クオドリベット 上巻

この人が王子様( 3 / 4 )

「今日も狸爺と狸っぽい会話、げっそり。若者をいびるのが楽しいみたいだ。そうそう例のお客は和菓子の「松月屋」の専務のご紹介で、銀座の老舗呉服店の若社長なんだって。

「かやしま」というお店だそうだが、聞いたことある?? なんか、銀座の呉服店というとかっこいいけど、内実は自転車操業らしい。事業譲渡を考えなきゃいけないくらいに。それで僕にいろいろ尋ねたいらしいんだな。

彼は碧ちゃんと同い年くらいだし、僕はファッションはわからないから碧ちゃんせいぜい、イケてるきものの売り方をお話ししてあげてくれ。じゃあ。」

 

あら、うちの人、何時にそのお客様が来るか書き忘れてる。碧はレスポンスを送った。「何時頃、お見えになるの? 一緒に来るの」返事は10分後に来た。「8時半に、会社に来る。で、社用車に乗せるから、家に着くのは9時ちょっと前だね。僕はもう今から飯を食べる。じゃね。」碧は慌ててリビングを見渡した。ちらかってはいない。お茶も数種類そろっているしコーヒーはブルーマウンテンがある。安心しつつも、ややどきどきする。同い年の男性と歓談なんて何年ぶりだろう?

 

一人の夕食にはすっかり慣れた。夫が社長に就任して以来、平日に晩餐をともにした日の方が稀だ。碧の母は、それだけが可哀想だと顔を暗くするが、さして寂しさは感じない。27階から見える夜景は宝石をぶちまけた様な、とは言えないが、斜め前のビルの灯りのまばゆさや、薄ぼんやりと見える企業広告は、いかにも人工的な美を振りまいていて碧は気に入っている。

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食器を片づけてから、女性雑誌を取り出して和服の特集を見るが、「かやしま」の名は出ていなかった。碧自身も、きものなど「万が一のため」の喪服しか持っていない。今時は、レンタルでも良いのがあるからと母がどこかから聞いてきたためだ。若社長のお店が苦しくなるわけだ、と碧は頷く。

 

夫がアドバイスしてあげたら、小紋か何かを安くしてくれるかしら? そう考えてから碧は、それはさもしすぎると自分をたしなめた。一人で着られないというのが問題だ。そうだ、着付け教室に行こう。どうせ時間は有り余っているし。あるいは若社長が、いい教室を知っているかもしれない。碧はちょっと自分の思いつきに興奮してきた。

この人が王子様( 4 / 4 )

玄関のベルが鳴ったのは9時5分だった。ドアを開けると、自動で照明がつく。トレンチコートの柊の大きな体躯と、ややほっそりしているが背の高い和服姿の男性とがそこにいた。「ただいま、ああ道が混んでた。辟易したんじゃないですか、茅島(かやしま)さん」

「まあ、週末ですから無理もないのでは」その男性は、少年の様に若く見えた。

印象的な大きな瞳、少し鷲鼻で、前髪が無造作に額に下がっている。

 

粋な翡翠色の羽織に大島紬を着て、手には昔のお医者が持ちそうな底の大きいバッグを提げていた。これが呉服店「かやしま」の取締役社長、茅島融(かやしま とおる)であった。

 

碧は意識が別の世界に飛んだ様な気になり、自分の口が喋っている内容が分からなかったが、動作だけは自動的に、カップにお茶を淹れたり微笑んで「佐竹の妻です」と言ったりしていることに気がついて「良かった」と安堵した。

 

「なんて綺麗な人なのだろう。男であんなに綺麗だなんて。まるで王子様みたい…あんな素敵な人と巡り会う前に結婚してしまったとは!あんまりだ!」

 

男二人は、リビングの窓を見下ろして、さも楽しそうに話している。「いや、新幹線の見えるお住まいだなんて素晴らしい」「まあそれだけで選んだわけではないのですが、港区の割に家賃が手頃だったので」「この窓から落ちたら、新幹線の屋根に飛び乗れそうですね。怪人二十面相だったらね」呉服店社長は、子供の様に言って、おっとりと微笑した。

白檀と越後上布( 1 / 3 )

柊が着替えのために席を外したので、美しい客人と碧は差し向かいになった。顔を見てしまうと、胸がドキドキしそうだったので、碧はお茶のカップに眼を向けていたが、若社長は困ったことに、微笑みながら碧を見つめて話そうとするのだった。

「夜分に押しかけてしまいまして、申し訳ありません」

「いえ、いえ…お客様には、慣れていますから…」(これはちょっと嘘だな、と碧は思った)

「こちらにいらっしゃるお客様は、きっと錚々たる方々でしょうね…そう、エコノミストとか、證券アナリストとか。私の様な、傾いた会社の経営者はかなり珍しいのではないですか」碧は返答に窮したが、そのためかえって平常心が戻った。目の前にいるのは、「夫の顧客になり得る企業の関係者」であった。王子様ではない。

 

それでも彼女は、茅島融を見れば見るほど素敵だと思わずにいられなかった。両手を膝の上に置いて、壺に活けた桜を眺める姿は、「風流貴公子」そのままであった。寒がりなのか羽織を脱がずにいるが、中に着ているのは黒に近い紺色の大島紬で、帯は薄いグレー。帯に携帯電話を挟んでいるのが、妙にしゃれて見えた。

彼は眼が大きく、頬がそげて鼻が高い、いわゆる「濃い顔」なのだが、綺麗な形の眉と、ひな人形めいた優しい唇のためか、あるいはいかにも骨が細そうな体つきのせいか、男性臭さがほとんどなく、もう少し若ければイケメン俳優になれそうにさえ見えた。しかしそれは「ぱっと見た感じ」であり、仔細に観察すると、この男性が並々ならぬ気位の高さと、鋭い意志力とを内側から発散させ、それを桜の様な微笑で隠しているのが見て取れるのだ。

 

だが、茅島融と会話せずにそこまで悟る人は稀で、大部分の人はある程度、時間を過ごした後に理解する。「一見頼りなさそうだが食えない若旦那だ」と。

 

セーターとチノパンツに着替えた夫が「お待たせしました」と、戻ってきたとき、碧は心中で落胆した。夢から現実に戻されたのだ。

 

「ビジネスの話は…」柊が眼鏡越しに、呉服店店主に笑いかけると漫才の掛け合いの様に応答が返った。「本当は終わっちゃったんですよね」

いぶかる碧に、柊が言うには「クルマがのろのろだったので、茅島さんへの説明が全部終わっちゃった」

「いや、大変いろいろなことを教えて頂きまして」客人は神妙な顔になった。「ノン・リコースローンがどんなものか、今日初めて分かりました。やはり経営者は商品のことだけ考えていたのでは駄目ですね。資産運用も勉強しないと

白檀と越後上布( 2 / 3 )

いけないし、銀行も選ばないといけない。その辺が分かる人間を、一人雇った方がいいのかなあ」

柊は楽しげに身を乗り出す。「わざわざお雇いになることはないですよ。それよりも会計事務所を、いいところに換えたらいかがです? プライスウォーター・ハウスクーパースがいいですよ!」「えー、そういうところは…」「外資系はイヤですか? 」「私は構わないのですが…従業員が舌を噛みます…」

 

茅島融の、困惑の表情に二人は笑ったが、柊が客人の冗談への礼儀として笑ったのに対し、碧は無理矢理、笑いたくもないのに声を上げたのだった。全く、彼女は笑いたくも口をききたくもなかった。「あの方」を見上げて、見つめてうっとりとため息をつきたいと心にはそれしかなかったのだが、邪魔っけな存在がそれをさせてくれそうにない。苦々しいことに自分は、お客様をもてなし会話を盛り上げねばならないのだ。

 

つ、と茅島融が碧に顔を向けて言った。「この香りは、奥様のご趣味ですか」

碧はみるみる赤面するのが自分でも分かった。「あ、ええ、そうです…」なんだろう、わたしは今は香水をつけてないし、そうか、さっき焚いたインセンスのことを言っているのだ、このひとは。

 

果たしてその通りだった。「白檀ですね。ほかにも混じっている香りがあるが、ちょっと分からない…」柊はやや、ぽかんとした態で碧を見ている。「ええと、冬には梅の香りのお線香を焚くことがあって、でも、今は春なので白檀を選びました」

「なるほど。夏には? 」「あまり夏には…冷房をつけてお線香を焚くとこもりますから」きものの美青年が自分をじっと見つめているのに、碧は感激した。生きるってこういうことだ!と思った。その割には妙に平静で、醒めた自分が、夫が手持ちぶさたな表情でいるのを静かに観察しているのだった。その柊が、僕がいる時にこんな、お香を焚いたりしたっけ? とすねた様に碧を見た。

「夕方に焚くから、あなたが帰る頃にはほとんど消えてるのよ」

「げっ。そりゃそうだよなあ。帰りは早くて12時だもんなあ」

「社用車に、香炉持ち込んだりできないしねえ」「今度運転手に言っとくよ」

今度は呉服店店主が頷きながら笑顔を作り、お仲がよろしいですね、と囁いた。碧はなぜか悲しくなった。

深良マユミ
クオドリベット 上巻
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