大学時代を思ってみれば…

3章 一人での時間の過ごし方…( 3 / 36 )

27 帰れなくなった二人

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3章 一人での時間の過ごし方…( 4 / 36 )

帰れなくなった二人

 

あれは1961年(?)の梅雨の頃だったのか、秋の雨の時期だったのか忘れてしまった。その頃入院していた上の姉を、伊東の病院にNさんと見舞いに出かけた。東京から雨の中を日帰りの旅だった。

 

電車が熱海に近づく頃になると、かなりの雨になっていた。熱海駅のホームから電車はいっこうに出発しない。きいてみると、雨量が規定を超えていて伊東線の発車は見合わせだという。いつ電車が動か分からない。

 

新幹線のある今と違って、熱海は東京からとても遠い場所だった。

 

伊東に入るほかの方法はないかと聞くと、三島まで行って、そこから箱根登山鉄道で修善寺まで行けるということだ。そこでバスに乗って冷川峠を越えれば伊東に入れるというので、ここまで来たのだからと、東京に引き返すことなど考えず三島に向かった。雨はひっきりなしに降っていた。丹那トンネルを抜けるとすぐ三島だった。

 

伊豆は、東西を山で囲まれ、南には万三郎岳を主峰とする天城山塊がそびえている。狩野川は、この天城山塊の雨を集め、逃げ場がなくて中伊豆を北に向かって流れ、三島ではるかに下ってくる富士山の裾野にぶつかって西の沼津に抜けるみょうな川だ。そんな地形だから水が簡単に海に逃げない。狩野川台風で有名になった洪水の名所でもあった。

 

大粒の雨が降りしきる中、三島から単線の修善寺行きのちっぽけに車両に乗った。韮山にむかって進むと、水がまわりの田んぼから湧き上がってきて一面褐色の水の世界になっていった。電車は徐行したり止ったりしながら、少しずつ前に進む。しかし、しばらく行くと線路が水に覆われてしまっていた。水の中に僕たちの電車がぽつんと取り残された感じだった。だいじょうぶなのかなあとチョット心配になって来た。

 

しばらくして車両に車掌さんが回ってきて、このまま三島に引き返すと伝えた。狩野川があふれてしまったのだ。僕たちの前には線路が見えなくなっていた。客たちはざわついていた。電車はゆっくり逆走して三島に逃げ帰った。

 

熱海まで戻ってくると、今度は東海道本線が不通で、東京への電車は何時出るかわからないと伝えられた。もう夕暮れだった。雨は降り続いていた。ホームにいても仕方がないので、外を見てみようと階段を下りて地下道に向かった。でも地下通路は水没していて、箱のようなものの上に板が並べてあって、その上を歩くしかない。いくら、荷物のない僕たちでも、危なっかしくてそんなことは出来ない。駅員さんにおんぶされて、僕たちは駅の改札口にやっとたどり着いた。もう東京にその日、戻ることは出来そうにもなかった。

 

商売、商売と、旅館の旗を立てて客引きたちが、改札口にごったがえしていた。僕たちはそんなに金を持っていなかったのだが、しょうがないので少々安くしてもらって、その夜の熱海の宿が決まった。宿は、谷川と呼ぶのがふさわしい急流の糸川のそばの小さな旅館。ふつうだったら、その惨めったらしさから、敬遠したに違いない感じのもの。ふたりは落ちつかない感じで夕飯を食べて、降り続く雨音をきいていた。この宿屋、大丈夫なんだろうかなどと思っていた。一晩中、糸川を流れ落ちる激しい水音を聞いて寝付かれない二人だった。

 

翌朝は晴れた。よかった。

 

伊東線はちゃんと動いていて、やっと目的地に着くことが出来たのは昼前。姉の病院は丘の中腹にあり、よく相模湾が見えた。初島と、大島が浮かんでいた。ホールで、冷たい、ちょっと気持ちの悪いスリッパに履き替えて、病室を訪ねた。それが、身内に付き合っている人としてNさんを紹介した初めだった。病院の横の斜面はミカン畑になっていた。3人で野道をたどった。その日の夕方、一泊2日の疲れる旅をおえて、僕たちは東京に戻ってきた。

 

その後の富士の見える屋上での別れの後も、Nさんに関する情報を僕にそれとなく伝え続けたのは、他ならぬ東京に出てきたこの姉だった。

 

鍋屋横丁を飛び出した僕は、まだ親父の住んでいなかった谷中三崎町の空っぽのアトリエに巣くって、学校とバイト先を通い続けていた。

3章 一人での時間の過ごし方…( 5 / 36 )

28 スケッチブックを持って:四谷から赤坂へ

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3章 一人での時間の過ごし方…( 6 / 36 )

スケッチブックを持って:四谷から赤坂へ

 

地雷原には立ち入らないのが鉄則だが、日々の生活で避けて通れない場所もイッパイある。そんな場所は、あえて地雷を爆破しておくほうが安全だ。

 

そんな目的で、いくつかの道を安全にしておくつもりで書いてます。

 

スケッチブックを持って、Nさんとよく東京のいろんな所に出かけたものだ。スケッチブックはGEKKOSOのもので、縁がもうボロボロになっていた。

 

その日は、丸の内線の四谷の駅を降りて、旧国会図書館、今の迎賓館の並木道に出た。プラタナスの大きな木たちだったと思う。坂を下っていくと、上智大学のグランドの見渡せるところにでる。足元から、地下鉄丸の内線の四谷駅の発着音、赤坂見付けに降りるカーブのトンネルに向かう車輪の線路に擦れるキーン、キーンという音が聞こえる。グランドでは、学生の出す大きな声が聞こえてくる。のどかな午後だった。

 

左手の紀尾井坂のそばに、完成したばかりのとてつもなく目立つ、センスの悪いホテル・ニューオータニがぬっと立つ。金色にちかいカーテン・ウォールが周りとマッチしないので落ち着かない建物だ。高速の橋脚をみながらカーブした坂を下ると、そこは江戸城の外堀の延長の弁慶掘だ。弁慶橋にはボート屋さんがあって、その頃オールを漕いだことがある。渋谷からの246との交差点を過ぎて、もう赤坂見付だ。その頃はまだ、東急ホテルの派手な赤白の軍艦パジャマはできていなくて、その先の日比谷高校の崖の下に、後で燃えたホテル・ニュージャパンがあった。

 

ここには、その頃の東京では珍しいオープン・カフェが外堀通りに面して店を開けていた。パリのシャンゼリゼをまねて作られ、夜も魅力的な店でガラスの囲いがキラキラと輝いていて、そこだけが街に浮きだしたかんじだった。このオープン・カフェはホテル・ニュージャパンのむかって右側のウイングにあって、その名は、シャンゼリゼだった。

 

このホテルには外国人観光客も多く、とてもおしゃれなスポットだった。いくつかの個性のある店が入っていて、今で言うブティックのはしりだった。日本ではなかなか見られない色とか、デザインが僕たちの目をひきつけて離さない。生活の質のギャップを感じたものだ。こんな場所に出くわすと、外国に行ってやろうとますます心を動かされた風景でもあった。

 

僕たちには金がなかったから、雰囲気だけでもと、そのカフェに入って、きっとコーヒーかシャーベットくらいですませたのだろうと思う。痩身なNさんはその小さな頭の形で、この世界にぴったりと収まっていた。僕たちは、ちゃんとその雰囲気を味わったに違いない。このエッセイにつけた僕のへたくそなスケッチにも、そんなおしゃれな感じが出ているようだ。

 

ウンと後になって、パリの本物のシャンゼリゼのカフェに何度か自分を置いてみたけれど、このニュージャパンの店は結構ちゃんとした感じになっていたことは確かだ。あえて言えば、問題は前の外堀通りが、シャンゼリゼ通りに比べてスケールが1/10位だったことからくる、せせこましさと、緑のなさだったかもしれない。Nさんもその後、パリに何年か住んでいたと聞いたから、きっと同じ印象を持ったのだろうと思うけれど、それを確かめることはできないその後の二人だ。

 

ニュージャパンはその後、火災を起こして悲劇を引き起こすことになったのだが、そんな先のことなど、この時の白い照明に浮き出たホテル・ニュージャパンには、うかがい知ることなどできなかった。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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