玄関のベルが鳴ったのは9時5分だった。ドアを開けると、自動で照明がつく。トレンチコートの柊の大きな体躯と、ややほっそりしているが背の高い和服姿の男性とがそこにいた。「ただいま、ああ道が混んでた。辟易したんじゃないですか、茅島(かやしま)さん」
「まあ、週末ですから無理もないのでは」その男性は、少年の様に若く見えた。
印象的な大きな瞳、少し鷲鼻で、前髪が無造作に額に下がっている。
粋な翡翠色の羽織に大島紬を着て、手には昔のお医者が持ちそうな底の大きいバッグを提げていた。これが呉服店「かやしま」の取締役社長、茅島融(かやしま とおる)であった。
碧は意識が別の世界に飛んだ様な気になり、自分の口が喋っている内容が分からなかったが、動作だけは自動的に、カップにお茶を淹れたり微笑んで「佐竹の妻です」と言ったりしていることに気がついて「良かった」と安堵した。
「なんて綺麗な人なのだろう。男であんなに綺麗だなんて。まるで王子様みたい…あんな素敵な人と巡り会う前に結婚してしまったとは!あんまりだ!」
男二人は、リビングの窓を見下ろして、さも楽しそうに話している。「いや、新幹線の見えるお住まいだなんて素晴らしい」「まあそれだけで選んだわけではないのですが、港区の割に家賃が手頃だったので」「この窓から落ちたら、新幹線の屋根に飛び乗れそうですね。怪人二十面相だったらね」呉服店社長は、子供の様に言って、おっとりと微笑した。
柊が着替えのために席を外したので、美しい客人と碧は差し向かいになった。顔を見てしまうと、胸がドキドキしそうだったので、碧はお茶のカップに眼を向けていたが、若社長は困ったことに、微笑みながら碧を見つめて話そうとするのだった。
「夜分に押しかけてしまいまして、申し訳ありません」
「いえ、いえ…お客様には、慣れていますから…」(これはちょっと嘘だな、と碧は思った)
「こちらにいらっしゃるお客様は、きっと錚々たる方々でしょうね…そう、エコノミストとか、證券アナリストとか。私の様な、傾いた会社の経営者はかなり珍しいのではないですか」碧は返答に窮したが、そのためかえって平常心が戻った。目の前にいるのは、「夫の顧客になり得る企業の関係者」であった。王子様ではない。
それでも彼女は、茅島融を見れば見るほど素敵だと思わずにいられなかった。両手を膝の上に置いて、壺に活けた桜を眺める姿は、「風流貴公子」そのままであった。寒がりなのか羽織を脱がずにいるが、中に着ているのは黒に近い紺色の大島紬で、帯は薄いグレー。帯に携帯電話を挟んでいるのが、妙にしゃれて見えた。
彼は眼が大きく、頬がそげて鼻が高い、いわゆる「濃い顔」なのだが、綺麗な形の眉と、ひな人形めいた優しい唇のためか、あるいはいかにも骨が細そうな体つきのせいか、男性臭さがほとんどなく、もう少し若ければイケメン俳優になれそうにさえ見えた。しかしそれは「ぱっと見た感じ」であり、仔細に観察すると、この男性が並々ならぬ気位の高さと、鋭い意志力とを内側から発散させ、それを桜の様な微笑で隠しているのが見て取れるのだ。
だが、茅島融と会話せずにそこまで悟る人は稀で、大部分の人はある程度、時間を過ごした後に理解する。「一見頼りなさそうだが食えない若旦那だ」と。
セーターとチノパンツに着替えた夫が「お待たせしました」と、戻ってきたとき、碧は心中で落胆した。夢から現実に戻されたのだ。
「ビジネスの話は…」柊が眼鏡越しに、呉服店店主に笑いかけると漫才の掛け合いの様に応答が返った。「本当は終わっちゃったんですよね」
いぶかる碧に、柊が言うには「クルマがのろのろだったので、茅島さんへの説明が全部終わっちゃった」
「いや、大変いろいろなことを教えて頂きまして」客人は神妙な顔になった。「ノン・リコースローンがどんなものか、今日初めて分かりました。やはり経営者は商品のことだけ考えていたのでは駄目ですね。資産運用も勉強しないといけないし、銀行も選ばないといけない。その辺が分かる人間を、一人雇った方がいいのかなあ」
柊は楽しげに身を乗り出す。「わざわざお雇いになることはないですよ。それよりも会計事務所を、いいところに換えたらいかがです? プライスウォーター・ハウスクーパースがいいですよ!」「えー、そういうところは…」「外資系はイヤですか? 」「私は構わないのですが…従業員が舌を噛みます…」
茅島融の、困惑の表情に二人は笑ったが、柊が客人の冗談への礼儀として笑ったのに対し、碧は無理矢理、笑いたくもないのに声を上げたのだった。全く、彼女は笑いたくも口をききたくもなかった。「あの方」を見上げて、見つめてうっとりとため息をつきたいと心にはそれしかなかったのだが、邪魔っけな存在がそれをさせてくれそうにない。苦々しいことに自分は、お客様をもてなし会話を盛り上げねばならないのだ。
つ、と茅島融が碧に顔を向けて言った。「この香りは、奥様のご趣味ですか」
碧はみるみる赤面するのが自分でも分かった。「あ、ええ、そうです…」なんだろう、わたしは今は香水をつけてないし、そうか、さっき焚いたインセンスのことを言っているのだ、このひとは。
果たしてその通りだった。「白檀ですね。ほかにも混じっている香りがあるが、ちょっと分からない…」柊はやや、ぽかんとした態で碧を見ている。「ええと、冬には梅の香りのお線香を焚くことがあって、でも、今は春なので白檀を選びました」
「なるほど。夏には? 」「あまり夏には…冷房をつけてお線香を焚くとこもりますから」きものの美青年が自分をじっと見つめているのに、碧は感激した。生きるってこういうことだ!と思った。その割には妙に平静で、醒めた自分が、夫が手持ちぶさたな表情でいるのを静かに観察しているのだった。その柊が、僕がいる時にこんな、お香を焚いたりしたっけ? とすねた様に碧を見た。
「夕方に焚くから、あなたが帰る頃にはほとんど消えてるのよ」
「げっ。そりゃそうだよなあ。帰りは早くて12時だもんなあ」
「社用車に、香炉持ち込んだりできないしねえ」「今度運転手に言っとくよ」
今度は呉服店店主が頷きながら笑顔を作り、お仲がよろしいですね、と囁いた。碧はなぜか悲しくなった。
それから男二人は、不動産の話を始めた。
専門用語だらけで碧にはよく分からなかったが、どうやら「かやしま」は、銀座に狭小な土地を2、3カ所所有しているらしい。それをどうするべきか、売るか、建物を建てるか、建物を建てるならどんな用途か、確実に金になる駐車場にするか。もちろん建物を造るには資金が要り、果たしてそれだけの金を借り入れられるか…その点について、柊が提案したのが「ノン・リコースローン」らしかった。
「ふむ、やっと山の様にあった金利が返済まであと一歩になったのに、また借りるのは考えものですが」
「借りる場所を銀行に限るから、大変なのです。今や資金調達には投資会社の手を借りるのが得策」
「そりゃあ佐竹社長のお立場ならそうおっしゃるでしょうね…」にやり、と笑った顔は、先刻までの風流な青年のものではなく商売人の顔であり、碧はその落差にはっとしたが、にもかかわらず優美さと繊細さはわずかも失われていない。
結局、不動産の話題は結論が出なかった(碧がそう思っただけで、実は「落としどころ」は決まっていたが)。融は腕時計を見、こんなに長居をして、と呟いた。
「恐れ入りますが…奥様」碧は馬鹿みたいに素直に融の方を向いた。
「当店の逸品の反物をお目にかけたくて、お持ちしました…奥様にはやや地味かもしれませんが、こちらは越後上布(えちごじょうふ)といって夏の麻です。
重要無形文化財にも認定されており、財産価値も充分」
くるくると広げた反物は、触るとひんやりとしたなかに素晴らしいこまやかな肌理を感じたが、色彩は、冬の曇り空めいた薄墨色にしか見えなかった。「きっと、きものにすると素敵なんでしょうね」碧には、ほかに言葉が見つからない。
「ええ、それはもう、織物はきものにしたときが最高なのです。ぜひぜひ、銀座店にいらしてください。奥様は今の方には珍しい黒髪ですから、どんなきものもお似合いになりますよ」
「ちなみに、この越後上布って、おいくら?」柊が当然だが、直截すぎる質問を発した。
「仕立てあがりで178万円でございます」
柊は苦笑をこらえるそぶりで碧を見た。「け、結構なお品をありがとうございました。でも、茅島さん、ご商売のやり方をちょっと考えた方が良いですよ…もちろん、もう少し買える値段のものもあるんでしょうが…うちの妻にはどう考えても『猫に小判』です」
「お宅様なら余裕だと思ったのですけどねぇ」
冗談か本気か、若社長は肩を落として反物を黒の大鞄に収めた。その彫刻めいた横顔、袂を押さえて立ち上がるすっきりとした容姿に、碧は心を決めた。
「この若旦那は、わたしのもの。絶対お友達になるわ」