The Lost King 失われし王 ルイ=シャルル(上)

七 誘拐犯たち

 シモン夫妻に新居としてあてがわれたのは、タンプル門からは目と鼻の先、元はテンプル騎士団の馬屋であった粗末な小屋の、その二階にある三部屋から成る貸間だった。手押し車を転がしながらのラサールの道行きも、当然の事ながら短いものであった。

 母性的なマリー=ジャンヌは、薬物を飲まされた上に窒息しかねぬ扱いを受けた子供の身を案じ、我が目で安全の確認をしたいと切望して、シモンの強硬な反対にあった。彼女の方もまた、容易に屈服はしなかった。タンプル塔で不測の事態が発生して彼らの後から追っ手がやって来る危険を考えれば、無駄に少年を引き留めてはならないのだという説得を夫人が受け入れるまでには、夫婦の間では偽らざる剣呑なやり取りが交わされた。子供さえ手放してしまえば、何を聞かれようとシモンが案じる必要はない。あしらい方は承知しているのだ。

 そのような次第で、ようやくラサールはフランスの国王が入った包みと共に出発したのであった。荷物を運びながら、もやに包まれた人気ひとけのない道路を40ヤード以上進んで行くと、折り良く其処に、停車中の貸し馬車がいた。これに荷物を積んで乗り込むと、馬車は堅実な速度で走り出した。

 全ては計画通りに進んだ。明日、シモンは彼が教えた住所――パラディ通り二〇番地――にラサールを訪ね、後日に王党派から支払われる百万の、手付けにあたる金貨を受け取る手筈になっていた。

 この取り決めをシモンが受け入れるに至った理由は、単に良き友ラサールに対する信頼だけではなく、本件の格別に危険な事情が故に代わりとなる安全な選択肢がなく、妻にすら相談できなかった為であった。その危険な事情は、誰であれ、他者に打ち明ける事を不可能にした。あと少しすれば、シモンは妻に、自分たちに危険が迫っており、逃亡によって安全を図らねばならぬと説明できるはずだった。旅に出るのに必用充分な金しか持たぬように見せかけて、妻と共にスイスかプロイセン、オーストリア、あるいは、いっそイングランドでもいい、外国に行き、その地で報酬の百万を遣って、彼の崇高なる共和主義精神からすれば唾棄すべきはずの貴族階級のように、贅沢三昧で遊び暮らす為に。

 この夜、シモンはそのような夢に浸り、自分はもう大金を手に入れたも同然で、絶対安全な立場に身を置いていると考えていたのだが、一方その頃ラサールは、ド・バッツに貴重な子供を届けるべく、急ぎパリを横断していた。だが、その貸馬車が走っているのはメナール通りではなかった。川向こうのシェルシュ・ミディ通りにある、男爵と他の二名が待つ陋屋ろうおくに向かっていたのであった。

 その陋屋の一階、明々と照らされた快適な部屋では、送り届けられた子供がようやく巻き付けられた布を解かれて、未だ眠ったままの状態で暖炉の前に置かれた肘掛け椅子に収められた。そしてラサールが、その横に勝ち誇ったような様子で控えている間、(どちらもド・バッツから紹介されなかった)二人の客たちは畏怖により目を見開いて彼らの王を見つめ、男爵は少年の前に跪いた。その赤らんだ顔を見上げ、黄色い髪がべったりと張り付いた額から、えくぼのある柔らかな丸い顎まで、全ての目鼻立ちと特徴に視線を走らせると、常ならば鉄の如き神経の持ち主であるはずの男の目には涙が湧き出た。

「国王陛下!」彼はささやいた。「我が王よ!天の神よ、これが夢でないとは信じられぬ」

 衝動的に立ち上がると、彼は両腕を広げて、物憂げに微笑んでいるラサールに歩み寄った。

「フロランス、我が友よ!君には一体、どのように報いれば良いのだろう?」

「ああ、そんなの!革命政府の駄犬どもに一杯喰わせる楽しみだけで、お釣りが来るくらいですよ。それに、愉快で造作もない仕事でしたし」

「造作もないだと!」ド・バッツは鼻息を荒げた。彼は客人たちに説明した。「こういう男なのだよ。自分の働きを何かと卑下して、わざわざ些細な事柄であるような言い方をするのだ」

「弁明の必要などありませんぞ」二人組の内、年長者の方が発言した。「これほど輝かしい任務をやり遂げ、このような危険に己の身を投じた人物の中にある、勇気と気高さを見誤ろうはずもない」

「終わった仕事ですよ、それくらいにしましょう」ラサールは言った。そして気のない物憂げな調子で、一連の冒険を手短に、タンプル塔の衛兵との剣呑な瞬間までをも面白可笑しく話して聞かせた。

 彼が暇乞いとまごいをした時、男爵は深刻な懸念を見せた。「パリに留まっても危険はないのか?この紳士たちは、すぐに陛下を地方にお連れする。彼らと同行してもかまわんのだぞ、フロランス。パリが危険ならば、その地にそのまま潜伏しているといい。君の為に身分照明書を入手しよう、この場合……」

「親愛なるジャン、俺は明日、市民シモンと大事な約束があるんです。奴は俺から百万を受け取るつもりでいる。それに、俺は俺で勉強がありますからね。ダヴィッドのアトリエを離れる訳にはいきません。心配は御無用。俺に関しては、この冒険の危険は全て過ぎた事です。今晩、やり遂げました。きれいさっぱりね」

 ド・バッツだけでなく、他の二名も感情に走った反応を示し、そしてラサールは、それ故に偉大な芸術家には成り得ぬと師ダヴィッドが判断するに至った、過剰な感情の表出に対する忌避心から退出を急いだ。

 ラサールは、ようやく一月の夜闇の中に忍び出ると、パレ・エガリテ1近くの粗末な部屋へと帰路を歩んだ。あの部屋に戻れば、カルマニョールと兎の毛皮の帽子を脱ぎ捨てて、自分はいつの日か歴史的な偉業と呼ばれるはずの、そしてそのいつの日かが到来する前の現在としては、ド・バッツに50ルイを要求してしかるべき仕事を成し遂げたのだ、という思いを胸に眠りに就く事ができるのだ。あの紳士たちが口にした、勇気と気高さに対する賛辞がもたらしたのは、苦々しさだけだった。そんな飾り物の美質など、革命によって貧窮に落とされた美術学生の空腹を満たすには、何の役にも立ちはしない。

 翌朝、ルーブルにあるダヴィッドのアトリエで、彼は脇目も振らず、勤勉に芸術の道を追求する若者として、新鮮かつ爽快な心持で画業に取り組んでいた。正午の一時間ほど前にショーメットの訪問によって邪魔が入るまでの間、彼は同門の学生の肖像に没頭していた。

 代理官の朝は多忙だった。

 不安に駆られて、朝一番にタンプル塔へと予定外の訪問をした彼は、担当委員たちに釈明した。

「アントワーヌ・シモンは昨夜ゆうべ出発してしまったからな。万事ぬかりなく保たれているかどうか、確認しておいた方が良いと思ったのだ」

 委員らは、万事滞りなく、引継ぎが完了した状態であると請合うけあった。ショーメットは眼鏡をかけて記録簿をめくった。彼は、この場にいる四名の委員によって署名された証明書を点検し、カペーの子供たちが正式に引き渡されたのを確認した。それから彼は、うなるように言った。

「これは問題ない」彼は眼鏡を外し、再び委員たちと対面する為に振り返った。彼はさりげない風を装った。「君たちは今朝、あの虎の子たちを見たかね?」

 既に面会済みであると、彼らの一人が代表して答え、更に小カペーは想像していたのと異なり、虎の子供らしい処が全く見られないと証言した。

 ショーメットは顔をしかめた。「どういう風にだ?」

「全く口をきかないんです。不機嫌で反抗的な、どうしようもない小猿ですよ。我々は1ダースは質問をしたはずですが、ただの一言も返ってこないんです。まるっきり痴呆か唖者みたいに、ぼんやりとこっちを見返すだけで」

「ああ! 不貞腐ふてくされ中、という訳か?そうか、そうか。なら、女どもはどうなんだ?そっちも同じ調子かね?」

「それどころか、あの二人は間抜けな修道女みたいに上品ぶって、素直に『はい、ムッシュー』『いいえ、ムッシュー』ってな具合ですよ。あの女どもに言ってやったんです、このフランスには、もう貴族なんぞいないんだ、我々は対等な市民だと学習しろ、返事は『はい、ムッシュー』にしろってね。連中の事は、馬鹿女、って呼んでやってますよ」そしてルイ王の血族に対する軽蔑心を強調する為に、愛国者は会議用ホールのモザイク模様の床に唾を吐いた。

「腐り果てた血統だ」とショーメットが同意した。

 彼はわざわざ上階まで登ろうとはしなかった。そのような必要はなかった。だが、常任の管理人が廃止された現在、あの少年を誘拐しようとする試みを不可能にする処置が必要である、というのがコミューンの意見であった。少年が反抗的なだんまりを続けると決めたのならば、独房監禁によって喋る必要自体を剥奪すれば良い。少年の監禁部屋の扉を完全に封じ、食事の出し入れのみに使用する小さな鎧戸を取り付ける為に、ショーメットは早速大工を呼ぶつもりだった。それより後は、コミューンからの特別の許可がない限り、誰であろうと、部屋に入る事もドアを外す事も許されない。あの少年は自分で自分の面倒を見るすべを学ばねばならん。オーストリアの野獣の子は、過剰に甘やかされてきたのだ。最終的にショーメットは、呼び付けた大工によって、この命令が本日中に効果的かつ即座に実行されるよう、二名の委員に監督を任せた。

 タンプル塔を後にした彼は、軽い興奮を覚えつつ、シモンの新居を訪問すべく階段を登った。

 ノックに応じてシモン自身がドアを開いたが、彼は一瞬、革命政府の飾帯を着けてサーベルをぶら下げた歓迎されざる訪問者を、予想外の驚きで呆然と凝視した。それから彼は乱暴に押しのけられて、ショーメットが入室の許可も得ずに敷居を跨ぐと、内側からドアを閉めた。

「一人か?」彼が尋ねた。ショーメットの態度は険しいものであり、ずんぐりと垂れ下がった鼻の下で、唇はきつく結ばれていた。

「女房は市場だよ」

「ああ!で、あの少年は?」

「少年?」シモンは色を失った。「どの少年だ?ウチには息子なんざいねえぜ」

「お前の息子の事なんぞ話しちゃいない。違う。タンプル塔の少年は?カペーの少年は?何処に隠した?」

「カペーの少年?何処に隠したって?俺っちが?」シモンは既に立ち直っていた。彼は自分の立場を理解していた。彼の良き友人ラサールは、仮にこのような事態が起きたとしても、攻撃を受ける余地はないのだと説明してくれていた。小さな黒い目が彼の大きな顔の中で輝いた。「何の冗談だい、市民ショーメット」

 元々、人に好感を抱かせる性質ではない市民ショーメットは、威嚇に出た事によって見るも恐ろしい形相になった。「アントワーヌ、ふざけるのはよせ」

「ふざけてるのは、そっちだろ。マジで言ってるようにゃ見えないぜ」

「私はこれ以上ないくらいに真剣だ。貴様もとっととふざけるのを止めんと、肩から汚らしい頭を刈り取ってやるぞ。告発されたくはないだろう?」

「告発って、なんの罪状でだよ?」

 ショーメットが己を抑えるのに苦労しているのは明白だった。「よく聞け、アントワーヌ。さっきまで私はタンプル塔にいたんだ。今朝、あそこにいた少年は、カペーじゃない。すり替えられたんだ」

「すり替えられた?すり替えられた!あんた、何言ってんだ?」

「これだけ言えば充分だろう。とぼけるのはよせ。あの餓鬼は何処だ?」

「俺が知るかよ?」

「今すぐ、あの餓鬼を渡さないと、四十八時間以内に貴様のシラミだらけの頭が籐籠に転がり落ちるぞ。それでも知らないと言い張るつもりか」

 シモンは彼を嘲った。「あんたがタンプル塔に行ったってンなら、記録簿と四人の委員たちの署名を見たはずだぜ。それから俺たちを通した衛兵もいる。連中は俺たちが餓鬼なんざ連れてなかったって言うはずだぜ。もし餓鬼がすり替えられたってンなら、やったのはあの委員たちだろうさ」シモンは怒鳴った。「これであんたも、真面目な管理人を首にした自分が馬鹿だったって身に染みたろ。もしも」と、彼の態度は突然悪意に満ちたものになった。「コイツが、あんたの汚ねェ計画の一部じゃないならの話だけどな。読めたぞ。あの委員たちは昨夜ゆうべ、あんたの仕組んだぺてんの為に任命されたんだな。みんな悪どい陰謀なんだ!そんで、悪事がバレそうになったら、俺に罪をなすりつけて逃げちまおうって寸法だ!俺っちを告発するって?告発されるのは、あんたの方だろが。おが屑の中に転がるのは、あんたの汚ねぇ頭だろうぜ」

 ショーメットの顔は激怒で色を変え、邪悪な形相になった。「この部屋を捜索する」彼はサーベルに手を置いた。「邪魔をしたら一寸刻みにしてやるからな」

「おお、やりたきゃ好きなだけやんな。地獄の亡者みたいに、いつまでも這いずり回って探すがいいさ」

 激怒のあまり押し黙ったまま、ショーメットは捜索を行った。その間中、シモンは彼をからかいながら、三つの部屋を順ぐりに確認する後ろをついてまわった。激怒し、当惑し、そして最後に彼は確信した。自分はこの腹黒い靴直しから、逆ねじを喰わされたのだと。彼はドアまで大股で歩いた。そして敷居の処で振り返った。

「この件で、必ず貴様の首を刎ねてやる、犬っころめ。神かけて絶対に……」

「誓うフリなんざ、やめとけよ」シモンが口を挟んだ。「俺っちに余計なちょっかいかけてみな、そしたらこっちは、あんたの化けの皮を剥いでやるぜ。あんたは、あの餓鬼について管理責任があるコミューンの代理官だ。俺に難癖つけてきやがったら、あんたにあの餓鬼を出してみろって言うぜ。もしあんたが餓鬼を連れてこれなかったら、自分がどうなるか、わかってるよな。俺の忠告を聞いて口をつぐんでるんだな。じゃ、楽しい一日を、市民代理官」

「貴様にとっては最悪の日になるだろうよ、悪党め」ショーメットはそう応じたが、それは単に、困惑と恐慌状態の中で虚勢を張った捨て台詞に過ぎなかった。

 このような興奮状態で、彼は作業中のラサールを引っ張り出す為に、予告もなくダヴィッドのアトリエを訪れたのであった。彼は蒼白になって震えており、その粗野な顔にあった通常時の生気は、全て無気力にとって代わられていた。彼は自制していたが、それも彼らがルーブルの外、しつこい霧雨と寒さのせいで無人になっている中庭に出るまでだった。

「君の素晴らしい計画は木っ端微塵になったぞ」彼はついに爆発した。「犬畜生のシモンが私利私欲の為に台無しにしてくれた。予測してしかるべきだった」

 ラサールは穏やかだった。「我が身を振り返ってみると」と彼は物憂げに言った。「俺は他人の不正行為について、見積もりが甘い傾向があるかもしれません。ある友人から説教された通りに、人間の本性は善ではないって事を、つい忘れてしまうんです。しかし正確に説明してください。シモンは何をしでかしたんです?」

「あの下衆野郎は、私に逆らいやがったんだ。奴は少年をこっちに引き渡すのを拒否した。図々しくも、あの餓鬼が、まだ塔内にいるようなふりをしていやがる」深緑のコートの両襟を掴んで、彼はラサールを問い詰めた。「昨夜の事件について何を知っている?何が起きたんだ?」

 穏やかに、しかし断固として、ラサールは掴まれた手を外した。彼の表情は厳粛なものだった。「俺に関する限りは、全て計画通りにいきました。あの少年は外に連れ出しました。後はシモンの問題です」

「あの悪党は、記録と委員たちの署名を盾にしているんだ。もし誘拐があったとしたら、委員たちの仕業だろう、とぬかしていやがる」

「何処かに支障があったんでしょうかね?」と何食わぬ顔でラサールは疑問を呈した。「俺だったら、タンプル塔を訪問してみますけど」

「もう行ってきた。いの一番に、あそこに行ったんだ。私は、少年を独房監禁にして、誰とも話せないようにしろと命じてきた」

「ええっ!じゃあ、貴方は自分の目で、すり替えを確認してきたんですか」

「そんな事はするもんか」ショーメットは激烈な調子で応じた。「まったく!あの少年を見る訳にはいかんだろう?私を馬鹿だと思ってるのか?誰とも話せないようにする処置を命じるより前に私が少年の様子を確認したのが知れたら、一体どう言い訳すればいいんだ?私の立場はどうなる?」そして再び尋ねた。「君は私を馬鹿だと思ってるのか?」

「どうも飲み込めないんですが」と言って、ラサールは真面目な顔で彼を見た。「確認させてください。貴方はシモンに、既に少年がすり替えられたのを知っていると言ったんですか?」

「もちろんだ」

「言いたくはないんですが、でも、貴方は馬鹿としか言えないですよ」

「何だと?」

「貴方はシモンに、少年がすり替えられていると言いました。それを貴方は、どうやって知ったんです?委員たちは、貴方が少年に会わなかったと、そして貴方が少年を独房に監禁するよう命じたと証言するでしょう。貴方はどうやって説明するんです?透視能力を使ったとでも?親愛なるアナクサゴラス!気の毒なアナクサゴラス!もしシモンが貴方を告発したら、確実に首が落ちますよ」

 ショーメットの顎は外れそうになった。

「身の破滅だ!」

「文字通りにね。不幸中の幸いは、この件を追及されるのを恐れているのはシモンの方も同じだという点です。ですから彼は、貴方の告発を実行に移すような真似はしないでしょう。状況は行き詰まり。それがせめてもの慰めですね」

「慰めだと!くそッくそッくそッ!そんなものの何処が慰めだ?シモンの奴は、この悪どい詐欺をやり抜けてしまうのか?」

「貴方が怒り狂うのはもっともですよ。気持ちはわかります。でも、貴方が犯した大失敗の後では、どうにも取り返しようがありません」二人は中庭の終端に来ていた。ラサールはくるりと身を返した。「ここで濡れ鼠になっても何にもなりませんよ。貴方が替え玉を見ていると誰にも言わせないように、今後一切、タンプル塔には近寄らないようにしてください。貴方がそういう用心をして、そしてシモンが余計な事を話さない限りは、貴方も安全なはずです」

「それじゃ結局の処、今朝、少年を見ずに済ませた私は正しかったのか?」

「いやいや。正しくはありませんでしたよ。単に運が良かっただけ、結果論です」

「だがもし、私があの餓鬼に会っていたら……」

「さっきからずっと、同じ処を堂々巡りしてますよ。それに、びしょ濡れだ」彼は大股で歩いて建物に戻り、ショーメットも其処では、それ以上の会話を続けようとはしなかった。「何か気づいた事があったら、貴方に知らせますよ。しかし、我が友よ、やってしまった事は、やってしまった事です。貴方が名前をもらった人の哲学2を思い出して、己を鼓舞しましょう。オ・ルヴォワール(では、また)、アナクサゴラス!」そして彼は自分のイーゼルに戻って行った。自分は騙されただけでなく、嘲られたのであろうか、と思って呆然としているショーメットを独り残して。

 ラサールとしては、至極あっさりと代理官から解放されて、有り難く思っていた。その夜、彼が部屋を借りているボン・ザンファン通りの家を訪ねてきた市民シモン、敵意に満ちた市民シモンとの交渉の方は、これほど容易にはいかなかった。

 尻尾を巻いて去って行ったショーメットのお陰で、実に素晴らしく始まったその日、シモンは一時間かそこらの間、悪意ある笑いではしゃいで過ごしたが、成り行きは既に、不安な方向に変化していた。正午近くに、彼はラサールから教えられた住所である、パラディ通り二〇番地に行ってみた。思いもよらぬ事に、二〇番地にあったのは薬剤師の店だった。それでも彼は念の為に、パラディ通り二〇番地で、フロランス・ラサールを知る者はいないかと尋ねてみた。

 その店から出た彼は、息苦しさと胃の辺りの不快感という身体的な徴候によって、漠然とした疑いを意識し始めていた。笛を吹いてショーメットを踊らせ、楽しんでいたはずの自分が、今度は同じような曲に合わせて踊らされるハメになるかもしれない。

 途方に暮れた彼は霧雨にもかまわず道路に立ち尽くしていたが、ラサールがダヴィッドのアトリエで働いていると耳にしたのを思い出した。それが何処にあるかは知らなかったが、調べるのは容易だった。ルイ・ダヴィッドは国民公会の議員なのだ。シモンはテュイルリー宮におもむくと、融通の利く職員から、市民ダヴィッドのアトリエはルーブルのすぐ近くにあると聞き出した。ようやく目的地に辿り着いた時には、一月の午後の乏しい日照のせいで、学生たちは既に全員アトリエを後にしていた。けれども管理人を務めている年配のだらしない女が、市民ラサールの住処を教えてくれた。

 半時間もかからぬ内に、シモンはボン・ザンファン通りにある建物のがたついた階段を登って、画家が住む部屋のドアを乱暴に叩いていた。

 ラサール自らが扉を開けた時、シモンはツキが自分にあると思った。

「見つけてやったぞ、どうだ?」シモンは喧嘩腰だった。「俺っちをパラディ通りのクソ忌々しい薬屋に行かせるなんざ、何の冗談だ?向こうじゃテメェなんざ、聞いた事もないってよ。こいつぁ説明なしじゃ済まねえよな、若造」

 彼の真正面に立っている若い画家は、薄暗い明かりの中で、その青白い顔に穏やかな驚きに似た表情を浮かべたように見えた。

「誰かと思えば、模範的市民のシモンじゃないか。それで、何の話だっけ?」

 その気だるい口調は怒りを誘うものだった。シモンは頭を低くして雄牛のように突進した。力強く重量のある彼は、ラサールを部屋の中央あたりまでよろめかせた。それは中ぐらいの広さの、乱雑な、家具も碌にない部屋だった。脚輪付きの低いベッドが壁際に置かれ、部屋の中央にはテーブルがあり、それに加えて二脚の椅子と、大理石の天面板にひびが入った箪笥が家具の全てであり、カーテンをつけた壁龕へきがんが衣装箪笥の代わりだった。樅材の床板には敷物もなく、一つきりの窓では積もりに積もった埃がカーテンの役割を果たしていた。

 体勢を立て直したラサールはからの暖炉の方に後退し、その間にシモンはドアを閉めると、戦いに備えるかのように身構えた。

「さあて、若造、どういう訳で俺に嘘の住所を教えたのか、聞かせてもらおうか?俺はナメたマネされて黙ってるような男じゃねぇんだ。そいつを教えてやろうか」

 彼の脅しが如何なる効果を発揮したとしても、少なくとも、ラサールの気だるい口調には何の影響も与えなかった。

「そんな権幕で押しかけてきた理由については、教えてもらえるのかな。随分と剣呑じゃないか」

「そうかい?これっくらいは序の口だって思い知る事になるぜ。俺が何でここに来たのか、本気でわからねぇか?」

「わからないから訊いてるんだよ、市民シモン」

「何だと?」シモンは一、二歩足を進めた。「この犬公が!」彼の顔面は紅潮し、小さな両目は険悪の色が濃くなっていた。彼は疑心が呼び起こした激怒を押し殺していた。「百万の話はどうした。俺が配達した商品の代金だよ。パラディ通りで、今日、俺が、受け取る事になってた――でっけぇ金はよぉ」

「ああ、それ!」ラサールは、たった今、事態を理解したかのように笑いだした。「でも君、俺の話を本気にしてなかったじゃないか!百万が手に入るなんて信じてなかったろ。ありゃ、冗談だよ、我が友よ。君だって良くわかってると思ってたんだけどな」

「冗談!」シモンの頭と首には血管が浮き出した。一瞬の間、彼は脳卒中を起こしそうになった。「てっ、てめぇ…てめぇ、だったら何で……どういうつもりだってんだよッ?」

「だから、言ったろ。君は俺が何処で百万も手に入れてくると思ってたんだい?我が親愛なる市民シモン、あの子供の救出は、素晴らしい、気高い行為だった。これは受け売りなんだけどね、善行を成し遂げたという思いは、永遠に色褪せない喜びなんだってさ。それを君の報酬にしろよ」

 室内がシモンの苦しい呼吸音で満たされ、不吉な静寂が落ちた。それから彼は、厚い唇から泡を飛ばしてわめき始めた。

「この犬っころ!ヒキガエル!気取りかえった貴族かぶれの毒蛇!」脈絡のないなぞらえを並べ立てた罵詈雑言を叫びながら、愛国者は襲いかからんとする獣のように姿勢を低くした。「てめぇの体中の骨を、一本残らず粉々にしてやる」

 頑丈な杖が一本、暖炉の窓間壁まどあいかべに立てかけてあった。怒り狂ったシモンが彼に飛びつこうとした時、ラサールはその杖をひったくった。脇に飛びのいて突進を避け、飛びかかってきたシモンを、それで殴りつけた。前腕で強打をとらえたシモンは、そのまま杖を押さえてラサールの手からぐいと引っ張った。杖があっさりと離された為に、シモンは勢いよく背中から倒れそうになった。体勢を立て直した彼は再び前方に向かって行こうとしたが、足先が床に触れたか触れないかという処で、突然、恐怖のあえぎと共に動きを止めた。長さ約2フィートの細長い刃の先端が、彼の胸から1インチ以内にあった。それから彼は、この驚異を理解した。ラサールの杖は仕込杖であり、シモンは自らの手でその鞘を引き抜いたのであった。

 そして今、突きつけられている刃に負けず劣らず、冷たく恐ろしい声が彼に告げた。

「ちょっと、分別がなさ過ぎるんじゃないか、我が友よ?君の素晴らしい愛国心に背いて、君がつい最近まで崇め奉ってた連中を売り飛ばして、そうやって共和国をぺてんにかける事で百万が手に入るだなんて早合点した時と同じくらい、分別がないよ。君にぴったりなラテン語の格言を教えてあげよう。『ネ・ストル・ウルトラ・クレピダム3』。靴直しの仕事に戻りなよ、市民シモン。靴屋は靴以外の事に口を出すな、本分を守れ……って意味さ。国を動かすレベルの政治って奴には、君とは全然違う種類の人間が必要とされるんだよ。君なんぞ、お呼びじゃないのさ!行けよ!」

 彼は仕込杖の刃を突き出した。シモンは後ずさった。ラサールは彼を急き立てた。「きびきび動かないと、小鳥の串焼きみたいになるぜ。俺の下宿から出ていきな、この悪党、けちな裏切り者、国王の誘拐犯」

 今朝、錯乱したショーメットが彼に浴びせた空虚な脅迫を、錯乱したシモンはラサールに対し繰り返した。「この件で、必ずてめぇの首を刎ねてやるぞ、悪党め。俺がやるより前に、ギヨティーヌがてめぇの首を飛ばすはずだ、そいつを見物してやらぁ」

 彼が代理官の捨て台詞に対して答えたのと同じように、彼はラサールから告げられた。「面倒を起こしたいなら、御自由にどうぞ。その時は俺も、あの誘拐事件は君が企んだって告発するから。証拠はタンプル塔の中にあるし、君の頭は胴体と泣き別れだろうね、市民シモン。でも、そんな事は本気で信じちゃいないさ、君は面倒なんて起こさないよね」

 扉を開けると、最早一言も発さずに、訪問者は急な階段を騒々しく踏み鳴らしながら降りて行った。ショーメットの返報は成されたのであった。


  1. Palais-Égalité パレ・ロワイヤル(王宮)の革命時代の呼称。オルレアン公フィリップ・エガリテ(フィリップ平等公)にちなんでパレ・エガリテ(平等宮)と呼ばれた。 

  2. アナクサゴラス BC500年頃の古代ギリシアの自然哲学者。後の宇宙科学や原子論へと発展する説を提唱した。知の探求の妨げになるとして、自ら地位も財産も放棄したと言われている。 

  3. Ne sutor ultra crepidam 古代ギリシアの画家アペレスは、自作の画中における靴の描き間違いについて靴の修繕屋の指摘を容れて描き直した。しかしその靴屋が脚の描き方にまで批判を加え始めるに至って「靴屋は履物より上の事にまで口を出すな」と言って退けた。英語の格言"The cobbler should stick to his last."の元になった逸話。 

八 絵筆に別れを

 ラサールは、彼自身に責任を帰すべき現在の状況に不安を感じてはおらず、彼が何らかの保身策を講じたり、それまでの生活様式を変更したような形跡は見られなかった。

 自らの愚行によって立場の危うくなったショーメットは、沈黙を破って己の首を危険にさらすような挙には出ず、それどころか保身の為に、シモンの私欲のお陰で失敗したと思い込まされたぺてんを取り繕い続けるはめに陥っていた。ラサールによって容赦なく騙されたシモンは、実行に移せばあの画家もろともに自分自身もギロチン行きになる末路しかない告発を、空脅しで口にする事しかできなかった。可能性としては極めて低いが、ショーメットとシモンが情報共有し、両者が共に狡猾なラサールに利用され、ハメられたのだという裏のからくりを悟るに至ったとしても、彼らには逆襲する力はなかった。何故ならば、事が表沙汰になれば、彼ら自身にまで罪が及ぶのは確実なのだから。

 それからの数ヶ月、ラサールに関しては特筆すべき事もなく、王党派の活動に励んでいない時には、常と変わらずダヴィッドのアトリエで熱心に働いていた。画業で身を立てる事を熱望する身としては、芸術が莫大な金になり、盛大に繁盛し得る唯一の社会制度と信じている王政と貴族社会の復活を助ける為ならば、自分はあらゆる努力を惜しまぬと決意している、というのが当人の言である。この告白に見られる、愛想に包みながらの人を食ったような言動は、これ見よがしの英雄気取りに対する彼の露骨な反感の証拠となるものだった。

 彼が先ほど記したような考えを披露した際に、ある亡命貴族エミグレから私利私欲と責められたラサールは、次のように己の行動原理を語ったという。「だから何です?貴方は本気で俺が真っ当じゃないと思うんですか?何処の国の、どんな人間だって、誰もが自分に都合の良いように政治をこね回して、色を塗りたくってるんじゃないんですか?貴方がたコンデ軍1の紳士たちは、盛大に勇ましく、自分の血を流す気満々、他人の血を流す気は輪をかけて満々だ。それは王党派の大義の為であって、自分にとって一番都合の良い社会体制を復活させる為や、現体制に没収された富と贅沢品を取り戻す為なんかじゃないっておっしゃるんでしょうね。でも、この事実を否定できますか?俺は王党派の大義の為に、戦場で血を流すよりも目覚ましくて危険を伴うような奉仕を、自分の流儀で行なってきましたよ。我々の違いは、俺の方が貴方がたより正直というだけですよ。俺は率直に労働の目的を認めます。俺は額に月桂樹を巻きつけて、世に向かって『献身的な英雄を見よ!』なんて叫んだりはしません」

 彼は争いと混乱の渦中においても平静な態度を保ち続け、コミューン議会には――自分の自治区セクシオンの議員として――規則的に出席し、其処で討議された議題と、1794年の前半には着実に暴力性が高まっていった世論が、それに如何なる反応を示したかを観察し、ド・バッツに報告したのであった。

 何故ならこの時期は、共食いの狂乱によって革命が己の身体を貪り喰らう日々であったからだ。国民公会は血の悪臭を放つ闘技場だった。権力を手にする為の窮余のあがきから、ショーメットは力を増すロベスピエールに抗するコルドリエ反乱2に加担した。彼の行動は友人であるフーシェからの手紙に刺激された事にも一因があったかもしれないが、そのフーシェの方は、パリの武力抗争が決着するまで口実を見つけて地方に身を置いておくべく務めていた。ショーメットは下劣な気取り屋のエベールによって反乱に引きずり込まれたのだが、彼はエベール共々、世論とは如何に気まぐれなものか、大衆人気なぞを当てにするのが如何に愚かな判断であったかという教訓を得る事になった。エベールは三月にギロチンに送られた。ショーメットは、ほんの数週間前には彼を半神の英雄が如くに崇拝していた群集が見物する中、口汚い罵声を浴びせられつつ、四月にエベールの後を追った。

 これにより、ラサールを破滅させ得る情報を持った人間の内、その一人がこの世から消えた。シモンは依然として恨みと不安と復讐心に凝り固まっていたものの、無力な身の彼には、コミューン議会で顔を合わせる度に、ラサールの礼儀正しい挨拶に対して吼えるように悪態を吐く事しかできなかった。しかし程なくしてシモンはショーメットの後を追う事になった。彼はテルミドールの動乱に足を踏み入れたのである。シモンは己の愚かさによって破滅した。機を見る事のできぬ彼は、熱月テルミドール9日の夜3、無分別にもロベスピエールを救うようコミューンの演壇で訴えたが、その時、ロベスピエールは既に取り返しのつかない失敗を犯していたのである。状況の人であるフーシェは、この機を見逃さなかった。ロベスピエールはパリにフーシェを召喚していた。これまで、自分を脅かす者は全て破滅させてきた彼は、フーシェをも処断するつもりであったろう。だがそれは、ロベスピエールの人生において最も早まった行動だった。

 フーシェは、あえて召喚命令に従った。しかし彼がパリに到着したのは、急速に独裁者と化しつつあるロベスピエールの専横に対し、秘かに叛意を抱く者達にとって唯一欠けているのは先導者だけ、という状況の最中さなかであり、冷静で切れ者の元教授は、目立たぬようにその役割を果たしたのである。それはロベスピエールの、そして恐怖政治テルールの終わりだった。フランスは再び自由に息ができるようになったのである。

 それに続いた凄まじく感情的な反動によって、タンプル塔の囚人たちに皆の関心が向けられた。今、其処にいるのは、二人の孤児だけであった。何故ならば、聖女の如きマダム・エリザベートは、既に二ヶ月前、ギロチンに送られていたのだから。

 それから間もなくして、王の脱出と替え玉が発覚したと思われる。貴族崩れの遊蕩者にして、卑しい性根の革命家であるバラスが、真っ先にタンプル塔を訪問した。バラスは騙されず、恐るべき発見を自分の胸一つに収めておく事もできなかった。とはいえ、それが国内外で巻き起こす嵐を考えれば、世間に公表する事もできなかった。

 情緒本位に傾いた国民公会は、投獄の厳しさに衝撃を受けた。二人の子供たちが引き離され、監禁状態で運動もできず、そして付き添いの者がいない為に、フランス王家第一内親王殿下マダム・ロワイヤル・ド・フランス(彼女も今は十七歳となっていた)が、自らベッドを整え、自ら床を掃いているのだという事実に、皆は憤慨した。

 国民公会からは、ムーズの代議士アルマンが、囚人たちに面会し、その様子を報告する役目として派遣された。アルマンは、少年の虚ろな鈍い目つきと、優しく気遣った彼の問いかけに対する徹底的な沈黙を報告している。しかし納得のいく説明が思い浮かばず、彼は第三者による馬鹿げた主張を受け入れた。あの少年は、自分の証言が実の母親に如何なる運命をもたらしたかを悟り、決して再び話をしないという誓約をしたのだと。

 アルマンの報告から時間を置かず、この明らかに無実の国事犯たちの幽閉生活には大幅な改善が行われた。姉弟は再び生活を共にするはずだった。彼らには適切な世話係がつけられるはずだった。世話係がつけられ、以後の二人がより快適な待遇を受けて生活した事については、記録が残っている。だが、それ以外の待遇に関しては、決定事項に沿った改善は一切なされなかった。彼らの間に交流が許されなかったのには、止むを得ぬ事情があったのだ、つまり、子供のすり替えという恐るべき秘密を知るに至った政府が、その露見を阻止せんと必死になったのである。

 政府はジレンマの最中さなかにあった。大きな政治情勢の変化により、この幽閉を正当化するには日々困難が増していた。極めて近い将来において、正当化が不可能な日が到来するのは目に見えていた。時が経つにつれ、ジレンマは深くなった。それはスペインとの和平交渉が計画され、スペインのブルボン4がフランスの従弟を引き渡す事を調印の条件にした時に不可避となった。同様に、ルイ十七世を救出せんとヴァンデで叛乱を起こした王党派の増援として、我が国の遠征隊を上陸させるとのイングランドからの脅迫もあった。

 革命暦第年はこのように進展し、そして恐怖政治テルールの終わりから、八ヶ月あまりの時が過ぎた。

 ド・バッツは、常に慎重かつ果敢に、そして政府のジレンマを充分に意識しつつ、細心の注意をもって状況を見ていた。ムードンに慎重に匿われているルイ十七世が王位宣言する事により、テルミドールの動乱から始まった運動を完遂させる好機と見て、彼は秘密裏に自分の手勢を招集していた。これについては、ラサール以上に巧みに、そして勤勉に支援する人材はおらず、その為に彼はルイ・ダヴィッド5から、今や君は画家修業に対する熱意を失ったと非難された。

 ダヴィッドは長い間、この弟子を気にかけ、才能を認めていた。それが為に巨匠は非常に苛立ち、歯に衣着せぬ言い方をした。

「既に警告したはずだぞ、絵を描く技術だけでは、芸術家にはなれんのだと。描画は目と手の問題だ。しかし芸術は魂の問題なのだ。君の魂はまだ眠っている。君の魂の目を開かせる為に、私は最善を尽くしている。しかし流石の私も、反応のない石塊を相手にシジフォスの如く働きかけるのには疲れてきているのだ。君の分別は何処にいった。悪い仲間とつき合っているようだな。昨夜、悪名高い反動主義者が何人も混じった集団と共に、カフェ・ド・フォワ6で夕食をとっている君の姿を見かけた。もしも君が政治の道を優先するつもりだと言うのなら、もう面倒を見切れん。君にとっては破滅の始まりだぞ」

 だがラサールは、それを破滅どころか立身出世の始まりと考えていた。もしド・バッツが成功すれば、そして――ラサールが男爵に寄せる信頼からすれば疑いの余地なく――ド・バッツ男爵が回復した王政の中で重用されれば、ラサールはド・バッツに重用されるはずだ。芸術的な想像力を、政治的な想像力の為に駆使した彼は、復活成ったフランス王国の名士に名を連ねる己が姿を幻視した。

 そして王党派の計画に行動開始の号令が下されんとした、まさにその時――その夢は、夢というものが常にそうであるように、一瞬にして掻き消えた。

 バラスと、秘密を共有する他の政府要人は、ルイ十七世の引き渡しに対するスペインの固執が、現在、切実に必要とされている和平の障害であるという見解のもと、実行可能な唯一の方法で、それを取り除く決断をした。あの子供は死なねばならない。そして彼の死に至る経緯は、もっともらしいものでなければならない。したがって、少年の死は六月初旬、病気を理由に二人の医者が往診を依頼された後に続いた。彼らはどちらも生前のルイ=シャルルとは面識がなく、検視を手伝ったもう二人の医師も同様であり、その子供――彼らがそれを指す為に使用した文言は、何処か意味深長である――の死体に検死を行なった彼らの報告書には『委員達が故ルイ・カペーの息子であると我等に述べたる者。』とあった。

 死んだ子供は瘰癧るいれき7とくる病8という、健康だった頃のルイ=シャルルには全く徴候が見られなかった病名を宣告された。他にも、死んだ子供の髪は明るい栗色であるのに対して、幼い王の髪は淡い黄色だった等、注目に値する点が数多くあった。けれどもバラスの訪問の後に任命された、タンプル塔からのシモンの解任日付以前には一度もルイ=シャルルに会った事がない二名の付き添い人と数名の者たちの証言によって、それが故ルイ・カペーの息子の遺体であるという更なる認定がなされた。この死亡時点においてタンプル塔内に存在していた、彼を本当に識別し得る、ただ二人の人間は慎重に除外された。あのおぞましい宣誓証言の日から、一度も彼とは会えずじまいの実姉、そしてチゾン、かつては国王一家の看守を務め、現在は彼自身がこの塔の囚人となっている男である。

 死亡の公表、そして遺体の公式の埋葬はつつがなく完了し、政府はこれ以上厄介者の存在に悩まされる事なく、外国との交渉に進めるようになった。

 ルイ十七世逝去の報は、当然の事ながら――現在はベローナに亡命中の――叔父にも伝えられ、遂にプロヴァンス伯爵には、かつて盲目的な悪意から革命勢力に忌まわしい醜聞を持ち込んで与しようとまでさせた、我が身を掻き毟るほど切望する王位を手にする可能性が生まれた。

 しかしながら、内親王殿下マダム・ロワイヤルは暫く後になるまで弟の死を知らされず、そしてこれまた意味深長にも、その時が来てようやく、一年近く前に決定された、彼女が監禁部屋を出て庭に入る自由が許されたのである。

 タンプル塔で死んだ子供が、王の替え玉として雇われた不運な知恵遅れの聾唖少年であったのか、あるいは広く信じられたように、政府の難題を解決する為に、死期の迫った年齢の近い子供が連れて来られて第二の替え玉にされたのかなどという問題は、ド・バッツの脳内を占領している思索とは無関係だった。

 この事件が彼にもたらしたのは、単に狼狽と失望のみならず、ムードンに隠された子供が突如として危険極まりない立場に置かれてしまったのだという事実に基づいた、恐怖政治テルール時代の最悪の日々にすら覚えた事のない恐怖であった。

 彼はラサールにそれを説明した。

「国家の都合で王を殺した者たちは、王には何としても死んだままでいてもらわねば困るのだ。彼らが何よりも恐れているのは、陛下が生きて再びお姿を現す事だ。標的の素性を知らされぬままに、政府の密偵たちは本物のルイ十七世の行方を嗅ぎ回っている。セナール自身は探索の真の目的に気づいてはいないが、その件について私に警告してきた。ブルボン家の血を引く何者かがフランス入りする事が関係しているのではないか、というのが彼の見解だ。率直に言うが、私は怯えている。この国に王の帰還を受け入れる準備が整うまで、我々は幾重にも、あの少年の安全を図らねばならん」

 既に彼は、あらゆる手配を整えていた。フランスの君主制回復と利害が一致する諸外国の公吏の中でも、パリに滞在中のプロイセン公使ウルリッヒ・フォン・エンセ男爵は、ド・バッツと懇意の間柄だった。ド・バッツは彼に真実を打ち明け、そしてフォン・エンセは、フリードリヒ・ヴィルヘルム9の宮廷に若きフランス王を自ら送り届ける名誉を任せて欲しいと申し出ていた。ルイ十七世がベルリンで安全を確保されてしまえば、王の生存を全世界に向けて高らかに宣言する事も可能だろう。

 それが懸念に迫られてド・バッツが立案した計画であり、実行するにあたって、彼はラサールの助けを求めた。彼はその真意を明かした。国家の運命を背負った子供を、たった一人の男に託すのは危険だ。付き添い役が事故や病にみまわれた場合、少年は孤立無援に置かれて遠からず追っ手に発見されるだろう。もしラサールが同行を承諾してくれれば、この上、別の何者かにルイ=シャルルの生存という危険な秘密を打ち明ける必要がなくなる。そもそもラサールは、この任務にとって他の誰よりも適役なのだ。彼にはタンプル塔からの救出について直接の証言が可能であり、先方が疑念から発するかもしれない様々な質問に対して、理路整然と答える事ができるであろうから。更に言えば、ラサールのこれまでの活動歴が有り余る証明となっている、冷静な度胸と臨機応変の才知は頼るに値する。

「この頼みが君にとって大きな犠牲を意味する事はわかっているのだ、フロランス。これを引き受ければ、君の画業の追及は長い中断を強いられる」

 ラサールは、その犠牲を軽視した。理由の一方は、己に課せられた王に対する義務。もう一方は、最終的な成功報酬が確実かつ莫大なものに思えたからであった。プロイセンの宮廷に小さな王を送り届けるのを助け、陛下をお救いし、お護りしたという名声と栄誉に包まれて王と共に意気揚々と帰国する日が来るまでは、後見役という立場でかの地に留まる。この計画に乗らないとしたら、それは余程、要領の悪い人間というしかない。

「ダヴィッドの許での修行と、芸術の道には別れを告げなきゃならないでしょうが。でも、その目的を考えたら……俺に何が言えます?同行させてもらいます、もちろんね」


  1. 革命勃発後プロイセンに亡命したコンデ公ジョゼフ・ド・ブルボン=コンデとその一族をリーダーとして、王党派亡命貴族たちは諸外国軍と協力し革命政府打倒の戦争を仕掛け、またフランス国内の叛乱を扇動した。 

  2. 1794年、エベール派支配下のコルドリエ・クラブがロベスピエール派に対する蜂起を呼びかけたが失敗。クーデター一派は革命裁判にかけられて4月13日の朝に死刑宣告を受け、断頭台へ送られた。尚、実際のショーメットは蜂起には乗り気ではなかったようだ。 

  3. 1794年7月27日、革命暦第熱月テルミドール9日、地方で暴走する派遣議員達の牽制を図ったロベスピエールに対し、ポール・バラス、ジョゼフ・フーシェら派遣議員とジャコバン穏健派が結託し逆襲。ロベスピエール、サン=ジュスト、ジョルジュ・クートンらモンターニュ派は失脚し処刑された。フーシェはこの時、ロベスピエールの力を恐れて尻込みする議員達に裏から手を回して扇動し、糾合した。 

  4. 1700年にルイ十四世の孫であるアンジュー公フィリップがフェリペ世としてスペイン王に即位、以後現代に至るまでスペイン王室はブルボン(スペイン語読み:ボルボン)朝である。この時代におけるスペイン王はカルロス世(1748年11月11日 1819年1月20日)。 

  5. ルイ・ダヴィッドはテルミドール事件後に逮捕投獄されたが、弟子たちの国民公会への嘆願により年末に釈放された。政治活動にのめり込み過ぎた自分を省みての説教であろう。 

  6. Cafe de Foy モンパンシエ回廊にあったカフェ。借金の返済に困ったオルレアン公フィリップはパレ・ロワイヤルの中庭を改築して売りに出し、一階の回廊部分には多くの店舗が開業し賑わった。庭園内には警察の立入りが禁じられていた為に政治活動家が多数集い、バスチーユ監獄襲撃のきっかけとなるデムーランの演説も、このカフェのテーブル上で行われた。 

  7. 瘰癧(るいれき) 。頸部リンパ節結核の古称。結核菌がリンパ節に侵入し数珠状に腫れる。 

  8. くる病 。ビタミンDと日光の不足によるカルシウム及びリンの代謝異常。重症になると背骨の湾曲などの骨格異常に到る。 

  9. フリードリヒ・ヴィルヘルム世(1744年9月25日 1797年11月16日)
    プロイセン王(在位1786年8月17日 1797年11月16日)革命フランスに対しては強硬姿勢をとり、オーストリアと同盟して軍事介入を行った。 

九 追跡

 ド・バッツの決断が下されたのが、極めて差し迫った時点であったのは明白である。

 政府の要員中、少年の逃亡を知らされていた者がどれだけいたのかは正確にはわからないが、少なくともバラスとフーシェは事態を把握し、後者が極めて困難な捜索を行なっていたのは確かである。ド・バッツの読み通り、公共の安全シュルテ・パブリケ1という名目の下に放たれた密偵たちが、捜索対象である少年の正体を告げられていたとは考え難い。恐らく彼らは、偽のルイ十七世を擁立する王党派の陰謀があると説明され、黄色い髪と、その他諸々の特徴が人相書きと一致する、両親と同居しておらず、現在地が何処であれ最近になって現れた子供、そして被保護者である子供との関係についての後見人による説明が不明瞭であり、近在との付き合いを避けている者たちを探し出すように命じられていたと思われる。これについては、指令を出した側も、最初から成果を上げる見込みは万に一つと考えており、ある些細な事実が興味を引くような事がなければ、空しい探索に終わっていただろう。

 少年は、ムードンの有名な銀行家プティヴァル氏、熱心な王党派として知られながらも、政府が深刻な財政問題を抱えていた為に革命の最も暴力的な時期にも干渉されずに済んでいた人物の邸宅にいた。使用人を含む家人に対しては、少年は恐怖政治テルールによって両親を失った、プティヴァル氏の甥という事で通されていた。更にプティヴァルは、少年の身許に関する疑いを逸らす為に、実際には既に自分の許にいるタンプル塔の囚人について引渡しを要請する交渉を公安委員会に対し試みていたのである2。この小細工は、秘密裏に王の安全を図らねばならぬ状況下においては策の弄し過ぎとなった。異常なまでに目ざといフーシェは、この要求は単なる戦略上の偽装だけではなく、実体があるのではないかと考えた。彼は調査の為に密偵を送り、およそ十八ヶ月前からムードンのプティヴァル家に滞在している、十歳前後の黄色い髪をした甥に関する報告を受け取った。

 フーシェは自らプティヴァル家に足を運ぶ決意をし、デマレという、精力的で機転が効き、その立身出世がフーシェの権勢と密接に結びついている腹心の部下に同行を命じた。

 神の摂理プロビデンスの計らいによって、フーシェの到着は彼の疑念についての真偽を完全に確認するには遅かった。礼儀正しい中年男性であるプティヴァルは、この議員を慇懃な態度で迎え入れた。市民フーシェのあからさまな不信――この銀行家は、まったく思いもよらぬ事実無根の疑いと主張したが――を、この場で甥を紹介する事によって払拭できず、プティヴァルは困窮した。しかしながら、折り悪しくも少年は、つい昨日、プティヴァルの末の妹である亡き母親が住んでいたブリュッセルに向かう為、ムードンを去っていた。

 フーシェは少年が町を出たという証言の裏付けを得た。だが、綿密な調査によって、少年が二人の連れと共に乗った馬車が南東の方角にあるムランに向かったという事実を突き止めた時、彼はプティヴァルが旅行者の目的地を偽ったのを知った。彼の疑いは確信となった。精力的なデマレは、逃亡者を捕獲して連れ戻す際に必要となるはずの手勢として、部下を総動員し追跡行に出た。

 王は二十四時間を先行していた。だが追っ手がかかっているとは知らぬ彼らは必要以上の速度を出さずに移動しているはずであり、逃亡者たちが最も近い国境線に着く前に捕まえるのは容易と想定された。

 ラサールがタンプル塔から少年を救出した夜、ド・バッツと共にいた二人の内、年長者の方であるプティヴァルと再会した際に、彼らは逃走経路について議論した。プティヴァルは軍隊の動きを指摘し、ライン国境は望ましくないとした。ラインを渡る試みは、通常よりも一層厳重な身元確認を求められる可能性を意味する。従って、ドイツに向かうにはジュネーブを通る方が好ましく、其処ならば、マルタン・ルバという名の王党派エージェントが、あらゆる便宜を図ってくれるはずだ。それからヌーシャテル公国とバール(バーゼル)を通って旅を続ければいい。

「そしてその後は」と、全面的に同意したフォン・エンセ男爵が言った。「黒い森シュヴァルツヴァルトを通る。義なる神よ!目と鼻の先にあるプロイセンに行く為に世界を半周するとはな」彼は屈強で活動的な、低い声をした五十代のブロンドの巨漢であるが、その青い瞳に潜む茶目っ気が重々しい雰囲気を和らげていた。避けられぬ困難と危険が伴う計画に取り組む同志として、ラサールは即座に現状における最良の意見をまとめて見せた。入念に整えられた頭の天辺から、質の良い靴を履いた足の先まで、彼は如何にも頼りになる男に見えた。

 警戒の為に止むを得ず遠回りになった旅行について冗談交じりに嘆きを口にしたものの、彼は了解した。偽造したのか、地下ルートを使って手に入れたのかは不明だが、ド・バッツはパスポートを提供してくれた。フォン・エンセ男爵はハーゲンバッハという名前のスイスのチョコレート製造業者であり、甥を伴って旅行中。ラサールはウッソンという名の事務員という事になっていた。

 彼らは四頭立ての大型四輪馬車ベルリーヌを走らせて、三日間は順調かつ退屈に国境に向かう旅を続けた。

 少年は最早、ラサールの脳内と肖像画とに記録された時の、頭を鈍らされた、半ば陰鬱で半ば獰猛な子供ではなかった。彼は少ない手荷物の中に何冊かの画帳を詰め込んでいたが、其処には革命家名士たちを描いたページも少なからず含まれていた。プロイセンに着いてから、何かの役に立つかも知れないと考えたものだった。

 彼は満足感と共に、王の雰囲気と振る舞いの変化を認めた。監禁生活がもたらした、むくみと青白さは、今はもう消え去っていた。彼は薔薇色の頬を回復し、しっかりした体つきと、年齢相応の賢さ、愛嬌のある快活さが見て取れた。遺伝の力か、はたまたベルサイユで過ごした幼い日の記憶によるものか、自分が途方もなく重要な立場の存在である事を理解した瞬間から、彼の快活さにはある種の威厳が加わり、また二人の旅仲間が自分に示す敬意を当然のものとして自然に受け入れるようになった。彼が追憶にふける時、特にタンプル塔における投獄の日々を思い返す場合は、母親から引き離された日までの記憶に限られていた。それ以降についての追憶は、やや曖昧で、ぼやけているようだった。けれども彼が言葉で描写して見せたものの中には際立って鮮明な場面も幾つか存在する事に、同行者たちは気づかされた。

 しばしば少年はシモンについて話し、そして彼が既にギロチンにかけられた事を聞いて気の毒がった。

「彼は悪人ではなかったよ」少年は同行者たちにそう語った。「ブランデーを飲むように無理強いした時を除いてはね。あれは本当に嫌だったし、そのせいで私は病気にされたが、それでも。それを除けば、彼は滑稽な男だった。かわいそうなシモン」

 シモンの妻について語る際の口ぶりには、真実の愛情に近いものと、彼女の粗野な外殻を透かして輝く生来の根源的な母性に対する感謝とが込められていた。実の母親から引き離されたばかりの時期、彼女は少年の辛い日々の慰めとなってくれた。姉については、暗黒のタンプル塔で監禁生活を続けている彼女が心配でたまらぬ様子だった。彼女について、あるいはバベット叔母様や母に言及した時、彼の青い目は涙で満たされた。

 彼が二人の男の前で見せたのは傷付き易い子供の姿であったが、それでも尚、ある種の強情さや、何か粗野で乱暴な――タンプル塔の日々について痛感させられる――ものが、取り戻された生来の尊厳というマントを通して垣間見える瞬間があった。

 一行は快調に旅を続けたが、切迫した状況については知る由もない為に、焦る事なく馬車を走らせていた。旅の最初の三日は、彼らは運動の為に地面に降りて、ゆっくりと進む馬車の横を一、二時間歩くようにした。しかしながら、少年はすぐに疲れてしまい、かといって、歩く速度で動く馬車に自分一人が座っているのも気が進まず、二人の男は自分たちの必要とする運動ができるような取り決めを行なった。一日交代で片方が騎馬して進み、残る片方が車中で王のお相手を務めれば良いのだ。

 これは四日目の朝、オーセールでの朝食後に決定され、昨夜、彼らが泊まったプチ=パリという宿やどの前には、旅を再開する準備が整えられた大型四輪馬車ベルリーヌを待たせていた。

 フォン・エンセは、彼とラサールのどちらがその日に馬に乗るかを決める為にコインを投げ、そしてコインはラサールを選んだ。恵み深き摂理プロビデンスの指がコインを操ったのである。駅家うまや 3はプチ=パリの隣にあり、ラサールはすぐ追いつくから自分を待たずに出発するようにと告げて、そちらに馬を借りに行った。

 急ぐ事なく、馬車が埃っぽいブルゴーニュ地方の小さな町を後にして険しい路を走り去る姿を見届けると、彼はきびすを返して駅家うまやに向かい、モンバールまで乗っていく馬が欲しいと注文を伝えた。

 一頭の馬に、速やかに鞍が整えられるはずだった。

 馬の仕度を待つ間、再び外に出ると、彼は六月の朝の日差しの下をぶらついていたが、そうする内に、ガダガタと音を立てながらやって来た埃まみれの軽装馬車がプチ=パリの入口の前に止まった。其処から三人の体格の良い男たちが降りてきたが、その一人の厳つい顔に、ラサールは見覚えがあった。それは最近、テュイルリー宮のホールでしばしば見かけていた顔だった。その事自体が本能的な警戒心を刺激し、彼らの乗り物をつぶさに点検する行動へと繋がった。馬車をおおう厚い埃は、彼らが夜を徹して旅を続けていた事を示唆していた。この旅行者たちの急ぎ方は尋常ではない。追われる者か、追う者のどちらかだ。

 慎重に無関心を装ったラサールが駅家うまやの出入り口にもたれていると、宿やどから彼らの到着を歓迎して家令が出て来た。すると一行のリーダーである、ラサールが見知った四角く厳つい顔の男が、家令に質問をする為に進み出た。サンス経由でやって来た二人の男と一人の少年が、この宿に泊まるか、近くに立ち寄るかしなかったか?

 この質問によって状況は明白になり、同時に戸惑いも呼んだ。しかしラサールは迷いを振り捨てた。家令が向きを変えた拍子に彼の姿に目を留めて、捜索対象の一人であると告げられぬように、ラサールは中庭の出入り口の中に一歩移動した。其処から彼は、予期していた通りの答えを聞いた。ええ、確かに、そのようなお客様が昨夜、プチ=パリに御逗留になり、ほんの少し前にモンバールに向けてお発ちになりました、と。

 新来の集団の一人が悪態を吐く声が聞こえたが、しかしリーダーのデマレは笑って言葉を返した。「まあ、いいじゃないか?連中の行き先は掴んでるんだ。そう腐る事はない。新しい馬に引き具を付ける間に、朝飯を済ませよう。そら行くぞ」そして彼らは宿に入っていった。

 5分も経たぬうちに、ラサールは急ごしらえで馬具を乗せた馬で町から離れると、すぐに早足トロットから襲歩ギャロップにペースを変えて道路を下っていた。

 自分たちに追っ手がかけられるに至った事情はわからない。だが、現に追跡されているという事実には疑いの余地はない。幸運の巡り会わせによって自分の出発を少し遅らせていなければ、間違いなく、この日の内に、一行は全員捕らえられていたはずだ。彼は後日、この摂理プロビデンスの恩寵は、自分を待ち受けている立身出世の前兆と解釈したと豪語した。

 彼は正午近く、オーセールの先、およそ10マイルの地点で大型四輪馬車ベルリーヌに追いついた。彼は車体後部に自分の馬を繋ぐ為に馬車を一時停止させたが、騎乗御者に鞭と拍車を使うように促してから、警戒すべき報を告げる為に車中に入った。

「ポッツタウフェル!(何てこった、悪魔め!)」フォン・エンセは、そう毒づいて驚きを表し、幼い王も思わず目を見開いていた。

「万が一にも」ラサールは言った。「ヴァレンヌへの逃亡4の二の舞を演じたくなければ、我々には速度と知恵の両方が必要になる」

「我々は確実に片方を保っているのだから、もう片方もどうにかできるはずだ」プロイセン人はそう言って陽気に悪態をついた。「ヘルゴット!(神よ!)」

「多少の快適さは犠牲にしましょう」ラサールは同意し、これより先は旅館を利用せず、国境を越えるまでは、テーブルでの食事もベッドでの睡眠も断念せねばならぬと説明した。彼は再び単騎でモイヤーに先回りし、継ぎ馬を待って時間を無駄にするのを防ぐ為に、馬車が到着すると同時に馬の交替ができるように手配を済ませておくと。

「慌てる必要はありません」彼は注意した。「あの密偵ムシャールたちは、我々の移動速度の見積もりについて過剰な自信を持っています。これは我々にとって幸運であり、天の賜物だ。その他の点については、俺に任せてください」

 その日の午後3時に馬車がモイヤーに乗り入れた際、頼もしい事に、彼は困難な状況に対処する能力を証明してみせた。

 駅家うまやでは彼らの為に継ぎ馬が待機しており、馬車が止まると同時に、ラサールが頭と肩を窓から突っ込んできた。「そのままで」彼は小声で言った。「姿を見せないで。我々はこれ以上の痕跡を残しちゃいけません。偽の手がかりを置いて去るまではね。その為の用意です」彼は窓から怪しげな包みを差し入れた。それはペチコート、ボディス、モブキャップを含んでいた。ここからモンバールまでの間、陛下が変装する為に使う品々だった。「こっちは食料。チキン、パン、チーズにワインが一本」彼は包みの後からバスケットを押し込んだ。それから馬車の中に身を乗り出すと、彼らに手はずを伝えた。

 彼は既に、十頭の馬が駅家うまやの厩舎にいるのを確認していた。この内の八頭を借りる。今、彼らが乗っている大型四輪馬車ベルリーヌに繋ぐ四頭と、モンバールまでその後に従うように雇った継立馬車用の四頭。これで事実上、駅家うまやから元気な馬をほとんど連れ去る結果となり、モイヤーにやってきた追跡者を数時間遅らせる事ができるだろう。

「貴方たちはモンバールで降りて、夕食をとる為に宿に入ってください」ラサールは指示した。「俺も同じようにします。ただし別々に、他人同士のふりで食事をするんです。それで捜索対象である二人の男と少年の一行は消滅します。その代わりに、娘を連れて旅をする紳士と、一人旅の紳士の出来上がりだ。これで臭跡を消すには充分でしょう」

 少年は面白がり、愉快そうな笑い声を上げた。この気だるげな態度のムッシュー・ウッソンは、茶目っ気のある魅力の持ち主であるのを証明した。しかしながら、フォン・エンセは難点に気づいた。

「だがパスポートはどうする?これで、如何にして少女を国境越えさせればいいのだ?」

「国境に着くまでパスポートの出番はありません。その時までに、陛下は本来のお姿に戻っているはずですよ。騎乗御者の準備はできています」彼は説明を終えた。「では、ここで一旦、別れましょう。俺はここからモンバールまでの間に、馬車の中で眠っておきます。その後にはまた、終夜馬を飛ばして、馬車の先回りをしないといけませんからね」

 そうして、スプリングに弾力がなくなって、酷くがたつく継立馬車に乗ったラサールは、フォン・エンセたちに一時間遅れてモンバールに到着した。丁度、このプロイセン貴族が不安を感じ始めた頃合であったが、これはラサールの計算によるものだった。ラサールが夕食を注文する客が来たぞと大声で叫びながら、横柄な様子で談話室を通って歩いていった時、彼は男爵の椅子にぶつかった。謝罪の為に振り向いて頭を下げる際に、彼は小声でひと言ささやいた。「パルテ!(行け!)」

 フォン・エンセたちはラサールが見守る中で食事を済ませると、速やかに出発の指示に従った。

 新来の客に食事が運ばれてきたのと入れ替わるように、プロイセン人は清算の為に店の者に声をかけ、大型四輪馬車ベルリーヌを呼ぶように申し付けてから、偽の小さな娘と共に出て行った。

 ラサールは、馬車が遠ざかってゆく音を耳で確かめてから、自分の存在を印象づけ始めた。驚いた亭主が慌てて駆けつけて来るように、コート・デュ・ローヌのワインを大声でこきおろしたのである。

「あきれたね!ブルゴーニュでこんなのを飲まされて、誰が納得するんだ?インクの方がよっぽどマシだ」

 これは亭主が自信を持って勧めた看板ワインだぞ。まっとうな品質の、正真正銘のブルゴーニュ・ワインを期待するじゃないか。それなのに、ひとビン10リーヴル払ったら、何が出てきたと思う?――アシニャが暴落する前に、8スーで仕入れた安ワインだ、と。

 若い旅行者は憤慨をつのらせた。俺が注文したのはこんなものか?それとも俺は店の連中に足元を見られるくらい貧相なのか?俺が貴族だったら、こんなワインを出されるような事はあるまいよ、貴族なら席を蹴立てて店を出て行くだろうからな。亭主に地下倉を探させろ。

 亭主は彼に、口当たりの良い、熟成されたニュイのワインを持って来た。旅行者はそれを味わうと、上機嫌になった。ああ、生き返った心地だよ。旅の疲れを癒すのはこれだよ、俺はこの旅行にうんざりしていた処でね。俺はシャルトルからやって来たんだがね、織物商人の親父の用事でグルノーブルまで行く途中なのさ。彼は夕食をたいらげるまでの間、べらべらと取り留めもなく話し続けて、誤った道へと慎重に誘導する臭跡を付けた。それから彼は、来た時と同じように、さっさと引き上げて行き、ああも騒々しくて鼻持ちならぬ気取り屋が出て行った事で、亭主は大いに喜んだ。最近の政変によって成り上がった連中の一人にしか見えない、その気取り屋は、パリからの紳士たちが追っている集団の最後の一人であったのだが。

 彼は真夜中過ぎに、フラヴィニーの近くで大型四輪馬車ベルリーヌを追い越し、その翌朝には、丘に囲まれたブシーの町で待機していた。其処は、ディジョンに着く前に芝居を打つ最後の舞台だった。彼らはモンバールと同じく距離を保つようにしたが、今回は、これまでよりは緊急の度合いは少ないと判断して、ラサールは継馬の準備をしていなかった。

 夕方頃にフォン・エンセがディジョンに到着すると、追跡者を引き離し、偽装工作も行なってきたという判断から、彼らは再び集まって、ブリーチズ姿に戻った王を含む全員で夕食をとった。少年は非常に疲れており、食卓では終始うつらうつらした状態で、それを見たフォン・エンセは、今夜はディジョンで宿をとるべきだと主張した。それに対し、ラサールは厳しく反対した。

「そのつもりがあったら、少なくとも陛下は変装を解くべきではなかったし、我々も見知らぬ者同士で通す用心をするべきでしたよ」

「ええい!ドンナーヴェッター!(忌々しい!)ムッシュー・ウッソン、君は影に脅えるような男だったのかね?」そしてプロイセン人の呵呵大笑が懸念を矮小化した。

「影にも実体にも脅えてはいません、ムッシュー男爵ル・バロン。しかし、危険を古馴染みの友としていると、用心というものの大切さを思い知るんですよ」

「だが、陛下を見たまえ」男爵は譲らなかった。「立ったまま眠り込んでしまわれそうな御様子だ。ここで我々が陛下の玉体を損なっては、後日の事も成せんだろうに。さあさあ!」彼はなだめるように言った。「幼子は、まともな寝床で眠らせようではないか」

 渋々ながら、ラサールは屈服した。だが二日後のロンにおいて、国境への旅の終わりを目前にした彼は、この決断を後悔する事になる。それは丁度、男爵がディジョンだけでなく、次のドルでも宿に泊まる選択に至らせた、己の過信を後悔するのと同様にであった。

 この遅延によって、ラサールにつきまとう不安は高まり、何らかのきっかけで痕跡を拾った追っ手からの奇襲を避ける為に、騎馬してしんがりを務めるという行動に繋がった。その土曜日の朝にドルを後にした彼は、ゆったりとしたペースで馬を進めて正午にはタッスニエールに着き、其処で一時間かそこら身体を休めようと歩みを止めた。その町で新しい馬に乗り換えて、夜には仲間たちと合流する予定になっているロンまでの25マイルを再び無理のないペースで進む為にであった。

 タッスニエールを過ぎて5マイルほどを進み、ドリアンとセイユの二つの谷の間に位地する、なだらかな丘の上で彼は手綱を引いた。その日は温かかったが空気は澄んでおり、彼は絶好の位置から、気持ちの良い緩やかな起伏がある肥沃な平野の全貌をつぶさに観察する事ができた。空気は甘く芳しく、それは目に見えぬ膨大な生命の微かな音で震えていた。綿毛に被われた柳が縁取る遠い水上に陽の光が踊る様は、彼の芸術家としての目を奪い、魅了した。心地良く暖かな感覚を伴う陰影と、その捉え難い色合いを自分のものにしようとする事、それは己が存在の一部であり、恐らくは、ひょんな巡り合わせで舞い込んできた、玉座なき王の随行などよりも価値のある偉大な仕事だった。ラサールは、このような内省に我知らず哀歌の如き溜息を吐いたが、突然、彼は夢の中から現実まで引きずり出され、目覚めし芸術家は再び冒険家の内部に姿を消した。1マイル離れた先、彼がやって来た道の先に、土埃が上がっていた。

 恐慌をきたす事なく、彼はまず、盛大な土埃の中にあるものを慎重に確かめようとした。彼は自分の馬――大きく強力な馬体であり、緊急時には大いに頼りになる――を道路脇に向けて静かに歩かせ、立ち並ぶ若木が目隠し代わりになってくれる位置で待機した。間もなく彼が見たものは、馬車ではなく騎馬した小集団だった。彼の若い目は鋭く、そして空気は先程述べた通りに澄み切っていた。半マイルまで近づいた時点で、七人が竜騎兵5の装備をしているのが識別可能になった。だが、彼に不安を与えたのは、騎兵部隊の中に文民が混じっている事、その数が三名であるという事だった。この事実は、現状における仮定を検証する為に更なる時間の消費を許すには示唆に富み過ぎていた。

 彼は隠れ場所から移動すると、馬に拍車をくれて、その活力について神に感謝しつつ、かつてこのような飛ばし方は一度もした事がなく、そして二度と再びしたいとも思わぬ速さでその場を後にした。全速力で馬を飛ばしながら彼が最終的に下したのは、追跡者が再び臭跡を発見したのだという結論だった。馬車ではなく騎馬で追ってきたのは、惑わされている間に失った時間を埋め合わせる為、そして確実に獲物に追いつく為に軍の協力を得たのだろう。パリからの紳士たちは、尋常ならざる武力を配備する必要があったのだ。

 その推測は、綿密なはずであった計画中の見落としを直視するように強いた。ディジョンで標的が突然消え失せた事に追跡者たちが気づき、二人の男と一人の少年の足跡を辿れなくなった時にも、大型四輪馬車ベルリーヌ自体の痕跡は未だ残されていた――黒いパネルで飾られた扉が付いた黄色い車体、彼らが聞き込みを開始したムードンで、駅家うまやの者が証言しているはずだ。あらゆる事態を見越して対策を講じたつもりでいたラサールは、この手抜かりに自己嫌悪を感じていた。知恵の回る捕吏というのは、如何なる些細な事柄も全て調べ上げてしまうものだという認識があれば、フォン・エンセによる移動速度を減じるような提案、最終的には計画失敗の原因という位置づけになるかもしれない提案に対して、根拠を伴った反論ができていたであろうに。

 彼が疾走したのは、この凶事を防ぐ為であり、恐らくこの一事の他は念頭になく、無謀なペースで馬を飛ばした挙句に己の首を折るような事にでもなれば、フランス王が無事逃げおおせる為の、最後に残されたわずかな希望もまた死ぬであろうなどとは考えもしなかった。

 サリエールから約3マイルの地点で、彼はディジョンとロンの間を往復する乗合馬車と行き逢った。がたぴし進む大きな車体と擦れ違う際に、多少の時間を失った代わりに、彼はある天啓を得た。更に2マイル先で大型四輪馬車ベルリーヌに追いついた彼は騎乗御者に停止を命じた。この時に限っては、彼もフォン・エンセ男爵が旅を急がずにいた事に感謝した。

 思いがけないラサールの出現に彼らは驚いた。だがそれに輪をかけて驚いたのは、彼が騎乗御者に聞こえぬように小声で手短に告げた言葉だった。フォン・エンセは酷く己を責めた。もし自分がムッシュー・ウッソンの主張に耳を傾けていれば、今のこの危険はなかったであろうと彼は潔く認めた。竜騎兵の一団に対して、我々に何ができるというのだろう?

「できますよ、今から説明する事をね」ラサールは答えた。

 乗合馬車が4分の1マイルほど先に見えた。「書類と貴重品を持って、すぐに降りてください。貴方と……」彼は危うい処で口をつぐんだ。驚いている騎乗御者が、こちらを見ていたのだ。「貴方と甥御さんは、ディジョンの乗合馬車でロンまで行くんです。この暑さでは快適ではないでしょうし、混雑しているかもしれません。ですが少なくとも、それ以外の点では安全なはずですよ、あそこは暗殺者たちが探す場所としては、一番最後になるでしょうからね」彼は男爵にだけ聞こえるように声を低くした。「ロンに着いたら、其処からまた、すぐに出立してください。ジュネーブに到着するまでは休まず真っ直ぐに進むんです、俺の事は待たないで。俺もルバの家で合流できるように向かいます。遅れる可能性はありますが」

 彼らが馬車を降りようとしている時、ラサールは騎乗御者に目をやっていた。「君の役目はね、口をつぐんでいる事だ。沈黙は金という諺は知っているだろう。君の沈黙には5ルイの値をつけよう。雄弁の方を選んだ場合、君は銀ではなく鉛色になる。どちらを選ぶかだけ、答えてくれたまえ、それで君の運命が決まる」彼は乗馬コートのポケットから手を引き出して、ピストルの台尻を見せた。「お互い、理解し合えると嬉しいんだがね」

 上向きの鼻をした、厚かましそうな若者の騎乗御者は、肩をすくめた。「脅しはいりませんよ、市民。誓って何もしゃべりません」

「その素晴らしい姿勢を、ずっと続けてくれたまえ」

 ラサールは道の中央まで汗まみれの馬を歩かせると、近づいてくる乗合馬車を停める為に片手を上げた。不恰好な車は轟きと共に停止した。驚いた乗客たちが窓から首を突き出して見守る中、乗合馬車の騎乗御者と車乗御者は二人揃って、一体どういうつもりで邪魔立てするのかと喧嘩腰で問い質した。

 ラサールは溝の縁に停められた大型四輪馬車ベルリーヌと、その横に立っている男と少年を示した。彼は言葉少なに告げた。

「馬車の事故でね。こっちの市民たちはロンに向かう途中だったんだが」

 車乗御者は、当初の乱暴な態度を改めた。そういう事情なら、交渉に応じても良かろう。だが、ディジョンから乗ってきた客と同じ満額の運賃を払ってもらわねばならん。自分には料金を切り売りする権限はないのだからと。

「さあどうぞ」と男爵に向けてラサールは言った。「万事上手く収まりました。では御機嫌よう、良い旅を」

 フォン・エンセはためらった。彼の陽気な顔は深刻なものになっていた。「しかし君はどうするんだ、我が友よ?」

「俺は後から行きます。時間を無駄にしないでください。それじゃ」

 少年は別れの握手をする為に傍に寄ってきた。「すぐに、また会えますよね、ムッシュー・ウッソン?」

「それほど先にならないように努力してみます」ラサールはそう言ったが、それはつまり、男爵が頼もしさを感じたラサールの愛想が良い生来の気楽な性質からすれば、この時の彼が懸念で一杯になっていた事を意味していた。

 ほとんど押し込むようにして彼らを乗せると、ラサールは馬車が走り出すのを見送った。窓から少年が彼に手を振っていた。返礼として帽子を脱いで振り回し、それから彼は騎乗御者を振り返った。

「さて、これで君が5ルイを手に入れるまでの道のりを、半分消化したというわけだ。支払いはシャロンに着いてからだよ」

「シャロンになんか行きませんよ」

「はいはい、そうだろうね。でも議論の余地はないんだ」

「俺はロン行きの為に雇われたんですよ」若者は言い張った。

「でも、シャロンで5ルイが待ってるんだよ。一年分の賃金だ、だろ?まぁ、何にせよ、君はあそこに行かなきゃならない。さて、教えてくれるかな、サリエールの先で、シャロンまでの間にある最初の停車場は何処だい?」

「ボランに駅家うまやがあるけど」

「どれくらい先なんだ?」

「サリエールから3リーグってとこです」

「君の馬たちで行ける距離だな。それからボランで馬を替える。だが君は、シャロンへの道順と道路の状態を尋ねる為に、サリエールで停まるんだ。我々の行き先が周囲の人間に知られるようにしたい。そして、それ以外の事は一切、何も知られないようにしたい。それを忘れないでくれ。じゃ、行こうか、びしびし鞭を使ってくれよ。急いでるんでね」

 騎馬した彼に続いて黄色い大型四輪馬車ベルリーヌがサリエールの町に入り、駅家うまやの門へ通じる道を辿った。それは丁度、フォン・エンセと王を運ぶ乗合馬車がロンを立ったのと同じ頃だった。

 10分後、自分の馬を手放したラサールは、馬車の中が無人であるのに気づく人間が周囲にいない時を見計らって大型四輪馬車ベルリーヌにさっと乗り込むと、シャロンへと向かう為に再び出発した。


  1. 国民全体の安全に関わるような「例外的状況」にあれば、為政者は一時的に市民の自由や所有権を制限しても正当化される、という観念。 

  2. 男爵位を持つ王党派の銀行家であり、バラスと取引関係のあったプティヴァルは、ルイ=シャルルの死亡証明書を偽造であると主張。それから約一年後の1796年に、プティヴァル一家は全員殺害されている。 

  3. 駅馬を交替し乗組員を泊める宿屋。 

  4. 1791年6月20日にフランス国王ルイ十六世一家がパリを脱出し、22日に東部国境に近いヴァレンヌで逮捕された。ルイ十六世は王の国外逃亡という不名誉を恐れて計画には消極的だったが、スウェーデン王グスタフ世が寵臣であるフェルセン伯爵を通じて王妃マリー=アントワネットを説得して押し切った。結果として「革命潰しを企む外国の手引きにより国を見捨てた王」としてルイ十六世は国民からの信頼を失い、急進的左派勢力が勢いづき、王と王妃の処刑にまで繋がった。 

  5. 小型のマスケット銃などの火器で武装した騎兵。 

十 レマン湖

 黄色の大型四輪馬車ベルリーヌは大過なくヴォランに到着し、其処で馬を交換した上で、また旅を続けた。更に5マイルを行った処で、ラサールが行動を起こすに至った推論を充分以上に裏付けるかのように、竜騎兵隊と三名の文民がやって来た。彼らの姿を目にしたラサールは、騎乗御者に指示を与える為に窓から身を乗り出した。

「不審尋問された時にはだ、いいかい、君が知っているのは、これだけだ。君はディジョンから来た。これは事実。そして出発からここまで、客は俺しか乗せていない。君が金を手に入れて、しかも連中に拘引されずに済ませたいなら、これが事実なんだと心から信じる方がいいね。以上だ。後は君の機転に任せるよ、君の優秀さに期待する」

 その竜騎兵隊は接近し、間もなく馬車は蹄の音、金属がぶつかり合う音、兵士の声と馬の嘶きに包まれた。

 呼び止められた騎乗御者が手綱を引いて馬車を停めると、間髪を容れず、この部隊を指揮する文民である、小柄だが筋肉質で身ごなしの精悍な厳つい顔をした男が、自分の馬から降りて大型四輪馬車ベルリーヌのドアに飛びついた。彼の声は、厳しくも勝ち誇ったようなものだった。

「この鬼ごっこでは、随分こっちを振り回してくれたじゃないか、市民シトワイヤン。だが、これでやっと……」そう言いながらドアを開き、車内にただ一人の乗客を目にした彼は、一瞬、硬直した。その乗客である妙に気だるげな態度の若者は、まるで感情のこもらぬ調子で、この狼藉は一体どういう事なんだいと尋ねた。

「その兵士たちがいなけりゃ」そう続けて彼は「君はここで死んでいたよ。物盗りと間違えて、視界に入った瞬間に撃ち殺していたはずさ。何しろ君は、辻強盗にしか見えないからね」と言葉を重ねた。

「貴様の仲間は何処にいる?」他の二名の文民と、兵士たちを統率している隊長とが背後で見守る中で、そのがっしりとした男は彼に食ってかかった。

「仲間?」ラサールは鸚鵡おうむ返しに言った。「俺には連れがいて当然だとでも?何だってそんな事を?さっぱりわからないな。生憎あいにく、一人旅が好きな性分なんでね。用事がそれだけなら、もう行ってもいいよね」

 デマレの困惑と怒りはラサールの冷静を装った態度によって煽られた。

「書類を確認する」

「はん!今度は俺に証明しろってか。あんたの目当ての誰かさんじゃないのかどうか、無防備で哀れな旅行者をしつこく問い詰めて悩ませると。生憎あいにくだが、こっちは無防備でも哀れでもないし、ならず者風情ふぜいの要求に応じて、ほいほい証明書を差し出したりはしないよ。まずは君の権限を明かしたまえよ、善良なる市民くん」

 公安のエージェントであるのを証明する赤白青のカードが目の前に突き出された。「俺はデマレ。司法省。これでいいか?」

「充分過ぎるくらいですよ、市民岡っ引き」ラサールの口ぶりは、彼が目前の男の身分を知った事により、嫌悪の対象と定めたのを示唆していた。彼はポケットの中を探りながら、うんざりしたように溜息を吐いた。「まったく、君みたいな勿体ぶった小役人は、君主制時代の専制政治の日々に逆戻りしたような気分にさせてくれるよ。ともかく、そらどうぞ」

 エージェントは、市民ガブリエル・ウッソンのパスポートを手に取ると、それを精査した。その非の打ち所のなさに当惑を深めたものの、しかし彼はまだ諦めなかった。「君はここに記載されている当人か?」

「そんなの当たり前じゃないか」

「これには『所用の為スイスまで旅行』とあるが」

「その点は、間違いなく本当」

「だったら何故、国境に向かわんのだ?国境に背を向けているじゃないか」

「俺のパスポートは、そいつを禁じてますかね?シャロンにいる旧友を訪ねる為にちょっと引き返すのも駄目だなんて、何処にそんな事が書いてあるんです?」彼の快活さは影を潜め、厳しい調子になった。「もういいでしょう、市民デマレ。流石に越権行為なんじゃないですか。もう、俺の書類を返して解放する潮時ですよ」

 デマレは結論を下しかねて息を荒げた。仲間の一人が彼の袖を引いた。「時間の無駄ではありませんか、今は一分一秒が貴重な状況ですよ?」

「時間の無駄!」デマレは癇癪を起こした。「今更、時間を節約して何になる?クソッ、我々がこの二日間、間違った手がかりを追いかけていたとすれば、今からどうやって標的を発見できるっていうんだ?」

「推測ですが」同輩が意見した。「あのモンバールの与太者が、実際は敵の一味で、故意に違う大型四輪馬車ベルリーヌの特徴を証言した可能性があるのでは。それで我々は連中を見失ったのでは」

「何とも愉快な推測だな?」彼は投げつけるようにしてパスポートをラサールに返した。「そら。大事な書類を取りな。ボン・ヴォヤージュ!(良い旅を!)」それは災いあれと祈るかのような口調だった。彼はドアをバタンと閉めて後ろに下がると、地獄に送り出すかのような態度で騎乗御者に合図して馬車を進ませた。

 鞭が鳴り、大型四輪馬車ベルリーヌは動き始め、そしてラサールは車中に落着いた。微笑が彼の唇を変形させていた。勤勉なる市民デマレは、上司の許に戻った時にどうなる事やら。

 だからといって、この芝居が無事終わったからシャロンへの旅は切り上げようなどとは考えなかった。パリから追ってきた紳士たちの念頭には未だ疑いが留まっている可能性が高く、他に有力な手がかりがない以上は、僅かな可能性にすがって、尚も黄色い大型四輪馬車ベルリーヌと一人旅の男を監視下に置き続けるかも知れない。直ちに国境を目指してジェクスに馬を飛ばすなど問題外だ。よって、ラサールはシャロンへと向かい、定められた本来の道を外れて彼を運んでくれた代金に加えて、約束通りの報酬を騎乗御者に与えてから、その町で宿をとる事となった。

 翌日、新しい馬と新しい騎乗御者を揃えた彼は旅行を再開し、ブールを経由する道を走った。其処からシャレーに逆戻りし、更にフォシル峠コル・ド・ラ・フォシルを越えて、遂にジェクスに到着した彼が最初に目にしたのは、そびえ立つジュラ山と巨大なモンブラン山脈の狭間にあるレマン湖の壮観だった。

 長い旅だった。計算外の時間を失ったせいで、ほぼ一週間をかける結果となってしまった。これは迂回をした事だけが原因ではなく、激しい雷雨に伴う大洪水によって、馬車による通行がほとんど不可能になった為であった。騎馬で行けば、彼も深刻な足止めはされなかったはずだ。けれども、この大型四輪馬車ベルリーヌはフォン・エンセの私財であり、男爵の許に運ぶ必要もあった為、捨てて行く訳にもいかなかった。彼がフランスで過ごす最後の夜となる、六月最後の木曜日の夜、もう一つの嵐が突然、かの地に吹き荒れたのだが、その嵐はジェクスでぬくぬくとベッドに横たわっていたラサールが想像し得る範囲を超えて、彼の運命と密接に関係していたのであった。

 その翌日、前方にそびえるアルプスの頂上を真っ白に輝かせる太陽によって、静かに、そして晴れやかに夜が明けると、黄色い大型四輪馬車ベルリーヌは危険な旅の最終段階に向けて出発し、午後遅くに、ジュネーブの突出つきだ狭間はざまがある赤い壁が見える位置まで到達した。日没に向かう頃、馬車はローヌの橋を渡り、湖畔の『黒鷲亭』の中庭に停車するべく乗り入れた。

 粗末な身なりの男が一人、屋根付きの車寄せポルトコシェールのすぐ外にもたれて無為に煙草をふかしていたが、その男は馬車の後を追って庭に出ると、念入りに検分してから旅籠に入った。

 大型四輪馬車ベルリーヌから降りながら、ラサールは、すぐにサン=ピエール通りのマルタン・ルバの家、つまりはフォン・エンセと王が待っているはずの場所まで案内を頼んだ。

 このマルタン・ルバというフランスの時計職人は、何年も前からスイス人女性と所帯を持ち、この時計職人の都1に永住しているのだが、彼は革命時代を通じて、ジュネーブにおける王党派エージェントとして並外れた献身振りで活動し、秘かに国境を越えようと試みる多くの亡命貴族エミグレに対して計り知れぬ貢献をしてきたのであった。ルバはド・バッツとの間で、ほぼ途切れる事なく連絡を保ち続けており、一行がフランスから脱出する直前に、しばし休憩し、其処から先の安全な逃亡ルートについて話し合う為に彼の家を集合場所とするのは、フォン・エンセとの間で事前に合意済みだった。

 険しい坂を登った先にある、丘の頂上に建つ大聖堂の足元に広がる古い市街で、ラサールはサン=ピエール通りを発見した。その狭い道路は、張り出しの深いひさしと鋭い切妻屋根のある木骨造りの家々が立ち並んでおり、幾つかの家屋前面には、信仰信条の言葉と図像を彫り込んだ素朴な装飾がほどこされていた。

 目的の場所は労せずして見つかった。ルバの名前は広い店頭に堂々と表示されており、弱まりつつある光の中でもくっきりと見えた。それから程なくして夕闇が訪れ、家は闇に包まれた。彼は扉を叩き、そして待った。

 待つ間、戸口の上り段で振り返った彼は、その路のずっと先で、ふいに戸口の影に滑り込んだ二つの人影に気づいた。

 そして扉の向こうから重たい足音が聞こえた。掛け金が外され、ドアは内側へ開き、そして背の高い中年男が掲げるランタンの灯りがラサールの顔に浴びせられた。

「ムッシュー・ルバは御在宅ですか?」ラサールは尋ねた。

「出かけてる」男はそっけなかった。

「私の名前はウッソンです。お訪ねするという連絡がいっているはずですが。旅を共にして…」

 彼の言葉は遮られた。「ムッシュー・ルバは、ここにはいない。今朝ジュネーブを立った。日曜の夜か、月曜の朝には戻るだろう。彼に用があるなら出直してくれ」そして男が付け加えた言葉は、ラサールには意味有りげに聞こえた。「必ず。出直してくれ」

「ああ、ちょっと待って。ムッシュー・ルバが不在としても、フォン・エンセ男爵はここにいるはずだ。だから――」

 再び男は割り込んだ。「ムッシュー男爵ル・バロンは、ここにいらっしゃった。だが彼も出立された」

「出立?有り得ない!何処に行ったんです?」

「彼はもう行ってしまった。俺に話せるのはそれだけだ、ムッシュー。後はムッシュー・ルバから直接聞いてくれ。おやすみ!」

 ドアはラサールの鼻先でバタンと閉められ、夜のとばりが降りつつある静かな急勾配の路上で、彼は狼狽と憤慨の狭間に取り残された。前方に目を凝らせば、モンブランの山々はほとんどが谷の深まる影に飲み込まれ、雪に覆われた山肩は、山頂に隠れた太陽の残光で尚も赤らんでいた。

 彼はためらい、腹を立てつつ、しばしの間、その場に立っていた。再びドアを打ち鳴らし、少なすぎる言葉で示唆された謎の回答を要求する衝動をどうにか押さえつけると、彼は踵を返し、のろのろと道に降りた。

 どうやら、宿をとる必要がありそうだ。ルバの帰宅によって、フォン・エンセの後を追うにはどのルートを行くべきかが判明するまでは、二、三日の間は其処に泊まらなければなるまい。如何なる事情によって、男爵が彼を待たずにジュネーブを去らざるを得なくなったのか、ラサールには見当がつかなかった。だが、逃亡中の彼を恐れさせるような事態が起こったのは間違いあるまい。

 コートのポケットに手を突っ込んで、首を縮め、視線を落として大股で歩く彼は、曲がり角で逆方向から来た男とぶつかった。衝突により両者は立ち止まったが、この時、ラサールは自分の目前にあるのが、つい最近馴染みになった男、デマレの顔であるのに気づいた。

 ショーウインドウからの明かりによって、彼らは一瞬、互いの顔をまともに見た。それから小声で詫びの言葉を告げ、やはり相手がデマレであると確信したラサールは、横に避けて、彼に道を譲った。疑われもせず、そのまま行くのを許された事により、彼の不信は深まった。ラサールは自分が彼に気づいたと気取られぬように心がけ、デマレの方も、あえて相手の姿を確認しようとはしなかった。だが、あのしつこいブラッドハウンドがジュネーブに姿を現したという事実は、ラサールが丁度この時に自問していた謎の回答を与えてくれた。あの男は、どのようにしてか、再び獲物の足跡を発見し、国境を越えてまで追ってきたのだ。

 フランスの密偵たちの大胆不敵振りについて、ラサールは知り過ぎるほど知っているし、それはルバも同じだろう。ジュネーブは国境に近接しており、この三年間、スイスに辿り着いた途端に自分の身は安全と気の緩んだフランスからの逃亡者が何人も連れ去られている実情を、あの時計職人は充分に意識しているはずだ。従って、ルバは慎重かつ油断のない行動をするであろうし、自分の家に国王を保護していたこの数日間は、尚の事、用心に用心を重ねていたはずだ。ルバの方にも、デマレと手下どもの出現を報告して来るような密偵がいるだろう。革命政府の密偵たちのジュネーブへの到着、これは勇敢なる王党派の時計職人が、高貴なる逃亡者の安全に不安を覚えるには充分だろう。

 つまりは、これがフォン・エンセが高貴なる被保護者と共に慌てて出発した理由、そしてルバその人が不在である理由という訳だ。恐らくルバは、彼らの安全を図りつつ、先導し警護する為にエンセたちに同行しているのだろう。

 備えあれば憂いなし。ラサールの対応は、己の同国人による卑劣な行動に備えて用心を怠らぬというものだった。夜にはドアにバリケードを築き、手の届く場所に装弾済のピストルを置いて眠り、そして日中は、害意ある連中が暴力沙汰に及ぶ可能性を考慮して、何処であろうと独りにならぬように留意した。

 危険な事態に備えて対処をしている事により、それ以外の時にはくつろいでいた。彼はレマン湖のマス料理とヌーシャテル産の白ワインを大いに楽しみ、旺盛な食欲で夕食をとり、そしてぐっすりと眠った。

 朝、彼は明るい日差しに誘われて外に出ると、散歩道をそぞろ歩き、美しい風景に心を奪われた。巨大な青い湖に反射する周囲の景観の壮大なる事。低い斜面にある果樹園と葡萄園から始まり、上方アルプスにあるエメラルド色の牧草地まで隆起している山麓地帯、更に上には再び巨大な岩々がそびえ、輝く氷雪で頂きが被われていた。彼は湖の水源であるローヌ川にかかった橋に足を向けた。焦茶色の梁に無骨な屋根が乗った赤色砂岩の建造物からは燃えるように赤い小塔が張り出しており、フランス人の目から見れば中世的で古めかしい趣があった。

 その近くで、群衆が防波堤につながれたボートに群がっていた。安全の為には人の多い場所にいた方が良いという判断か、ちょっとした好奇心かによって、彼はそちらに向かった。群衆の端にいた彼は、足早だが不規則で、よろめきつつも慌てて駆けつけたというような足音を背後に聞いた。振り返ると、息を弾ませつつ駆け寄った男が若い女を傍らで支え、その後を数人の子供たちが遅れてついて行くのが見えた。その男女は共に悲しげで、蒼白な顔をしており、女の方はすすり泣いていた。群集の際に立つラサールの脇を通り過ぎ、その男は乱暴に肘で人々を押しのけて道を作り、今や悲痛に泣き叫んでいる女性を通してやろうとした。「うちの人の処に行かせてちょうだい。ああ、ここを通して!お願いよ、通してちょうだい」

 小さな人垣を無理やり押し分け、彼らが前進して行くと、再び通り道は閉じた。

 チョッキと半ズボンを身に着けて、膝から下は素足という姿の若い船頭が、ラサールのすぐ脇に立っていた。ラサールは彼の方を向いた。

「何があったんだ?」

「土左衛門だよ」陰気な調子でそう答えてから、男は言い添えた。「気の毒な後家さんが泣いてんのさ。丁度、オカに死体が一つ上がったところだ」

「二つだよ」もう一人の男が訂正し、更に続けた。「ああ、デュウ・ド・デュウ!(神様神様!)無茶だったんだよ。嵐が来てるのはわかってたのに。だけど、あの紳士はローザンヌに急いで渡らなきゃいけない用事があったらしくてな、代金を余計に払うからって言ったんだ。だからってなぁ?」

「その金のお陰で、どうなったよ」最初の男が不機嫌な調子で言った。「岸から止める声が聞こえるのを無視して船を出した挙句、四人が溺れ死んで、若い後家さんが二人、路頭に迷うハメになったんだぜ」

 群衆は突然ざわめいた。野次馬の集団の中に一筋の小道が開き、其処には時折漏れる同情のつぶやきと、心痛で泣き叫ぶ女性の声だけしか乱すもののない静寂が生まれた。この土地の男が二人、担架で遺体を運びながら、堅実かつ重たい足どりで人込みの中を押し進み、その横では取り乱した様子でふらつく女性が、先程、道を開いた男によって支えられていた。

 彼らはラサールの近くを通過し、仰向けになって穏やかに微笑んでいる若くたくましい死者が見えた。二番目の担架が続いた。こちらの男は、より屈強な体格で、もつれた髪は色あせたブロンドだった。前方へ進み出たラサールの目は戦慄で大きく見開かれ、頬からは徐々に血の気が引いていった。彼が見下ろした先にある鉛色の顔、それはウルリッヒ・フォン・エンセの顔であった。

 ラサールは前に出ようとしたが、誰かが背後から乱暴に彼を押した。明らかになった事実に衝撃を受け、彼はしばし自失して、遺体の傍に立つ権利を主張する言葉が見つからなかった。彼が理性を取り戻した頃には、群衆の一部がその陰鬱な行進をとりまき、残りは四散していた。

 先程、彼が言葉を交わした若い船頭は、まだ横にいた。

「君、溺れたのは四人って言ったよね」そう話しかけた彼は、自分の声が平静を保っている事に我ながら驚いていた。

「四人だよ」男は同意した。「二人は船頭だった。兄弟のな。最初に運んでこられたのが、その片割れだ。次がその二人を雇った紳士。二番目の土左衛門よ。それから男の子。多分、あの紳士の息子だろうな。その四人全員が、二日前の晩に無茶やって溺れちまったって訳よ。他の死体はまだ上がってないが」

 ラサールは彼を見つめる視線に気づいた。見上げた先にはデマレの厳つく角ばった顔があった。彼にはかまわず、ラサールは無表情に群衆の後に従い、その場を立ち去った。

 明るい日差しが降り注ぐジュネーブの山々に囲まれた晴れやかな湖のほとりで、彼が全ての希望をかけていた冒険は、突然、そして残酷にも、悲劇的な結末を迎えた。

 運命の女神は、さながら性悪なあばずれ女の如くに、ほんの少し余所見をしている間に彼を裏切ったのであった。

第一部 終


  1. ジュネーブは16世紀に宗教的迫害から逃れた各地のカルバン派プロテスタントの亡命先となり、結果として多くの手工業者が集まる地となった。元々当地で栄えていた金細工職人が贅沢禁止令により転業を余儀なくされ、亡命機械職人の技術を取り入れて時計製造が発達、18世紀には大産業化している。 

イソノ武威
作家:ラファエル・サバチニ
The Lost King 失われし王 ルイ=シャルル(上)
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