思い切って品川駅から6分のマンションに移ってきたのだ。だがその変化も、「社長」となったことに比べれば、些細なものとさえ言えた。
昨年5月の、佐竹柊の抜擢劇は「28人抜き人事」と業界をどよめかせた。28人とは、殿馬グループ内の、柊より入社が早い役員の数だ。
その日、碧の携帯に入った夫の声はわなないていた。「えらいことになった…」「何かあったの? 」
「ファンダメンタルの社長、健康不安で退任しただろう? あれの後任に、おれがなりそうなんだ…」こういった場合、通常は副社長が昇格となるのだが、ホールディングスの首脳は副社長を殿馬総研の理事にし、柊を社長とすべく既に殿馬不動産の会長、社長に了承も取り付けたというのだ。「成功すれば、あなたの前途は洋々だわ。失敗すれば…」夫は怒気を含んで言った。「ホールディングスの狸どもめ!!」
自分が殿馬から独立するのを阻止するハラに違いない。そういうことならおれは絶対成功してみせるからな!というのが柊の主張であった。そうかしら? 素直に実力を買われたと思うべきではないのか、と碧は諭したが夫は聞かなかった。金融会社のトップにそのようなお人好しはいない、というのだ。
「あいつら、他人を返り討ちにして出世した奴らなんだぞ。油断なんかできるものか。ならおれも狸爺を返り討ちにするまでだ!必ずそうしてやるからな」
この人事には、多分にプロパガンダの気配があった。桁外れに若いトップを抜擢することで殿馬グループの先進性を世に知らしめるという。それは話題になるという意味では間違いなく成功し、柊は、本来の業務のほかに、TV 出演、金融フォーラムでの講演が相次ぎ、分刻みのスケジュールで6キロも痩せた。今も体重は戻らない。だが彼は、社長となってから碧には驚くほど優しくなった。
「碧ちゃん、おれは君がいてくれて本当に感謝しているよ。おれは家以外では死んでも気が抜けない。いつも強気でいないといけないのだ。家であんたの顔を見ると、安心で倒れそうになる。ただもう、『行ってらっしゃい』『お帰りなさい
』とにっこりしてくれるのがどれほど貴重か、おれは身にしみて分かった」
碧は、夫からこのような慨嘆を聞かされるとは、予想だにしなかった。複雑な思いだった。2年前、子供が欲しいと切り出した碧に、「父親になる自信がない。金融界でのし上がること以外に興味なんてない」と断言した男が疲れた顔で自分に寄りかかってくるのだ。
バレンタイン・デイに夫婦は、ふざけて二匹の金魚と優美な容器を買った。柊は、「トリスタンとイゾルデ」とつけようとしたが、碧の主張、「ロミオとジュリエット」を聞いて、赤面ものだと苦笑しつつも折れた。今、碧は微笑んで金魚たちを眺めている。この「ロミオとジュリエット」の寓意が、彼女のさきざきに奇妙な具合に絡んでくるのだが、そんなことは無論知るよしもなかった。
遅い昼食を食べた碧が、金魚にえさをやっているとソファの上の携帯が鳴った。
夫からのメールであった。「会議が長引きそうなので、夕食は外で食べるから悪いけどつくらないで。あと、もしかしたら晩にうちにお客が来るかもしれない。詳細はあとで。柊」
「来客だなんて久しぶり」碧は軽く目を見張る。
社長となってからは、全ての案件は社内で吟味するため、情報交換のためにうちでお茶でも…というのはほとんどなくなった。碧は、引っ込み思案のくせに、夫婦でホスト役を務めるのは結構好きだった。我ながら明るく軽やかに知的に振る舞うのが巧いと満足さえしていたし、実際、エコノミスト達の会話は全部は分からないが、分かる部分はとても面白かった。
それが全くなくなってしまったのが、漠然としたつまらなさの一因であるのは碧も気づいていた。どんな人が来るのかしら、今話題の「スルードア」の社長かも。いや、彼はそんなことはしそうにない。むしろ「ブジテレビ」のえらい人がお忍びでやってくる可能性の方が高い。あそこの主幹事は、殿馬のライバルの大日本SYBC 證券 …してみるとどういうことになるのだろう?
そういう話は密室で行うもの、と碧は気づいた。だとしたら、今回のお客は純然たる情報交換で、TFF(殿馬ファンダメンタル・ファイナンス)の投資先になるかどうかは微妙な段階なのだ。
「どんなおじさんが来るのやら」碧は帽子と財布を取り、花を買いに出かけた。
花を買う前に立ち読みをしてしまったので、帰宅は3時に近かった。マンションのエントランスで碧は、テレビレポーターと出くわした。「すみませーん、タレントの、まびら麗さんのお宅ってここですよね? 」
「え? あ、わたしはタレントさんのことは知りませんので」
「ほらあ、あの子ですよぉ、集団万引きを告白して店から訴えられてタレント活動自粛してる」
そんなことがあったのか。芸能人が何人か住んでいるのは確からしいが、名前と顔が一致するのは二人くらいだ。碧は苦笑して、「ここには政治家も住んでいますから、強引に取材すると色々いわれますよ」と穏やかに言いつつ「警備員呼び出しベル」を押した。もちろん、つまみ出してもらうつもりだ。
「ロミオー、ジュリエットー、春になったのにあんたたちは入学も卒業もしないのよねえ」と、漫画的な独り言を呟いて碧は花を活ける。高校時代に習った活け花は、当時はやらされていたという感じだったが、大人になってから「これは役に立つ」としみじみ思う様になった。愛らしい花が空間にあるのとないのとでは全然違う。飾るにしても、花の向き、花と花器とのバランスなどの基礎知識があるので、手早く美しいものができる。
柊も、碧が活け花をたしなむというのが、この人ならと思った決め手の1つだったと話したことがある。「花が好きな女性なら美を尊ぶに決まってる」なのだそうだ。
早咲きの桜を白磁の壺に大きく投げ入れて、足元に菜の花を配した。ピンクと白のスイートピーは、短く切って一輪挿しに挿して洗面所と、トイレと寝室に置いた。春の気配が一帯に満ちた。
5時になってから携帯を開くと柊からのメールが来ていた。発信は4時42分。