The Lost King 失われし王 ルイ=シャルル(上)

五 傀儡師

 ラサールは罠に餌を付け、騙され易いアナクサゴラスが、その中に足を踏み入れるように誘導した。彼はあらゆる難所に対する解決策を用意し、あらゆる障害を回避する道を示して見せた。彼が選択した曲がりくねった道には、そのような難所や障害が少なからず存在し、それらの中には、当初はド・バッツの知性をもってしても克服不可能と思われていたものも、幾つか含まれていた。

 代理官が挙げた問題点の内、最後の一つに対する解決策を与えた時、この役人はラサール自身も確かにそれは高い評価であると認めるような表現を用いて賞賛した。

「いやあまったく!君は数学教授あがりのフーシェに劣らぬ、計算高い頭の持ち主だな」

 例の聾唖の子供も当然の如く捜し出されたが、ラサールの見立て通りに本職の乞食が商売道具として使う孤児に過ぎなかったので、ショーメットが提供した三百リーヴルで何の障害もなく買い取る事ができた。実を言えば、その孤児の所有権は、既に先手を打ったド・バッツが獲得していたのであるが。

 次のステップはシモンとその妻を追い出す事なのだが、その方法を示したのは、またしてもラサールであった。

 今やショーメットは、もの憂げで倦怠したような声と覇気に欠ける目立たない物腰をしてはいるが、秀でた知力の持ち主である若い画家に完全に操縦されて、彼の指示に几帳面かつ忠実に従うようになっていた。年内最後のコミューン議会において、彼は如何なる者も複数の公職に同時に就く事を禁ずるという法令を提案した。

 ラサールは議員としてその場におり、同じく議員であるアントワーヌ・シモンも、タンプル地区代表として、そして若いカペーの教育係を任された世の耳目を集める有名人として出席していた。

 ショーメットは偽善者の常として、あえて人前で異を唱える者などめったにいない謹厳かつ高尚なる原理原則を根拠とした問題を提起する事によって、最初の段階から反対意見を封殺してしまった。複数の公職を兼任する事を激しく責める際に、彼は公費の負担により報酬を増やそうと努めるような人間は、悪しき市民であると非難したのであった。

 その日の夕方までの議論では、この問題はまだ討論の段階に過ぎなかった。だが、シモンにしてみれば、提出された法案が己に及ぼす忌まわしい影響を思い描いて、深い不安に落ち入るには充分だった。

 閉会後に階段を降りる途中で、彼は傍らにラサールがいるのに気づいた。

「やあ、市民シモン」

 十月の例の日にタンプル塔で顔を合わせて以来、この若い画家に対して親近感を抱くように仕向けられていたシモンは、親しげなどら声で挨拶を返し、彼らは共に大路へと進んで行った。

 ラサールは慎重に探りを入れた。

「もしショーメットのあの主張が法律になったら、文句を言う奴はかなりいるだろうね」

「俺ぁ、議員の仕事も勘定に入れられんじゃねぇかと思ってるンよ」と不平がましくシモンが応じた。

「まぁね、あれも報酬が出るから」

 シモンが吐いた悪態だけで、ラサールが求めていた回答としては充分だった。

「ああ、市民シモン。悲しい現実だよねぇ、権力を振るう手段を与えられた人間は、必ず暴君になるんだから。奴らは自分の望みと思いつきを、下の人間に一方的に押し付けるんだ。権力の快感を味わう事に比べたら、そいつが不当な行為かどうかなんて、気にやしないのさ」

「豚公め、けど実際、その通りだよな、市民ラサール。どうなっちまうんだろうな?」

「あの酷い法令が通過しない事に希望をかけよう。今できるのはそれだけだ、我が友よ」

 問題の法令が通過しつつある時に、シモンが己の狼狽を慰める為にラサールを求めるようにさせるには、これで充分だった。更なる事態の展開は、ほとんど間を置かずに起こった。次のコミューン議会において、ショーメットに強いられた投票により、如何なる者も複数の役職に就く事を禁ずる、また、これは兼任が議員としての活動の妨げになっているか否かには左右されない事を明確とする、という法が通過した。シモンは、彼自身には年六千フラン、妻には年四千フランの報酬をもたらしてくれる、タンプル塔の管理人を辞さねばならぬという巨大な災難が我が身を襲ったなど、にわかに信じる事ができなかった。

 彼をその羨望に値する役目に任命したのは、他ならぬショーメットその人だった。そしてその待遇に値したのは、シモンの妻マリー=ジャンヌだった。頑丈で筋骨たくましいが心根は非常に女らしく、男性的な外見とは裏腹に良妻賢母型の彼女は看護婦の適性があった為に、テュイルリー宮への攻撃後にコルドリエ女子修道会に収容されていたマルセイユの負傷兵たちの世話に献身していた。これは公益を資する行いであり、とりわけコミューンに対して貢献していた。よってショーメットは、彼女の夫に管理人職を――その他の点で、シモンは代理官が必要と考えた条件を満たしていた為に――与えるという形で、マリー=ジャンヌに報酬を与えたのである。

 あまりにも突然、かつ独断的に、己の安楽と社会的重要性が奪い取られるのを目の当たりにした時、その公職が与えられた経緯に関する記憶自体がシモンの憤慨を加速した。

 閉会後、シモンは如何にも彼のような愚か者に相応ふさわしく、この厳しい法令の適用を特例によって免れるようにショーメットが便宜を図ってくれはしまいかと希望を抱いて、彼を探し求めて捕まえると、しばし話し合った。彼はこの件について嘆願した。しかし法的不可侵で身を固めたショーメットは、著しく不適切な提案に衝撃を受けたかのように装って、威嚇的な調子で応じた。国家から強奪する利益に執着するようでは、良き愛国者とは言えまい。実際、この件で君の愛国心に疑念が沸いたのだがね、と。

 単純かつ無知なシモンは、その恐ろしい科白に震え上がり、大慌てで代理官に別れの挨拶を告げた。だがしかし、彼の恐れは激怒を静める類のものではなかった。それどころか、怒りの炎を煽る風であり、計画に引き込む時期をうかがっていたラサールにとって、シモンはハンマーで打つ為に柔らかくされた金属と化したが如しであった。

 謀略のヌシは突き刺すような夜の空気から身を守る為に目の高さまで外套にくるまり、靴屋がグレーヴ広場から姿を現したと同時に、その傍らに早足でやって来た。

「其処にいるのは市民シモンじゃないか?やあ、我が友よ。どうだい?俺の言った通りになったかい?あの新しい法令は、君が受けて当然だったはずの恵まれた待遇を取り上げるんじゃないかって、俺が心配してた通りにさ」

 耐え難い苦悶のうめきによって、シモンは内心を吐露し始めた。「なんてぇ、ご立派で愛国的な思いつきだよ!あんな……ああ、チクショウめ!」警戒心と無念の板挟みが、彼から言葉を奪った。

「隠さなくたっていいよ、俺も同じ気持ちさ。君の為に怒ってるし、君と一緒に怒ってる」若い画家の声は情感豊かだった。「酷い法令だ。有り得ないくらい酷いよ。誰かに聞かれたってかまいやしない。こんなの専制もどきじゃないか。権力の濫用だ」

「まったくだぜ」シモンは熱烈に応じた。「豚公どもめ、まったくその通りだ!」意を強くした彼は警戒心を捨てた。「クソッタレな独裁。身の毛もよだつ圧政。ぶっちゃけりゃ、そういう事よ。官職に居座ってる寝取られ野郎どもは、テメェらだけで甘い汁を吸ってやがるのさ。あいつらは小っこい国王だよ!ぶっちゃけりゃ、そういう事よ。小っこい国王だ。そのうちみんな気がつくぜ。そん時ゃ見物だ。そのうち奴らも、一年前にテメェらでシャルロットの籐籠におっぽり込んだ国王と、おんなじ目にあうんだぜ」

「君の怒りは当然だよ、我が友よ!まるっきり――気がついたかい?――あの酷い法令は、君を狙い打ちにしたみたいだからね」

「俺を?俺をか?」

「気がついてなかったのかい?こんなに酷い打撃を受ける議員が、君の他にいるかい?」

「そうだ、何てこった!」愚かなシモンは言った。管理人という身分のせいで肥大した虚栄心により、彼は易々と納得させられた。「けどよ、なんで俺っちが?」

「ああ!俺に謎解きしろって言うのかい」

「それそれ、それだよ。謎。奴らの汚ねぇ仕事を任されて、俺より上手くこなせる人間は、他にいねぇってのがわからねぇのかよ、連中は。あの小僧を見てみろや。あんた、三ヶ月前にあの子を見たよな、市民ラサール。王族っ気を抜かれたあの子をよ。すっかり王族っ気を抜いてやったんだぜ。あの小僧っ子の今のザマを見ろよ。あのメッサリナが、腹を痛めた実のお袋が、奴に会う為にあの世から戻って来たとしてもよ、見分けがつかないはずだぜ。そいつは誰の仕事だよ?俺だ、チクショウめ。この俺様だよ!それだってのに、奴らは犬っころみたいに俺を追い出そうっていうんだぜ。連中は、俺っちを追い出したいんだ」

「それだよ」ラサールが言った。「連中は君を追い出したいんだ。君が今、説明した通りにね。君は鋭いよ、親愛なる市民シモン。ショーメットがあの法令を通過させたのは、君を追い出す為なんだ。君は真相を突き止めた。一目瞭然ってやつだ」

「なんてこった!」シモンが言った。

「そして、どうしてそんな事をしたのか?説明がいるかい、もう、君にも、はっきりと見えてるんじゃないか?君はあまりにも働き者で、あまりにも用心深くて、あまりにも模範的な愛国者だ。君は奴らの汚い貴族主義の計画にとって、邪魔なのさ。ああ、これで何もかもはっきりしたよ。ショーメットと奴の仲間たちは、情勢が変化した時、専制政治に戻った時に、身の安全を確かにしようと企んでるんだ。連中には根性も勇気もないのさ。ちょっとばかり物事が上手く運ばないと、すぐに自分たちが負けると考えるんだ。俺は何回か、そういう場面を見てるからね。お陰で、この悪事のカラクリにも察しがついたんだよ。連中は自分たちの安全しか頭にないのさ」

 シモンは、彼にも理解できるような話ならば、どんな悪事でも鵜呑みにする気が満々だった。「あのクソッタレの悪党が俺を追い出すと、どうして連中が安全になるんだ?」

 暗闇の中、忍び笑うラサールの声が聞こえ、彼は自分の腕がラサールの細く強健な指で掴まれるのを感じた。「多分だけど」恐ろしく淡々と、若い画家が言った。「連中は、あの小僧を盗むつもりなんだと思うよ。その手始めに、君を余所にやろうとしてるんじゃないか?」

「あの餓鬼を盗むって?どうして盗むんだ?」

「売り飛ばす為にだよ」

「売り飛ばす?誰が奴を買いたがってるって言うんだ?」

「オーストリアの皇帝を筆頭に、何人も。あの子を売り飛ばせば、明日にでも金貨で五〇万は手に入れられるよ。多分、それよりもっと高く取れるかもね」

 口を突いて溢れ出た罵詈雑言が、シモンの驚きの深さを証明していた。彼は暗闇で道に迷っていた時に突然ひとつの光明を見た男のように、自分自身がそう思いたがっていた者についての最悪の話に易々と飛びつき、信じ込んだ。ラサールが彼を押し留めた時も、シモンは依然として周囲を気にせずまくし立てていた。

 彼らはスービーズ通りを横切ろうとしていた処であり、其処に右方から自治地区の警備隊が近づいて来た。隊長は進み出ると、ランタンを二人の徘徊者の顔の高さまで上げた。

「止まれ!ああ、あんたか、市民シモン」彼はラサールの方に視線を移した。「証明書を、市民」

 ラサールは懐から証明書を取り出すと、灯に向けて広げて見せた。それを確認すると、警備隊は二人を放免し、どしどしと重い足音を響かせて歩み去った。

 シモンは激しい非難を再開した。ひとしきりは支離滅裂だったが、しかし最後には、それは一つの結論に向けて首尾一貫したものになった。市民ラサールは正しかった。あんたが言う通りに違いない。ショーメットは欲深で業突く張りの卑怯者だ。奴はオーストリアにあの小僧を売るつもりなんだな?このアントワーヌ・シモンに邪魔される間は避けて。彼は御照覧あれと地獄の悪魔どもの名を唱えた。俺はあの糞野郎を告発してやるぞ、と。

「まあまあ」ラサールは言った。「よく考えなよ。ショーメットは二十四時間以内に君をナイフでぶっすりやるぞ。奴が企んでる事は、誰にだって見当がつけられるくらい単純なものさ。でも法律を前にして、ただの推理が何の役に立つっていうんだ?できるもんなら俺が自分で奴を告発するさ、それを証明できるならね。でも俺は、無駄にギヨティーヌの下に首を突っ込むほどイカレちゃいない」

「じゃあ、俺っちはなんにもできないってのか?こんな汚ねェ事をよ、指をくわえて見てろってのか?」

「市民シモン、今の君は、ものすごく危険な立場なんだよ。現実的に考えてね、君にできる事なんて何もないんだよ。例えば君が先回りして小僧を盗んで奴らを出し抜いてやるなんて、いくらなんでも正気の沙汰じゃないだろ」

 シモンはハッと息を呑んだ。「正気の沙汰じゃないって?けど、正気じゃねぇってンなら、元からだろ?他の奴らにできる事ならよ、俺にだってできるのが道理ってもんじゃねぇのか?」

「まあまあ!ちょっと落ち着けよ。君はとんでもない計画を持ちかけてるんだぜ」

「俺は共和国の為に小カペーを護ろうって言ってんだ。何とかできるはずなんだ」

「君の言う通り、何とかできるはずだろうさ、でなきゃ、あの悪党たちは考えなしって事になるからね。でも、難しいのはその方法だ。そうだなぁ、ちょっと考えてみようか」彼はしばらく静かに考えを巡らせているようだった。「教えてくれないか、君はいつ、タンプル塔を出て行くんだ?」

「俺に訊いてどうするよ?あんたが知ってるより詳しい話は聞かされてないんだよ。多分一週間か、二週間の内じゃねぇかな」

「そうか。きっと君の予想通りなんだろうが。一番賢いやり方はね、君が出て行く時に、あの子を一緒に連れて行くって手だよ。まあ待てよ!聞きなって」

 嗜められたシモンは、我を抑えて青年の話に耳を傾けた。

 長いタンプル通りを歩きながら、ラサールは着実に話を続け、そしてその間、シモンは一歩を進める毎に深く、更に深く、その巧妙な若い紳士のまことしやかな雄弁に深く魅了されていくのであった。

 その夜遅く、ラサールはメナール通りのド・バッツに現状を簡潔に説明した。

「行進中ですよ、男爵。俺は操り人形を踊らせる楽器を抱えている処です。ショーメットには、バラスに先んじて少年を誘拐して確保するよう説得しました。ショーメットは、まず始めにシモンが誘拐を実行するように説得してくれと、俺を説得しました。シモンには、ショーメットの行動を防ぐ為に先んじて彼が同じ事を行うよう説得し、そして彼の共和主義者としての良心をなだめる為に五〇万をチラつかせました。全てが列を成しています。いずれシモンとショーメットの間の何処かで、連結を外す為に介入するつもりですが。その時が来るまでは滞りなく進んでいくでしょう。ギヨティーヌみたいに滞りなくね」

 ド・バッツ、陰謀の首魁は、物憂げに微笑んでいる若い男を畏怖の目で見た。

六 手押し車

 革命暦第雪月ニボーズ30日、キリスト教暦でいえば1794年1月19日、それはショーメットによって指定されたシモン夫妻のタンプル塔からの退去日だった。そしてショーメットは、彼に代わる新たな教育係は必要ないとの決定を下していた。彼はコミューンに説明した。少年の指導は既に十二分に行われた。それを延長する事は国家資源の無益な浪費である。コミューンの議員から毎日四名が当番委員として監守し、その内二名が二十四時間毎に交代する、それ以上は必要ない。

 充分な根拠のある提案は諸手を挙げて賛同され、そしてラサールの仕掛けは順調に稼働し続けた。既にマリー=ジャンヌは計画に引き込まれていたが、彼女を動かしたのは金銭よりも、その粗野な外被に包まれた母性的な魂の素朴な優しさによる処が大きかった。

 1月19日の午後、解け始めていた雪に霧と小雨が加わった日、シモン夫妻はタンプル塔で荷物をまとめる作業に追われていた。

 内親王殿下マダム・ロワイヤルは、その幽閉時代最後の数週中に書きとめた回想録メモワールの中で、執筆時から約二年前にあたる問題の日に、彼女と叔母のマダム・エリザベートが階下からの異常な音を聞きつけ、其処から推測した結論を――奇妙にも正確な結論を――記している。すなわち、ルイ=シャルルが塔を去ろうとしているという結論である。物音にじっと聞き耳を立てるのは、この不幸な婦人たちの習慣になっていた。それは壁の向こうの世界で何が起きているのか、とりわけ階下の部屋にいる小さな王の挙動について、多少の判断材料を与えてくれたのである。最初に彼が家族から引き離された日――1793年7月――から、しばらくの間、彼女らは突然会えなくなった母を求めてすすり泣く少年の声を聞いた。幼子は熱烈に母を、己の意図せざる嘘が断頭台に送る手伝いをした母を、心から愛していたのだ。だが、そのように心を痛めている様子をうかがわせてから程なくして、幸いにも幼い心はふさぎ続けてもいられずに自分自身を慰めたようであった。何故なら彼女らには、少年が足を踏み鳴らし、叫び、部屋中を駆け回って遊ぶ物音が聞こえたからである。そして二人は、少なくとも彼が既に泣き暮らしてはいないのだと考えて、幾分か安堵した。しばらくすると、彼女たちは少年が新しい教師から教えられた下品な革命歌を歌うのを聞いた。『ラ・マルセイエーズ1』、『ラ・カルマニョール2』、あるいは、より下品で酷い『サ・イラ!3』。彼は『サ・イラ!』を好んだが、それは革命の文句と、彼が昔から親しんでいたメロディとが組み合わさったものであるからだ。この陽気な対舞曲コントルダンスは、ベルサイユでの輝かしい日々――今となっては記憶の中の単なる幻影に過ぎないが――に、マリー=アントワネットがしばしばクラヴサンで演奏したものだった。時が経つにつれ、そして再教育が進むにつれ、彼は更に騒々しくなっていった。階上の聞き手たちに推測する術はなかったが、少年が姉王女たちを身震いさせた革命歌をわめき散らしたのは、無理強いされて飲み過ぎたワインの影響によるものだった。少なくとも、彼は不幸でも虐待されてもいなかった。彼は衣食住に関しては不自由なく、ちょっとした要求ならば気前良く叶えられた。彼が欲しがれば玩具が与えられ、ふざけ回るのに飽きた時には子供に相応しい内容とは思えぬ本が、そして革命にちなんだ図案のトランプも与えられたが、そのキングやクイーンが共和主義の英雄たちに換えられていたのは言うまでもない。

 この日――運命の1月19日――、乗馬ごっこを行なう際に、ほうきの柄にまたがるよりも想像力が満足させられるようにと、彼は大きなパルプボード製の馬を与えられる事になっていた。

 しかし玩具おもちゃ屋の使いがタンプル塔の入り口まで恐ろしく大きな馬を乗せた手押し車を転がしてきたのは、そのじめついて霧の濃い夜の8時を過ぎてからだった。この汚れた顔の使者、カルマニョールに木靴、兎の毛皮の帽子を目深まぶかに被り、底冷えがする空気から身を護る為に毛織りのスカーフで鼻までおおった男は、ラサールであった。彼の挙動は、その外見にふさわしいものだった。喧嘩腰で不機嫌な様子の彼は、入口で衛兵に止められると、配達が遅れるじゃないかと口汚く罵った。

「一晩中下らねぇ質問責めにして、俺をここで凍えさしとくつもりか?あったかい詰所から、半分凍えた哀れな男をいびる為にお出ましかよ、ありがてぇこった。俺が何を運んできたのか、そっから見えねぇか?俺の行き先くらい、聞いてねぇのかよ?あの甘ったれたカペーの餓鬼に、玩具おもちゃを配達しに来たんだよ。みぞれの中を2マイルも、えっちらおっちら大荷物を転がしてきたんだぜ、こんな用事でよぉ!これが愛国者にやらせる仕事かってんだ!」彼はそう罵り、唾を吐いた。「そしたら今度は、ここに突っ立ってるせいで足が凍りそうだってのに、クソ忌々しい貴族野郎が威張りくさって、どうでもいい質問を根掘り葉掘りだ。うざってぇったら、ありゃしねぇ!てめぇら衛兵も、アレなんだろ――クソッタレの専制主義者なんだろ。そんな青いコートやゲートルくらいじゃ騙されねぇぞ。国王の手先が!」

 衛兵たちは、彼が不平を言う口調を真似て不機嫌ぶりを散々からかった末に、ようやく鉄格子を開いた。依然として不平を並べながら出入り口を通ると、彼は中庭を横切り、少し前までは故王の弟であるアルトワ伯爵4の邸宅であった、テンプル騎士団の城を通り過ぎ、ミニチュア公園の木々の間を抜け、帽子形の蝋燭消しのような形の屋根を持つ複数の小塔を伴った、テンプル騎士団のかつての「ドンジョン」、もしくは主塔である厳しくそびえ立つ大塔まで、手押し車を転がしていった。

 その大塔の足元の扉は開いており、其処から暖かな光の斜方形が霧雨の降りしきる薄闇に投射されていた。中からは、陽気な人声とグラスのぶつかる音が聞こえてきた。

 入口の前に手押し車を残して、ラサールは玄関から奥へと騒々しく音を立てながら進み、当番委員たちがよろしくやっている大きな会議用ホールの開け放された出入り口に、喧嘩腰な様子でやって来た。シモンの方はといえば、前もって決められた計画通りに、義務に従ってやって来たばかりのコミューンの紳士たちと送別の一杯を交わす為、地下室から二本の瓶を取って来た処だった。其処は40フィート四方の正方形の会議室であり、中央の柱の先には円形天井の相交わる穹稜きゅうりゅうがあった。その柱の近くには、蝋燭の炎で作られた島が薄闇の大海の中に浮かび、五人の男がテーブルに集っていた。その男たちはシモンと四名の監視委員だったが、その四名の中には、以前ここで監視役を務めた経験のある者も、王の外見を良く知る者もいなかった。この点については、ショーメットが既に確認済みであった。

「おい、アンタら!」

 怒気のこもった呼びかけに振り返った彼らは、横木の下に立つラサールの姿を認めた。

「取次ぎくらい居ねぇのか?アンタら忌々しい貴族野郎が飲んだくれてる間、俺は雪ン中で、霜焼けになるまで立ちん棒かよ?」

 体格の良いシモンが一団から離れてやって来た。「はいよ、はいよ!今行くよ!そうカッカしなさんなよ、な?そりゃそうと、一体全体、何処のどなた様だい?ロシアの皇帝ツァーリか、それともイングランドのジョージ王かい?何の用で来なすった?」

「馬だよ、玩具おもちゃの馬、くたばった専制君主の我侭な糞餓鬼の為に運んできたんだよ」

「なんだ、あれかよ!」シモンは拍子抜けしたような口振りになった。「三階に持ってってくんな。三階だ。俺の女房がいるからよ。アイツが見てくれるはずだ」

 彼が仲間の待つテーブルに引き返すと、ラサールは不平を言いながら出ていった。それから男たちは、石造りの螺旋階段を踏む彼の木靴の音を聞いた。

 上階の女市民シトワイエンヌシモンもまた、それを聞いていた。玩具おもちゃを運ぶラサールが三階に姿を見せた時、彼女は少年の部屋のドアを開け、その場に立っていた。それは騎士の模擬馬上試合に使われる類の揺り馬であり、ポニーくらいの大きさの頭と肩に、残りは木組みの上から軍馬用の馬衣うまぎぬをかけたものだった。このドレープのついた布は束にまとめられ、全体はかなりの重量があるようだった。

 モブキャップ5の下にある大きな顔に厳粛な表情を浮かべた大柄で男性的な女は、彼の為に道を開けた。

 彼は部屋の中に荷物を降ろした。一息吐くと、彼は周囲をぐるりと見回した。緑のサテン製ベッドカバーをつけたマホガニーのベッドで、幼い王はすやすやと眠っていた。

 女市民シトワイエンヌが入口で見張りを務めている間に、ラサールは馬衣うまぎぬをくくっていた紐を無言のまま切り裂いた。彼が布を取り去り、馬の首と尾を掴んで持ち上げて脇に放ると、後にはカルマニョールと小さなパンタロンを着けた、黄色い髪の八、九歳の子供が残された。

 女は振り返ると、身を乗り出して子供の青白い顔を見つめた。それは蝋燭の明かりで濡れた象牙のようにきらきらと輝いていた。彼女は睡眠薬によって眠りに落ちている、ぐったりした少年を、もっと間近で見ようと歩み寄って来た。

「急げ!」ラサールはささやいた。顔に塗りつけた汚れを通して、強い光を放つ両目が命じていた。「俺たち全員の命が懸かってるんだ」二歩先にあるベッドには、同じく薬の作用で完全に眠り込んでいる幼い王がいた。ベッドカバーを剥ぐと、彼はシーツごと子供を抱き上げて肘掛け椅子に運んだ。それから入口での見張り役に戻っていた女に手振りで合図して、もう一人の子供から素早く衣服を剥いでベッドに運ぶと、何事もなく眠っているように身体の位置を整えてから、寝具でおおった。

 次に彼は、迅速な、事前に充分計画された人間の躊躇ちゅうちょない動作で再び王を抱き上げると、その身体をシーツで包み込み、単なる使用済みリネンの束にしか見えぬように形を整えた。

「今だ!下の奴らにも聞こえるように大声を出せ。口汚い魚売り女みたいに罵るんだ。あんたの荷物を幾つか運ぶのを手伝うように俺を脅してくれ」

 すぐに彼女は、命じられた通りに即興芝居を始めた。シモン夫人は用意ができている二つの荷物を掴むと、声を高めて騒々しく罵った。

「その包みを持ってって、アンタの手押し車に載せて運んどくれよ。わかった、わかった、心配しなくたって、その分はちゃんと払ってやるから。ああもう、役立たず。そいつを表に持ってくんだよ!」

 彼は荷物を運びながら階段を降り始め、その後に続く女が騒々しくわめき立てる声が塔中に響いた。「友愛フラテルニテの話だよ!最近は二言目には友愛友愛だけどねぇ。あたしなんて、まるっきり荷物運びの家畜扱いだよ。ウチの亭主ときたら、引越しの準備を全部女房に押し付けて、コミューンのご立派な紳士方と一緒に飲んだくれてる。仕方なしにアンタみたいな能無しのウスノロに手伝うように頼んだら、駄賃を払う約束をしなけりゃ、荷物に手もつけやしない。まったく!あたしが若くて器量良しだったら、アンタも荷物と一緒に大喜びであたしを運んでくだろうにねぇ。それに、もしあたしが他の男の女房だったら、けだもの野郎のシモンは、あたしに荷物運びを丸投げなんかしないだろうにねぇ。男なんて、そんなもんだよ。どうしようもない汚い連中さ!」

 がみがみと小言をまくしたてながら、シモン夫人は彼を急き立てて曲がりくねった階段を降り、それに答える彼の調子も益々乱暴になって、あんたの小汚い古着を扱うのは本当なら俺の仕事じゃねえし、俺があんたの亭主だったら口汚い女にはさっさとくつわめてやるぞ、と呪詛の言葉を吐き散らした。

 彼らの立てる騒音と互いに大声で怒鳴りあう声は、会議用ホールにいた当番委員たちの間に、最初は驚きを、次に浮かれ騒ぎを引き起こした。如何にも猛烈に追い立てられている様子で、ラサールは荷物と共に開け放されたドアをそそくさと通って行き、その後に続く女は、万一、誰かが外に出ようとした際の邪魔になるようにと、出入り口で足を止めた。

「このロクデナシども、何が可笑しいんだい?アンタはどうなんだい、シモン?アンタが、そのご立派な愛国者の皆さんと一緒に馬鹿みたいに飲んだくれてる間、あたしは荷物を全部運んで、手押し車付きのエテ公からコケにされてろって言うのかい? 役立たずサロー!何の為に給料もらってんだい?それがアンタの仕事かい?」

「馬鹿言え!俺っちの仕事は終わってらぁ、でなきゃ、あの餓鬼を引き渡した時に終わるかだ。オメェの仕事は、うるせぇ口を閉じて片付けを続けるこった。それとも俺様がその口を閉じてやろうか。わかったら、さっさと行け!」彼はそう怒鳴って片付けた。

 彼女は怯えたかのように、呪詛の言葉をつぶやきながら、よたよたと表に出て行った。

 ラサールは既に手押し車に荷物を積んでいた。彼はシモン夫人から、彼女が運んできた包みをひったくった。「そらそら!夜が明けちまわぁ」彼はシーツに包まれた小さな身体の上に、嵩張かさばってはいるが軽い包みを放り投げた。「まだあんのかよ?」

「まだまだあるよ。其処で待ってな」

 再び塔に入ると、彼女はまたもシモンに向かって罵り声を上げた。

「やれやれ」彼は仲間たちに告げた。「俺っちは、もうズラかった方が良いみたいだな、でなきゃ、あのババア、ずっとわめき続けるぞ。餓鬼の引渡しを済ませちまおうや。アンタらは書類に署名する前にアイツを見ときたいだろ。じゃあ、行こうか市民たち」

 酒宴の〆に全員でグラスを飲み干すと、彼らの一人が恐妻家の夫は如何にして出来上がるかという下品な冗談を披露して、一同はひとしきり笑った。彼らは会議用ホールを出ると、シモンの後に従い階段まで行った。

 階上に向かう中途で、彼らは両腕のそれぞれに椅子を引っ掛けて降りてくるマリー=ジャンヌと出くわした。すれ違う余地はほとんどなかったが、彼女は男たちの抗議にもかかわらず、無理に通ろうとした。

「この飲んだくれども!」彼女は怒りつつ告げた。「もう少し静かにできないのかい。子供が眠ってるんだよ。ドアの後ろに食器類の包みが一つあるからね。アンタが降りてくる時、ついでに下まで運んどくれ、アントワーヌ。それから灯りも消すんだよ」

 一同は彼女の警告に従って、無言で残りを行った。静かに進んだ彼らは、シモンの後について王の部屋に入った。シモンはテーブルから蝋燭を取り上げて掲げ持つと、手振りでベッドを示した。

 その薄暗い明かりの中、足を止めていた部屋の中央から、彼らは枕の上に黄色の髪、ベッドカバーの下に子供の身体らしき輪郭があるのを確認した。それだけで終わりだった。しかし彼らが見せろと頼めるのは、それで全てだったのである。各人はそれぞれ頷くと、引き下がった。

 シモンは食器類の包みと共に、彼らの後から降りてきた。既にドアには錠を下され、鍵は回収されていた。彼は階下へと降りながら、階段の壁に掛けられたランタンを一つひとつ消していった。

 階下で待機中の妻に包みを手渡すと、彼は最後の形式的手続きの為に、もう一度会議用ホールに向かった。其処で彼は、当番委員の一人であるコシュファに王の部屋の鍵を渡して、彼ら四人が証明書に承認の署名をするように要求した。そして、一にして不可分なるフランス共和国の革命暦第雪月ニボーズ30日の夜9時、彼らはアントワーヌ・シモンから、ルイ=シャルル・ド・カペーの保護を引き継いだのである。

 それで終了だった。タンプル塔における、シモンの最後の義務は果たされた。彼はもう、いつでも出発できる状態だった。

 外では既に、ラサールがリネンに隠された子供を押し潰さないように配慮して、二つの椅子を手押し車に積み上げていた。二つの椅子でこしらえた木枠にまたがるように食器類の包みを配置して、厚地のコートを着込んだシモンがランタンを手にして姿を見せた時には、出発の準備が完了していた。

 彼らは溶けた雪でぬかるんだ道を通って、裸の樹々がしずくを滴らしている、霧に包まれた庭を渡り始めた。最初、彼らは黙り込んでいた。タンプル塔を出入りする人間や、物品の全てを厳しく確認するように命じられている衛兵をやり過ごすのに失敗すれば、自分たちの首で代償を支払わねばならぬのを意識して、シモン夫妻は怯えていた。肝が太くできているラサールさえもが、衛兵詰所に接近するにつれて脈が速まるのを自覚したと後に告白している。しかし彼は判断能力を失わず、一芝居打つ事を思い出して、一行が中庭に差し掛かる頃には、彼らが姿を見せるより先に耳障りな罵り合いの声が聞こえるような状態になっていた。

 ラサールは二人に向かって、このような夜に彼を引き留めて召使同然に顎で使った事を罵っていた。女市民シトワイエンヌは夫に対して、彼女をほったらかしにして飲んだくれていた怠け者が妻を荷引き馬のようにこき使う事について、呪詛の言葉を吐いていた。シモンは妻に、夫を一時も休ませない口やかましい女めと呪い返した。そして夫妻は、煩く非難して彼らを悩ませる手押し車の男を罵倒した。

 かようにして、三人全員が各々口汚く叫びながら、一行は中庭を通り抜け、衛兵詰所コール・ド・ガルド目指して進んでいった。

 前方には、この不作法な連中によって詰所から誘い出された衛兵隊長が、背後に三名の部下を従えて立っていた。

「いかした仲良しさんたちだな、おい?」彼はそう言って迎えた。

 三人はすぐさま、彼に向かって己の不満をまくし立て始めた。身振り手振りを交える事で余計に狂乱状態になった彼らを、衛兵隊長は懸命に静めようとし、その間、背後の部下達はにやにや笑いで待機していた。遂に我慢の限界に達した隊長も怒鳴り声で応じ始めた。

「ええい、畜生!貴様ら、俺をつんぼにする気か?」

 彼らは突然静かになった。

「そっちは確かに市民シモンか?退去する前に地下室を空にしてきたか?そら」と彼は部下の一人に命令した。「門を開けろ、ジャック」

 シモンは衛兵隊長に向かって、自分が如何に不当な扱いをされたかを哀れっぽく訴え始めた。其処にシモンの妻が猛然と割り込み、職を失うのも当然な、甲斐性なしの役立たずサローと結婚してしまった不幸を隊長に理解させようとした。彼らが言い争っている間に、鉄の門は蝶番をきしませ開かれていた。ラサールは極めて無愛想かつ無頓着に、前方へ手押し車を転がした。しかし隊長は、その上に手を置いた。

「そう急ぐな、アンちゃん。何を積んでるんだ?」

「汚ねぇボロとガラクタの包み以外、何を積んでると思ってんだ。あのロクデナシどもが引き留めてくれたお陰で、俺はみぞれの中で延々立ちん棒だ。もう脚が……」

「ああ、静かにしろ!悪魔の宴会かよ!自分の荷物以外を持ち出しちゃいないだろうな?」隊長は手を置く場所を、危なっかしく据えられている食器類の包みに移した。それは彼のてのひらの下でカタカタと音を立てた。強健なマリー=ジャンヌは叫び声を上げると彼の胸を押し、後ろに突き飛ばした。

「なんて事すんだい、この粗忽者の野蛮人!割れたらどうしてくれるんだい、それとも、もう割れちまった皿をまた粉々にしようってのかい?」

「静かに、女!静かにしろ!」衛兵隊長は抗った。

「そのぶきっちょな手を少しは優しく動かせないのかい?危ないとこだった。もうちょっとで皿が全部粉々になってたよ。熊みたいな大男が、一体全体、何をコセコセ探しまわるつもりだい?あたしらは出て行くとこだって知ってるだろ?それともアンタ、あたしらが、こんな椅子だの台所道具だのを盗んできたとでも思ってるのかい?どうなんだい?」威嚇するように、女傑は彼の前に立ちはだかった。「そんな風に思ってるのかい?」彼女の声は激しさを増した。「あたしらは正直者なんだよ、シモンとあたしはね。ずっとそうさ。正直者でなきゃ、タンプル塔の管理を任されたりするもんかね。それだってのに、アンタみたいな制服着込んだウスノロが、あたしらをコソ泥扱いして良いと思ってんのかい」

 シモン夫人の剣幕に圧倒された彼は、どうにか彼女を黙らせようと空しく試みた。

「義務が……私の義務が……規則でそうなって……」

「義務!」彼女は叫び、そして怒気を含んで辛辣に嘲笑した。「そういうのはね、おせっかいって言うんだよ!大きなお世話さ。アンタは死んだ専制君主の近衛兵みたく、もったいつけたいだけさ。フランスには忌々しい貴族どもが、まだまだ山ほど残ってるんだよ。ありゃみんな、国家の敵じゃないか。アンタみたいな図体のでかい男たちは、大人しい女を手荒く扱って泥棒扱いの難癖つけてる暇があったら、国境に行ってフランスの敵と戦っておいでな。いいかい、あたしが男だったらね……」

 衛兵隊長は忍耐の限度に達した。

「いいか市民シモン、そのガミガミ婆を即刻ここから連れ出さなければ、彼女に罰をくれてやるぞ。行きたまえ!」

「誰がガミガミ婆だい!」彼女は叫んだ。

「行け!」衛兵隊長は怒鳴った。「駆け足!進め!」

 彼は肩にシモン夫人をかついで連れて行くと、混乱し、わめき散らす彼女を門の外に押し出した。

 ラサールは彼女の後からのっそりと手押し車を転がして行き、その間、しんがりを務めるシモンがマリー=ジャンヌの振る舞いについて平謝りする事で、衛兵隊長の注意を引き付けた。しかし隊長は、それ以上何も欲しなかった。

「出て失せろと言ったはずだぞ。仲良く地獄にでも行きやがれ。お前らのつらを二度と見ないで済むのを神に感謝せにゃならん」

 門を越えてしまうと、ラサールは丸石を踏みしだいて手押し車を転がしながら、陽気に歌いだした。

『アー!サ・イラ、サ・イラ、サ・イラ
マルグレ・レ・ミュタン・トゥ・レウッシラ!
(ああ!うまくいくさ、うまくいくさ、うまくいくさ
暴徒がいようと、きっと事は成し遂げられるさ)』


  1. La Marseillaise 1791年にライン川防衛線の守備隊の為に作られた軍歌。共和制フランスに干渉しようとする諸外国に対する徹底抗戦を叫ぶ血生臭く排外的な歌詞であり、マルセイユ義勇兵が歌って広めた為に『マルセイユ人の歌』と呼ばれて流行、1795年7月14日には国民公会で国歌として採用された。現フランス国歌。 

  2. La Carmagnole 元々はイタリアの俗謡と言われている。カルマニョールはイタリアの地名カルマニョーラに因んだ農民の服装を指す言葉のフランス語読み。貧しい庶民であるサン・キュロットを鼓舞する内容であり、当時は革命歌として流行した。 

  3. Ah ! ça ira 原曲はルイ十六世の治世末期に流行したダンス曲『ル・カリヨン・ナショナル le Carillon national』。革命歌として流行するにつれ、次第に歌詞が過激で血生臭いものとなっていった。 

  4. シャルル=フィリップ(1757年10月9日 1836年11月6日)
    ルイ十六世の末弟。アルトワ伯爵。後のフランス王シャルル世(在位1825年5月29日 1830年8月2日)。青年時代はマリー=アントワネットの遊び仲間であったが、革命勃発後は早々にイングランドに亡命。 

  5. 頭部全体を覆う柔らかな布製の婦人帽。 

七 誘拐犯たち

 シモン夫妻に新居としてあてがわれたのは、タンプル門からは目と鼻の先、元はテンプル騎士団の馬屋であった粗末な小屋の、その二階にある三部屋から成る貸間だった。手押し車を転がしながらのラサールの道行きも、当然の事ながら短いものであった。

 母性的なマリー=ジャンヌは、薬物を飲まされた上に窒息しかねぬ扱いを受けた子供の身を案じ、我が目で安全の確認をしたいと切望して、シモンの強硬な反対にあった。彼女の方もまた、容易に屈服はしなかった。タンプル塔で不測の事態が発生して彼らの後から追っ手がやって来る危険を考えれば、無駄に少年を引き留めてはならないのだという説得を夫人が受け入れるまでには、夫婦の間では偽らざる剣呑なやり取りが交わされた。子供さえ手放してしまえば、何を聞かれようとシモンが案じる必要はない。あしらい方は承知しているのだ。

 そのような次第で、ようやくラサールはフランスの国王が入った包みと共に出発したのであった。荷物を運びながら、もやに包まれた人気ひとけのない道路を40ヤード以上進んで行くと、折り良く其処に、停車中の貸し馬車がいた。これに荷物を積んで乗り込むと、馬車は堅実な速度で走り出した。

 全ては計画通りに進んだ。明日、シモンは彼が教えた住所――パラディ通り二〇番地――にラサールを訪ね、後日に王党派から支払われる百万の、手付けにあたる金貨を受け取る手筈になっていた。

 この取り決めをシモンが受け入れるに至った理由は、単に良き友ラサールに対する信頼だけではなく、本件の格別に危険な事情が故に代わりとなる安全な選択肢がなく、妻にすら相談できなかった為であった。その危険な事情は、誰であれ、他者に打ち明ける事を不可能にした。あと少しすれば、シモンは妻に、自分たちに危険が迫っており、逃亡によって安全を図らねばならぬと説明できるはずだった。旅に出るのに必用充分な金しか持たぬように見せかけて、妻と共にスイスかプロイセン、オーストリア、あるいは、いっそイングランドでもいい、外国に行き、その地で報酬の百万を遣って、彼の崇高なる共和主義精神からすれば唾棄すべきはずの貴族階級のように、贅沢三昧で遊び暮らす為に。

 この夜、シモンはそのような夢に浸り、自分はもう大金を手に入れたも同然で、絶対安全な立場に身を置いていると考えていたのだが、一方その頃ラサールは、ド・バッツに貴重な子供を届けるべく、急ぎパリを横断していた。だが、その貸馬車が走っているのはメナール通りではなかった。川向こうのシェルシュ・ミディ通りにある、男爵と他の二名が待つ陋屋ろうおくに向かっていたのであった。

 その陋屋の一階、明々と照らされた快適な部屋では、送り届けられた子供がようやく巻き付けられた布を解かれて、未だ眠ったままの状態で暖炉の前に置かれた肘掛け椅子に収められた。そしてラサールが、その横に勝ち誇ったような様子で控えている間、(どちらもド・バッツから紹介されなかった)二人の客たちは畏怖により目を見開いて彼らの王を見つめ、男爵は少年の前に跪いた。その赤らんだ顔を見上げ、黄色い髪がべったりと張り付いた額から、えくぼのある柔らかな丸い顎まで、全ての目鼻立ちと特徴に視線を走らせると、常ならば鉄の如き神経の持ち主であるはずの男の目には涙が湧き出た。

「国王陛下!」彼はささやいた。「我が王よ!天の神よ、これが夢でないとは信じられぬ」

 衝動的に立ち上がると、彼は両腕を広げて、物憂げに微笑んでいるラサールに歩み寄った。

「フロランス、我が友よ!君には一体、どのように報いれば良いのだろう?」

「ああ、そんなの!革命政府の駄犬どもに一杯喰わせる楽しみだけで、お釣りが来るくらいですよ。それに、愉快で造作もない仕事でしたし」

「造作もないだと!」ド・バッツは鼻息を荒げた。彼は客人たちに説明した。「こういう男なのだよ。自分の働きを何かと卑下して、わざわざ些細な事柄であるような言い方をするのだ」

「弁明の必要などありませんぞ」二人組の内、年長者の方が発言した。「これほど輝かしい任務をやり遂げ、このような危険に己の身を投じた人物の中にある、勇気と気高さを見誤ろうはずもない」

「終わった仕事ですよ、それくらいにしましょう」ラサールは言った。そして気のない物憂げな調子で、一連の冒険を手短に、タンプル塔の衛兵との剣呑な瞬間までをも面白可笑しく話して聞かせた。

 彼が暇乞いとまごいをした時、男爵は深刻な懸念を見せた。「パリに留まっても危険はないのか?この紳士たちは、すぐに陛下を地方にお連れする。彼らと同行してもかまわんのだぞ、フロランス。パリが危険ならば、その地にそのまま潜伏しているといい。君の為に身分照明書を入手しよう、この場合……」

「親愛なるジャン、俺は明日、市民シモンと大事な約束があるんです。奴は俺から百万を受け取るつもりでいる。それに、俺は俺で勉強がありますからね。ダヴィッドのアトリエを離れる訳にはいきません。心配は御無用。俺に関しては、この冒険の危険は全て過ぎた事です。今晩、やり遂げました。きれいさっぱりね」

 ド・バッツだけでなく、他の二名も感情に走った反応を示し、そしてラサールは、それ故に偉大な芸術家には成り得ぬと師ダヴィッドが判断するに至った、過剰な感情の表出に対する忌避心から退出を急いだ。

 ラサールは、ようやく一月の夜闇の中に忍び出ると、パレ・エガリテ1近くの粗末な部屋へと帰路を歩んだ。あの部屋に戻れば、カルマニョールと兎の毛皮の帽子を脱ぎ捨てて、自分はいつの日か歴史的な偉業と呼ばれるはずの、そしてそのいつの日かが到来する前の現在としては、ド・バッツに50ルイを要求してしかるべき仕事を成し遂げたのだ、という思いを胸に眠りに就く事ができるのだ。あの紳士たちが口にした、勇気と気高さに対する賛辞がもたらしたのは、苦々しさだけだった。そんな飾り物の美質など、革命によって貧窮に落とされた美術学生の空腹を満たすには、何の役にも立ちはしない。

 翌朝、ルーブルにあるダヴィッドのアトリエで、彼は脇目も振らず、勤勉に芸術の道を追求する若者として、新鮮かつ爽快な心持で画業に取り組んでいた。正午の一時間ほど前にショーメットの訪問によって邪魔が入るまでの間、彼は同門の学生の肖像に没頭していた。

 代理官の朝は多忙だった。

 不安に駆られて、朝一番にタンプル塔へと予定外の訪問をした彼は、担当委員たちに釈明した。

「アントワーヌ・シモンは昨夜ゆうべ出発してしまったからな。万事ぬかりなく保たれているかどうか、確認しておいた方が良いと思ったのだ」

 委員らは、万事滞りなく、引継ぎが完了した状態であると請合うけあった。ショーメットは眼鏡をかけて記録簿をめくった。彼は、この場にいる四名の委員によって署名された証明書を点検し、カペーの子供たちが正式に引き渡されたのを確認した。それから彼は、うなるように言った。

「これは問題ない」彼は眼鏡を外し、再び委員たちと対面する為に振り返った。彼はさりげない風を装った。「君たちは今朝、あの虎の子たちを見たかね?」

 既に面会済みであると、彼らの一人が代表して答え、更に小カペーは想像していたのと異なり、虎の子供らしい処が全く見られないと証言した。

 ショーメットは顔をしかめた。「どういう風にだ?」

「全く口をきかないんです。不機嫌で反抗的な、どうしようもない小猿ですよ。我々は1ダースは質問をしたはずですが、ただの一言も返ってこないんです。まるっきり痴呆か唖者みたいに、ぼんやりとこっちを見返すだけで」

「ああ! 不貞腐ふてくされ中、という訳か?そうか、そうか。なら、女どもはどうなんだ?そっちも同じ調子かね?」

「それどころか、あの二人は間抜けな修道女みたいに上品ぶって、素直に『はい、ムッシュー』『いいえ、ムッシュー』ってな具合ですよ。あの女どもに言ってやったんです、このフランスには、もう貴族なんぞいないんだ、我々は対等な市民だと学習しろ、返事は『はい、ムッシュー』にしろってね。連中の事は、馬鹿女、って呼んでやってますよ」そしてルイ王の血族に対する軽蔑心を強調する為に、愛国者は会議用ホールのモザイク模様の床に唾を吐いた。

「腐り果てた血統だ」とショーメットが同意した。

 彼はわざわざ上階まで登ろうとはしなかった。そのような必要はなかった。だが、常任の管理人が廃止された現在、あの少年を誘拐しようとする試みを不可能にする処置が必要である、というのがコミューンの意見であった。少年が反抗的なだんまりを続けると決めたのならば、独房監禁によって喋る必要自体を剥奪すれば良い。少年の監禁部屋の扉を完全に封じ、食事の出し入れのみに使用する小さな鎧戸を取り付ける為に、ショーメットは早速大工を呼ぶつもりだった。それより後は、コミューンからの特別の許可がない限り、誰であろうと、部屋に入る事もドアを外す事も許されない。あの少年は自分で自分の面倒を見るすべを学ばねばならん。オーストリアの野獣の子は、過剰に甘やかされてきたのだ。最終的にショーメットは、呼び付けた大工によって、この命令が本日中に効果的かつ即座に実行されるよう、二名の委員に監督を任せた。

 タンプル塔を後にした彼は、軽い興奮を覚えつつ、シモンの新居を訪問すべく階段を登った。

 ノックに応じてシモン自身がドアを開いたが、彼は一瞬、革命政府の飾帯を着けてサーベルをぶら下げた歓迎されざる訪問者を、予想外の驚きで呆然と凝視した。それから彼は乱暴に押しのけられて、ショーメットが入室の許可も得ずに敷居を跨ぐと、内側からドアを閉めた。

「一人か?」彼が尋ねた。ショーメットの態度は険しいものであり、ずんぐりと垂れ下がった鼻の下で、唇はきつく結ばれていた。

「女房は市場だよ」

「ああ!で、あの少年は?」

「少年?」シモンは色を失った。「どの少年だ?ウチには息子なんざいねえぜ」

「お前の息子の事なんぞ話しちゃいない。違う。タンプル塔の少年は?カペーの少年は?何処に隠した?」

「カペーの少年?何処に隠したって?俺っちが?」シモンは既に立ち直っていた。彼は自分の立場を理解していた。彼の良き友人ラサールは、仮にこのような事態が起きたとしても、攻撃を受ける余地はないのだと説明してくれていた。小さな黒い目が彼の大きな顔の中で輝いた。「何の冗談だい、市民ショーメット」

 元々、人に好感を抱かせる性質ではない市民ショーメットは、威嚇に出た事によって見るも恐ろしい形相になった。「アントワーヌ、ふざけるのはよせ」

「ふざけてるのは、そっちだろ。マジで言ってるようにゃ見えないぜ」

「私はこれ以上ないくらいに真剣だ。貴様もとっととふざけるのを止めんと、肩から汚らしい頭を刈り取ってやるぞ。告発されたくはないだろう?」

「告発って、なんの罪状でだよ?」

 ショーメットが己を抑えるのに苦労しているのは明白だった。「よく聞け、アントワーヌ。さっきまで私はタンプル塔にいたんだ。今朝、あそこにいた少年は、カペーじゃない。すり替えられたんだ」

「すり替えられた?すり替えられた!あんた、何言ってんだ?」

「これだけ言えば充分だろう。とぼけるのはよせ。あの餓鬼は何処だ?」

「俺が知るかよ?」

「今すぐ、あの餓鬼を渡さないと、四十八時間以内に貴様のシラミだらけの頭が籐籠に転がり落ちるぞ。それでも知らないと言い張るつもりか」

 シモンは彼を嘲った。「あんたがタンプル塔に行ったってンなら、記録簿と四人の委員たちの署名を見たはずだぜ。それから俺たちを通した衛兵もいる。連中は俺たちが餓鬼なんざ連れてなかったって言うはずだぜ。もし餓鬼がすり替えられたってンなら、やったのはあの委員たちだろうさ」シモンは怒鳴った。「これであんたも、真面目な管理人を首にした自分が馬鹿だったって身に染みたろ。もしも」と、彼の態度は突然悪意に満ちたものになった。「コイツが、あんたの汚ねェ計画の一部じゃないならの話だけどな。読めたぞ。あの委員たちは昨夜ゆうべ、あんたの仕組んだぺてんの為に任命されたんだな。みんな悪どい陰謀なんだ!そんで、悪事がバレそうになったら、俺に罪をなすりつけて逃げちまおうって寸法だ!俺っちを告発するって?告発されるのは、あんたの方だろが。おが屑の中に転がるのは、あんたの汚ねぇ頭だろうぜ」

 ショーメットの顔は激怒で色を変え、邪悪な形相になった。「この部屋を捜索する」彼はサーベルに手を置いた。「邪魔をしたら一寸刻みにしてやるからな」

「おお、やりたきゃ好きなだけやんな。地獄の亡者みたいに、いつまでも這いずり回って探すがいいさ」

 激怒のあまり押し黙ったまま、ショーメットは捜索を行った。その間中、シモンは彼をからかいながら、三つの部屋を順ぐりに確認する後ろをついてまわった。激怒し、当惑し、そして最後に彼は確信した。自分はこの腹黒い靴直しから、逆ねじを喰わされたのだと。彼はドアまで大股で歩いた。そして敷居の処で振り返った。

「この件で、必ず貴様の首を刎ねてやる、犬っころめ。神かけて絶対に……」

「誓うフリなんざ、やめとけよ」シモンが口を挟んだ。「俺っちに余計なちょっかいかけてみな、そしたらこっちは、あんたの化けの皮を剥いでやるぜ。あんたは、あの餓鬼について管理責任があるコミューンの代理官だ。俺に難癖つけてきやがったら、あんたにあの餓鬼を出してみろって言うぜ。もしあんたが餓鬼を連れてこれなかったら、自分がどうなるか、わかってるよな。俺の忠告を聞いて口をつぐんでるんだな。じゃ、楽しい一日を、市民代理官」

「貴様にとっては最悪の日になるだろうよ、悪党め」ショーメットはそう応じたが、それは単に、困惑と恐慌状態の中で虚勢を張った捨て台詞に過ぎなかった。

 このような興奮状態で、彼は作業中のラサールを引っ張り出す為に、予告もなくダヴィッドのアトリエを訪れたのであった。彼は蒼白になって震えており、その粗野な顔にあった通常時の生気は、全て無気力にとって代わられていた。彼は自制していたが、それも彼らがルーブルの外、しつこい霧雨と寒さのせいで無人になっている中庭に出るまでだった。

「君の素晴らしい計画は木っ端微塵になったぞ」彼はついに爆発した。「犬畜生のシモンが私利私欲の為に台無しにしてくれた。予測してしかるべきだった」

 ラサールは穏やかだった。「我が身を振り返ってみると」と彼は物憂げに言った。「俺は他人の不正行為について、見積もりが甘い傾向があるかもしれません。ある友人から説教された通りに、人間の本性は善ではないって事を、つい忘れてしまうんです。しかし正確に説明してください。シモンは何をしでかしたんです?」

「あの下衆野郎は、私に逆らいやがったんだ。奴は少年をこっちに引き渡すのを拒否した。図々しくも、あの餓鬼が、まだ塔内にいるようなふりをしていやがる」深緑のコートの両襟を掴んで、彼はラサールを問い詰めた。「昨夜の事件について何を知っている?何が起きたんだ?」

 穏やかに、しかし断固として、ラサールは掴まれた手を外した。彼の表情は厳粛なものだった。「俺に関する限りは、全て計画通りにいきました。あの少年は外に連れ出しました。後はシモンの問題です」

「あの悪党は、記録と委員たちの署名を盾にしているんだ。もし誘拐があったとしたら、委員たちの仕業だろう、とぬかしていやがる」

「何処かに支障があったんでしょうかね?」と何食わぬ顔でラサールは疑問を呈した。「俺だったら、タンプル塔を訪問してみますけど」

「もう行ってきた。いの一番に、あそこに行ったんだ。私は、少年を独房監禁にして、誰とも話せないようにしろと命じてきた」

「ええっ!じゃあ、貴方は自分の目で、すり替えを確認してきたんですか」

「そんな事はするもんか」ショーメットは激烈な調子で応じた。「まったく!あの少年を見る訳にはいかんだろう?私を馬鹿だと思ってるのか?誰とも話せないようにする処置を命じるより前に私が少年の様子を確認したのが知れたら、一体どう言い訳すればいいんだ?私の立場はどうなる?」そして再び尋ねた。「君は私を馬鹿だと思ってるのか?」

「どうも飲み込めないんですが」と言って、ラサールは真面目な顔で彼を見た。「確認させてください。貴方はシモンに、既に少年がすり替えられたのを知っていると言ったんですか?」

「もちろんだ」

「言いたくはないんですが、でも、貴方は馬鹿としか言えないですよ」

「何だと?」

「貴方はシモンに、少年がすり替えられていると言いました。それを貴方は、どうやって知ったんです?委員たちは、貴方が少年に会わなかったと、そして貴方が少年を独房に監禁するよう命じたと証言するでしょう。貴方はどうやって説明するんです?透視能力を使ったとでも?親愛なるアナクサゴラス!気の毒なアナクサゴラス!もしシモンが貴方を告発したら、確実に首が落ちますよ」

 ショーメットの顎は外れそうになった。

「身の破滅だ!」

「文字通りにね。不幸中の幸いは、この件を追及されるのを恐れているのはシモンの方も同じだという点です。ですから彼は、貴方の告発を実行に移すような真似はしないでしょう。状況は行き詰まり。それがせめてもの慰めですね」

「慰めだと!くそッくそッくそッ!そんなものの何処が慰めだ?シモンの奴は、この悪どい詐欺をやり抜けてしまうのか?」

「貴方が怒り狂うのはもっともですよ。気持ちはわかります。でも、貴方が犯した大失敗の後では、どうにも取り返しようがありません」二人は中庭の終端に来ていた。ラサールはくるりと身を返した。「ここで濡れ鼠になっても何にもなりませんよ。貴方が替え玉を見ていると誰にも言わせないように、今後一切、タンプル塔には近寄らないようにしてください。貴方がそういう用心をして、そしてシモンが余計な事を話さない限りは、貴方も安全なはずです」

「それじゃ結局の処、今朝、少年を見ずに済ませた私は正しかったのか?」

「いやいや。正しくはありませんでしたよ。単に運が良かっただけ、結果論です」

「だがもし、私があの餓鬼に会っていたら……」

「さっきからずっと、同じ処を堂々巡りしてますよ。それに、びしょ濡れだ」彼は大股で歩いて建物に戻り、ショーメットも其処では、それ以上の会話を続けようとはしなかった。「何か気づいた事があったら、貴方に知らせますよ。しかし、我が友よ、やってしまった事は、やってしまった事です。貴方が名前をもらった人の哲学2を思い出して、己を鼓舞しましょう。オ・ルヴォワール(では、また)、アナクサゴラス!」そして彼は自分のイーゼルに戻って行った。自分は騙されただけでなく、嘲られたのであろうか、と思って呆然としているショーメットを独り残して。

 ラサールとしては、至極あっさりと代理官から解放されて、有り難く思っていた。その夜、彼が部屋を借りているボン・ザンファン通りの家を訪ねてきた市民シモン、敵意に満ちた市民シモンとの交渉の方は、これほど容易にはいかなかった。

 尻尾を巻いて去って行ったショーメットのお陰で、実に素晴らしく始まったその日、シモンは一時間かそこらの間、悪意ある笑いではしゃいで過ごしたが、成り行きは既に、不安な方向に変化していた。正午近くに、彼はラサールから教えられた住所である、パラディ通り二〇番地に行ってみた。思いもよらぬ事に、二〇番地にあったのは薬剤師の店だった。それでも彼は念の為に、パラディ通り二〇番地で、フロランス・ラサールを知る者はいないかと尋ねてみた。

 その店から出た彼は、息苦しさと胃の辺りの不快感という身体的な徴候によって、漠然とした疑いを意識し始めていた。笛を吹いてショーメットを踊らせ、楽しんでいたはずの自分が、今度は同じような曲に合わせて踊らされるハメになるかもしれない。

 途方に暮れた彼は霧雨にもかまわず道路に立ち尽くしていたが、ラサールがダヴィッドのアトリエで働いていると耳にしたのを思い出した。それが何処にあるかは知らなかったが、調べるのは容易だった。ルイ・ダヴィッドは国民公会の議員なのだ。シモンはテュイルリー宮におもむくと、融通の利く職員から、市民ダヴィッドのアトリエはルーブルのすぐ近くにあると聞き出した。ようやく目的地に辿り着いた時には、一月の午後の乏しい日照のせいで、学生たちは既に全員アトリエを後にしていた。けれども管理人を務めている年配のだらしない女が、市民ラサールの住処を教えてくれた。

 半時間もかからぬ内に、シモンはボン・ザンファン通りにある建物のがたついた階段を登って、画家が住む部屋のドアを乱暴に叩いていた。

 ラサール自らが扉を開けた時、シモンはツキが自分にあると思った。

「見つけてやったぞ、どうだ?」シモンは喧嘩腰だった。「俺っちをパラディ通りのクソ忌々しい薬屋に行かせるなんざ、何の冗談だ?向こうじゃテメェなんざ、聞いた事もないってよ。こいつぁ説明なしじゃ済まねえよな、若造」

 彼の真正面に立っている若い画家は、薄暗い明かりの中で、その青白い顔に穏やかな驚きに似た表情を浮かべたように見えた。

「誰かと思えば、模範的市民のシモンじゃないか。それで、何の話だっけ?」

 その気だるい口調は怒りを誘うものだった。シモンは頭を低くして雄牛のように突進した。力強く重量のある彼は、ラサールを部屋の中央あたりまでよろめかせた。それは中ぐらいの広さの、乱雑な、家具も碌にない部屋だった。脚輪付きの低いベッドが壁際に置かれ、部屋の中央にはテーブルがあり、それに加えて二脚の椅子と、大理石の天面板にひびが入った箪笥が家具の全てであり、カーテンをつけた壁龕へきがんが衣装箪笥の代わりだった。樅材の床板には敷物もなく、一つきりの窓では積もりに積もった埃がカーテンの役割を果たしていた。

 体勢を立て直したラサールはからの暖炉の方に後退し、その間にシモンはドアを閉めると、戦いに備えるかのように身構えた。

「さあて、若造、どういう訳で俺に嘘の住所を教えたのか、聞かせてもらおうか?俺はナメたマネされて黙ってるような男じゃねぇんだ。そいつを教えてやろうか」

 彼の脅しが如何なる効果を発揮したとしても、少なくとも、ラサールの気だるい口調には何の影響も与えなかった。

「そんな権幕で押しかけてきた理由については、教えてもらえるのかな。随分と剣呑じゃないか」

「そうかい?これっくらいは序の口だって思い知る事になるぜ。俺が何でここに来たのか、本気でわからねぇか?」

「わからないから訊いてるんだよ、市民シモン」

「何だと?」シモンは一、二歩足を進めた。「この犬公が!」彼の顔面は紅潮し、小さな両目は険悪の色が濃くなっていた。彼は疑心が呼び起こした激怒を押し殺していた。「百万の話はどうした。俺が配達した商品の代金だよ。パラディ通りで、今日、俺が、受け取る事になってた――でっけぇ金はよぉ」

「ああ、それ!」ラサールは、たった今、事態を理解したかのように笑いだした。「でも君、俺の話を本気にしてなかったじゃないか!百万が手に入るなんて信じてなかったろ。ありゃ、冗談だよ、我が友よ。君だって良くわかってると思ってたんだけどな」

「冗談!」シモンの頭と首には血管が浮き出した。一瞬の間、彼は脳卒中を起こしそうになった。「てっ、てめぇ…てめぇ、だったら何で……どういうつもりだってんだよッ?」

「だから、言ったろ。君は俺が何処で百万も手に入れてくると思ってたんだい?我が親愛なる市民シモン、あの子供の救出は、素晴らしい、気高い行為だった。これは受け売りなんだけどね、善行を成し遂げたという思いは、永遠に色褪せない喜びなんだってさ。それを君の報酬にしろよ」

 室内がシモンの苦しい呼吸音で満たされ、不吉な静寂が落ちた。それから彼は、厚い唇から泡を飛ばしてわめき始めた。

「この犬っころ!ヒキガエル!気取りかえった貴族かぶれの毒蛇!」脈絡のないなぞらえを並べ立てた罵詈雑言を叫びながら、愛国者は襲いかからんとする獣のように姿勢を低くした。「てめぇの体中の骨を、一本残らず粉々にしてやる」

 頑丈な杖が一本、暖炉の窓間壁まどあいかべに立てかけてあった。怒り狂ったシモンが彼に飛びつこうとした時、ラサールはその杖をひったくった。脇に飛びのいて突進を避け、飛びかかってきたシモンを、それで殴りつけた。前腕で強打をとらえたシモンは、そのまま杖を押さえてラサールの手からぐいと引っ張った。杖があっさりと離された為に、シモンは勢いよく背中から倒れそうになった。体勢を立て直した彼は再び前方に向かって行こうとしたが、足先が床に触れたか触れないかという処で、突然、恐怖のあえぎと共に動きを止めた。長さ約2フィートの細長い刃の先端が、彼の胸から1インチ以内にあった。それから彼は、この驚異を理解した。ラサールの杖は仕込杖であり、シモンは自らの手でその鞘を引き抜いたのであった。

 そして今、突きつけられている刃に負けず劣らず、冷たく恐ろしい声が彼に告げた。

「ちょっと、分別がなさ過ぎるんじゃないか、我が友よ?君の素晴らしい愛国心に背いて、君がつい最近まで崇め奉ってた連中を売り飛ばして、そうやって共和国をぺてんにかける事で百万が手に入るだなんて早合点した時と同じくらい、分別がないよ。君にぴったりなラテン語の格言を教えてあげよう。『ネ・ストル・ウルトラ・クレピダム3』。靴直しの仕事に戻りなよ、市民シモン。靴屋は靴以外の事に口を出すな、本分を守れ……って意味さ。国を動かすレベルの政治って奴には、君とは全然違う種類の人間が必要とされるんだよ。君なんぞ、お呼びじゃないのさ!行けよ!」

 彼は仕込杖の刃を突き出した。シモンは後ずさった。ラサールは彼を急き立てた。「きびきび動かないと、小鳥の串焼きみたいになるぜ。俺の下宿から出ていきな、この悪党、けちな裏切り者、国王の誘拐犯」

 今朝、錯乱したショーメットが彼に浴びせた空虚な脅迫を、錯乱したシモンはラサールに対し繰り返した。「この件で、必ずてめぇの首を刎ねてやるぞ、悪党め。俺がやるより前に、ギヨティーヌがてめぇの首を飛ばすはずだ、そいつを見物してやらぁ」

 彼が代理官の捨て台詞に対して答えたのと同じように、彼はラサールから告げられた。「面倒を起こしたいなら、御自由にどうぞ。その時は俺も、あの誘拐事件は君が企んだって告発するから。証拠はタンプル塔の中にあるし、君の頭は胴体と泣き別れだろうね、市民シモン。でも、そんな事は本気で信じちゃいないさ、君は面倒なんて起こさないよね」

 扉を開けると、最早一言も発さずに、訪問者は急な階段を騒々しく踏み鳴らしながら降りて行った。ショーメットの返報は成されたのであった。


  1. Palais-Égalité パレ・ロワイヤル(王宮)の革命時代の呼称。オルレアン公フィリップ・エガリテ(フィリップ平等公)にちなんでパレ・エガリテ(平等宮)と呼ばれた。 

  2. アナクサゴラス BC500年頃の古代ギリシアの自然哲学者。後の宇宙科学や原子論へと発展する説を提唱した。知の探求の妨げになるとして、自ら地位も財産も放棄したと言われている。 

  3. Ne sutor ultra crepidam 古代ギリシアの画家アペレスは、自作の画中における靴の描き間違いについて靴の修繕屋の指摘を容れて描き直した。しかしその靴屋が脚の描き方にまで批判を加え始めるに至って「靴屋は履物より上の事にまで口を出すな」と言って退けた。英語の格言"The cobbler should stick to his last."の元になった逸話。 

八 絵筆に別れを

 ラサールは、彼自身に責任を帰すべき現在の状況に不安を感じてはおらず、彼が何らかの保身策を講じたり、それまでの生活様式を変更したような形跡は見られなかった。

 自らの愚行によって立場の危うくなったショーメットは、沈黙を破って己の首を危険にさらすような挙には出ず、それどころか保身の為に、シモンの私欲のお陰で失敗したと思い込まされたぺてんを取り繕い続けるはめに陥っていた。ラサールによって容赦なく騙されたシモンは、実行に移せばあの画家もろともに自分自身もギロチン行きになる末路しかない告発を、空脅しで口にする事しかできなかった。可能性としては極めて低いが、ショーメットとシモンが情報共有し、両者が共に狡猾なラサールに利用され、ハメられたのだという裏のからくりを悟るに至ったとしても、彼らには逆襲する力はなかった。何故ならば、事が表沙汰になれば、彼ら自身にまで罪が及ぶのは確実なのだから。

 それからの数ヶ月、ラサールに関しては特筆すべき事もなく、王党派の活動に励んでいない時には、常と変わらずダヴィッドのアトリエで熱心に働いていた。画業で身を立てる事を熱望する身としては、芸術が莫大な金になり、盛大に繁盛し得る唯一の社会制度と信じている王政と貴族社会の復活を助ける為ならば、自分はあらゆる努力を惜しまぬと決意している、というのが当人の言である。この告白に見られる、愛想に包みながらの人を食ったような言動は、これ見よがしの英雄気取りに対する彼の露骨な反感の証拠となるものだった。

 彼が先ほど記したような考えを披露した際に、ある亡命貴族エミグレから私利私欲と責められたラサールは、次のように己の行動原理を語ったという。「だから何です?貴方は本気で俺が真っ当じゃないと思うんですか?何処の国の、どんな人間だって、誰もが自分に都合の良いように政治をこね回して、色を塗りたくってるんじゃないんですか?貴方がたコンデ軍1の紳士たちは、盛大に勇ましく、自分の血を流す気満々、他人の血を流す気は輪をかけて満々だ。それは王党派の大義の為であって、自分にとって一番都合の良い社会体制を復活させる為や、現体制に没収された富と贅沢品を取り戻す為なんかじゃないっておっしゃるんでしょうね。でも、この事実を否定できますか?俺は王党派の大義の為に、戦場で血を流すよりも目覚ましくて危険を伴うような奉仕を、自分の流儀で行なってきましたよ。我々の違いは、俺の方が貴方がたより正直というだけですよ。俺は率直に労働の目的を認めます。俺は額に月桂樹を巻きつけて、世に向かって『献身的な英雄を見よ!』なんて叫んだりはしません」

 彼は争いと混乱の渦中においても平静な態度を保ち続け、コミューン議会には――自分の自治区セクシオンの議員として――規則的に出席し、其処で討議された議題と、1794年の前半には着実に暴力性が高まっていった世論が、それに如何なる反応を示したかを観察し、ド・バッツに報告したのであった。

 何故ならこの時期は、共食いの狂乱によって革命が己の身体を貪り喰らう日々であったからだ。国民公会は血の悪臭を放つ闘技場だった。権力を手にする為の窮余のあがきから、ショーメットは力を増すロベスピエールに抗するコルドリエ反乱2に加担した。彼の行動は友人であるフーシェからの手紙に刺激された事にも一因があったかもしれないが、そのフーシェの方は、パリの武力抗争が決着するまで口実を見つけて地方に身を置いておくべく務めていた。ショーメットは下劣な気取り屋のエベールによって反乱に引きずり込まれたのだが、彼はエベール共々、世論とは如何に気まぐれなものか、大衆人気なぞを当てにするのが如何に愚かな判断であったかという教訓を得る事になった。エベールは三月にギロチンに送られた。ショーメットは、ほんの数週間前には彼を半神の英雄が如くに崇拝していた群集が見物する中、口汚い罵声を浴びせられつつ、四月にエベールの後を追った。

 これにより、ラサールを破滅させ得る情報を持った人間の内、その一人がこの世から消えた。シモンは依然として恨みと不安と復讐心に凝り固まっていたものの、無力な身の彼には、コミューン議会で顔を合わせる度に、ラサールの礼儀正しい挨拶に対して吼えるように悪態を吐く事しかできなかった。しかし程なくしてシモンはショーメットの後を追う事になった。彼はテルミドールの動乱に足を踏み入れたのである。シモンは己の愚かさによって破滅した。機を見る事のできぬ彼は、熱月テルミドール9日の夜3、無分別にもロベスピエールを救うようコミューンの演壇で訴えたが、その時、ロベスピエールは既に取り返しのつかない失敗を犯していたのである。状況の人であるフーシェは、この機を見逃さなかった。ロベスピエールはパリにフーシェを召喚していた。これまで、自分を脅かす者は全て破滅させてきた彼は、フーシェをも処断するつもりであったろう。だがそれは、ロベスピエールの人生において最も早まった行動だった。

 フーシェは、あえて召喚命令に従った。しかし彼がパリに到着したのは、急速に独裁者と化しつつあるロベスピエールの専横に対し、秘かに叛意を抱く者達にとって唯一欠けているのは先導者だけ、という状況の最中さなかであり、冷静で切れ者の元教授は、目立たぬようにその役割を果たしたのである。それはロベスピエールの、そして恐怖政治テルールの終わりだった。フランスは再び自由に息ができるようになったのである。

 それに続いた凄まじく感情的な反動によって、タンプル塔の囚人たちに皆の関心が向けられた。今、其処にいるのは、二人の孤児だけであった。何故ならば、聖女の如きマダム・エリザベートは、既に二ヶ月前、ギロチンに送られていたのだから。

 それから間もなくして、王の脱出と替え玉が発覚したと思われる。貴族崩れの遊蕩者にして、卑しい性根の革命家であるバラスが、真っ先にタンプル塔を訪問した。バラスは騙されず、恐るべき発見を自分の胸一つに収めておく事もできなかった。とはいえ、それが国内外で巻き起こす嵐を考えれば、世間に公表する事もできなかった。

 情緒本位に傾いた国民公会は、投獄の厳しさに衝撃を受けた。二人の子供たちが引き離され、監禁状態で運動もできず、そして付き添いの者がいない為に、フランス王家第一内親王殿下マダム・ロワイヤル・ド・フランス(彼女も今は十七歳となっていた)が、自らベッドを整え、自ら床を掃いているのだという事実に、皆は憤慨した。

 国民公会からは、ムーズの代議士アルマンが、囚人たちに面会し、その様子を報告する役目として派遣された。アルマンは、少年の虚ろな鈍い目つきと、優しく気遣った彼の問いかけに対する徹底的な沈黙を報告している。しかし納得のいく説明が思い浮かばず、彼は第三者による馬鹿げた主張を受け入れた。あの少年は、自分の証言が実の母親に如何なる運命をもたらしたかを悟り、決して再び話をしないという誓約をしたのだと。

 アルマンの報告から時間を置かず、この明らかに無実の国事犯たちの幽閉生活には大幅な改善が行われた。姉弟は再び生活を共にするはずだった。彼らには適切な世話係がつけられるはずだった。世話係がつけられ、以後の二人がより快適な待遇を受けて生活した事については、記録が残っている。だが、それ以外の待遇に関しては、決定事項に沿った改善は一切なされなかった。彼らの間に交流が許されなかったのには、止むを得ぬ事情があったのだ、つまり、子供のすり替えという恐るべき秘密を知るに至った政府が、その露見を阻止せんと必死になったのである。

 政府はジレンマの最中さなかにあった。大きな政治情勢の変化により、この幽閉を正当化するには日々困難が増していた。極めて近い将来において、正当化が不可能な日が到来するのは目に見えていた。時が経つにつれ、ジレンマは深くなった。それはスペインとの和平交渉が計画され、スペインのブルボン4がフランスの従弟を引き渡す事を調印の条件にした時に不可避となった。同様に、ルイ十七世を救出せんとヴァンデで叛乱を起こした王党派の増援として、我が国の遠征隊を上陸させるとのイングランドからの脅迫もあった。

 革命暦第年はこのように進展し、そして恐怖政治テルールの終わりから、八ヶ月あまりの時が過ぎた。

 ド・バッツは、常に慎重かつ果敢に、そして政府のジレンマを充分に意識しつつ、細心の注意をもって状況を見ていた。ムードンに慎重に匿われているルイ十七世が王位宣言する事により、テルミドールの動乱から始まった運動を完遂させる好機と見て、彼は秘密裏に自分の手勢を招集していた。これについては、ラサール以上に巧みに、そして勤勉に支援する人材はおらず、その為に彼はルイ・ダヴィッド5から、今や君は画家修業に対する熱意を失ったと非難された。

 ダヴィッドは長い間、この弟子を気にかけ、才能を認めていた。それが為に巨匠は非常に苛立ち、歯に衣着せぬ言い方をした。

「既に警告したはずだぞ、絵を描く技術だけでは、芸術家にはなれんのだと。描画は目と手の問題だ。しかし芸術は魂の問題なのだ。君の魂はまだ眠っている。君の魂の目を開かせる為に、私は最善を尽くしている。しかし流石の私も、反応のない石塊を相手にシジフォスの如く働きかけるのには疲れてきているのだ。君の分別は何処にいった。悪い仲間とつき合っているようだな。昨夜、悪名高い反動主義者が何人も混じった集団と共に、カフェ・ド・フォワ6で夕食をとっている君の姿を見かけた。もしも君が政治の道を優先するつもりだと言うのなら、もう面倒を見切れん。君にとっては破滅の始まりだぞ」

 だがラサールは、それを破滅どころか立身出世の始まりと考えていた。もしド・バッツが成功すれば、そして――ラサールが男爵に寄せる信頼からすれば疑いの余地なく――ド・バッツ男爵が回復した王政の中で重用されれば、ラサールはド・バッツに重用されるはずだ。芸術的な想像力を、政治的な想像力の為に駆使した彼は、復活成ったフランス王国の名士に名を連ねる己が姿を幻視した。

 そして王党派の計画に行動開始の号令が下されんとした、まさにその時――その夢は、夢というものが常にそうであるように、一瞬にして掻き消えた。

 バラスと、秘密を共有する他の政府要人は、ルイ十七世の引き渡しに対するスペインの固執が、現在、切実に必要とされている和平の障害であるという見解のもと、実行可能な唯一の方法で、それを取り除く決断をした。あの子供は死なねばならない。そして彼の死に至る経緯は、もっともらしいものでなければならない。したがって、少年の死は六月初旬、病気を理由に二人の医者が往診を依頼された後に続いた。彼らはどちらも生前のルイ=シャルルとは面識がなく、検視を手伝ったもう二人の医師も同様であり、その子供――彼らがそれを指す為に使用した文言は、何処か意味深長である――の死体に検死を行なった彼らの報告書には『委員達が故ルイ・カペーの息子であると我等に述べたる者。』とあった。

 死んだ子供は瘰癧るいれき7とくる病8という、健康だった頃のルイ=シャルルには全く徴候が見られなかった病名を宣告された。他にも、死んだ子供の髪は明るい栗色であるのに対して、幼い王の髪は淡い黄色だった等、注目に値する点が数多くあった。けれどもバラスの訪問の後に任命された、タンプル塔からのシモンの解任日付以前には一度もルイ=シャルルに会った事がない二名の付き添い人と数名の者たちの証言によって、それが故ルイ・カペーの息子の遺体であるという更なる認定がなされた。この死亡時点においてタンプル塔内に存在していた、彼を本当に識別し得る、ただ二人の人間は慎重に除外された。あのおぞましい宣誓証言の日から、一度も彼とは会えずじまいの実姉、そしてチゾン、かつては国王一家の看守を務め、現在は彼自身がこの塔の囚人となっている男である。

 死亡の公表、そして遺体の公式の埋葬はつつがなく完了し、政府はこれ以上厄介者の存在に悩まされる事なく、外国との交渉に進めるようになった。

 ルイ十七世逝去の報は、当然の事ながら――現在はベローナに亡命中の――叔父にも伝えられ、遂にプロヴァンス伯爵には、かつて盲目的な悪意から革命勢力に忌まわしい醜聞を持ち込んで与しようとまでさせた、我が身を掻き毟るほど切望する王位を手にする可能性が生まれた。

 しかしながら、内親王殿下マダム・ロワイヤルは暫く後になるまで弟の死を知らされず、そしてこれまた意味深長にも、その時が来てようやく、一年近く前に決定された、彼女が監禁部屋を出て庭に入る自由が許されたのである。

 タンプル塔で死んだ子供が、王の替え玉として雇われた不運な知恵遅れの聾唖少年であったのか、あるいは広く信じられたように、政府の難題を解決する為に、死期の迫った年齢の近い子供が連れて来られて第二の替え玉にされたのかなどという問題は、ド・バッツの脳内を占領している思索とは無関係だった。

 この事件が彼にもたらしたのは、単に狼狽と失望のみならず、ムードンに隠された子供が突如として危険極まりない立場に置かれてしまったのだという事実に基づいた、恐怖政治テルール時代の最悪の日々にすら覚えた事のない恐怖であった。

 彼はラサールにそれを説明した。

「国家の都合で王を殺した者たちは、王には何としても死んだままでいてもらわねば困るのだ。彼らが何よりも恐れているのは、陛下が生きて再びお姿を現す事だ。標的の素性を知らされぬままに、政府の密偵たちは本物のルイ十七世の行方を嗅ぎ回っている。セナール自身は探索の真の目的に気づいてはいないが、その件について私に警告してきた。ブルボン家の血を引く何者かがフランス入りする事が関係しているのではないか、というのが彼の見解だ。率直に言うが、私は怯えている。この国に王の帰還を受け入れる準備が整うまで、我々は幾重にも、あの少年の安全を図らねばならん」

 既に彼は、あらゆる手配を整えていた。フランスの君主制回復と利害が一致する諸外国の公吏の中でも、パリに滞在中のプロイセン公使ウルリッヒ・フォン・エンセ男爵は、ド・バッツと懇意の間柄だった。ド・バッツは彼に真実を打ち明け、そしてフォン・エンセは、フリードリヒ・ヴィルヘルム9の宮廷に若きフランス王を自ら送り届ける名誉を任せて欲しいと申し出ていた。ルイ十七世がベルリンで安全を確保されてしまえば、王の生存を全世界に向けて高らかに宣言する事も可能だろう。

 それが懸念に迫られてド・バッツが立案した計画であり、実行するにあたって、彼はラサールの助けを求めた。彼はその真意を明かした。国家の運命を背負った子供を、たった一人の男に託すのは危険だ。付き添い役が事故や病にみまわれた場合、少年は孤立無援に置かれて遠からず追っ手に発見されるだろう。もしラサールが同行を承諾してくれれば、この上、別の何者かにルイ=シャルルの生存という危険な秘密を打ち明ける必要がなくなる。そもそもラサールは、この任務にとって他の誰よりも適役なのだ。彼にはタンプル塔からの救出について直接の証言が可能であり、先方が疑念から発するかもしれない様々な質問に対して、理路整然と答える事ができるであろうから。更に言えば、ラサールのこれまでの活動歴が有り余る証明となっている、冷静な度胸と臨機応変の才知は頼るに値する。

「この頼みが君にとって大きな犠牲を意味する事はわかっているのだ、フロランス。これを引き受ければ、君の画業の追及は長い中断を強いられる」

 ラサールは、その犠牲を軽視した。理由の一方は、己に課せられた王に対する義務。もう一方は、最終的な成功報酬が確実かつ莫大なものに思えたからであった。プロイセンの宮廷に小さな王を送り届けるのを助け、陛下をお救いし、お護りしたという名声と栄誉に包まれて王と共に意気揚々と帰国する日が来るまでは、後見役という立場でかの地に留まる。この計画に乗らないとしたら、それは余程、要領の悪い人間というしかない。

「ダヴィッドの許での修行と、芸術の道には別れを告げなきゃならないでしょうが。でも、その目的を考えたら……俺に何が言えます?同行させてもらいます、もちろんね」


  1. 革命勃発後プロイセンに亡命したコンデ公ジョゼフ・ド・ブルボン=コンデとその一族をリーダーとして、王党派亡命貴族たちは諸外国軍と協力し革命政府打倒の戦争を仕掛け、またフランス国内の叛乱を扇動した。 

  2. 1794年、エベール派支配下のコルドリエ・クラブがロベスピエール派に対する蜂起を呼びかけたが失敗。クーデター一派は革命裁判にかけられて4月13日の朝に死刑宣告を受け、断頭台へ送られた。尚、実際のショーメットは蜂起には乗り気ではなかったようだ。 

  3. 1794年7月27日、革命暦第熱月テルミドール9日、地方で暴走する派遣議員達の牽制を図ったロベスピエールに対し、ポール・バラス、ジョゼフ・フーシェら派遣議員とジャコバン穏健派が結託し逆襲。ロベスピエール、サン=ジュスト、ジョルジュ・クートンらモンターニュ派は失脚し処刑された。フーシェはこの時、ロベスピエールの力を恐れて尻込みする議員達に裏から手を回して扇動し、糾合した。 

  4. 1700年にルイ十四世の孫であるアンジュー公フィリップがフェリペ世としてスペイン王に即位、以後現代に至るまでスペイン王室はブルボン(スペイン語読み:ボルボン)朝である。この時代におけるスペイン王はカルロス世(1748年11月11日 1819年1月20日)。 

  5. ルイ・ダヴィッドはテルミドール事件後に逮捕投獄されたが、弟子たちの国民公会への嘆願により年末に釈放された。政治活動にのめり込み過ぎた自分を省みての説教であろう。 

  6. Cafe de Foy モンパンシエ回廊にあったカフェ。借金の返済に困ったオルレアン公フィリップはパレ・ロワイヤルの中庭を改築して売りに出し、一階の回廊部分には多くの店舗が開業し賑わった。庭園内には警察の立入りが禁じられていた為に政治活動家が多数集い、バスチーユ監獄襲撃のきっかけとなるデムーランの演説も、このカフェのテーブル上で行われた。 

  7. 瘰癧(るいれき) 。頸部リンパ節結核の古称。結核菌がリンパ節に侵入し数珠状に腫れる。 

  8. くる病 。ビタミンDと日光の不足によるカルシウム及びリンの代謝異常。重症になると背骨の湾曲などの骨格異常に到る。 

  9. フリードリヒ・ヴィルヘルム世(1744年9月25日 1797年11月16日)
    プロイセン王(在位1786年8月17日 1797年11月16日)革命フランスに対しては強硬姿勢をとり、オーストリアと同盟して軍事介入を行った。 

イソノ武威
作家:ラファエル・サバチニ
The Lost King 失われし王 ルイ=シャルル(上)
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