クオドリベット 上巻

社長夫人の憂鬱 1( 1 / 4 )

社長夫人の憂鬱 1

6時55分にサイドボードの携帯電話が鳴ると、碧(みどり)の一日が始まる。電話が鳴るといっても、それはモーニングコール機能なのでどこかからの電話がかかっていることは意味しない。意味しないが、彼女の夫の職責を考えれば、明け方だろうが深夜だろうが、緊急の用で会社に駆けつけることがないとは言えない。そして彼女は、覚悟していたとはいえ、夫のこの地位(投資会社の社長)と、自分の立場(つまり、「社長夫人」)の重さと、縛りの多さと、その割に変化が少なくて退屈であることに、息が切れそうになりつつある。

 

夫は碧に負けないくらいに朝が弱い。

「柊(しゅう)さん、携帯が鳴ったよ。じきに目覚まし時計も鳴るから、起きたら? 」碧が揺り起こしても、ふん、とかあと5分、とか呟いて布団をかぶっている。実際5分後に、かなり大きい音の目覚ましが鳴るのだが、碧が見張っていなければ、止めて眠り続けるのでは、と疑われるほどに動かない。だがやはり、身についた使命感がそうさせるのか、アラームと同時にがばっ、と起きあがり「ううー」とか「ふふぁあ」とか言いながらガウンを羽織って、のたのたと歩き出す。

 

服は着ているが、眼は醒めきらない碧は、それでもハーブティー(空腹にコーヒーは良くないので)を準備したり、リビングのカーテンを開けて天気を見たりする。たとえ晴れていても、27階なので洗濯物は干せない。眼下に太い蛇の様に横たわる道路、勤勉なアリの様にそこを走ってゆく数々のクルマ、それらが光を反射して、ちか、ちかと眼を射るのが碧には心地よい。こういうとき、「夫が仕事人間なのも、そう悪くないかしら」と思う。

 

仕事人間であっても、品川の、家賃33万円の高層マンションに住める年収が得られるとは限らず、その意味では自分は恵まれている。その程度のことは碧にもつくづくと感じられるのだ。

 

碧の夫、佐竹柊(さたけ しゅう)は40歳になったばかりだ。

 

来月、33歳になる碧より7歳年長であり、結婚してからはこの5月で7年に

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なる。ときどきこのマンションに泊まりに来る碧の母親は、そのたびに感に堪えたようにこう口説くのだ。「もうあんた、こんな都心の素敵なマンションに住んで、買いたいものを買って、碧ちゃん、あんた幸せ者だねえ…あんたのあの芸能事務所が、あんたを見捨ててくれたおかげで、こんな結婚ができたんだからねえぇ…世の中何が幸いするか分からないよ。柊さんを紹介してくれた牧さん(碧の亡父のいとこ。その人の紹介で柊と碧は見合いしたのだ)にも足向けて寝られないねえ」足を向けたって誰も困らないわよ、と碧は思うが口には出さず(年寄りに逆らっても仕方がない)、ただ唇の端で笑っているだけだ。エリートのオクサマなんて、優雅でも楽しくもないのだ、と心でぼやいている。

 

柊はお茶と、せいぜいシリアルをかじっただけで出社する。朝食は社長室で、メールや報告書を読みながら食べるのだ。朝、彼が費やす時間は、もっぱら身だしなみを整えるためのものだ。シャツは前日に碧が出しておいたものに袖を通すが、ネクタイは50本程度の中から自分で選ぶ。彼は、世の基準から言えばあまりお洒落ではないが、顔色の善し悪し、皮膚が荒れていないかどうか、ひげはきちんと剃れているか、そういった清潔感のあるなしについては、異様にこだわる。洗面所でためつすがめつ、顔も歯も、頭髪もチェックするのだ。少し前までは、気合いを入れるためか、鏡に向かってこう言っていた。

 

「目指せ税引き前利益50億円!これを2年で達成だ。そしたらチェロを買うぞ、ストラディバリを!」

「あなた家の洗面所でそう言うことを叫ぶの、やめてくれない? ここは会社じゃないのよ」

社長に就任して10ヶ月になる最近はさすがに、「独り言」はやらないが、それでもたまに、「投資案件、全戦全勝!」などと呟いているのを聞くこともある。

 

むろん、彼は自分の任務を果たすことに全てを捧げているのだ。「執行役社長」としての任務。

 

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「殿馬(とのま)ファンダメンタル・ファイナンス株式会社」という企業名を

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知っている人は少ない。だが、日本の証券業界、銀行業界、広い意味での金融業界人には、一種の緊張感と畏怖を持って囁かれる社名である。

 

殿馬ファンダメンタル・ファイナンスはマイナーな存在であるが、「殿馬證券グループ」は、誰もが知っている巨大な企業体である。それは、「日本証券界のガリバー」である。業界二位と三位の会社の純利益を合算しても、殿馬グループの純利益にほんの少し及ばないのだ。

 

殿馬證券グループの持ち株会社、「殿馬ホールディングス」が、企業再生ビジネスを勝ち抜くべく設立した子会社、それが、柊が社長を勤める「殿馬ファンダメンタル・ファイナンス」である。

 

碧には、「殿馬ファンダメンタル・ファイナンス」が一流なのかどうかは分からない。夫は切れ者だから大丈夫、程度の認識しかないが、一方で「しょせん執行役社長なんて、ホールディングスによって取り替えのきく存在。現に、前の社長だって取り替えられたのだ。あの人は、44歳で起業するはずだったのに、社長の椅子に長くいればいるほど、起業しにくくなるではないか。まあ、ヘッドハンティングされるのを待つのも一つの策なのはわかるけど。やはり殿馬ブランドが魅力なのかしら」といった、諦観まじりの不満が胸にある。そう、碧は、どうせなら柊に「自分で興した会社」の社長になってもらいたかった。

 

どうせ、野心とエネルギーを「地位と名誉」にむかって全開にするのなら、そこまでやって欲しいと、口には出さないが願っている。だが実際は。

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7時55分かっきりに、インターフォンが鳴る。社用車が迎えに来たのだ。「じゃあ、いってらっしゃい」「行ってくる」夫婦は笑顔を交わす。碧が笑うのは、それがパブロフの犬のように第二の天性となっているからだ。本当は、何かは知らないがもやもやや不満がある。それはあの日から始まっていたのかもしれない。

 

執行役社長の辞令を受けた翌日、碧は殿馬ホールディングスの役員達に昼食に招かれた。「奥様にご承知して頂きたいことがございまして」との前置きで、

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一人が切り出した。

「奥様は、佐竹社長の命を預かる大事なお立場の方です」碧は眼を白黒させた。

彼はこう続けた。「人間、万が一ということがあります。佐竹社長は若いから、まさかとは思いますが就寝中に何かの発作を起こす、人事不省になるということもありえなくはないですね。そんな際に、奥様が的確に対処して頂けるか否かは、社にとっては生命線といって良いのです。

執行役社長は、社のシンボルですから、いるといないでは全く違う。奥様には、佐竹社長が帰宅するのをしっかりと見届けて、翌朝には社に向かうまでの一部始終をその眼で見届けて頂きたい。実に重大なお立場です」柊が帰るまで寝るなよ、ということらしかった。

 

「…わたしは好きな時間に眠る自由すらないわけね」くだらない!!と思ったが、言えなかった。なんと言っても柊の立場を悪くしたくはなかったし、夫の責任が重大である以上、それをまったく背負わないのも気が咎めたためだ。しかし、碧からその出来事を聞いた柊は、真顔で言った。「彼らの言うことは、ある意味正しい」

以来、碧は不自由ともやもやが胸の内から消えない。社長夫人などやめてしまいたいが、一方でその肩書きは自分が選ばれた人間である、優越な人種である、といった快さを授けてくれる。また、縛られているのではない、大企業に保護されているのだと思えば、やり過ごせないこともないのは確かだ。ともあれ、やがて33歳になる碧は、安楽ではあったが不自由で息苦しくて、何かが不満でたまらなかった。

深良マユミ
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