閉鎖的なサイトだったと記憶している。そんな訳だから、A先生に連れられてみてまわった構内や、望遠鏡たちはとても珍しい体験だった。僕たちのフィールド・ワークは、大赤道儀室の望遠鏡で夜空をのぞくという授業だった。先生の後輩らしき人たちが、僕たちを案内してくれて構内のいろんな施設を驚きながらみた記憶がある。

 

結構寒かったから、秋だったのだと思う。「月面」へ人間が降り立つなんてことを、まだ想像もしていない時期だったから、望遠鏡で見た「月面」はホントに美しかった。それこそ、一度は見てみたい土星を見たり、他の地球の惑星たちとか、遠くの恒星を見たりしたが、実は僕にとっては月が一番印象的だったのだ。それにしても、星を観測している間、参加したみんなが何だか、息を潜めて小声で話していたのを思い出す。なぜだったのだのだろう…。

 

三鷹の東京天文台は、いまは国立天文台として、最近は一般の人にも開放されていると聞いた。一度出かけてみるのも楽しいのではないだろうか。だって、遠い山の中まで出かけなくても、東京に本当の天文台があるんだから。

 

(写真は、国立天文台HPより転載しました)

3章 一人での時間の過ごし方…( 3 / 36 )

27 帰れなくなった二人

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3章 一人での時間の過ごし方…( 4 / 36 )

帰れなくなった二人

 

あれは1961年(?)の梅雨の頃だったのか、秋の雨の時期だったのか忘れてしまった。その頃入院していた上の姉を、伊東の病院にNさんと見舞いに出かけた。東京から雨の中を日帰りの旅だった。

 

電車が熱海に近づく頃になると、かなりの雨になっていた。熱海駅のホームから電車はいっこうに出発しない。きいてみると、雨量が規定を超えていて伊東線の発車は見合わせだという。いつ電車が動か分からない。

 

新幹線のある今と違って、熱海は東京からとても遠い場所だった。

 

伊東に入るほかの方法はないかと聞くと、三島まで行って、そこから箱根登山鉄道で修善寺まで行けるということだ。そこでバスに乗って冷川峠を越えれば伊東に入れるというので、ここまで来たのだからと、東京に引き返すことなど考えず三島に向かった。雨はひっきりなしに降っていた。丹那トンネルを抜けるとすぐ三島だった。

 

伊豆は、東西を山で囲まれ、南には万三郎岳を主峰とする天城山塊がそびえている。狩野川は、この天城山塊の雨を集め、逃げ場がなくて中伊豆を北に向かって流れ、三島ではるかに下ってくる富士山の裾野にぶつかって西の沼津に抜けるみょうな川だ。そんな地形だから水が簡単に海に逃げない。狩野川台風で有名になった洪水の名所でもあった。

 

大粒の雨が降りしきる中、三島から単線の修善寺行きのちっぽけに車両に乗った。韮山にむかって進むと、水がまわりの田んぼから湧き上がってきて一面褐色の水の世界になっていった。電車は徐行したり止ったりしながら、少しずつ前に進む。しかし、しばらく行くと線路が水に覆われてしまっていた。水の中に僕たちの電車がぽつんと取り残された感じだった。だいじょうぶなのかなあとチョット心配になって来た。

 

しばらくして車両に車掌さんが回ってきて、このまま三島に引き返すと伝えた。狩野川があふれてしまったのだ。僕たちの前には線路が見えなくなっていた。客たちはざわついていた。電車はゆっくり逆走して三島に逃げ帰った。

 

熱海まで戻ってくると、今度は東海道本線が不通で、東京への電車は何時出るかわからないと伝えられた。もう夕暮れだった。雨は降り続いていた。ホームにいても仕方がないので、外を見てみようと階段を下りて地下道に向かった。でも地下通路は水没していて、箱のようなものの上に板が並べてあって、その上を歩くしかない。いくら、荷物のない僕たちでも、危なっかしくてそんなことは出来ない。駅員さんにおんぶされて、僕たちは駅の改札口にやっとたどり着いた。もう東京にその日、戻ることは出来そうにもなかった。

 

商売、商売と、旅館の旗を立てて客引きたちが、改札口にごったがえしていた。僕たちはそんなに金を持っていなかったのだが、しょうがないので少々安くしてもらって、その夜の熱海の宿が決まった。宿は、谷川と呼ぶのがふさわしい急流の糸川のそばの小さな旅館。ふつうだったら、その惨めったらしさから、敬遠したに違いない感じのもの。ふたりは落ちつかない感じで夕飯を食べて、降り続く雨音をきいていた。この宿屋、大丈夫なんだろうかなどと思っていた。一晩中、糸川を流れ落ちる激しい水音を聞いて寝付かれない二人だった。

 

翌朝は晴れた。よかった。

 

伊東線はちゃんと動いていて、やっと目的地に着くことが出来たのは昼前。姉の病院は丘の中腹にあり、よく相模湾が見えた。初島と、大島が浮かんでいた。ホールで、冷たい、ちょっと気持ちの悪いスリッパに履き替えて、病室を訪ねた。それが、身内に付き合っている人としてNさんを紹介した初めだった。病院の横の斜面はミカン畑になっていた。3人で野道をたどった。その日の夕方、一泊2日の疲れる旅をおえて、僕たちは東京に戻ってきた。

 

その後の富士の見える屋上での別れの後も、Nさんに関する情報を僕にそれとなく伝え続けたのは、他ならぬ東京に出てきたこの姉だった。

 

鍋屋横丁を飛び出した僕は、まだ親父の住んでいなかった谷中三崎町の空っぽのアトリエに巣くって、学校とバイト先を通い続けていた。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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