The Lost King 失われし王 ルイ=シャルル(上)

三 市民ジョゼフ・フーシェ

 ド・バッツとラサールの共謀の結果として、革命暦第雪月ニボーズ初旬――キリスト紀元でいえば、1793年12月の終わり近く――のある日、この美術学生は、サントノーレ通りの薄汚い建物の四階まで階段を登る事となった。愛想は良いがやつれた面持ちの若い女性がノックに応えてドアを開けると、彼は市民議員ジョゼフ・フーシェ1は御在宅でしょうかと尋ねた。

 予定された作戦の足がかりとなる人物として、ド・バッツはショーメットに狙いを定める事に決めたのだが、丁度、それと時を同じくして、ジョゼフ・フーシェが突然、派遣議員として共和制徹底の任務に従事していたニヴェルネー州から帰還した。フーシェは、ロベスピエール2によって矛先を向けられた、彼の節度に関する嫌疑から己を守る為にパリに戻ってきたのである。

 この予想外の帰還とその状況から、ド・バッツは自分たちの目的にとってはフーシェの方がより有益であろうと判断するに至った。彼は既に、この男の経歴を観察し、その背景を調べ上げていた。

 教職の為にオラトリオ会3で学んだフーシェは、七年の間、オラトリオ会所属の学校で教鞭を執っていた。ニオールで数学、ヴァンドームでは論理学を教え、1783年にアラスで物理学講師を任されて以降は勤勉に奉職を続けていた。気体静力学の研究には熱心で、1791年にはナントで気球の上昇実験を行って、周辺住民を驚きと恐怖で震え上がらせた事もあった。92年に結婚したが、これを期に教会関連の全ての職を断念し、既に拝命していた赴任先を辞退する事となった。政治の為に教職に見切りをつけると同時に、彼はロワール地区代表として議員選挙に立候補し、当選した。つまりこの男は、とド・バッツはラサールに解説した。まさに日和見主義者中の日和見主義者、信念なき男、常に状況の使用人、そして常に勝利の側にいる可能性が高い人物でもある。何故ならば、その卓越した知性と狡猾さによって、彼は常に勝者を予測する事が可能であるからだ。状況が故王に対して寛大な方向に傾いていた時、フーシェは国王助命の論拠を反論し難いものとして受け入れていた。議論の大勢が逆方向に大きく傾いた時、フーシェは国王死刑に票を投じる以外に選択の余地なしと判断した。西国における彼の任務4は比類ない無慈悲をもって始められたが、その方針は己の栄達には無慈悲が必須であると彼が判断していた期間、継続された。革命思想を持つ者たちの多くを混乱せしめた狂信、野蛮、臆病とは無縁な明晰な頭脳が世論は虐殺に吐き気を催し始めているという兆候を察知すると、フーシェは節度ある方針に転換した。そして彼は更なる炎と流血を抑制する一方で、依然として無慈悲な方針を要求してくる――世論の変化を認知するに敏ではない――政府に対しては、炎と流血に満ちた報告書を送り続けたのである。

 だがロベスピエールは容易に騙されたりはせず、覇権を掌握する兆候を見せた全ての人間に対して目を光らせるのと同じく、綿密に、油断なく、フーシェを監視していた。何故ならば、フーシェは既に、その活動によって声望を得ていたからである。彼の知的能力は信頼を獲得し、その後追いをする派閥は人数を増し続けており、アナクサゴラス・ショーメット――この男自身が大衆の偶像アイドルである――がその筆頭となっていた。

 ロベスピエールは、フーシェの中に自分を追い落とし得るライバルの可能性を認知したのみならず、私怨に類する動機というのも別に持っていた。革命以前、アラスにおける教職時代に、このオラトリオ会士とかの弁護士との間には交友関係が結ばれていた。フーシェは彼に金を貸した事もあった。だが、それによって、フーシェが自分の妹と結婚する約束を反故にしてアラスを去ったという事実を水に流すのは、ロベスピエールにとっては難しい事だった。フーシェは既に彼女を誘惑していたのではないかと疑われていた。しかしながら、恐らくそれは邪推であろう。何故ならば、フーシェが道徳観念や他の諸々に左右される事なく知的判断を優先するのは、その並外れて禁欲的な性質が付随する冷徹な精神によるものであったからだ。

 それらに加えて、かつてのオラトリオ会士、今や名うての無神論者である彼が、派遣議員としての自分の任務は担当地域の脱キリスト教化であると認識していた点も問題であった。彼はショーメットと共に理性レゾンの女神5をでっち上げ、祭儀を敢行していたのだが、それは理神論者デイスト6ロベスピエールにとっては不快極まりないものだったのだ。

 ショーメットから、君の頭上にいきなり雷が落ちるかもしれないぞという警告を受け取ったフーシェは、自分の足をすくおうと画策する連中と対決する為に、すぐさまパリに向かった。

 フーシェは単に彼らの質問に答えたのみならず、大仰な巧言を用いたもっともらしい弁論によって彼らを納得させ、少なくとも一時的には圧倒した。そしてまた、彼は議論よりも雄弁なものを持参していた。彼は議会の床上に、夥しい量の金銀を山と積み上げたのである。十字架、聖杯、聖パン皿、聖体容器、燭台等々、西国の教会から没収した品々と、マザラン公爵家の冠7のような飾りもの。そして彼は表明した。この品々は全て、共和国の為に戦った人々がブーツとパンを買えるように、熔解して現金に変える為に集められたのだと。

「我々にとって、うってつけの人材だ」ド・バッツは、そうラサールに語った。「当人も自覚しているように、彼は危険と困難の状況にある。彼は来たるべき変化を察知し、明確な意思表示を先延ばしにし過ぎる危険性も理解しているが、それでも時期尚早な行動は危険であるとも考えている。現状において、あの男にできるのは、事態を見極め、武装して待つ事だ。彼は提供される武器を拒まないだろう。そして彼の知性は、我々の申し出る武器の力を高く評価するはずだ」

 そのような訳で、ラサールはサントノーレ通りにある建物の階段を登り、くだんの派遣議員が居住する粗末な一人部屋に入る事となった。ベッドが押し込まれたアルコーヴは、一室と数えるには無理があった。にもかかわらず、フーシェの妻は其処を別室として扱い、その中に引っこむと境目にぼろぼろの仕切りを置いた。

 これでラサールはフーシェと二人きりになったと見なすべきなのかもしれないが、しかしむずかって泣き、咳き込んで息を切らす病んだ子供をなだめている女市民シトワイエンヌの様子は、嫌でも伝わってきた。

 派遣議員は既に、通りを見下ろす二つの汚い窓のうち、片方の傍らに立っていた。それまで書きものをしていたノートは閉じられていた。立ち上がって待つ彼は、長身で痩せぎすの神経質そうな人物であり、赤味がかった髪をしていた。髭のない面長の顔は、これほどやつれて蒼ざめていなければ、個性的な魅力のある容貌と言えたかも知れない。それは元教師の実年齢である三十三歳よりも、ずっと年がいった男の顔だった。目蓋の垂れた、眠たげな色素の薄い目には、何処か不吉でひやりとさせるものがあり、薄い一文字の口からは、感傷に流される事のない知的な人物であるのがうかがえた。

「私に御用だそうですね、市民シトワイヤン?」彼の態度は冷ややかで礼儀正しく、声は細かった。雄弁の才を要求される政治家でありながら、彼には元々、弱い喉という不利があり、更に昨日の議会では大いに喉を酷使させられて、未だ充分に回復していなかった。

 この重要人物を尋ねて辿り着いた先が予想外にむさ苦しい環境だった事に動揺していたラサールは、我に返ると帽子を脱いで一礼し、あらかじめ良く考えていた自己紹介をした。

「幸いにも、昨日の議会での貴方について耳にしまして、生粋の共和主義精神に対する敬意と、心ある市民が皆、どのように感じているかを――自由の破壊者と戦う我々が、貴方のような断固たる闘士を擁している事を非常に心強く思っているとお伝えしたく、駆けつけました」

 フーシェは一瞬の間、謹厳に彼を見つめた。それから「それを、どうしても伝えたかったという訳ですか、市民」と言い、更に「その為に、わざわざ四階まで階段を登ってきたと」と続けた声音には、疑念が含まれていた。

 ラサールの微笑はすまなそうなものになった。「もうひとつ用件がありまして」

「でしょうね」

「俺は画家なんです、市民議員。まだ学生の身ですが、今年の官展サロン8に展示されたいと願っています。それで、画題自体が重要なものなら、その願いが実現する可能性が高まるのでは、と思いまして。この偶然の巡り合わせを自分の有利にしようとする試みが、貴方にとって無駄になったりはしないと約束します」

 如何なる野心を叶えるに際しても、偶然の巡り合わせを自分の利にする機会を決して見逃さぬ事で知られた男の青白い顔には、氷の張った水面に射す冬陽の如き微笑が浮かんだ。「それはそれは。しかし何故、私の処に来たのです?恥ずかしながら、芸術とは縁がなくて。余暇は仕事と同じく、全て科学に費やしてきたものですから」

「俺が描きたいのは、貴方の肖像画なんです、市民議員」彼は片方のポケットから画帳を、もう片方から鉛筆を取り出した。「下準備の素描を、お許しいただけないでしょうか……。俺は敬愛する貴方の理想主義から霊感を受けて……」

「なるほど。良くわかりました。私は市民からの要請を無下に断る事はめったにないのですよ、事情が許される限りはね。しかし、これは時間がかかるでしょうし、私はすぐにパリを発たなければなりません。西国での任務がありますので」彼は懐から取り出した時計を見た。「残念ですが、君の用件は、またの機会にしてもらわねば」

 ラサールの顔には内心の狼狽が表れた。「それほどお時間はいただきません。筆は早い方なので。下準備の素描と若干の覚書だけです、次にまた貴方がパリにいらした時に、カンバスにとりかかれるように」

 生気のない、冷やかな目が彼を見つめていた。「そんな手際の良さを、何処で身に着けたんだね?」そして彼は、更に踏み込んできた。「君は学生だと言ったね。誰の門下で学んでいるのかな?」

「ルイ・ダヴィッドに師事しています」

「ああ!偉大な画家だ。古典的な伝統を我々に伝えてくれている」彼の態度は和らいだ。血管が透けて見える骨ばった手の鷲の鉤爪を思わせる長い指が、この部屋には二つしかない椅子の片方を若者に示した。「座りたまえ。半時間程度でも君の役に立つのなら、付き合いましょう」

「ああ、有難うございます、助かります!では、すみませんが、そちらに座ってください、市民シトワイヤン、横顔を光の方へ。そうです。ああ、もう少し窓の方を。少しだけで結構です。それでいい」

 彼の鉛筆はきびきびと動き、しばしの間、ラサールはスケッチに没頭した。しかし主線を描き終えた時、これで見せ掛けは充分と判断した彼は、描く手を止めずに話を始めた。

「本当に残念ですね、市民。貴方がパリから離れるなんて、残念でなりませんよ。ここには貴方が必要なんです。はびこる腐敗と戦う為に」

 フーシェは答えなかった。考え込んでいるかのように、彼は座っていた。しばしスケッチに集中した後、再びラサールは口を開いた。

「妙な噂があるんです。アトリエやカフェで耳にしたのですが。根も葉もない話かもしれませんが、でも、聞いた者は不安になってしまいますよね」

「どんな種類のものだね?」乾いた細い声が尋ねた。

「ただ聞いた話を繰り返すだけでも、我が身を危うくするようなのもあって。そう……例えば、最近耳にした噂は、プチカペーの誘拐に関する陰謀です」

 彼は、自分の希望する方向に話を転がせるような応答を期待した。しかしフーシェは、そのようなきっかけを与えてはくれなかった。「失敗は避けられないだろうね」と彼は言った。「既に試みた者もいるが。ショーメットがタンプル塔の管理をしている限り、そのような心配は杞憂というものだろう」

「それならいいんですが。本当に、そんな心配が必要ないならいいんですが。貴方がそうおっしゃるのなら、安心ですね」ラサールはスケッチを続けながらも、頭では別方向から攻撃する道を懸命に探っていた。「それでも誘惑を考えると、人心は不安になるものです」

「具体的には、どんな誘惑だね?」

 今度は良い反応だった。本題に入るきっかけにできる。「フランスの敵が、いわゆるルイ十七世の身柄に対して支払うであろう金額です」

「それは愛国者を誘惑する事はできまいよ。愛国者は金に貪欲ではない。愛国者が求めるのは、ささやかなものだ。武器とパン、そして40クラウン9の収入だ」

 ラサールは溜息を吐いた。彼は質素な部屋に、ちらりと視線を走らせた。

市民シトワイヤン、全ての愛国者が貴方のようだったら、何の心配もないでしょうが」

「私のようではない愛国者は、愛国者とは呼べまい」フーシェは言った。「だが、それほど心配ならば、市民ショーメットに会うといい。彼はタンプル塔と、その囚人に対して責任がある」彼は再び時計を取り出して見た。「スケッチはできたかね。私は時間に追われていてね」

 自分の意図が怪しまれたのを、ラサールは理解した。そして、その性質を確認する手間すらかけずに、フーシェはラサールの意図をくじいたのであった。これ以上は食い下がっても無駄と認めざるを得なかった。謝辞と共に、彼はほんのしばし、静かに作業を続けた。

 描き終えた時、フーシェは彼と共に立ち上がった。「君の絵を見せてもらえるかな?」

 ラサールは画帳を差し出した。生気のない目は、そのページを見つめた。

「なるほど」それは奇妙な評だった。「君はアーティスト10だ」彼は脇を向いて呼びかけた。「ボンヌ!おいで、この絵を見てごらん」

 呼ばれてやってきた大人しく優しげな女性は、そのスケッチを見ると暗く疲れた目を好奇心できらめかせた。その肖像は実物より美化されたものだった。何故ならば、ラサールはモデルの容貌を忠実に描き写してはいたが、しかし――ダヴィッドが彼の将来の為に冷笑的に指摘するように――其処に内包された、曰く言い難い他者を撥ねつけるような力を捉える事には失敗していたからである。

「素敵ね」彼女は叫んだ。「そっくりだわ、ジョゼフ、今にも話しだしそう」

「もしそれが話しだしたら、私とは似ても似つかない事を言うだろうね」

「冗談よ、市民シトワイヤン。夫はこういう人なの」彼女は深刻そうに耳をそばだてているラサールを見て、優しく声をかけた。

「できれば、すぐにでも絵の具で描きたかったのですが、女市民シトワイエンヌ。またお会いする日まで待たなければなりませんね」

 そのように装ったまま、そして儀礼的な賛辞を何度も述べてから、彼は去って行った。

「魅力的な若者ね」ボンヌ=ジャンヌは言った。

「ああ、魅力的だ」彼女の夫は同意した。「魅力は密偵にとって、最良の商売道具だからね」

「密偵?」彼女の目には偽りない恐怖があった。「あの人は、密偵なの?」

「少なくとも、その可能性はある。ルイ・ダヴィッド、ロベスピエールに心酔している崇拝者。ロベスピエール、彼は私を捕らえるべく罠を広げている。彼らが結託していても不思議はない。そして彼は、ここに留まるのを許すと予想通り陰謀について話した。荷造りをした方が良いね、そして西国に戻ろう」

 簡易ベッドの中にいる子供はむずかっていた。ボンヌ=ジャンヌの顔に不安の色が濃くなった。「二日か三日、遅らせる事はできないの?ニエーヴル11の具合がとても悪いのよ」

 心痛で彼の目は細くなった。彼は妻の肩に愛情を込めて片手をまわした。「ニエーヴルの為には、我々が血に酔った連中から逃げる方が大事なんだよ。野の獣が残酷なのは、知能が低くて恐怖心に駆られているせいだ。人間もそれと変わらない。ただ愚か者と臆病者だけが残酷になる」

 にもかかわらず、リヨンにおいてフーシェは炎と血を用いて己の名を刻み、それによって彼は永遠の悪名を得た。そして彼は、その全てを自覚的に行ったのである。彼が残酷に行動したのは愚かさ故でも臆病故でもなく、勝利への階梯を築くまでの間、己の地盤を維持する為であり、現政権における支配的な空気を大きく逸脱してはならぬが故であった。


  1. ジョゼフ・フーシェ(1759年5月21日 1820年12月25日)
    恐怖政治期から総裁政府、執政政府、第一帝政、復古王政期までの激動の時代を生き抜き、変節を繰り返しながら権力中枢で辣腕を振るい続けた政治家にして、近代的な国家警察の祖。この物語のもう一人の主人公である。詳しくは下巻の巻末解説を参照。 

  2. マクシミリアン・ロベスピエール(1758年5月6日 1794年7月28日)
    ジャコバン派内モンターニュ派。地方の弁護士から第三身分議員に転進、ジャコバン派内のセクト争いに勝ち残り、1793年7月に公安委員会入りしてからは事実上の革命政府首班として強権を振るい、他派や反革命派の粛清を断行した。 

  3. 16世紀にイタリアから始まった、宗教教育を目的とした在俗聖職者の会。教会音楽発展にも大きく寄与している。 

  4. パリに次ぐ大都市リヨンにおける反革命派の叛乱鎮圧後、国民公会は「リヨンの完全破壊」を決定し1793年11月にジャン=マリー・コロー・デルボワとジョゼフ・フーシェを派遣、二千人近い市民が粛清された。尚、史実においては、同年12月にパリの公会及びジャコバン・クラブで釈明を行なったのはコロー・デルボワである。 

  5. エベール、モモロら無神論者たちは理性崇拝を提唱し、既存の教会にミサを禁じた上で理性崇拝寺院への転向を強制、「理性の祭典」と称する祭儀を行った。同様のキリスト教廃絶運動は地方に波及し、フーシェも1793年の秋に担当地域であるニエーヴルにおいて、ショーメットと共に教会からの貴重品没収と理性崇拝カルト普及を行っている。 

  6. 啓蒙時代のヨーロッパに栄えた宗教思想。世界の創造者としての神は認めるが、その後の宇宙は自律的に駆動し発展しているとする。無神論とは一線を画す。 

  7. フーシェの派遣先ニエーヴル県にはマザラン宰相の甥の一族であるマンチーニ公爵の居城があった。 

  8. 1725年に始まったパリの芸術アカデミーの公式展覧会。サロン・ド・パリ。 

  9. 原文 forty crowns 英国通貨に合わせた表記と思われる。 

  10. 原文 an artist 恐らく「芸術家」と「術策を弄する狡猾な人」のダブルミーニング(本章のフーシェはダヴィッドを指してはpainterと言っている)。 

  11. ニエーヴル・フーシェ(1793年 1794年)
    ジョゼフ・フーシェの長女。フーシェが議員として派遣されたニエーヴル県で誕生し、現地の大聖堂で「市民洗礼」を受けている(これはフランスにおいて現代まで続いている非宗教の後見人指名制度である市民洗礼の最初の例と言われている)。 

四 代理官ショーメット

「市民ショーメットに会うといい」フーシェからそのように告げられたラサールは、その助言に従うように、翌日、ショーメットとの接触を試みる事になった。

 コミューンの代理官を待ち伏せする目的で、さりげない風を装いつつ、テュイルリー宮のホールをうろついていた若い画家は、件の要人から声をかけられて、人の少ない場所に連れ出された。

「君がフーシェに話した、プチカペー誘拐の陰謀というのは、どんな内容なんだね?」

「ああ、その事ですか!多分根も葉もない噂ですよ」

 彼らは宮殿の階段上に出た。

 十二月のその日、晴れてはいたが気温は低く、恐らくはそのせいで、中庭の浮浪者の数はいつもより少なかった。其処にいたのは少数の雑多な集団であり、その大部分は、理想郷ユートピアを築く試みによって大量に生み出された、飢えて痩せこけた失職者たちだった。特に目立っているのは、女たち――やかましく攻撃的な年配の女たち――であり、彼女らは下町の魚売り女ポワッサルドに至るまでが、いっぱしの政治家と化したかのように解放という幻想を共有していた。二、三人の新聞売りが記事の内容を大声で叫んでいるが、それはコーブルク1や不実なピット2による共和国に対する陰謀が発覚したという、日課の如き声明だった。門口を出た外にあるカルーゼル広場では、乞食たちが哀れみを請い、その内の何人かは、同情を買う為に己の傷や不具になった手足を見せびらかしていた。彼らの存在はショーメットにとって悩みの種であった。彼はラサールに、あの連中は貴族の陰謀で集められ、行進させられているのだと毒づいた。社会が貧困に陥っているような錯覚を引き起こし、共和国の信用を失墜させるのが目的なのだと。

 サン=ニケーズ通りでは、怒れる騒々しい女たちの間を通り抜けるのに少々難儀した。パン屋に殺到した女たちは、列を守らせようとする四名の警備兵が発する命令や、彼らが振り回すパイクにすら猛然と抵抗していた。ラサールは、これも反革命派の仕掛けた工作なんですか?と皮肉っぽく尋ねた。

「あの女どもは」と、皮肉に気づかずショーメットは答えた。「もう手に負えん。増長した挙句、男の領分にまでしゃしゃり出て来やがった。女の持ち場は家の中、祖国を守る為に子供を生み育てるのが本分だよ。法律でその点をはっきりさせんとな3。それはともかく、君が話した貴族連中の陰謀だが……」

「貴族の陰謀については話してませんよ。俺は貴族が関わってるとは思ってません」

「君は愛国者が例の少年を誘拐しようと企んでいると言うつもりかね?愛国者が、あの少年と何をしようというんだ?」

「本気で訊いてるんですか?」ラサールは、ショーメットの単純さを笑っているようだった。「考えてもごらんなさい、我が友よ、オーストリアの伯父一族4は、少年の身柄にどれだけの金を支払うでしょうね?少なくとも、百万は確実、多分五百万、一千万までいくかもしれない。しかもオーストリア金貨で、ですよ、ショーメット、アシニャ紙幣なんかじゃなくて。金持ちになりたい人間にとっては大金を手に入れる近道でしょ、権力が欲しい人間にとっても、多分これは権力を手にする近道ですよね。もし反動勢力が優勢になって、共和国が圧倒される情勢に転んだら、『国王の保護者』の立場を手に入れた人間はどうなると思います?」

 ショーメットの無骨な顔が瞬く間に深刻になるのを見て、ラサールは再び笑いだした。「動機が充分なのはわかったでしょ。貴方の囚人を良く見張ってください、ショーメット。貴方の囚人から目を離しちゃいけませんよ」

「もちろんだ、そうするとも!もっと詳しく話してくれ。公安委員会に持ち込む証拠が欲しい」

「確たる証拠はないんです。つまり、特定の人物を告発するだけの材料がないんですよ。何人かの名前が挙げられるのは聞きました。でも、はっきりとした根拠があるわけじゃない。こんな状況で個人名を出して嫌疑をかけるというのは、まずいでしょう」

「共和国が大きな危険にさらされたままの方が、もっとまずかろう。無実の人間の頭が何個か落ちる方がマシじゃないか」ショーメットは愛国的信念を譲らなかった。「公安委員会に出頭して、君が聞いた名前を証言したまえ」

 ラサールは首を振った。「その場合、真っ先に貴方の名前を挙げる事になりますよ」

「私?」ショーメットは息を呑んだ。「馬鹿な!私だと?」彼は呆然とした。彼らは角を曲がってオペラ座の入り口前に立っていた。売り口上を叫びながら、栗売り女が近寄ってきた。鍋をボロボロのショールに包み、肘に引っ掛けて運んでいた女は、その包みを解いて茹で栗を差し出した。苛立っていたショーメットは横柄な態度でそれを無下に追い払い、栗売り女は口汚い罵りを返したのだが、その際に、彼が革命政府の飾帯を着けているにもかかわらず、その女は「貴族アリストクラトの豚野郎」と悪態を吐いたのであった。

 ショーメットは女の罵り声が聞こえない場所まで、同行者を強引に引っぱって行った。

「女どもめ!まったく、あの女どもときたら!」彼は再び足を止めた。「私の名前が、その噂の中に出てくると言うのか」彼は激怒した。

「他の人たちに比べれば、ある程度のもっともらしさはありますからね」

「何処にだ?一体全体、それはどういう意味なんだ?」

「タンプル塔はコミューンの刑務所です。貴方はコミューンの代理官、タンプル塔に出入り自由なパリで唯一の人物です。貴方の場合、少なくとも機会はあります。馬鹿げた話とばかりも言えないんじゃないですか?こういう場合に真っ先に疑われるのは、それが実行可能な立場にある人間ですからね」

「なるほど」ショーメットは考え込んでいるようだった。彼は無精髭の生えた顎を撫でた。「そうか、なるほど」既に微量の毒が効き始めたのだろうかと微睡まどろむような目で彼を見つめているラサール青年に向かって、ショーメットはゆっくりと尋ねた。「他の名前は聞いたかね?」

「大物ばかりなので。軽々しく口には出せない名前ですよ」

「私にもかね?ここだけの話という事でも?」

「公安委員会で証言させられるのは、勘弁願いますよ。それが一番危ない。まあ、多分ですけど、事実ではない告発が刺激になって、本物の裏切り者が行動に出る可能性もありますし。何のかの言っても、五百万から一千万の大金ですからね、愛国者としての義務を放棄する人間も少なくないかもしれない」

「確かにな。まったくだ!まったく、その通りだ!うんうん。早まった告発はやめよう。約束する。で、他には誰の名前を聞いたんだ?」

「一人は、バラス5」ラサールは図々しくもでまかせを言った。

「ふん、奴なら噂が本当でも、これっぽっちも驚かんぞ。快楽主義で金遣いが荒く、馬や女に散財してるからな。奴は自分の贅沢三昧の為に数百万を懐に入れているんだ、あの忌まわしい、腐りきった貴族崩れめが。けっ!」彼はこれ見よがしに唾を吐いた。「他には誰が?」

「もう一人は」ラサールは声を低めた。「ロベスピエール」

 ナイフで突き刺されたかのように、ショーメットは飛び上がった。驚愕した彼は、興奮のあまり危険なまでに無思慮な言動を見せた。

「神よ、なんてこった!フーシェの言う通りだとすれば、つまりあの、髪粉を振って絹のストッキングと小奇麗なコートを着た、気取り屋のムッシュー・ド・ロベスピエールは、腹の底では貴族かぶれって事だ」

「フーシェがそんな事を?抜け目のなさでは定評のある人物ですからね、フーシェは。彼の言葉は傾聴に値しますよ、だからって、ロベスピエールが小カペーの身柄を手中にしようと考えているだなんて明言はできませんが」

「だが、奴はやるかもしれん、手に入るものの値打ちを考えればな。君が説明してくれたようにだ。豚公め!奴はやるかもしれん」

「ショーメット、タンプル塔には優秀な監視を置いてください」彼は立ち止まっていた。「俺はここで失礼します。ダヴィッドからアトリエに来るように言われているので。ああ、そうそう、フーシェといえば、昨日、彼のスケッチを描いたんですよ。是非お見せしたいな。それから、近いうちに貴方の肖像画を描かせていただきたいんです、ショーメット」代理官のずんぐりした容貌を値踏みするように見る彼の黒い目からは、眠たげな様子は消え去っていた。「素晴らしい画題ですよ、我が友。描き甲斐がある。いいですか、これは芸術家としての意見ですよ。その、気高く高遠な額。いにしえのローマびとのようだ。形のいい、断固たる決意を感じさせる口の線。この辺りは描き易いんだが。でも、誰もが感じる捉え難い気高さを表現する為に、その炎を、貴方の目に秘めた荘厳な輝きを写し取るのは簡単じゃない。至難の業だ。でも、挑戦する価値はある。ぜひ試させてください、ショーメット」

「親愛なるラサール君!我が友よ!」芸術家が専門用語を使って話した為に、単なるお世辞とは思いもせず、ショーメットは称賛の言葉で上機嫌になった。「君の都合の良い時に、いつでも。遠慮は無用だよ」

 かくして狡猾なラサールは、代理官をそそのかす為の機会を作り出した。

 そして彼は時間を無駄にしなかった。その翌日――ド・バッツから、熱烈な称賛と共に、更に10ルイの報酬を得て――彼はショーメットが部屋を借りているフィーユ・サン=トーマス通りにある家の三階に、カンバスとイーゼルと絵の具箱を運び込んだ。代理官の住居は、快適かつ、成功した愛国者という身分相応に贅沢なものであった。なにせ、彼は確かに経済的に成功していたのである。役人としての報酬に加えて、彼には政治パンフレット執筆者としてかなりの収入があった。彼の家庭は、妻とおぼしき器量良しで豊満なアンリエット・シモニンによって取り仕切られていた。

 ラサールは、たちまち彼女と親しくなった。彼は労せずして女性を惹きつける類の魅力を備えており、ここで少々それを駆使してみたのである。居間の壁が殺風景なのよ、と彼女が不満を漏らしたので、彼はショーメットの肖像を描く合間に、師ダヴィッドの有名な作品の写しに過ぎない『ルイ・カペーの処刑』と『マラーの死』を含む四、五枚の絵を、即席で描き上げて進呈した。

 その作業中、彼女はラサールの周囲をうろついて甲斐甲斐しく世話を焼き、時にはババロアーズ6、時にはカフェ、そしてファルスブールのノワイヨー7や南洋産リキュール(実際にはフォーブール・サン=ジェルマン8で作られていたのだが)が入った小型グラスプティ・ヴェールなどを出してもてなした。あっという間に彼女とねんごろになったラサールは、その影響によって本命である夫の方との親交も深まり、肖像画が完成するより前に、家族同然の扱いをされるようになっていた。この利点には不利も伴っていた。ラサールの作業中、何かと世話焼きに現れるアンリエットのせいで、この家に出入りするようになった本当の目的となる会話に入るのが難しくなっていたのだ。しかしようやく、妻を市場への使いに出す事によって、ショーメットが自ら、しばし二人きりになれる機会を作り出してくれた。

 これはラサールには予測済だった。何故ならば、ド・バッツとの連携によって慎重に下地が整えられていたからである。

 ショーメットは、栄えある役職の正装姿で描かれる為に座っていた。金ぴかのボタン付きの青いコート、小文字体ミナスキュールで小さく『人権宣言』が刻まれた真鍮板を下げた青白赤トリコロールの衿、青白赤トリコロールの飾帯、一度も抜いた事のないサーベル、そして羽飾りパナシェ付きの帽子の下からは、手入れの悪い黒髪が垂れていた。王侯貴族の厚顔かつ拙劣な紛い物のように、彼は品のない、粗野な汗ばんだ顔をラサールに向けていた。

 アンリエットを計画的に外出させた日、ショーメットはしばらくの間、何やら考え込んでいた。それから突然、彼は沈黙を破った。

「バラスが昨日、タンプル塔にやって来たんだよ」

 それを聞かされた画家は硬直したように筆を動かす手を止めたが、しかし彼の驚きは単なる芝居だった。その訪問は、ド・バッツと内通している公安委員会の秘書セナールが、それとなくバラスに働きかけた結果によるものだった。カペーの子供たちのような、社会的重要性を帯びた共和国の囚人が二名、幽閉されている場所なのですから、公安はコミューンの刑務所の状態を把握しておくべきではないでしょうか、との進言を受けたバラスは、敏速に行動した。

 驚きから立ち直ったかのように装い、ラサールは尋ねた。「貴方の許可を得て、ですか?」

「公安委員会の命令だ、私には副署も求められなかった。こんな越権行為は二度と許さんぞ」

 ラサールは深刻に考え込むような目つきになった。「それで、彼は何の用だったんです?」

「ああ!何の用だと?見た処では、奴はぐるっと視察して周る以上の事は何もしなかった。あの少年の個室に入って、次に階上の女たちの部屋まで行った」

「一人で?」その質問には怯えが含まれているようだった。

「いやいや。シモンが同行した。忠実な番犬だよ」

 静寂が続いた。上の空な様子で、ラサールはパレットの上で絵の具を混ぜた。ようやく口を開いた時、彼は無意識に内心の思いを声に出しているかのようだった。「何だか…これじゃまるで……あの噂もあながち……」

「私もそれを疑っているんだ」ショーメットにはラサールがほのめかした噂が何であるかを問い質す必要はなかった。「絶対に尻尾を掴んでやるぞ。ああ、こん畜生めフィシュトレ!まあ、なんにせよ、あの馬鹿は時間の無駄をした訳だがな」

「アナクサゴラス、俺だったら確認しますよ」

「とっくに確認済みだ。私の管理下で、そんな事は不可能だ。あの少年に何かあれば、すぐに気がつく」

「そうは思いますが、でも……有り得ないはずの事が時々起こるのが、世の中ですしね。すぐにでも替え玉を用意した方がいい」

「替え玉?冗談を言ってるのか。替え玉なんぞ、何処で見つけるんだ?」

「そんなの何百万人だって見つかりますよ。結局の処、八歳の子供の替え玉を探すのは、それほど難しい仕事でもないですからね。個性が固まる前の幼い子供なんて、みんな似たり寄ったりだから」

「今度は脅かすつもりかね。君はシモンの存在を忘れているぞ」

「まさか。ちゃんと覚えてますよ。賄賂を使えばいいんです。賄賂を受け取ってる人間が何百万人もいるのを忘れてるんじゃないですか」

「くだらんな!シモンには賄賂は効かんぞ」

「なら、彼には立ち退いてもらいましょう。バラスが彼を移動させるのを希望したって説明すればいい。公安委員会の圧力なら、シモンも抵抗できないでしょ?」

「バラスなぞ好きにやらせとけ。私は自分の立場くらい弁えとるし、対策は自分なりにとる」

 ラサールの顔には、友人であるアナクサゴラスに対する深刻な懸念が表れていた。「俺が貴方の立場だったら、悠長に待ったりしませんよ。貴方には代理官として、あの子供の安全についての責任がある。アナクサゴラス、何処かの悪党が少年の誘拐に成功した場合、貴方の首が落ちるって事、良く考えましたか?それに断言しますけど、現在の情勢は、今まで以上に誘惑が強いはずですよ。我が軍はヴァンデで苦戦しています9。国境では専制君主たちの攻撃に押されているんです」興奮に煽られたように、片方の手にパレットと腕木マールスティック 10、もう片方の手に絵筆を持った彼は、やや乱暴に身振りした。「日和見主義者――バラスであれ別の誰かであれ――は、反革命勢力が優勢になった時の保身を図って、あの子供の身柄を確保する為にとんでもない行動に出るかもしれない。もしそんな事になったら、アナクサゴラス、ギヨティーヌの刃が貴方の衿代わりになりますよ。ああ、なんて事だろう、我が友よ!その時の貴方の姿を想像しただけで、震えが止まらない」

 アナクサゴラスは、暗く深刻な感情に引き動かされた。彼は椅子から腰を上げ、この日はもう、モデルを務めるのをお終いにした。

「確かにその通りだ、畜生め!」ショーメットは背中で手を組んで、ゆっくりとした歩みで行ったり来たりを繰り返し、彼の馬鹿げたサーベルは踵にぶつかってガチャガチャと鳴った。

「警備を倍に、いや三倍にするぞ。それからコミューンは、如何なる者も――公安委員会の者であろうと――私の命令なしではタンプル塔へ立ち入る事は許さない、という法令を通過させるだろう」

 ラサールの目は輝いた。「それなら、かなり安心ですよ、我が友よ」

「かなり!」ショーメットが怒鳴り立てた。「かなり?なんだってんだ、これじゃ充分じゃないとでも言うのか?」

「多分、貴方に好意を持ってる分だけ、つい心配し過ぎてしまうんでしょうが」

「だが、まだやれる事があると?これ以上、私に何ができる?」

「ああ、いや、何もないです。何も」

「その口ぶりは、心からのものじゃないな。君が言う『何もない、何も』は『何かある、何か』にしか聞こえんよ。畜生!遠慮はいらん。これ以上、私に何ができるというんだ?」

 彼らは向かい合わせに立っていたが、ラサールの顔には、その考えの尋常でない深刻さが表れていた。「いや、貴方には無理だ。つまり、早い話が……。ああ、駄目だ!」彼はその考えを払いのけた。

「早い話が何なんだ?」ショーメットは食い下がった。

「言っても仕方ない事ですよ。貴方は途方もないって考えるでしょうし、でもやっぱり……考えれば考えるほど……あの餓鬼が絶対盗まれないようにするには、これは良い手なんだが」

「そりゃどういう手だ?」

「誰かに盗まれるのを防ぐ為に。貴方自身で、あの餓鬼を盗むんです」

「私自身であれを盗むだと!気でも狂ったか?」

「気狂い沙汰に聞こえるのは、無理もないですよ。もっともだと思います。それでもやっぱり……やっぱり……もし貴方が、あの少年を音もなく連れ去って、そして何処かに……誰も疑わないような何処かに隠してしまえば、もう誰にも手出しはできないはずだ」

 彼を凝視するショーメットの粗野な顔は、呆然とした驚きから不機嫌そうな思案顔へと徐々に変化した。それから彼は肩をすくめると、ぷいと横を向いた。「やれやれ!気がふれとる!」

「この意見は却下されるだろうな、とは思ってました。でも、これが貴方の身を安全にする確実な道ですよ、貴方が何と言おうとね」

 ショーメットは苛立った。「だが、子供が消えている事がバレたら?その時は安全どころじゃあないぞ?」

「充分安全ですよ。心配なんてないでしょ、貴方はいつでも少年を出して見せられるんですから。共和国の怒りを買うような心配はいらないし、仮にその頃には君主制が回復していたとしても、君主制側の怒りもね。俺はそんな心配なんて思いつきもしませんでしたよ。それはさて置き!」唐突に、彼は絵筆を片付ける為に背を向けた。「今日は、そろそろおいとましないと」

 だがショーメットは息を荒げ、突然ラサールの脇に回り込んだ。

「君はバラスの利益を図って提案してるんじゃないだろうな」

「俺が?バラスの利益を?待ってくださいよ。俺の話した事が?俺は誰の回し者でもありませんよ。可能性の話をしただけです、もし俺が貴方の立場だったら、こうするだろうっていう。けど、まあ、要するに、俺は臆病者なんでしょうね、アナクサゴラス。貴方みたいに不屈の闘志とか、ローマ魂とかの持ち合わせはないんで。絶対安全だっていう保証がないと、夜も眠れない。それだけです」

 それだけで充分だった。常に豪胆そうに振舞ってはいたものの、心底は臆病者である革命闘士に対して、深刻に考えるべき問題を与えるには充分だった。「共和国の怒りを買うような心配はいらないし、仮にその頃には君主制が回復していたとしても、君主制側の怒りもね」というラサールの狡猾な科白は、二十四時間、彼の脳裏にまとわりついて離れなかった。

 その翌日、意図的に完成を引き伸ばしていた肖像画に最後の仕上げをする為に訪れた時、若い画家はアンリエットがまたもや不在である事に気づいたが、その理由は考えるまでもない事だった。

 そしてラサールが自分の仕事にとりかかるや否や、早速ショーメットは本題を切り出した。

「小カペーについて、君が昨日言った事を考えたんだがな、フロランス君。君の提案には立腹したが。しかし君の助言は優れたものだったよ、とはいえ、あくまで実行可能なものならばという話だが」

「何か問題でも?」

「幾つか。まずはシモン、あの少年の世話係だ」

「何も難しい事はないですよ。シモンを任命したのは貴方なんだから。解雇するのも簡単なはずでしょ」

「だがその後は?代わりの人間を指名せにゃならん」

「確かにね。でも貴方はシモンの出発と彼の後継者の到着の間に、わずかな空白の時間を作り出す事ができますよ。その瞬間に交換する」

「おお、それだ。交換。二番目の問題はそれだよ」

「最初のに比べれば、ずっと簡単な問題ですけどね」ラサールはカンバスから離れて代理官の前までやって来た。「この際なので、打ち明けてしまいます。俺は昨日、八歳の子供の替え玉を用意するのは簡単な仕事だって言いましたが、それはつい先週、絵のモデルを探している時に、小カペーの替え玉として使えそうな同じ年頃の子供を見つけたからなんです。本物を良く知らない人間なら簡単に騙されるような。同じように色白でふっくらした顔、同じような藁色の髪と青い目の」

「そうか」と、強烈な皮肉を込めてショーメットは言った。「だが、そいつが一言、口を利けば…」

「その子は聾唖者です」ラサールはそう言い、驚いたショーメットは厳しく懐疑的な目つきになった。

 彼はひと呼吸置いてから、先を続けた。「実の処、その少年に気づいたのは、そのせいでした。その子は哀れみを請う為に――父親役の片腕の乞食が指図したんでしょうが――首から下げた板に自分の障害を書いて示していました。ああいう子供は買い取るか、それとも二百か三百リーヴルも払えば、無期限で雇う事ができます。あの子がカペーと瓜二つだとか、物凄く良く似ているなんて言うつもりはありせん。でも、色白で、ふくよかで、黄色い髪をした同じ年頃の少年、大雑把な特徴は同じですよ」

「小カペーの特徴には、幾つか特殊なものが含まれている」ショーメットは激しい調子で言った。「奇妙な種痘跡、片方の腿にある――糞忌々しい聖霊サン=テスプリみたいな――鳩の形に見える静脈、それから変形した右耳は、左の耳たぶの倍の大きさだ」

「でも、新しい世話係と勤務中の委員たちは、それを全部知らされる必要はないし、その子供は坊主頭に裸のまま歩き回る訳じゃない」

 ショーメットは背を丸めて椅子に座ったまま、顎に片手を置き、額に皺を寄せて考え込んでいた。昨夜の彼が夜明けまで人知れず懊悩して過ごした障害は、一気に消え去った。だが、それでも尚、彼は前進をためらった。

「その乞食の子だが、君は連れて来れるか」

「二百か三百フランの用意さえあれば、できるはずですよ。貴方がやると決めたというのなら、俺も手を尽くしますが」

「そう簡単には決められんよ。よくよく考えなきゃならん問題は多い。糞みたいに山ほどあるんだ」

「その間に、例の少年を確保しておきましょうか?」

 ショーメットは怯えているように見えた。「念の為にというなら、そうするといい。うん。別にそれで害がある訳でもないしな。諸事検討するのは、君がその子供を確実に押さえてからでいい」

「任せてください、アナクサゴラス」そう請合うとラサールは精力的に肖像画の方に専念したので、彼はその日の内にそれを仕上げてしまった。本来の目的を達成した以上、もうここに長居する必要はなくなった。既にショーメットは喉の奥まで餌を飲み込んでいた。計画の最初の、そして最も困難な段階は過ぎたのであった。


  1. フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(1737年12月26日 1815年2月26日)
    オーストリア帝国の軍人。第一次対仏大同盟軍にオーストリア領ネーデルラント陸軍司令官として参加。 

  2. ウィリアム・ピット(1759年5月28日 1806年1月23日)
    英国首相(在任1783年 1801年、1804年 1806年)。在任中にフランス革命が勃発、フランス共和国に対し強硬路線を採りヨーロッパ諸国に呼びかけて対仏大同盟を組織した。 

  3. フランス革命初期には多くの女性が出版物や集会によって政治運動に参加したが、やがてジャコバン・クラブと対立、女性活動家の多くが反革命容疑により弾圧された。ショーメットは1793年11月に執行されたオランプ・ド・グージュとロラン夫人の処刑を歓迎する見解をパリ市民に向けて公表している。 

  4. 本章の前年に逝去した神聖ローマ皇帝レオポルト世はフランス王妃マリー=アントワネットの兄。 

  5. ポール・バラス(1755年6月30日 1829年1月29日)
    バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ。没落貴族出身だが革命勃発後はジャコバン派を支持、国民公会議員としてルイ十六世処刑に賛成票を投じた。本章の時期は派遣議員の立場を利用して汚職と公金横領で私腹を肥やし、ロベスピエールとの対立を深めつつある。 

  6. この時代のババロアーズ(ババロア)は生クリーム入りの暖かい飲み物。 

  7. ブランデーに杏仁などで風味をつけたリキュール。 

  8. 富豪の邸宅が集まっているパリの街区。 

  9. キリスト教信仰の篤いフランス西部では、ヴァンデ地方を中心に革命政府に対する反乱が起き、外国の援助を受けた王党派が抵抗を続けていた。 

  10. 画家が細部を描く際に絵筆を持った手を支える短い棒。 

五 傀儡師

 ラサールは罠に餌を付け、騙され易いアナクサゴラスが、その中に足を踏み入れるように誘導した。彼はあらゆる難所に対する解決策を用意し、あらゆる障害を回避する道を示して見せた。彼が選択した曲がりくねった道には、そのような難所や障害が少なからず存在し、それらの中には、当初はド・バッツの知性をもってしても克服不可能と思われていたものも、幾つか含まれていた。

 代理官が挙げた問題点の内、最後の一つに対する解決策を与えた時、この役人はラサール自身も確かにそれは高い評価であると認めるような表現を用いて賞賛した。

「いやあまったく!君は数学教授あがりのフーシェに劣らぬ、計算高い頭の持ち主だな」

 例の聾唖の子供も当然の如く捜し出されたが、ラサールの見立て通りに本職の乞食が商売道具として使う孤児に過ぎなかったので、ショーメットが提供した三百リーヴルで何の障害もなく買い取る事ができた。実を言えば、その孤児の所有権は、既に先手を打ったド・バッツが獲得していたのであるが。

 次のステップはシモンとその妻を追い出す事なのだが、その方法を示したのは、またしてもラサールであった。

 今やショーメットは、もの憂げで倦怠したような声と覇気に欠ける目立たない物腰をしてはいるが、秀でた知力の持ち主である若い画家に完全に操縦されて、彼の指示に几帳面かつ忠実に従うようになっていた。年内最後のコミューン議会において、彼は如何なる者も複数の公職に同時に就く事を禁ずるという法令を提案した。

 ラサールは議員としてその場におり、同じく議員であるアントワーヌ・シモンも、タンプル地区代表として、そして若いカペーの教育係を任された世の耳目を集める有名人として出席していた。

 ショーメットは偽善者の常として、あえて人前で異を唱える者などめったにいない謹厳かつ高尚なる原理原則を根拠とした問題を提起する事によって、最初の段階から反対意見を封殺してしまった。複数の公職を兼任する事を激しく責める際に、彼は公費の負担により報酬を増やそうと努めるような人間は、悪しき市民であると非難したのであった。

 その日の夕方までの議論では、この問題はまだ討論の段階に過ぎなかった。だが、シモンにしてみれば、提出された法案が己に及ぼす忌まわしい影響を思い描いて、深い不安に落ち入るには充分だった。

 閉会後に階段を降りる途中で、彼は傍らにラサールがいるのに気づいた。

「やあ、市民シモン」

 十月の例の日にタンプル塔で顔を合わせて以来、この若い画家に対して親近感を抱くように仕向けられていたシモンは、親しげなどら声で挨拶を返し、彼らは共に大路へと進んで行った。

 ラサールは慎重に探りを入れた。

「もしショーメットのあの主張が法律になったら、文句を言う奴はかなりいるだろうね」

「俺ぁ、議員の仕事も勘定に入れられんじゃねぇかと思ってるンよ」と不平がましくシモンが応じた。

「まぁね、あれも報酬が出るから」

 シモンが吐いた悪態だけで、ラサールが求めていた回答としては充分だった。

「ああ、市民シモン。悲しい現実だよねぇ、権力を振るう手段を与えられた人間は、必ず暴君になるんだから。奴らは自分の望みと思いつきを、下の人間に一方的に押し付けるんだ。権力の快感を味わう事に比べたら、そいつが不当な行為かどうかなんて、気にやしないのさ」

「豚公め、けど実際、その通りだよな、市民ラサール。どうなっちまうんだろうな?」

「あの酷い法令が通過しない事に希望をかけよう。今できるのはそれだけだ、我が友よ」

 問題の法令が通過しつつある時に、シモンが己の狼狽を慰める為にラサールを求めるようにさせるには、これで充分だった。更なる事態の展開は、ほとんど間を置かずに起こった。次のコミューン議会において、ショーメットに強いられた投票により、如何なる者も複数の役職に就く事を禁ずる、また、これは兼任が議員としての活動の妨げになっているか否かには左右されない事を明確とする、という法が通過した。シモンは、彼自身には年六千フラン、妻には年四千フランの報酬をもたらしてくれる、タンプル塔の管理人を辞さねばならぬという巨大な災難が我が身を襲ったなど、にわかに信じる事ができなかった。

 彼をその羨望に値する役目に任命したのは、他ならぬショーメットその人だった。そしてその待遇に値したのは、シモンの妻マリー=ジャンヌだった。頑丈で筋骨たくましいが心根は非常に女らしく、男性的な外見とは裏腹に良妻賢母型の彼女は看護婦の適性があった為に、テュイルリー宮への攻撃後にコルドリエ女子修道会に収容されていたマルセイユの負傷兵たちの世話に献身していた。これは公益を資する行いであり、とりわけコミューンに対して貢献していた。よってショーメットは、彼女の夫に管理人職を――その他の点で、シモンは代理官が必要と考えた条件を満たしていた為に――与えるという形で、マリー=ジャンヌに報酬を与えたのである。

 あまりにも突然、かつ独断的に、己の安楽と社会的重要性が奪い取られるのを目の当たりにした時、その公職が与えられた経緯に関する記憶自体がシモンの憤慨を加速した。

 閉会後、シモンは如何にも彼のような愚か者に相応ふさわしく、この厳しい法令の適用を特例によって免れるようにショーメットが便宜を図ってくれはしまいかと希望を抱いて、彼を探し求めて捕まえると、しばし話し合った。彼はこの件について嘆願した。しかし法的不可侵で身を固めたショーメットは、著しく不適切な提案に衝撃を受けたかのように装って、威嚇的な調子で応じた。国家から強奪する利益に執着するようでは、良き愛国者とは言えまい。実際、この件で君の愛国心に疑念が沸いたのだがね、と。

 単純かつ無知なシモンは、その恐ろしい科白に震え上がり、大慌てで代理官に別れの挨拶を告げた。だがしかし、彼の恐れは激怒を静める類のものではなかった。それどころか、怒りの炎を煽る風であり、計画に引き込む時期をうかがっていたラサールにとって、シモンはハンマーで打つ為に柔らかくされた金属と化したが如しであった。

 謀略のヌシは突き刺すような夜の空気から身を守る為に目の高さまで外套にくるまり、靴屋がグレーヴ広場から姿を現したと同時に、その傍らに早足でやって来た。

「其処にいるのは市民シモンじゃないか?やあ、我が友よ。どうだい?俺の言った通りになったかい?あの新しい法令は、君が受けて当然だったはずの恵まれた待遇を取り上げるんじゃないかって、俺が心配してた通りにさ」

 耐え難い苦悶のうめきによって、シモンは内心を吐露し始めた。「なんてぇ、ご立派で愛国的な思いつきだよ!あんな……ああ、チクショウめ!」警戒心と無念の板挟みが、彼から言葉を奪った。

「隠さなくたっていいよ、俺も同じ気持ちさ。君の為に怒ってるし、君と一緒に怒ってる」若い画家の声は情感豊かだった。「酷い法令だ。有り得ないくらい酷いよ。誰かに聞かれたってかまいやしない。こんなの専制もどきじゃないか。権力の濫用だ」

「まったくだぜ」シモンは熱烈に応じた。「豚公どもめ、まったくその通りだ!」意を強くした彼は警戒心を捨てた。「クソッタレな独裁。身の毛もよだつ圧政。ぶっちゃけりゃ、そういう事よ。官職に居座ってる寝取られ野郎どもは、テメェらだけで甘い汁を吸ってやがるのさ。あいつらは小っこい国王だよ!ぶっちゃけりゃ、そういう事よ。小っこい国王だ。そのうちみんな気がつくぜ。そん時ゃ見物だ。そのうち奴らも、一年前にテメェらでシャルロットの籐籠におっぽり込んだ国王と、おんなじ目にあうんだぜ」

「君の怒りは当然だよ、我が友よ!まるっきり――気がついたかい?――あの酷い法令は、君を狙い打ちにしたみたいだからね」

「俺を?俺をか?」

「気がついてなかったのかい?こんなに酷い打撃を受ける議員が、君の他にいるかい?」

「そうだ、何てこった!」愚かなシモンは言った。管理人という身分のせいで肥大した虚栄心により、彼は易々と納得させられた。「けどよ、なんで俺っちが?」

「ああ!俺に謎解きしろって言うのかい」

「それそれ、それだよ。謎。奴らの汚ねぇ仕事を任されて、俺より上手くこなせる人間は、他にいねぇってのがわからねぇのかよ、連中は。あの小僧を見てみろや。あんた、三ヶ月前にあの子を見たよな、市民ラサール。王族っ気を抜かれたあの子をよ。すっかり王族っ気を抜いてやったんだぜ。あの小僧っ子の今のザマを見ろよ。あのメッサリナが、腹を痛めた実のお袋が、奴に会う為にあの世から戻って来たとしてもよ、見分けがつかないはずだぜ。そいつは誰の仕事だよ?俺だ、チクショウめ。この俺様だよ!それだってのに、奴らは犬っころみたいに俺を追い出そうっていうんだぜ。連中は、俺っちを追い出したいんだ」

「それだよ」ラサールが言った。「連中は君を追い出したいんだ。君が今、説明した通りにね。君は鋭いよ、親愛なる市民シモン。ショーメットがあの法令を通過させたのは、君を追い出す為なんだ。君は真相を突き止めた。一目瞭然ってやつだ」

「なんてこった!」シモンが言った。

「そして、どうしてそんな事をしたのか?説明がいるかい、もう、君にも、はっきりと見えてるんじゃないか?君はあまりにも働き者で、あまりにも用心深くて、あまりにも模範的な愛国者だ。君は奴らの汚い貴族主義の計画にとって、邪魔なのさ。ああ、これで何もかもはっきりしたよ。ショーメットと奴の仲間たちは、情勢が変化した時、専制政治に戻った時に、身の安全を確かにしようと企んでるんだ。連中には根性も勇気もないのさ。ちょっとばかり物事が上手く運ばないと、すぐに自分たちが負けると考えるんだ。俺は何回か、そういう場面を見てるからね。お陰で、この悪事のカラクリにも察しがついたんだよ。連中は自分たちの安全しか頭にないのさ」

 シモンは、彼にも理解できるような話ならば、どんな悪事でも鵜呑みにする気が満々だった。「あのクソッタレの悪党が俺を追い出すと、どうして連中が安全になるんだ?」

 暗闇の中、忍び笑うラサールの声が聞こえ、彼は自分の腕がラサールの細く強健な指で掴まれるのを感じた。「多分だけど」恐ろしく淡々と、若い画家が言った。「連中は、あの小僧を盗むつもりなんだと思うよ。その手始めに、君を余所にやろうとしてるんじゃないか?」

「あの餓鬼を盗むって?どうして盗むんだ?」

「売り飛ばす為にだよ」

「売り飛ばす?誰が奴を買いたがってるって言うんだ?」

「オーストリアの皇帝を筆頭に、何人も。あの子を売り飛ばせば、明日にでも金貨で五〇万は手に入れられるよ。多分、それよりもっと高く取れるかもね」

 口を突いて溢れ出た罵詈雑言が、シモンの驚きの深さを証明していた。彼は暗闇で道に迷っていた時に突然ひとつの光明を見た男のように、自分自身がそう思いたがっていた者についての最悪の話に易々と飛びつき、信じ込んだ。ラサールが彼を押し留めた時も、シモンは依然として周囲を気にせずまくし立てていた。

 彼らはスービーズ通りを横切ろうとしていた処であり、其処に右方から自治地区の警備隊が近づいて来た。隊長は進み出ると、ランタンを二人の徘徊者の顔の高さまで上げた。

「止まれ!ああ、あんたか、市民シモン」彼はラサールの方に視線を移した。「証明書を、市民」

 ラサールは懐から証明書を取り出すと、灯に向けて広げて見せた。それを確認すると、警備隊は二人を放免し、どしどしと重い足音を響かせて歩み去った。

 シモンは激しい非難を再開した。ひとしきりは支離滅裂だったが、しかし最後には、それは一つの結論に向けて首尾一貫したものになった。市民ラサールは正しかった。あんたが言う通りに違いない。ショーメットは欲深で業突く張りの卑怯者だ。奴はオーストリアにあの小僧を売るつもりなんだな?このアントワーヌ・シモンに邪魔される間は避けて。彼は御照覧あれと地獄の悪魔どもの名を唱えた。俺はあの糞野郎を告発してやるぞ、と。

「まあまあ」ラサールは言った。「よく考えなよ。ショーメットは二十四時間以内に君をナイフでぶっすりやるぞ。奴が企んでる事は、誰にだって見当がつけられるくらい単純なものさ。でも法律を前にして、ただの推理が何の役に立つっていうんだ?できるもんなら俺が自分で奴を告発するさ、それを証明できるならね。でも俺は、無駄にギヨティーヌの下に首を突っ込むほどイカレちゃいない」

「じゃあ、俺っちはなんにもできないってのか?こんな汚ねェ事をよ、指をくわえて見てろってのか?」

「市民シモン、今の君は、ものすごく危険な立場なんだよ。現実的に考えてね、君にできる事なんて何もないんだよ。例えば君が先回りして小僧を盗んで奴らを出し抜いてやるなんて、いくらなんでも正気の沙汰じゃないだろ」

 シモンはハッと息を呑んだ。「正気の沙汰じゃないって?けど、正気じゃねぇってンなら、元からだろ?他の奴らにできる事ならよ、俺にだってできるのが道理ってもんじゃねぇのか?」

「まあまあ!ちょっと落ち着けよ。君はとんでもない計画を持ちかけてるんだぜ」

「俺は共和国の為に小カペーを護ろうって言ってんだ。何とかできるはずなんだ」

「君の言う通り、何とかできるはずだろうさ、でなきゃ、あの悪党たちは考えなしって事になるからね。でも、難しいのはその方法だ。そうだなぁ、ちょっと考えてみようか」彼はしばらく静かに考えを巡らせているようだった。「教えてくれないか、君はいつ、タンプル塔を出て行くんだ?」

「俺に訊いてどうするよ?あんたが知ってるより詳しい話は聞かされてないんだよ。多分一週間か、二週間の内じゃねぇかな」

「そうか。きっと君の予想通りなんだろうが。一番賢いやり方はね、君が出て行く時に、あの子を一緒に連れて行くって手だよ。まあ待てよ!聞きなって」

 嗜められたシモンは、我を抑えて青年の話に耳を傾けた。

 長いタンプル通りを歩きながら、ラサールは着実に話を続け、そしてその間、シモンは一歩を進める毎に深く、更に深く、その巧妙な若い紳士のまことしやかな雄弁に深く魅了されていくのであった。

 その夜遅く、ラサールはメナール通りのド・バッツに現状を簡潔に説明した。

「行進中ですよ、男爵。俺は操り人形を踊らせる楽器を抱えている処です。ショーメットには、バラスに先んじて少年を誘拐して確保するよう説得しました。ショーメットは、まず始めにシモンが誘拐を実行するように説得してくれと、俺を説得しました。シモンには、ショーメットの行動を防ぐ為に先んじて彼が同じ事を行うよう説得し、そして彼の共和主義者としての良心をなだめる為に五〇万をチラつかせました。全てが列を成しています。いずれシモンとショーメットの間の何処かで、連結を外す為に介入するつもりですが。その時が来るまでは滞りなく進んでいくでしょう。ギヨティーヌみたいに滞りなくね」

 ド・バッツ、陰謀の首魁は、物憂げに微笑んでいる若い男を畏怖の目で見た。

六 手押し車

 革命暦第雪月ニボーズ30日、キリスト教暦でいえば1794年1月19日、それはショーメットによって指定されたシモン夫妻のタンプル塔からの退去日だった。そしてショーメットは、彼に代わる新たな教育係は必要ないとの決定を下していた。彼はコミューンに説明した。少年の指導は既に十二分に行われた。それを延長する事は国家資源の無益な浪費である。コミューンの議員から毎日四名が当番委員として監守し、その内二名が二十四時間毎に交代する、それ以上は必要ない。

 充分な根拠のある提案は諸手を挙げて賛同され、そしてラサールの仕掛けは順調に稼働し続けた。既にマリー=ジャンヌは計画に引き込まれていたが、彼女を動かしたのは金銭よりも、その粗野な外被に包まれた母性的な魂の素朴な優しさによる処が大きかった。

 1月19日の午後、解け始めていた雪に霧と小雨が加わった日、シモン夫妻はタンプル塔で荷物をまとめる作業に追われていた。

 内親王殿下マダム・ロワイヤルは、その幽閉時代最後の数週中に書きとめた回想録メモワールの中で、執筆時から約二年前にあたる問題の日に、彼女と叔母のマダム・エリザベートが階下からの異常な音を聞きつけ、其処から推測した結論を――奇妙にも正確な結論を――記している。すなわち、ルイ=シャルルが塔を去ろうとしているという結論である。物音にじっと聞き耳を立てるのは、この不幸な婦人たちの習慣になっていた。それは壁の向こうの世界で何が起きているのか、とりわけ階下の部屋にいる小さな王の挙動について、多少の判断材料を与えてくれたのである。最初に彼が家族から引き離された日――1793年7月――から、しばらくの間、彼女らは突然会えなくなった母を求めてすすり泣く少年の声を聞いた。幼子は熱烈に母を、己の意図せざる嘘が断頭台に送る手伝いをした母を、心から愛していたのだ。だが、そのように心を痛めている様子をうかがわせてから程なくして、幸いにも幼い心はふさぎ続けてもいられずに自分自身を慰めたようであった。何故なら彼女らには、少年が足を踏み鳴らし、叫び、部屋中を駆け回って遊ぶ物音が聞こえたからである。そして二人は、少なくとも彼が既に泣き暮らしてはいないのだと考えて、幾分か安堵した。しばらくすると、彼女たちは少年が新しい教師から教えられた下品な革命歌を歌うのを聞いた。『ラ・マルセイエーズ1』、『ラ・カルマニョール2』、あるいは、より下品で酷い『サ・イラ!3』。彼は『サ・イラ!』を好んだが、それは革命の文句と、彼が昔から親しんでいたメロディとが組み合わさったものであるからだ。この陽気な対舞曲コントルダンスは、ベルサイユでの輝かしい日々――今となっては記憶の中の単なる幻影に過ぎないが――に、マリー=アントワネットがしばしばクラヴサンで演奏したものだった。時が経つにつれ、そして再教育が進むにつれ、彼は更に騒々しくなっていった。階上の聞き手たちに推測する術はなかったが、少年が姉王女たちを身震いさせた革命歌をわめき散らしたのは、無理強いされて飲み過ぎたワインの影響によるものだった。少なくとも、彼は不幸でも虐待されてもいなかった。彼は衣食住に関しては不自由なく、ちょっとした要求ならば気前良く叶えられた。彼が欲しがれば玩具が与えられ、ふざけ回るのに飽きた時には子供に相応しい内容とは思えぬ本が、そして革命にちなんだ図案のトランプも与えられたが、そのキングやクイーンが共和主義の英雄たちに換えられていたのは言うまでもない。

 この日――運命の1月19日――、乗馬ごっこを行なう際に、ほうきの柄にまたがるよりも想像力が満足させられるようにと、彼は大きなパルプボード製の馬を与えられる事になっていた。

 しかし玩具おもちゃ屋の使いがタンプル塔の入り口まで恐ろしく大きな馬を乗せた手押し車を転がしてきたのは、そのじめついて霧の濃い夜の8時を過ぎてからだった。この汚れた顔の使者、カルマニョールに木靴、兎の毛皮の帽子を目深まぶかに被り、底冷えがする空気から身を護る為に毛織りのスカーフで鼻までおおった男は、ラサールであった。彼の挙動は、その外見にふさわしいものだった。喧嘩腰で不機嫌な様子の彼は、入口で衛兵に止められると、配達が遅れるじゃないかと口汚く罵った。

「一晩中下らねぇ質問責めにして、俺をここで凍えさしとくつもりか?あったかい詰所から、半分凍えた哀れな男をいびる為にお出ましかよ、ありがてぇこった。俺が何を運んできたのか、そっから見えねぇか?俺の行き先くらい、聞いてねぇのかよ?あの甘ったれたカペーの餓鬼に、玩具おもちゃを配達しに来たんだよ。みぞれの中を2マイルも、えっちらおっちら大荷物を転がしてきたんだぜ、こんな用事でよぉ!これが愛国者にやらせる仕事かってんだ!」彼はそう罵り、唾を吐いた。「そしたら今度は、ここに突っ立ってるせいで足が凍りそうだってのに、クソ忌々しい貴族野郎が威張りくさって、どうでもいい質問を根掘り葉掘りだ。うざってぇったら、ありゃしねぇ!てめぇら衛兵も、アレなんだろ――クソッタレの専制主義者なんだろ。そんな青いコートやゲートルくらいじゃ騙されねぇぞ。国王の手先が!」

 衛兵たちは、彼が不平を言う口調を真似て不機嫌ぶりを散々からかった末に、ようやく鉄格子を開いた。依然として不平を並べながら出入り口を通ると、彼は中庭を横切り、少し前までは故王の弟であるアルトワ伯爵4の邸宅であった、テンプル騎士団の城を通り過ぎ、ミニチュア公園の木々の間を抜け、帽子形の蝋燭消しのような形の屋根を持つ複数の小塔を伴った、テンプル騎士団のかつての「ドンジョン」、もしくは主塔である厳しくそびえ立つ大塔まで、手押し車を転がしていった。

 その大塔の足元の扉は開いており、其処から暖かな光の斜方形が霧雨の降りしきる薄闇に投射されていた。中からは、陽気な人声とグラスのぶつかる音が聞こえてきた。

 入口の前に手押し車を残して、ラサールは玄関から奥へと騒々しく音を立てながら進み、当番委員たちがよろしくやっている大きな会議用ホールの開け放された出入り口に、喧嘩腰な様子でやって来た。シモンの方はといえば、前もって決められた計画通りに、義務に従ってやって来たばかりのコミューンの紳士たちと送別の一杯を交わす為、地下室から二本の瓶を取って来た処だった。其処は40フィート四方の正方形の会議室であり、中央の柱の先には円形天井の相交わる穹稜きゅうりゅうがあった。その柱の近くには、蝋燭の炎で作られた島が薄闇の大海の中に浮かび、五人の男がテーブルに集っていた。その男たちはシモンと四名の監視委員だったが、その四名の中には、以前ここで監視役を務めた経験のある者も、王の外見を良く知る者もいなかった。この点については、ショーメットが既に確認済みであった。

「おい、アンタら!」

 怒気のこもった呼びかけに振り返った彼らは、横木の下に立つラサールの姿を認めた。

「取次ぎくらい居ねぇのか?アンタら忌々しい貴族野郎が飲んだくれてる間、俺は雪ン中で、霜焼けになるまで立ちん棒かよ?」

 体格の良いシモンが一団から離れてやって来た。「はいよ、はいよ!今行くよ!そうカッカしなさんなよ、な?そりゃそうと、一体全体、何処のどなた様だい?ロシアの皇帝ツァーリか、それともイングランドのジョージ王かい?何の用で来なすった?」

「馬だよ、玩具おもちゃの馬、くたばった専制君主の我侭な糞餓鬼の為に運んできたんだよ」

「なんだ、あれかよ!」シモンは拍子抜けしたような口振りになった。「三階に持ってってくんな。三階だ。俺の女房がいるからよ。アイツが見てくれるはずだ」

 彼が仲間の待つテーブルに引き返すと、ラサールは不平を言いながら出ていった。それから男たちは、石造りの螺旋階段を踏む彼の木靴の音を聞いた。

 上階の女市民シトワイエンヌシモンもまた、それを聞いていた。玩具おもちゃを運ぶラサールが三階に姿を見せた時、彼女は少年の部屋のドアを開け、その場に立っていた。それは騎士の模擬馬上試合に使われる類の揺り馬であり、ポニーくらいの大きさの頭と肩に、残りは木組みの上から軍馬用の馬衣うまぎぬをかけたものだった。このドレープのついた布は束にまとめられ、全体はかなりの重量があるようだった。

 モブキャップ5の下にある大きな顔に厳粛な表情を浮かべた大柄で男性的な女は、彼の為に道を開けた。

 彼は部屋の中に荷物を降ろした。一息吐くと、彼は周囲をぐるりと見回した。緑のサテン製ベッドカバーをつけたマホガニーのベッドで、幼い王はすやすやと眠っていた。

 女市民シトワイエンヌが入口で見張りを務めている間に、ラサールは馬衣うまぎぬをくくっていた紐を無言のまま切り裂いた。彼が布を取り去り、馬の首と尾を掴んで持ち上げて脇に放ると、後にはカルマニョールと小さなパンタロンを着けた、黄色い髪の八、九歳の子供が残された。

 女は振り返ると、身を乗り出して子供の青白い顔を見つめた。それは蝋燭の明かりで濡れた象牙のようにきらきらと輝いていた。彼女は睡眠薬によって眠りに落ちている、ぐったりした少年を、もっと間近で見ようと歩み寄って来た。

「急げ!」ラサールはささやいた。顔に塗りつけた汚れを通して、強い光を放つ両目が命じていた。「俺たち全員の命が懸かってるんだ」二歩先にあるベッドには、同じく薬の作用で完全に眠り込んでいる幼い王がいた。ベッドカバーを剥ぐと、彼はシーツごと子供を抱き上げて肘掛け椅子に運んだ。それから入口での見張り役に戻っていた女に手振りで合図して、もう一人の子供から素早く衣服を剥いでベッドに運ぶと、何事もなく眠っているように身体の位置を整えてから、寝具でおおった。

 次に彼は、迅速な、事前に充分計画された人間の躊躇ちゅうちょない動作で再び王を抱き上げると、その身体をシーツで包み込み、単なる使用済みリネンの束にしか見えぬように形を整えた。

「今だ!下の奴らにも聞こえるように大声を出せ。口汚い魚売り女みたいに罵るんだ。あんたの荷物を幾つか運ぶのを手伝うように俺を脅してくれ」

 すぐに彼女は、命じられた通りに即興芝居を始めた。シモン夫人は用意ができている二つの荷物を掴むと、声を高めて騒々しく罵った。

「その包みを持ってって、アンタの手押し車に載せて運んどくれよ。わかった、わかった、心配しなくたって、その分はちゃんと払ってやるから。ああもう、役立たず。そいつを表に持ってくんだよ!」

 彼は荷物を運びながら階段を降り始め、その後に続く女が騒々しくわめき立てる声が塔中に響いた。「友愛フラテルニテの話だよ!最近は二言目には友愛友愛だけどねぇ。あたしなんて、まるっきり荷物運びの家畜扱いだよ。ウチの亭主ときたら、引越しの準備を全部女房に押し付けて、コミューンのご立派な紳士方と一緒に飲んだくれてる。仕方なしにアンタみたいな能無しのウスノロに手伝うように頼んだら、駄賃を払う約束をしなけりゃ、荷物に手もつけやしない。まったく!あたしが若くて器量良しだったら、アンタも荷物と一緒に大喜びであたしを運んでくだろうにねぇ。それに、もしあたしが他の男の女房だったら、けだもの野郎のシモンは、あたしに荷物運びを丸投げなんかしないだろうにねぇ。男なんて、そんなもんだよ。どうしようもない汚い連中さ!」

 がみがみと小言をまくしたてながら、シモン夫人は彼を急き立てて曲がりくねった階段を降り、それに答える彼の調子も益々乱暴になって、あんたの小汚い古着を扱うのは本当なら俺の仕事じゃねえし、俺があんたの亭主だったら口汚い女にはさっさとくつわめてやるぞ、と呪詛の言葉を吐き散らした。

 彼らの立てる騒音と互いに大声で怒鳴りあう声は、会議用ホールにいた当番委員たちの間に、最初は驚きを、次に浮かれ騒ぎを引き起こした。如何にも猛烈に追い立てられている様子で、ラサールは荷物と共に開け放されたドアをそそくさと通って行き、その後に続く女は、万一、誰かが外に出ようとした際の邪魔になるようにと、出入り口で足を止めた。

「このロクデナシども、何が可笑しいんだい?アンタはどうなんだい、シモン?アンタが、そのご立派な愛国者の皆さんと一緒に馬鹿みたいに飲んだくれてる間、あたしは荷物を全部運んで、手押し車付きのエテ公からコケにされてろって言うのかい? 役立たずサロー!何の為に給料もらってんだい?それがアンタの仕事かい?」

「馬鹿言え!俺っちの仕事は終わってらぁ、でなきゃ、あの餓鬼を引き渡した時に終わるかだ。オメェの仕事は、うるせぇ口を閉じて片付けを続けるこった。それとも俺様がその口を閉じてやろうか。わかったら、さっさと行け!」彼はそう怒鳴って片付けた。

 彼女は怯えたかのように、呪詛の言葉をつぶやきながら、よたよたと表に出て行った。

 ラサールは既に手押し車に荷物を積んでいた。彼はシモン夫人から、彼女が運んできた包みをひったくった。「そらそら!夜が明けちまわぁ」彼はシーツに包まれた小さな身体の上に、嵩張かさばってはいるが軽い包みを放り投げた。「まだあんのかよ?」

「まだまだあるよ。其処で待ってな」

 再び塔に入ると、彼女はまたもシモンに向かって罵り声を上げた。

「やれやれ」彼は仲間たちに告げた。「俺っちは、もうズラかった方が良いみたいだな、でなきゃ、あのババア、ずっとわめき続けるぞ。餓鬼の引渡しを済ませちまおうや。アンタらは書類に署名する前にアイツを見ときたいだろ。じゃあ、行こうか市民たち」

 酒宴の〆に全員でグラスを飲み干すと、彼らの一人が恐妻家の夫は如何にして出来上がるかという下品な冗談を披露して、一同はひとしきり笑った。彼らは会議用ホールを出ると、シモンの後に従い階段まで行った。

 階上に向かう中途で、彼らは両腕のそれぞれに椅子を引っ掛けて降りてくるマリー=ジャンヌと出くわした。すれ違う余地はほとんどなかったが、彼女は男たちの抗議にもかかわらず、無理に通ろうとした。

「この飲んだくれども!」彼女は怒りつつ告げた。「もう少し静かにできないのかい。子供が眠ってるんだよ。ドアの後ろに食器類の包みが一つあるからね。アンタが降りてくる時、ついでに下まで運んどくれ、アントワーヌ。それから灯りも消すんだよ」

 一同は彼女の警告に従って、無言で残りを行った。静かに進んだ彼らは、シモンの後について王の部屋に入った。シモンはテーブルから蝋燭を取り上げて掲げ持つと、手振りでベッドを示した。

 その薄暗い明かりの中、足を止めていた部屋の中央から、彼らは枕の上に黄色の髪、ベッドカバーの下に子供の身体らしき輪郭があるのを確認した。それだけで終わりだった。しかし彼らが見せろと頼めるのは、それで全てだったのである。各人はそれぞれ頷くと、引き下がった。

 シモンは食器類の包みと共に、彼らの後から降りてきた。既にドアには錠を下され、鍵は回収されていた。彼は階下へと降りながら、階段の壁に掛けられたランタンを一つひとつ消していった。

 階下で待機中の妻に包みを手渡すと、彼は最後の形式的手続きの為に、もう一度会議用ホールに向かった。其処で彼は、当番委員の一人であるコシュファに王の部屋の鍵を渡して、彼ら四人が証明書に承認の署名をするように要求した。そして、一にして不可分なるフランス共和国の革命暦第雪月ニボーズ30日の夜9時、彼らはアントワーヌ・シモンから、ルイ=シャルル・ド・カペーの保護を引き継いだのである。

 それで終了だった。タンプル塔における、シモンの最後の義務は果たされた。彼はもう、いつでも出発できる状態だった。

 外では既に、ラサールがリネンに隠された子供を押し潰さないように配慮して、二つの椅子を手押し車に積み上げていた。二つの椅子でこしらえた木枠にまたがるように食器類の包みを配置して、厚地のコートを着込んだシモンがランタンを手にして姿を見せた時には、出発の準備が完了していた。

 彼らは溶けた雪でぬかるんだ道を通って、裸の樹々がしずくを滴らしている、霧に包まれた庭を渡り始めた。最初、彼らは黙り込んでいた。タンプル塔を出入りする人間や、物品の全てを厳しく確認するように命じられている衛兵をやり過ごすのに失敗すれば、自分たちの首で代償を支払わねばならぬのを意識して、シモン夫妻は怯えていた。肝が太くできているラサールさえもが、衛兵詰所に接近するにつれて脈が速まるのを自覚したと後に告白している。しかし彼は判断能力を失わず、一芝居打つ事を思い出して、一行が中庭に差し掛かる頃には、彼らが姿を見せるより先に耳障りな罵り合いの声が聞こえるような状態になっていた。

 ラサールは二人に向かって、このような夜に彼を引き留めて召使同然に顎で使った事を罵っていた。女市民シトワイエンヌは夫に対して、彼女をほったらかしにして飲んだくれていた怠け者が妻を荷引き馬のようにこき使う事について、呪詛の言葉を吐いていた。シモンは妻に、夫を一時も休ませない口やかましい女めと呪い返した。そして夫妻は、煩く非難して彼らを悩ませる手押し車の男を罵倒した。

 かようにして、三人全員が各々口汚く叫びながら、一行は中庭を通り抜け、衛兵詰所コール・ド・ガルド目指して進んでいった。

 前方には、この不作法な連中によって詰所から誘い出された衛兵隊長が、背後に三名の部下を従えて立っていた。

「いかした仲良しさんたちだな、おい?」彼はそう言って迎えた。

 三人はすぐさま、彼に向かって己の不満をまくし立て始めた。身振り手振りを交える事で余計に狂乱状態になった彼らを、衛兵隊長は懸命に静めようとし、その間、背後の部下達はにやにや笑いで待機していた。遂に我慢の限界に達した隊長も怒鳴り声で応じ始めた。

「ええい、畜生!貴様ら、俺をつんぼにする気か?」

 彼らは突然静かになった。

「そっちは確かに市民シモンか?退去する前に地下室を空にしてきたか?そら」と彼は部下の一人に命令した。「門を開けろ、ジャック」

 シモンは衛兵隊長に向かって、自分が如何に不当な扱いをされたかを哀れっぽく訴え始めた。其処にシモンの妻が猛然と割り込み、職を失うのも当然な、甲斐性なしの役立たずサローと結婚してしまった不幸を隊長に理解させようとした。彼らが言い争っている間に、鉄の門は蝶番をきしませ開かれていた。ラサールは極めて無愛想かつ無頓着に、前方へ手押し車を転がした。しかし隊長は、その上に手を置いた。

「そう急ぐな、アンちゃん。何を積んでるんだ?」

「汚ねぇボロとガラクタの包み以外、何を積んでると思ってんだ。あのロクデナシどもが引き留めてくれたお陰で、俺はみぞれの中で延々立ちん棒だ。もう脚が……」

「ああ、静かにしろ!悪魔の宴会かよ!自分の荷物以外を持ち出しちゃいないだろうな?」隊長は手を置く場所を、危なっかしく据えられている食器類の包みに移した。それは彼のてのひらの下でカタカタと音を立てた。強健なマリー=ジャンヌは叫び声を上げると彼の胸を押し、後ろに突き飛ばした。

「なんて事すんだい、この粗忽者の野蛮人!割れたらどうしてくれるんだい、それとも、もう割れちまった皿をまた粉々にしようってのかい?」

「静かに、女!静かにしろ!」衛兵隊長は抗った。

「そのぶきっちょな手を少しは優しく動かせないのかい?危ないとこだった。もうちょっとで皿が全部粉々になってたよ。熊みたいな大男が、一体全体、何をコセコセ探しまわるつもりだい?あたしらは出て行くとこだって知ってるだろ?それともアンタ、あたしらが、こんな椅子だの台所道具だのを盗んできたとでも思ってるのかい?どうなんだい?」威嚇するように、女傑は彼の前に立ちはだかった。「そんな風に思ってるのかい?」彼女の声は激しさを増した。「あたしらは正直者なんだよ、シモンとあたしはね。ずっとそうさ。正直者でなきゃ、タンプル塔の管理を任されたりするもんかね。それだってのに、アンタみたいな制服着込んだウスノロが、あたしらをコソ泥扱いして良いと思ってんのかい」

 シモン夫人の剣幕に圧倒された彼は、どうにか彼女を黙らせようと空しく試みた。

「義務が……私の義務が……規則でそうなって……」

「義務!」彼女は叫び、そして怒気を含んで辛辣に嘲笑した。「そういうのはね、おせっかいって言うんだよ!大きなお世話さ。アンタは死んだ専制君主の近衛兵みたく、もったいつけたいだけさ。フランスには忌々しい貴族どもが、まだまだ山ほど残ってるんだよ。ありゃみんな、国家の敵じゃないか。アンタみたいな図体のでかい男たちは、大人しい女を手荒く扱って泥棒扱いの難癖つけてる暇があったら、国境に行ってフランスの敵と戦っておいでな。いいかい、あたしが男だったらね……」

 衛兵隊長は忍耐の限度に達した。

「いいか市民シモン、そのガミガミ婆を即刻ここから連れ出さなければ、彼女に罰をくれてやるぞ。行きたまえ!」

「誰がガミガミ婆だい!」彼女は叫んだ。

「行け!」衛兵隊長は怒鳴った。「駆け足!進め!」

 彼は肩にシモン夫人をかついで連れて行くと、混乱し、わめき散らす彼女を門の外に押し出した。

 ラサールは彼女の後からのっそりと手押し車を転がして行き、その間、しんがりを務めるシモンがマリー=ジャンヌの振る舞いについて平謝りする事で、衛兵隊長の注意を引き付けた。しかし隊長は、それ以上何も欲しなかった。

「出て失せろと言ったはずだぞ。仲良く地獄にでも行きやがれ。お前らのつらを二度と見ないで済むのを神に感謝せにゃならん」

 門を越えてしまうと、ラサールは丸石を踏みしだいて手押し車を転がしながら、陽気に歌いだした。

『アー!サ・イラ、サ・イラ、サ・イラ
マルグレ・レ・ミュタン・トゥ・レウッシラ!
(ああ!うまくいくさ、うまくいくさ、うまくいくさ
暴徒がいようと、きっと事は成し遂げられるさ)』


  1. La Marseillaise 1791年にライン川防衛線の守備隊の為に作られた軍歌。共和制フランスに干渉しようとする諸外国に対する徹底抗戦を叫ぶ血生臭く排外的な歌詞であり、マルセイユ義勇兵が歌って広めた為に『マルセイユ人の歌』と呼ばれて流行、1795年7月14日には国民公会で国歌として採用された。現フランス国歌。 

  2. La Carmagnole 元々はイタリアの俗謡と言われている。カルマニョールはイタリアの地名カルマニョーラに因んだ農民の服装を指す言葉のフランス語読み。貧しい庶民であるサン・キュロットを鼓舞する内容であり、当時は革命歌として流行した。 

  3. Ah ! ça ira 原曲はルイ十六世の治世末期に流行したダンス曲『ル・カリヨン・ナショナル le Carillon national』。革命歌として流行するにつれ、次第に歌詞が過激で血生臭いものとなっていった。 

  4. シャルル=フィリップ(1757年10月9日 1836年11月6日)
    ルイ十六世の末弟。アルトワ伯爵。後のフランス王シャルル世(在位1825年5月29日 1830年8月2日)。青年時代はマリー=アントワネットの遊び仲間であったが、革命勃発後は早々にイングランドに亡命。 

  5. 頭部全体を覆う柔らかな布製の婦人帽。 

イソノ武威
作家:ラファエル・サバチニ
The Lost King 失われし王 ルイ=シャルル(上)
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