クオドリベット 上巻

欠けたることも( 1 / 4 )

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

 

そう詠んだのは、ご存知藤原道長である。現代日本には道長の如くに権勢をほしいままにしている人物というのはいるのだろうか? たてまえとしては、いない。なぜなら、日本という国は民主主義国家、つまり国民が主役、一番えらい国だからである。

 

しかし、権勢を「一定分野での影響力」と解読すると、プチ道長は恐らくどこの分野にもいそうだ。人がへつらいたくなる人物、運と成功がついて回っている人物、辣腕と知力ではかなう者がいない人物。

 

日本金融界では今や、殿馬ファンダメンタル・ファイナンス社長、佐竹柊(40歳)が、「次代の道長」になると囁かれていた。ただし、本人がそれを聞けば「ナンセンス!」と苦笑するだろう。道長と違って彼は、社長の地位に満足などしてはいなかった。殿馬グループのトップになるか、あるいは殿馬グループと渡り合える金融グループを自分でつくるか、そのいずれかが実現しない限り「わが世とぞ」とは思えないのだった。

 

碧と柊は1997年の10月に見合いし、翌年の5月に結婚というスピード婚であったが、2度目のデートで柊はこう話していた。「私は10年後には殿馬不動産をやめて独立するつもりです。投資顧問会社かヘッジファンドを興し、日本の金融界に風穴を開けたいのです」碧は、はあ…とだけ言い、相手の顔を見た。「殿馬不動産みたいな大会社をお辞めになるなんて、もったいないのでは」

 

その時の柊の反応に、自分はノックアウトされたのだ、と碧は今でも思い出す。「大会社は、利用するためのもので、頼りにするためのものではありませんよ。今はもちろん辞めたりはしませんが、いずれ僕自身が金融界の常識を作ります」うわっ。このひとは自意識過剰なのか天才なのか。見かけより気は強そうだ。「夫にするなら、こんなひとが私には向いているのかも」…でも、まだ慎重に見極めないと。


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人をうかつに信じてはいけない。碧はそう考えていたし、恋人というものを持ったことすらなかった。おつきあいした男性はみな、ボーイフレンドどまりで、あれよという間にアイドルとしての仕事に追われて私生活などなかったから。

柊の側には、その経歴も伝えてあった。隠しておいて、あとで露見するとかえって良くないという碧の母の配慮だ。「この子には、地道な人生を歩んで欲しいのです。ひとに裏切られるのは一度でたくさん…」

 

考えた末、碧は柊のプロポーズに応じた。彼に、自分のどこに惹かれたのかを尋ねると、こう応じた。1 言葉遣いが正確で、行儀作法がちゃんとしている。2 ある程度学歴があり、容姿も水準以上である。3 その割に謙虚である。理路整然とまさにこのこと、の返答である。碧は少々、ひっかからないでもなかった。このひとにはロマンというものがないのか? 理屈と理論でしか動かないのか? と。「だから前の奥さんが別の男に走ったのではないかしら」と。


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「だが、これは意地悪すぎる見方かも…このひとも、私と同じでひとに裏切られたのだ。彼の場合は、一生を誓った女性に去られたわけで私よりたちが悪い。ロマンを持つのが怖いのだろう。仕事で名声を得るのがこの人の夢となったのだろう。

私も、もう夢なんか持つ気分ではないのだから、そうしてみればこんな男性を配偶者にするのが似合いなのではないだろうか。実際、この人より好条件の男性なんてそうざらにはいないし、いても私を気に入るとは限らない」

 

純粋な畏敬の念と、同病相憐れむといった思いとを、結婚への好奇心に包んで、碧は「佐竹碧」となったのである。最初の1年は訳が分からないうちにすぎた。2年目から夫は、1月半に1度は海外出張というとてつもない生活となった。殿馬の海外法人事業展開のためである。碧は、成田まで夫を送り迎えし、何回かは夫の出張した都市まで同行した。香港、フランクフルト、ニューヨーク…

 

2003年春に変化が起きた。柊が執行役員に抜擢されたのである。38歳と3ヶ月。碧の母や妹の狂喜乱舞ぶりと異なり、夫婦はいたって冷静だった。柊は「思ったより早かったが、計画通り」と語ったし、碧は碧で「やっと成田への送り迎えをしなくてすむ」であった。年俸も1900万円となったので、思

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思い切って品川駅から6分のマンションに移ってきたのだ。だがその変化も、「社長」となったことに比べれば、些細なものとさえ言えた。

 

昨年5月の、佐竹柊の抜擢劇は「28人抜き人事」と業界をどよめかせた。28人とは、殿馬グループ内の、柊より入社が早い役員の数だ。

 

その日、碧の携帯に入った夫の声はわなないていた。「えらいことになった…」「何かあったの? 」

「ファンダメンタルの社長、健康不安で退任しただろう? あれの後任に、おれがなりそうなんだ…」こういった場合、通常は副社長が昇格となるのだが、ホールディングスの首脳は副社長を殿馬総研の理事にし、柊を社長とすべく既に殿馬不動産の会長、社長に了承も取り付けたというのだ。「成功すれば、あなたの前途は洋々だわ。失敗すれば…」夫は怒気を含んで言った。「ホールディングスの狸どもめ!!」

 

自分が殿馬から独立するのを阻止するハラに違いない。そういうことならおれは絶対成功してみせるからな!というのが柊の主張であった。そうかしら? 素直に実力を買われたと思うべきではないのか、と碧は諭したが夫は聞かなかった。金融会社のトップにそのようなお人好しはいない、というのだ。

「あいつら、他人を返り討ちにして出世した奴らなんだぞ。油断なんかできるものか。ならおれも狸爺を返り討ちにするまでだ!必ずそうしてやるからな」

 

この人事には、多分にプロパガンダの気配があった。桁外れに若いトップを抜擢することで殿馬グループの先進性を世に知らしめるという。それは話題になるという意味では間違いなく成功し、柊は、本来の業務のほかに、TV 出演、金融フォーラムでの講演が相次ぎ、分刻みのスケジュールで6キロも痩せた。今も体重は戻らない。だが彼は、社長となってから碧には驚くほど優しくなった。

 

「碧ちゃん、おれは君がいてくれて本当に感謝しているよ。おれは家以外では死んでも気が抜けない。いつも強気でいないといけないのだ。家であんたの顔を見ると、安心で倒れそうになる。ただもう、『行ってらっしゃい』『お帰りなさい

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』とにっこりしてくれるのがどれほど貴重か、おれは身にしみて分かった」

 

碧は、夫からこのような慨嘆を聞かされるとは、予想だにしなかった。複雑な思いだった。2年前、子供が欲しいと切り出した碧に、「父親になる自信がない。金融界でのし上がること以外に興味なんてない」と断言した男が疲れた顔で自分に寄りかかってくるのだ。

 

バレンタイン・デイに夫婦は、ふざけて二匹の金魚と優美な容器を買った。柊は、「トリスタンとイゾルデ」とつけようとしたが、碧の主張、「ロミオとジュリエット」を聞いて、赤面ものだと苦笑しつつも折れた。今、碧は微笑んで金魚たちを眺めている。この「ロミオとジュリエット」の寓意が、彼女のさきざきに奇妙な具合に絡んでくるのだが、そんなことは無論知るよしもなかった。



 

深良マユミ
クオドリベット 上巻
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