クオドリベット 上巻

欠けたることも( 4 / 4 )

』とにっこりしてくれるのがどれほど貴重か、おれは身にしみて分かった」

 

碧は、夫からこのような慨嘆を聞かされるとは、予想だにしなかった。複雑な思いだった。2年前、子供が欲しいと切り出した碧に、「父親になる自信がない。金融界でのし上がること以外に興味なんてない」と断言した男が疲れた顔で自分に寄りかかってくるのだ。

 

バレンタイン・デイに夫婦は、ふざけて二匹の金魚と優美な容器を買った。柊は、「トリスタンとイゾルデ」とつけようとしたが、碧の主張、「ロミオとジュリエット」を聞いて、赤面ものだと苦笑しつつも折れた。今、碧は微笑んで金魚たちを眺めている。この「ロミオとジュリエット」の寓意が、彼女のさきざきに奇妙な具合に絡んでくるのだが、そんなことは無論知るよしもなかった。



 

この人が王子様( 1 / 4 )

遅い昼食を食べた碧が、金魚にえさをやっているとソファの上の携帯が鳴った。

 

夫からのメールであった。「会議が長引きそうなので、夕食は外で食べるから悪いけどつくらないで。あと、もしかしたら晩にうちにお客が来るかもしれない。詳細はあとで。柊」

「来客だなんて久しぶり」碧は軽く目を見張る。

 

社長となってからは、全ての案件は社内で吟味するため、情報交換のためにうちでお茶でも…というのはほとんどなくなった。碧は、引っ込み思案のくせに、夫婦でホスト役を務めるのは結構好きだった。我ながら明るく軽やかに知的に振る舞うのが巧いと満足さえしていたし、実際、エコノミスト達の会話は全部は分からないが、分かる部分はとても面白かった。

 

それが全くなくなってしまったのが、漠然としたつまらなさの一因であるのは碧も気づいていた。どんな人が来るのかしら、今話題の「スルードア」の社長かも。いや、彼はそんなことはしそうにない。むしろ「ブジテレビ」のえらい人がお忍びでやってくる可能性の方が高い。あそこの主幹事は、殿馬のライバルの大日本SYBC 證券 …してみるとどういうことになるのだろう?

この人が王子様( 2 / 4 )

そういう話は密室で行うもの、と碧は気づいた。だとしたら、今回のお客は純然たる情報交換で、TFF(殿馬ファンダメンタル・ファイナンス)の投資先になるかどうかは微妙な段階なのだ。

 

「どんなおじさんが来るのやら」碧は帽子と財布を取り、花を買いに出かけた。

 

花を買う前に立ち読みをしてしまったので、帰宅は3時に近かった。マンションのエントランスで碧は、テレビレポーターと出くわした。「すみませーん、タレントの、まびら麗さんのお宅ってここですよね? 」

「え? あ、わたしはタレントさんのことは知りませんので」

「ほらあ、あの子ですよぉ、集団万引きを告白して店から訴えられてタレント活動自粛してる」

そんなことがあったのか。芸能人が何人か住んでいるのは確からしいが、名前と顔が一致するのは二人くらいだ。碧は苦笑して、「ここには政治家も住んでいますから、強引に取材すると色々いわれますよ」と穏やかに言いつつ「警備員呼び出しベル」を押した。もちろん、つまみ出してもらうつもりだ。

 

「ロミオー、ジュリエットー、春になったのにあんたたちは入学も卒業もしないのよねえ」と、漫画的な独り言を呟いて碧は花を活ける。高校時代に習った活け花は、当時はやらされていたという感じだったが、大人になってから「これは役に立つ」としみじみ思う様になった。愛らしい花が空間にあるのとないのとでは全然違う。飾るにしても、花の向き、花と花器とのバランスなどの基礎知識があるので、手早く美しいものができる。

柊も、碧が活け花をたしなむというのが、この人ならと思った決め手の1つだったと話したことがある。「花が好きな女性なら美を尊ぶに決まってる」なのだそうだ。

 

早咲きの桜を白磁の壺に大きく投げ入れて、足元に菜の花を配した。ピンクと白のスイートピーは、短く切って一輪挿しに挿して洗面所と、トイレと寝室に置いた。春の気配が一帯に満ちた。

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5時になってから携帯を開くと柊からのメールが来ていた。発信は4時42分。

この人が王子様( 3 / 4 )

「今日も狸爺と狸っぽい会話、げっそり。若者をいびるのが楽しいみたいだ。そうそう例のお客は和菓子の「松月屋」の専務のご紹介で、銀座の老舗呉服店の若社長なんだって。

「かやしま」というお店だそうだが、聞いたことある?? なんか、銀座の呉服店というとかっこいいけど、内実は自転車操業らしい。事業譲渡を考えなきゃいけないくらいに。それで僕にいろいろ尋ねたいらしいんだな。

彼は碧ちゃんと同い年くらいだし、僕はファッションはわからないから碧ちゃんせいぜい、イケてるきものの売り方をお話ししてあげてくれ。じゃあ。」

 

あら、うちの人、何時にそのお客様が来るか書き忘れてる。碧はレスポンスを送った。「何時頃、お見えになるの? 一緒に来るの」返事は10分後に来た。「8時半に、会社に来る。で、社用車に乗せるから、家に着くのは9時ちょっと前だね。僕はもう今から飯を食べる。じゃね。」碧は慌ててリビングを見渡した。ちらかってはいない。お茶も数種類そろっているしコーヒーはブルーマウンテンがある。安心しつつも、ややどきどきする。同い年の男性と歓談なんて何年ぶりだろう?

 

一人の夕食にはすっかり慣れた。夫が社長に就任して以来、平日に晩餐をともにした日の方が稀だ。碧の母は、それだけが可哀想だと顔を暗くするが、さして寂しさは感じない。27階から見える夜景は宝石をぶちまけた様な、とは言えないが、斜め前のビルの灯りのまばゆさや、薄ぼんやりと見える企業広告は、いかにも人工的な美を振りまいていて碧は気に入っている。

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食器を片づけてから、女性雑誌を取り出して和服の特集を見るが、「かやしま」の名は出ていなかった。碧自身も、きものなど「万が一のため」の喪服しか持っていない。今時は、レンタルでも良いのがあるからと母がどこかから聞いてきたためだ。若社長のお店が苦しくなるわけだ、と碧は頷く。

 

夫がアドバイスしてあげたら、小紋か何かを安くしてくれるかしら? そう考えてから碧は、それはさもしすぎると自分をたしなめた。一人で着られないというのが問題だ。そうだ、着付け教室に行こう。どうせ時間は有り余っているし。あるいは若社長が、いい教室を知っているかもしれない。碧はちょっと自分の思いつきに興奮してきた。

深良マユミ
クオドリベット 上巻
5
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