クオドリベット 上巻

社長夫人の憂鬱 1( 4 / 4 )

一人が切り出した。

「奥様は、佐竹社長の命を預かる大事なお立場の方です」碧は眼を白黒させた。

彼はこう続けた。「人間、万が一ということがあります。佐竹社長は若いから、まさかとは思いますが就寝中に何かの発作を起こす、人事不省になるということもありえなくはないですね。そんな際に、奥様が的確に対処して頂けるか否かは、社にとっては生命線といって良いのです。

執行役社長は、社のシンボルですから、いるといないでは全く違う。奥様には、佐竹社長が帰宅するのをしっかりと見届けて、翌朝には社に向かうまでの一部始終をその眼で見届けて頂きたい。実に重大なお立場です」柊が帰るまで寝るなよ、ということらしかった。

 

「…わたしは好きな時間に眠る自由すらないわけね」くだらない!!と思ったが、言えなかった。なんと言っても柊の立場を悪くしたくはなかったし、夫の責任が重大である以上、それをまったく背負わないのも気が咎めたためだ。しかし、碧からその出来事を聞いた柊は、真顔で言った。「彼らの言うことは、ある意味正しい」

以来、碧は不自由ともやもやが胸の内から消えない。社長夫人などやめてしまいたいが、一方でその肩書きは自分が選ばれた人間である、優越な人種である、といった快さを授けてくれる。また、縛られているのではない、大企業に保護されているのだと思えば、やり過ごせないこともないのは確かだ。ともあれ、やがて33歳になる碧は、安楽ではあったが不自由で息苦しくて、何かが不満でたまらなかった。

社長夫人の憂鬱 2( 1 / 3 )

もしも就職をしていたら、と碧は思う。「今頃は全然違う人生を歩んでいただろう」

 

碧は、一般に言う「お嬢様女子大」の英文科の出身だ。がんばって勉強し、アナウンサーになりたいと思って「アナウンス研究会」にも入り、大学2年のうちから「マスコミに就職希望者」のガイダンスも受けた。そして3年生の夏、適性試験の帰りに、スーツ姿の男性とふわふわのロングヘアにパンツルックの女性に声をかけられたのだ。

 

「フリーのキャスター、アナウンサーのための芸能事務所の者ですが…」もちろん最初は相手にしなかったが先方は諦めなかった。碧の心を動かしたのは、実際にキャスターである女性の一言だった。「大学のうちから登録だけしておけばいいんですよ。それで私もこんな仕事につけたわけでね。いいじゃないですかぁ、おかしな所ではありませんよぉ」碧は一世一代の冒険をする覚悟で、両親にも相談せず事務所に承諾の返事をした。

 

アナウンサーになるための滑舌法も、試験勉強も続けていたのに、入ってきた仕事はなぜか「オリジナル・ビデオ・アニメの声優」だった。伝説のアングラ作家の短編小説を少女漫画ふうのビジュアルでつくった、しかし内容は文学的というか、難解で「通向け」の作品だった。これが売れるとはアニメ制作会社は思っていなかっただろう。だから主役の声優が無名でも構わなかったのだ。

 

結果として、そのアニメは20万本出荷という驚異的なヒットとなり、大学4年の碧は、「あの、メガヒットアニメ『ロックス・アンド・チェインズ』の笹雪碧!!」としてアニメオタクの女神となってしまった。佐々木碧(ささき みどり)ではなく笹雪碧(ささゆき みどり)が一人歩きをはじめ、事務所のスタッフは碧にマネージャーをつけ、大学へも送り迎えをし、アニメ雑誌の編集者は、「おおーっ、ササユキさん!ああーっ、本当にお綺麗ですよねえ、アニメのイメージそのまんまだあっ!」と体をよじって感嘆した。

 

碧は、それが永遠に続くと思っていた。見込みははずれた。

 

ブームが去ってからは、事務所は彼女を「シカト」したのだ。その頃(碧が大学を出て2年後の春)、郷里の父親の具合が悪く、仕事をこなせなかったことが、事務所には格好の口実となった。夏には、かつてのマネージャーに電話をしても居留守を使われるようになった。碧はマンションにこもり、事務所に放火することを夢想し、「御用済み」の人間のできあがりと自嘲し、泣いた。

 

その年の9月に、父親が亡くなった。母も、碧の妹も、鬱病の一歩手前の碧を

社長夫人の憂鬱 2( 2 / 3 )

何とかせねばと思った。親戚にもそれが伝わった。「碧ちゃん…ほら、名古屋に住んでる牧さん、あの、お父さんのいとこの人ね。お見合いをしないかって言ってるんだけど…お相手は、牧さんの将棋友達の息子さんですって…京都大学を出た、すごいエリートだって。歳はちょっといっているけど…」

 

頷いたのは、断るのが面倒だったからにすぎない。だが、当時32歳の佐竹柊は、嫌みなほどの隙のない履歴(京都大学法学部卒業、年収は840万円、身長は181センチ、その頃の勤め先は、殿馬不動産株式会社国際戦略室であった)からは信じられないほど、穏やかで物静かで、清潔な感じの男性だった。歳の開きは、碧には気になるどころか好ましくさえ思えた。何より、柊の側が最初から乗り気で、3度目のデートではっきりと結婚を口にするほどだった。人間不信に陥った元アイドル声優は、たった1年で初々しい花嫁となった。

 

柊の経歴には、一つだけ弱みがあり、碧の母はそれを気にかけたが、これは柊の両親と牧さんからの説明でクリアになった。それが何であるかは、いずれ明かされるであろう。

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月曜日は掃除をする日なので、夫を送り出して朝食をとると、早速フローリング用モップをリビングにかける。17畳もあると楽ではないが、汚いと落ち着かないので真剣にかける。また、以前ほどではないにせよ、来客もあるかもしれない。以前というのは2年前、柊が、殿馬不動産の執行役員に昇格した時期である。あの頃は毎週末のように、ファンドマネージャーや、駆け出しエコノミストや、ゴルフ場経営者がこのリビングを訪れていたのだ。

 

何事も、大変だと思えば大変で、朝飯前と思えば朝飯前だと碧は、台所を磨きながら自分に話しかける。本当は、こんなふうにヤカンまで磨くことはないのだが、人造大理石の真っ白な台所に、薄汚れたものがあっては似合わないからつい働いてしまう。賃貸ではあるが、2003年にできたばかりのそれは豪華なマンションなのだ。当然契約を更新することになるだろう。社長が、軽々しく住居を変えてはいけない。「港区民かぁ…」


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社長夫人の憂鬱 2( 3 / 3 )

芸能界で成功しなかったのに、女優やプロ野球選手が住んでいるマンションの住人になっている自分が、碧には可笑しい。これは現実のことなのか? という気がときどきする。だが、眼下に走る道路は空想の産物ではない。夫を乗せた社用車は今朝もここを走っていったのだ。

 

「柊さんを支えるのが私の勤め。と言うよりは、支える以外にわたしにできることはない」結婚以来、これが碧の信念であった。

 

そこには、ある種の自己否定と卑下とが隠れていた。

 

夫が帰るまで律儀に起きていること、綺麗な住居を綺麗に保つこと、日経CNBC を観てお客が来た際に経済の話に加われる様になること、そういったことに没頭することで、碧はいわば自分を殺していた。うすうすだが、彼女は最近、それに無理を感じつつある。

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掃除が終わるとランチの時間帯になる。碧の昼食は、実に社長夫人らしくないが、昨日の夕食の残り物である。柊は結婚当初から、食費を無駄にすることが嫌いで、「一人でいるときにコンビニ弁当を買ったりはしないでくれ」と説教をするものだから、碧もそういうものだと思う様になった。さすがに、役員になったあたりからは鷹揚になったが、それでも碧は弁当やファストフードを食べるくらいなら、昨夜の残りでいいと思う。もっとも、最近の彼女は百貨店のカフェで一人、ランチをとることも多い。火曜日や木曜日がまさにその日である。

 

「月曜日はお掃除の日、火曜日は出かける日」と誰に言われたわけでもないが、碧は、念入りに選んだ服を着て、正午前に家を出る。行き先は有楽町だ。ウィンドウショッピングを楽しんだり、高級なスィーツを食べ、気が向けば映画を観て、そしてデパ地下で総菜も買う。長身の、セミロングの髪をした色白の女性が口元に笑みを浮かべながら、食品袋を下げてJR に乗る。「わたしの生活が、有閑マダムの暮らしなのだろうか? 」だが彼女は、自分には何かが足りないと感じている。夫の愛も、趣味の良い生活も、享受しているというのに、わたしはこの上何が欲しいのか? 「欲しいもの」が何か分からないのは、一体どういうことなのだろうか。

深良マユミ
クオドリベット 上巻
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