The Lost King 失われし王 ルイ=シャルル(上)

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九 追跡

 ド・バッツの決断が下されたのが、極めて差し迫った時点であったのは明白である。

 政府の要員中、少年の逃亡を知らされていた者がどれだけいたのかは正確にはわからないが、少なくともバラスとフーシェは事態を把握し、後者が極めて困難な捜索を行なっていたのは確かである。ド・バッツの読み通り、公共の安全シュルテ・パブリケ1という名目の下に放たれた密偵たちが、捜索対象である少年の正体を告げられていたとは考え難い。恐らく彼らは、偽のルイ十七世を擁立する王党派の陰謀があると説明され、黄色い髪と、その他諸々の特徴が人相書きと一致する、両親と同居しておらず、現在地が何処であれ最近になって現れた子供、そして被保護者である子供との関係についての後見人による説明が不明瞭であり、近在との付き合いを避けている者たちを探し出すように命じられていたと思われる。これについては、指令を出した側も、最初から成果を上げる見込みは万に一つと考えており、ある些細な事実が興味を引くような事がなければ、空しい探索に終わっていただろう。

 少年は、ムードンの有名な銀行家プティヴァル氏、熱心な王党派として知られながらも、政府が深刻な財政問題を抱えていた為に革命の最も暴力的な時期にも干渉されずに済んでいた人物の邸宅にいた。使用人を含む家人に対しては、少年は恐怖政治テルールによって両親を失った、プティヴァル氏の甥という事で通されていた。更にプティヴァルは、少年の身許に関する疑いを逸らす為に、実際には既に自分の許にいるタンプル塔の囚人について引渡しを要請する交渉を公安委員会に対し試みていたのである2。この小細工は、秘密裏に王の安全を図らねばならぬ状況下においては策の弄し過ぎとなった。異常なまでに目ざといフーシェは、この要求は単なる戦略上の偽装だけではなく、実体があるのではないかと考えた。彼は調査の為に密偵を送り、およそ十八ヶ月前からムードンのプティヴァル家に滞在している、十歳前後の黄色い髪をした甥に関する報告を受け取った。

 フーシェは自らプティヴァル家に足を運ぶ決意をし、デマレという、精力的で機転が効き、その立身出世がフーシェの権勢と密接に結びついている腹心の部下に同行を命じた。

 神の摂理プロビデンスの計らいによって、フーシェの到着は彼の疑念についての真偽を完全に確認するには遅かった。礼儀正しい中年男性であるプティヴァルは、この議員を慇懃な態度で迎え入れた。市民フーシェのあからさまな不信――この銀行家は、まったく思いもよらぬ事実無根の疑いと主張したが――を、この場で甥を紹介する事によって払拭できず、プティヴァルは困窮した。しかしながら、折り悪しくも少年は、つい昨日、プティヴァルの末の妹である亡き母親が住んでいたブリュッセルに向かう為、ムードンを去っていた。

 フーシェは少年が町を出たという証言の裏付けを得た。だが、綿密な調査によって、少年が二人の連れと共に乗った馬車が南東の方角にあるムランに向かったという事実を突き止めた時、彼はプティヴァルが旅行者の目的地を偽ったのを知った。彼の疑いは確信となった。精力的なデマレは、逃亡者を捕獲して連れ戻す際に必要となるはずの手勢として、部下を総動員し追跡行に出た。

 王は二十四時間を先行していた。だが追っ手がかかっているとは知らぬ彼らは必要以上の速度を出さずに移動しているはずであり、逃亡者たちが最も近い国境線に着く前に捕まえるのは容易と想定された。

 ラサールがタンプル塔から少年を救出した夜、ド・バッツと共にいた二人の内、年長者の方であるプティヴァルと再会した際に、彼らは逃走経路について議論した。プティヴァルは軍隊の動きを指摘し、ライン国境は望ましくないとした。ラインを渡る試みは、通常よりも一層厳重な身元確認を求められる可能性を意味する。従って、ドイツに向かうにはジュネーブを通る方が好ましく、其処ならば、マルタン・ルバという名の王党派エージェントが、あらゆる便宜を図ってくれるはずだ。それからヌーシャテル公国とバール(バーゼル)を通って旅を続ければいい。

「そしてその後は」と、全面的に同意したフォン・エンセ男爵が言った。「黒い森シュヴァルツヴァルトを通る。義なる神よ!目と鼻の先にあるプロイセンに行く為に世界を半周するとはな」彼は屈強で活動的な、低い声をした五十代のブロンドの巨漢であるが、その青い瞳に潜む茶目っ気が重々しい雰囲気を和らげていた。避けられぬ困難と危険が伴う計画に取り組む同志として、ラサールは即座に現状における最良の意見をまとめて見せた。入念に整えられた頭の天辺から、質の良い靴を履いた足の先まで、彼は如何にも頼りになる男に見えた。

 警戒の為に止むを得ず遠回りになった旅行について冗談交じりに嘆きを口にしたものの、彼は了解した。偽造したのか、地下ルートを使って手に入れたのかは不明だが、ド・バッツはパスポートを提供してくれた。フォン・エンセ男爵はハーゲンバッハという名前のスイスのチョコレート製造業者であり、甥を伴って旅行中。ラサールはウッソンという名の事務員という事になっていた。

 彼らは四頭立ての大型四輪馬車ベルリーヌを走らせて、三日間は順調かつ退屈に国境に向かう旅を続けた。

 少年は最早、ラサールの脳内と肖像画とに記録された時の、頭を鈍らされた、半ば陰鬱で半ば獰猛な子供ではなかった。彼は少ない手荷物の中に何冊かの画帳を詰め込んでいたが、其処には革命家名士たちを描いたページも少なからず含まれていた。プロイセンに着いてから、何かの役に立つかも知れないと考えたものだった。

 彼は満足感と共に、王の雰囲気と振る舞いの変化を認めた。監禁生活がもたらした、むくみと青白さは、今はもう消え去っていた。彼は薔薇色の頬を回復し、しっかりした体つきと、年齢相応の賢さ、愛嬌のある快活さが見て取れた。遺伝の力か、はたまたベルサイユで過ごした幼い日の記憶によるものか、自分が途方もなく重要な立場の存在である事を理解した瞬間から、彼の快活さにはある種の威厳が加わり、また二人の旅仲間が自分に示す敬意を当然のものとして自然に受け入れるようになった。彼が追憶にふける時、特にタンプル塔における投獄の日々を思い返す場合は、母親から引き離された日までの記憶に限られていた。それ以降についての追憶は、やや曖昧で、ぼやけているようだった。けれども彼が言葉で描写して見せたものの中には際立って鮮明な場面も幾つか存在する事に、同行者たちは気づかされた。

 しばしば少年はシモンについて話し、そして彼が既にギロチンにかけられた事を聞いて気の毒がった。

「彼は悪人ではなかったよ」少年は同行者たちにそう語った。「ブランデーを飲むように無理強いした時を除いてはね。あれは本当に嫌だったし、そのせいで私は病気にされたが、それでも。それを除けば、彼は滑稽な男だった。かわいそうなシモン」

 シモンの妻について語る際の口ぶりには、真実の愛情に近いものと、彼女の粗野な外殻を透かして輝く生来の根源的な母性に対する感謝とが込められていた。実の母親から引き離されたばかりの時期、彼女は少年の辛い日々の慰めとなってくれた。姉については、暗黒のタンプル塔で監禁生活を続けている彼女が心配でたまらぬ様子だった。彼女について、あるいはバベット叔母様や母に言及した時、彼の青い目は涙で満たされた。

 彼が二人の男の前で見せたのは傷付き易い子供の姿であったが、それでも尚、ある種の強情さや、何か粗野で乱暴な――タンプル塔の日々について痛感させられる――ものが、取り戻された生来の尊厳というマントを通して垣間見える瞬間があった。

 一行は快調に旅を続けたが、切迫した状況については知る由もない為に、焦る事なく馬車を走らせていた。旅の最初の三日は、彼らは運動の為に地面に降りて、ゆっくりと進む馬車の横を一、二時間歩くようにした。しかしながら、少年はすぐに疲れてしまい、かといって、歩く速度で動く馬車に自分一人が座っているのも気が進まず、二人の男は自分たちの必要とする運動ができるような取り決めを行なった。一日交代で片方が騎馬して進み、残る片方が車中で王のお相手を務めれば良いのだ。

 これは四日目の朝、オーセールでの朝食後に決定され、昨夜、彼らが泊まったプチ=パリという宿やどの前には、旅を再開する準備が整えられた大型四輪馬車ベルリーヌを待たせていた。

 フォン・エンセは、彼とラサールのどちらがその日に馬に乗るかを決める為にコインを投げ、そしてコインはラサールを選んだ。恵み深き摂理プロビデンスの指がコインを操ったのである。駅家うまや 3はプチ=パリの隣にあり、ラサールはすぐ追いつくから自分を待たずに出発するようにと告げて、そちらに馬を借りに行った。

 急ぐ事なく、馬車が埃っぽいブルゴーニュ地方の小さな町を後にして険しい路を走り去る姿を見届けると、彼はきびすを返して駅家うまやに向かい、モンバールまで乗っていく馬が欲しいと注文を伝えた。

 一頭の馬に、速やかに鞍が整えられるはずだった。

 馬の仕度を待つ間、再び外に出ると、彼は六月の朝の日差しの下をぶらついていたが、そうする内に、ガダガタと音を立てながらやって来た埃まみれの軽装馬車がプチ=パリの入口の前に止まった。其処から三人の体格の良い男たちが降りてきたが、その一人の厳つい顔に、ラサールは見覚えがあった。それは最近、テュイルリー宮のホールでしばしば見かけていた顔だった。その事自体が本能的な警戒心を刺激し、彼らの乗り物をつぶさに点検する行動へと繋がった。馬車をおおう厚い埃は、彼らが夜を徹して旅を続けていた事を示唆していた。この旅行者たちの急ぎ方は尋常ではない。追われる者か、追う者のどちらかだ。

 慎重に無関心を装ったラサールが駅家うまやの出入り口にもたれていると、宿やどから彼らの到着を歓迎して家令が出て来た。すると一行のリーダーである、ラサールが見知った四角く厳つい顔の男が、家令に質問をする為に進み出た。サンス経由でやって来た二人の男と一人の少年が、この宿に泊まるか、近くに立ち寄るかしなかったか?

 この質問によって状況は明白になり、同時に戸惑いも呼んだ。しかしラサールは迷いを振り捨てた。家令が向きを変えた拍子に彼の姿に目を留めて、捜索対象の一人であると告げられぬように、ラサールは中庭の出入り口の中に一歩移動した。其処から彼は、予期していた通りの答えを聞いた。ええ、確かに、そのようなお客様が昨夜、プチ=パリに御逗留になり、ほんの少し前にモンバールに向けてお発ちになりました、と。

 新来の集団の一人が悪態を吐く声が聞こえたが、しかしリーダーのデマレは笑って言葉を返した。「まあ、いいじゃないか?連中の行き先は掴んでるんだ。そう腐る事はない。新しい馬に引き具を付ける間に、朝飯を済ませよう。そら行くぞ」そして彼らは宿に入っていった。

 5分も経たぬうちに、ラサールは急ごしらえで馬具を乗せた馬で町から離れると、すぐに早足トロットから襲歩ギャロップにペースを変えて道路を下っていた。

 自分たちに追っ手がかけられるに至った事情はわからない。だが、現に追跡されているという事実には疑いの余地はない。幸運の巡り会わせによって自分の出発を少し遅らせていなければ、間違いなく、この日の内に、一行は全員捕らえられていたはずだ。彼は後日、この摂理プロビデンスの恩寵は、自分を待ち受けている立身出世の前兆と解釈したと豪語した。

 彼は正午近く、オーセールの先、およそ10マイルの地点で大型四輪馬車ベルリーヌに追いついた。彼は車体後部に自分の馬を繋ぐ為に馬車を一時停止させたが、騎乗御者に鞭と拍車を使うように促してから、警戒すべき報を告げる為に車中に入った。

「ポッツタウフェル!(何てこった、悪魔め!)」フォン・エンセは、そう毒づいて驚きを表し、幼い王も思わず目を見開いていた。

「万が一にも」ラサールは言った。「ヴァレンヌへの逃亡4の二の舞を演じたくなければ、我々には速度と知恵の両方が必要になる」

「我々は確実に片方を保っているのだから、もう片方もどうにかできるはずだ」プロイセン人はそう言って陽気に悪態をついた。「ヘルゴット!(神よ!)」

「多少の快適さは犠牲にしましょう」ラサールは同意し、これより先は旅館を利用せず、国境を越えるまでは、テーブルでの食事もベッドでの睡眠も断念せねばならぬと説明した。彼は再び単騎でモイヤーに先回りし、継ぎ馬を待って時間を無駄にするのを防ぐ為に、馬車が到着すると同時に馬の交替ができるように手配を済ませておくと。

「慌てる必要はありません」彼は注意した。「あの密偵ムシャールたちは、我々の移動速度の見積もりについて過剰な自信を持っています。これは我々にとって幸運であり、天の賜物だ。その他の点については、俺に任せてください」

 その日の午後3時に馬車がモイヤーに乗り入れた際、頼もしい事に、彼は困難な状況に対処する能力を証明してみせた。

 駅家うまやでは彼らの為に継ぎ馬が待機しており、馬車が止まると同時に、ラサールが頭と肩を窓から突っ込んできた。「そのままで」彼は小声で言った。「姿を見せないで。我々はこれ以上の痕跡を残しちゃいけません。偽の手がかりを置いて去るまではね。その為の用意です」彼は窓から怪しげな包みを差し入れた。それはペチコート、ボディス、モブキャップを含んでいた。ここからモンバールまでの間、陛下が変装する為に使う品々だった。「こっちは食料。チキン、パン、チーズにワインが一本」彼は包みの後からバスケットを押し込んだ。それから馬車の中に身を乗り出すと、彼らに手はずを伝えた。

 彼は既に、十頭の馬が駅家うまやの厩舎にいるのを確認していた。この内の八頭を借りる。今、彼らが乗っている大型四輪馬車ベルリーヌに繋ぐ四頭と、モンバールまでその後に従うように雇った継立馬車用の四頭。これで事実上、駅家うまやから元気な馬をほとんど連れ去る結果となり、モイヤーにやってきた追跡者を数時間遅らせる事ができるだろう。

「貴方たちはモンバールで降りて、夕食をとる為に宿に入ってください」ラサールは指示した。「俺も同じようにします。ただし別々に、他人同士のふりで食事をするんです。それで捜索対象である二人の男と少年の一行は消滅します。その代わりに、娘を連れて旅をする紳士と、一人旅の紳士の出来上がりだ。これで臭跡を消すには充分でしょう」

 少年は面白がり、愉快そうな笑い声を上げた。この気だるげな態度のムッシュー・ウッソンは、茶目っ気のある魅力の持ち主であるのを証明した。しかしながら、フォン・エンセは難点に気づいた。

「だがパスポートはどうする?これで、如何にして少女を国境越えさせればいいのだ?」

「国境に着くまでパスポートの出番はありません。その時までに、陛下は本来のお姿に戻っているはずですよ。騎乗御者の準備はできています」彼は説明を終えた。「では、ここで一旦、別れましょう。俺はここからモンバールまでの間に、馬車の中で眠っておきます。その後にはまた、終夜馬を飛ばして、馬車の先回りをしないといけませんからね」

 そうして、スプリングに弾力がなくなって、酷くがたつく継立馬車に乗ったラサールは、フォン・エンセたちに一時間遅れてモンバールに到着した。丁度、このプロイセン貴族が不安を感じ始めた頃合であったが、これはラサールの計算によるものだった。ラサールが夕食を注文する客が来たぞと大声で叫びながら、横柄な様子で談話室を通って歩いていった時、彼は男爵の椅子にぶつかった。謝罪の為に振り向いて頭を下げる際に、彼は小声でひと言ささやいた。「パルテ!(行け!)」

 フォン・エンセたちはラサールが見守る中で食事を済ませると、速やかに出発の指示に従った。

 新来の客に食事が運ばれてきたのと入れ替わるように、プロイセン人は清算の為に店の者に声をかけ、大型四輪馬車ベルリーヌを呼ぶように申し付けてから、偽の小さな娘と共に出て行った。

 ラサールは、馬車が遠ざかってゆく音を耳で確かめてから、自分の存在を印象づけ始めた。驚いた亭主が慌てて駆けつけて来るように、コート・デュ・ローヌのワインを大声でこきおろしたのである。

「あきれたね!ブルゴーニュでこんなのを飲まされて、誰が納得するんだ?インクの方がよっぽどマシだ」

 これは亭主が自信を持って勧めた看板ワインだぞ。まっとうな品質の、正真正銘のブルゴーニュ・ワインを期待するじゃないか。それなのに、ひとビン10リーヴル払ったら、何が出てきたと思う?――アシニャが暴落する前に、8スーで仕入れた安ワインだ、と。

 若い旅行者は憤慨をつのらせた。俺が注文したのはこんなものか?それとも俺は店の連中に足元を見られるくらい貧相なのか?俺が貴族だったら、こんなワインを出されるような事はあるまいよ、貴族なら席を蹴立てて店を出て行くだろうからな。亭主に地下倉を探させろ。

 亭主は彼に、口当たりの良い、熟成されたニュイのワインを持って来た。旅行者はそれを味わうと、上機嫌になった。ああ、生き返った心地だよ。旅の疲れを癒すのはこれだよ、俺はこの旅行にうんざりしていた処でね。俺はシャルトルからやって来たんだがね、織物商人の親父の用事でグルノーブルまで行く途中なのさ。彼は夕食をたいらげるまでの間、べらべらと取り留めもなく話し続けて、誤った道へと慎重に誘導する臭跡を付けた。それから彼は、来た時と同じように、さっさと引き上げて行き、ああも騒々しくて鼻持ちならぬ気取り屋が出て行った事で、亭主は大いに喜んだ。最近の政変によって成り上がった連中の一人にしか見えない、その気取り屋は、パリからの紳士たちが追っている集団の最後の一人であったのだが。

 彼は真夜中過ぎに、フラヴィニーの近くで大型四輪馬車ベルリーヌを追い越し、その翌朝には、丘に囲まれたブシーの町で待機していた。其処は、ディジョンに着く前に芝居を打つ最後の舞台だった。彼らはモンバールと同じく距離を保つようにしたが、今回は、これまでよりは緊急の度合いは少ないと判断して、ラサールは継馬の準備をしていなかった。

 夕方頃にフォン・エンセがディジョンに到着すると、追跡者を引き離し、偽装工作も行なってきたという判断から、彼らは再び集まって、ブリーチズ姿に戻った王を含む全員で夕食をとった。少年は非常に疲れており、食卓では終始うつらうつらした状態で、それを見たフォン・エンセは、今夜はディジョンで宿をとるべきだと主張した。それに対し、ラサールは厳しく反対した。

「そのつもりがあったら、少なくとも陛下は変装を解くべきではなかったし、我々も見知らぬ者同士で通す用心をするべきでしたよ」

「ええい!ドンナーヴェッター!(忌々しい!)ムッシュー・ウッソン、君は影に脅えるような男だったのかね?」そしてプロイセン人の呵呵大笑が懸念を矮小化した。

「影にも実体にも脅えてはいません、ムッシュー男爵ル・バロン。しかし、危険を古馴染みの友としていると、用心というものの大切さを思い知るんですよ」

「だが、陛下を見たまえ」男爵は譲らなかった。「立ったまま眠り込んでしまわれそうな御様子だ。ここで我々が陛下の玉体を損なっては、後日の事も成せんだろうに。さあさあ!」彼はなだめるように言った。「幼子は、まともな寝床で眠らせようではないか」

 渋々ながら、ラサールは屈服した。だが二日後のロンにおいて、国境への旅の終わりを目前にした彼は、この決断を後悔する事になる。それは丁度、男爵がディジョンだけでなく、次のドルでも宿に泊まる選択に至らせた、己の過信を後悔するのと同様にであった。

 この遅延によって、ラサールにつきまとう不安は高まり、何らかのきっかけで痕跡を拾った追っ手からの奇襲を避ける為に、騎馬してしんがりを務めるという行動に繋がった。その土曜日の朝にドルを後にした彼は、ゆったりとしたペースで馬を進めて正午にはタッスニエールに着き、其処で一時間かそこら身体を休めようと歩みを止めた。その町で新しい馬に乗り換えて、夜には仲間たちと合流する予定になっているロンまでの25マイルを再び無理のないペースで進む為にであった。

 タッスニエールを過ぎて5マイルほどを進み、ドリアンとセイユの二つの谷の間に位地する、なだらかな丘の上で彼は手綱を引いた。その日は温かかったが空気は澄んでおり、彼は絶好の位置から、気持ちの良い緩やかな起伏がある肥沃な平野の全貌をつぶさに観察する事ができた。空気は甘く芳しく、それは目に見えぬ膨大な生命の微かな音で震えていた。綿毛に被われた柳が縁取る遠い水上に陽の光が踊る様は、彼の芸術家としての目を奪い、魅了した。心地良く暖かな感覚を伴う陰影と、その捉え難い色合いを自分のものにしようとする事、それは己が存在の一部であり、恐らくは、ひょんな巡り合わせで舞い込んできた、玉座なき王の随行などよりも価値のある偉大な仕事だった。ラサールは、このような内省に我知らず哀歌の如き溜息を吐いたが、突然、彼は夢の中から現実まで引きずり出され、目覚めし芸術家は再び冒険家の内部に姿を消した。1マイル離れた先、彼がやって来た道の先に、土埃が上がっていた。

 恐慌をきたす事なく、彼はまず、盛大な土埃の中にあるものを慎重に確かめようとした。彼は自分の馬――大きく強力な馬体であり、緊急時には大いに頼りになる――を道路脇に向けて静かに歩かせ、立ち並ぶ若木が目隠し代わりになってくれる位置で待機した。間もなく彼が見たものは、馬車ではなく騎馬した小集団だった。彼の若い目は鋭く、そして空気は先程述べた通りに澄み切っていた。半マイルまで近づいた時点で、七人が竜騎兵5の装備をしているのが識別可能になった。だが、彼に不安を与えたのは、騎兵部隊の中に文民が混じっている事、その数が三名であるという事だった。この事実は、現状における仮定を検証する為に更なる時間の消費を許すには示唆に富み過ぎていた。

 彼は隠れ場所から移動すると、馬に拍車をくれて、その活力について神に感謝しつつ、かつてこのような飛ばし方は一度もした事がなく、そして二度と再びしたいとも思わぬ速さでその場を後にした。全速力で馬を飛ばしながら彼が最終的に下したのは、追跡者が再び臭跡を発見したのだという結論だった。馬車ではなく騎馬で追ってきたのは、惑わされている間に失った時間を埋め合わせる為、そして確実に獲物に追いつく為に軍の協力を得たのだろう。パリからの紳士たちは、尋常ならざる武力を配備する必要があったのだ。

 その推測は、綿密なはずであった計画中の見落としを直視するように強いた。ディジョンで標的が突然消え失せた事に追跡者たちが気づき、二人の男と一人の少年の足跡を辿れなくなった時にも、大型四輪馬車ベルリーヌ自体の痕跡は未だ残されていた――黒いパネルで飾られた扉が付いた黄色い車体、彼らが聞き込みを開始したムードンで、駅家うまやの者が証言しているはずだ。あらゆる事態を見越して対策を講じたつもりでいたラサールは、この手抜かりに自己嫌悪を感じていた。知恵の回る捕吏というのは、如何なる些細な事柄も全て調べ上げてしまうものだという認識があれば、フォン・エンセによる移動速度を減じるような提案、最終的には計画失敗の原因という位置づけになるかもしれない提案に対して、根拠を伴った反論ができていたであろうに。

 彼が疾走したのは、この凶事を防ぐ為であり、恐らくこの一事の他は念頭になく、無謀なペースで馬を飛ばした挙句に己の首を折るような事にでもなれば、フランス王が無事逃げおおせる為の、最後に残されたわずかな希望もまた死ぬであろうなどとは考えもしなかった。

 サリエールから約3マイルの地点で、彼はディジョンとロンの間を往復する乗合馬車と行き逢った。がたぴし進む大きな車体と擦れ違う際に、多少の時間を失った代わりに、彼はある天啓を得た。更に2マイル先で大型四輪馬車ベルリーヌに追いついた彼は騎乗御者に停止を命じた。この時に限っては、彼もフォン・エンセ男爵が旅を急がずにいた事に感謝した。

 思いがけないラサールの出現に彼らは驚いた。だがそれに輪をかけて驚いたのは、彼が騎乗御者に聞こえぬように小声で手短に告げた言葉だった。フォン・エンセは酷く己を責めた。もし自分がムッシュー・ウッソンの主張に耳を傾けていれば、今のこの危険はなかったであろうと彼は潔く認めた。竜騎兵の一団に対して、我々に何ができるというのだろう?

「できますよ、今から説明する事をね」ラサールは答えた。

 乗合馬車が4分の1マイルほど先に見えた。「書類と貴重品を持って、すぐに降りてください。貴方と……」彼は危うい処で口をつぐんだ。驚いている騎乗御者が、こちらを見ていたのだ。「貴方と甥御さんは、ディジョンの乗合馬車でロンまで行くんです。この暑さでは快適ではないでしょうし、混雑しているかもしれません。ですが少なくとも、それ以外の点では安全なはずですよ、あそこは暗殺者たちが探す場所としては、一番最後になるでしょうからね」彼は男爵にだけ聞こえるように声を低くした。「ロンに着いたら、其処からまた、すぐに出立してください。ジュネーブに到着するまでは休まず真っ直ぐに進むんです、俺の事は待たないで。俺もルバの家で合流できるように向かいます。遅れる可能性はありますが」

 彼らが馬車を降りようとしている時、ラサールは騎乗御者に目をやっていた。「君の役目はね、口をつぐんでいる事だ。沈黙は金という諺は知っているだろう。君の沈黙には5ルイの値をつけよう。雄弁の方を選んだ場合、君は銀ではなく鉛色になる。どちらを選ぶかだけ、答えてくれたまえ、それで君の運命が決まる」彼は乗馬コートのポケットから手を引き出して、ピストルの台尻を見せた。「お互い、理解し合えると嬉しいんだがね」

 上向きの鼻をした、厚かましそうな若者の騎乗御者は、肩をすくめた。「脅しはいりませんよ、市民。誓って何もしゃべりません」

「その素晴らしい姿勢を、ずっと続けてくれたまえ」

 ラサールは道の中央まで汗まみれの馬を歩かせると、近づいてくる乗合馬車を停める為に片手を上げた。不恰好な車は轟きと共に停止した。驚いた乗客たちが窓から首を突き出して見守る中、乗合馬車の騎乗御者と車乗御者は二人揃って、一体どういうつもりで邪魔立てするのかと喧嘩腰で問い質した。

 ラサールは溝の縁に停められた大型四輪馬車ベルリーヌと、その横に立っている男と少年を示した。彼は言葉少なに告げた。

「馬車の事故でね。こっちの市民たちはロンに向かう途中だったんだが」

 車乗御者は、当初の乱暴な態度を改めた。そういう事情なら、交渉に応じても良かろう。だが、ディジョンから乗ってきた客と同じ満額の運賃を払ってもらわねばならん。自分には料金を切り売りする権限はないのだからと。

「さあどうぞ」と男爵に向けてラサールは言った。「万事上手く収まりました。では御機嫌よう、良い旅を」

 フォン・エンセはためらった。彼の陽気な顔は深刻なものになっていた。「しかし君はどうするんだ、我が友よ?」

「俺は後から行きます。時間を無駄にしないでください。それじゃ」

 少年は別れの握手をする為に傍に寄ってきた。「すぐに、また会えますよね、ムッシュー・ウッソン?」

「それほど先にならないように努力してみます」ラサールはそう言ったが、それはつまり、男爵が頼もしさを感じたラサールの愛想が良い生来の気楽な性質からすれば、この時の彼が懸念で一杯になっていた事を意味していた。

 ほとんど押し込むようにして彼らを乗せると、ラサールは馬車が走り出すのを見送った。窓から少年が彼に手を振っていた。返礼として帽子を脱いで振り回し、それから彼は騎乗御者を振り返った。

「さて、これで君が5ルイを手に入れるまでの道のりを、半分消化したというわけだ。支払いはシャロンに着いてからだよ」

「シャロンになんか行きませんよ」

「はいはい、そうだろうね。でも議論の余地はないんだ」

「俺はロン行きの為に雇われたんですよ」若者は言い張った。

「でも、シャロンで5ルイが待ってるんだよ。一年分の賃金だ、だろ?まぁ、何にせよ、君はあそこに行かなきゃならない。さて、教えてくれるかな、サリエールの先で、シャロンまでの間にある最初の停車場は何処だい?」

「ボランに駅家うまやがあるけど」

「どれくらい先なんだ?」

「サリエールから3リーグってとこです」

「君の馬たちで行ける距離だな。それからボランで馬を替える。だが君は、シャロンへの道順と道路の状態を尋ねる為に、サリエールで停まるんだ。我々の行き先が周囲の人間に知られるようにしたい。そして、それ以外の事は一切、何も知られないようにしたい。それを忘れないでくれ。じゃ、行こうか、びしびし鞭を使ってくれよ。急いでるんでね」

 騎馬した彼に続いて黄色い大型四輪馬車ベルリーヌがサリエールの町に入り、駅家うまやの門へ通じる道を辿った。それは丁度、フォン・エンセと王を運ぶ乗合馬車がロンを立ったのと同じ頃だった。

 10分後、自分の馬を手放したラサールは、馬車の中が無人であるのに気づく人間が周囲にいない時を見計らって大型四輪馬車ベルリーヌにさっと乗り込むと、シャロンへと向かう為に再び出発した。


  1. 国民全体の安全に関わるような「例外的状況」にあれば、為政者は一時的に市民の自由や所有権を制限しても正当化される、という観念。 

  2. 男爵位を持つ王党派の銀行家であり、バラスと取引関係のあったプティヴァルは、ルイ=シャルルの死亡証明書を偽造であると主張。それから約一年後の1796年に、プティヴァル一家は全員殺害されている。 

  3. 駅馬を交替し乗組員を泊める宿屋。 

  4. 1791年6月20日にフランス国王ルイ十六世一家がパリを脱出し、22日に東部国境に近いヴァレンヌで逮捕された。ルイ十六世は王の国外逃亡という不名誉を恐れて計画には消極的だったが、スウェーデン王グスタフ世が寵臣であるフェルセン伯爵を通じて王妃マリー=アントワネットを説得して押し切った。結果として「革命潰しを企む外国の手引きにより国を見捨てた王」としてルイ十六世は国民からの信頼を失い、急進的左派勢力が勢いづき、王と王妃の処刑にまで繋がった。 

  5. 小型のマスケット銃などの火器で武装した騎兵。 

十 レマン湖

 黄色の大型四輪馬車ベルリーヌは大過なくヴォランに到着し、其処で馬を交換した上で、また旅を続けた。更に5マイルを行った処で、ラサールが行動を起こすに至った推論を充分以上に裏付けるかのように、竜騎兵隊と三名の文民がやって来た。彼らの姿を目にしたラサールは、騎乗御者に指示を与える為に窓から身を乗り出した。

「不審尋問された時にはだ、いいかい、君が知っているのは、これだけだ。君はディジョンから来た。これは事実。そして出発からここまで、客は俺しか乗せていない。君が金を手に入れて、しかも連中に拘引されずに済ませたいなら、これが事実なんだと心から信じる方がいいね。以上だ。後は君の機転に任せるよ、君の優秀さに期待する」

 その竜騎兵隊は接近し、間もなく馬車は蹄の音、金属がぶつかり合う音、兵士の声と馬の嘶きに包まれた。

 呼び止められた騎乗御者が手綱を引いて馬車を停めると、間髪を容れず、この部隊を指揮する文民である、小柄だが筋肉質で身ごなしの精悍な厳つい顔をした男が、自分の馬から降りて大型四輪馬車ベルリーヌのドアに飛びついた。彼の声は、厳しくも勝ち誇ったようなものだった。

「この鬼ごっこでは、随分こっちを振り回してくれたじゃないか、市民シトワイヤン。だが、これでやっと……」そう言いながらドアを開き、車内にただ一人の乗客を目にした彼は、一瞬、硬直した。その乗客である妙に気だるげな態度の若者は、まるで感情のこもらぬ調子で、この狼藉は一体どういう事なんだいと尋ねた。

「その兵士たちがいなけりゃ」そう続けて彼は「君はここで死んでいたよ。物盗りと間違えて、視界に入った瞬間に撃ち殺していたはずさ。何しろ君は、辻強盗にしか見えないからね」と言葉を重ねた。

「貴様の仲間は何処にいる?」他の二名の文民と、兵士たちを統率している隊長とが背後で見守る中で、そのがっしりとした男は彼に食ってかかった。

「仲間?」ラサールは鸚鵡おうむ返しに言った。「俺には連れがいて当然だとでも?何だってそんな事を?さっぱりわからないな。生憎あいにく、一人旅が好きな性分なんでね。用事がそれだけなら、もう行ってもいいよね」

 デマレの困惑と怒りはラサールの冷静を装った態度によって煽られた。

「書類を確認する」

「はん!今度は俺に証明しろってか。あんたの目当ての誰かさんじゃないのかどうか、無防備で哀れな旅行者をしつこく問い詰めて悩ませると。生憎あいにくだが、こっちは無防備でも哀れでもないし、ならず者風情ふぜいの要求に応じて、ほいほい証明書を差し出したりはしないよ。まずは君の権限を明かしたまえよ、善良なる市民くん」

 公安のエージェントであるのを証明する赤白青のカードが目の前に突き出された。「俺はデマレ。司法省。これでいいか?」

「充分過ぎるくらいですよ、市民岡っ引き」ラサールの口ぶりは、彼が目前の男の身分を知った事により、嫌悪の対象と定めたのを示唆していた。彼はポケットの中を探りながら、うんざりしたように溜息を吐いた。「まったく、君みたいな勿体ぶった小役人は、君主制時代の専制政治の日々に逆戻りしたような気分にさせてくれるよ。ともかく、そらどうぞ」

 エージェントは、市民ガブリエル・ウッソンのパスポートを手に取ると、それを精査した。その非の打ち所のなさに当惑を深めたものの、しかし彼はまだ諦めなかった。「君はここに記載されている当人か?」

「そんなの当たり前じゃないか」

「これには『所用の為スイスまで旅行』とあるが」

「その点は、間違いなく本当」

「だったら何故、国境に向かわんのだ?国境に背を向けているじゃないか」

「俺のパスポートは、そいつを禁じてますかね?シャロンにいる旧友を訪ねる為にちょっと引き返すのも駄目だなんて、何処にそんな事が書いてあるんです?」彼の快活さは影を潜め、厳しい調子になった。「もういいでしょう、市民デマレ。流石に越権行為なんじゃないですか。もう、俺の書類を返して解放する潮時ですよ」

 デマレは結論を下しかねて息を荒げた。仲間の一人が彼の袖を引いた。「時間の無駄ではありませんか、今は一分一秒が貴重な状況ですよ?」

「時間の無駄!」デマレは癇癪を起こした。「今更、時間を節約して何になる?クソッ、我々がこの二日間、間違った手がかりを追いかけていたとすれば、今からどうやって標的を発見できるっていうんだ?」

「推測ですが」同輩が意見した。「あのモンバールの与太者が、実際は敵の一味で、故意に違う大型四輪馬車ベルリーヌの特徴を証言した可能性があるのでは。それで我々は連中を見失ったのでは」

「何とも愉快な推測だな?」彼は投げつけるようにしてパスポートをラサールに返した。「そら。大事な書類を取りな。ボン・ヴォヤージュ!(良い旅を!)」それは災いあれと祈るかのような口調だった。彼はドアをバタンと閉めて後ろに下がると、地獄に送り出すかのような態度で騎乗御者に合図して馬車を進ませた。

 鞭が鳴り、大型四輪馬車ベルリーヌは動き始め、そしてラサールは車中に落着いた。微笑が彼の唇を変形させていた。勤勉なる市民デマレは、上司の許に戻った時にどうなる事やら。

 だからといって、この芝居が無事終わったからシャロンへの旅は切り上げようなどとは考えなかった。パリから追ってきた紳士たちの念頭には未だ疑いが留まっている可能性が高く、他に有力な手がかりがない以上は、僅かな可能性にすがって、尚も黄色い大型四輪馬車ベルリーヌと一人旅の男を監視下に置き続けるかも知れない。直ちに国境を目指してジェクスに馬を飛ばすなど問題外だ。よって、ラサールはシャロンへと向かい、定められた本来の道を外れて彼を運んでくれた代金に加えて、約束通りの報酬を騎乗御者に与えてから、その町で宿をとる事となった。

 翌日、新しい馬と新しい騎乗御者を揃えた彼は旅行を再開し、ブールを経由する道を走った。其処からシャレーに逆戻りし、更にフォシル峠コル・ド・ラ・フォシルを越えて、遂にジェクスに到着した彼が最初に目にしたのは、そびえ立つジュラ山と巨大なモンブラン山脈の狭間にあるレマン湖の壮観だった。

 長い旅だった。計算外の時間を失ったせいで、ほぼ一週間をかける結果となってしまった。これは迂回をした事だけが原因ではなく、激しい雷雨に伴う大洪水によって、馬車による通行がほとんど不可能になった為であった。騎馬で行けば、彼も深刻な足止めはされなかったはずだ。けれども、この大型四輪馬車ベルリーヌはフォン・エンセの私財であり、男爵の許に運ぶ必要もあった為、捨てて行く訳にもいかなかった。彼がフランスで過ごす最後の夜となる、六月最後の木曜日の夜、もう一つの嵐が突然、かの地に吹き荒れたのだが、その嵐はジェクスでぬくぬくとベッドに横たわっていたラサールが想像し得る範囲を超えて、彼の運命と密接に関係していたのであった。

 その翌日、前方にそびえるアルプスの頂上を真っ白に輝かせる太陽によって、静かに、そして晴れやかに夜が明けると、黄色い大型四輪馬車ベルリーヌは危険な旅の最終段階に向けて出発し、午後遅くに、ジュネーブの突出つきだ狭間はざまがある赤い壁が見える位置まで到達した。日没に向かう頃、馬車はローヌの橋を渡り、湖畔の『黒鷲亭』の中庭に停車するべく乗り入れた。

 粗末な身なりの男が一人、屋根付きの車寄せポルトコシェールのすぐ外にもたれて無為に煙草をふかしていたが、その男は馬車の後を追って庭に出ると、念入りに検分してから旅籠に入った。

 大型四輪馬車ベルリーヌから降りながら、ラサールは、すぐにサン=ピエール通りのマルタン・ルバの家、つまりはフォン・エンセと王が待っているはずの場所まで案内を頼んだ。

 このマルタン・ルバというフランスの時計職人は、何年も前からスイス人女性と所帯を持ち、この時計職人の都1に永住しているのだが、彼は革命時代を通じて、ジュネーブにおける王党派エージェントとして並外れた献身振りで活動し、秘かに国境を越えようと試みる多くの亡命貴族エミグレに対して計り知れぬ貢献をしてきたのであった。ルバはド・バッツとの間で、ほぼ途切れる事なく連絡を保ち続けており、一行がフランスから脱出する直前に、しばし休憩し、其処から先の安全な逃亡ルートについて話し合う為に彼の家を集合場所とするのは、フォン・エンセとの間で事前に合意済みだった。

 険しい坂を登った先にある、丘の頂上に建つ大聖堂の足元に広がる古い市街で、ラサールはサン=ピエール通りを発見した。その狭い道路は、張り出しの深いひさしと鋭い切妻屋根のある木骨造りの家々が立ち並んでおり、幾つかの家屋前面には、信仰信条の言葉と図像を彫り込んだ素朴な装飾がほどこされていた。

 目的の場所は労せずして見つかった。ルバの名前は広い店頭に堂々と表示されており、弱まりつつある光の中でもくっきりと見えた。それから程なくして夕闇が訪れ、家は闇に包まれた。彼は扉を叩き、そして待った。

 待つ間、戸口の上り段で振り返った彼は、その路のずっと先で、ふいに戸口の影に滑り込んだ二つの人影に気づいた。

 そして扉の向こうから重たい足音が聞こえた。掛け金が外され、ドアは内側へ開き、そして背の高い中年男が掲げるランタンの灯りがラサールの顔に浴びせられた。

「ムッシュー・ルバは御在宅ですか?」ラサールは尋ねた。

「出かけてる」男はそっけなかった。

「私の名前はウッソンです。お訪ねするという連絡がいっているはずですが。旅を共にして…」

 彼の言葉は遮られた。「ムッシュー・ルバは、ここにはいない。今朝ジュネーブを立った。日曜の夜か、月曜の朝には戻るだろう。彼に用があるなら出直してくれ」そして男が付け加えた言葉は、ラサールには意味有りげに聞こえた。「必ず。出直してくれ」

「ああ、ちょっと待って。ムッシュー・ルバが不在としても、フォン・エンセ男爵はここにいるはずだ。だから――」

 再び男は割り込んだ。「ムッシュー男爵ル・バロンは、ここにいらっしゃった。だが彼も出立された」

「出立?有り得ない!何処に行ったんです?」

「彼はもう行ってしまった。俺に話せるのはそれだけだ、ムッシュー。後はムッシュー・ルバから直接聞いてくれ。おやすみ!」

 ドアはラサールの鼻先でバタンと閉められ、夜のとばりが降りつつある静かな急勾配の路上で、彼は狼狽と憤慨の狭間に取り残された。前方に目を凝らせば、モンブランの山々はほとんどが谷の深まる影に飲み込まれ、雪に覆われた山肩は、山頂に隠れた太陽の残光で尚も赤らんでいた。

 彼はためらい、腹を立てつつ、しばしの間、その場に立っていた。再びドアを打ち鳴らし、少なすぎる言葉で示唆された謎の回答を要求する衝動をどうにか押さえつけると、彼は踵を返し、のろのろと道に降りた。

 どうやら、宿をとる必要がありそうだ。ルバの帰宅によって、フォン・エンセの後を追うにはどのルートを行くべきかが判明するまでは、二、三日の間は其処に泊まらなければなるまい。如何なる事情によって、男爵が彼を待たずにジュネーブを去らざるを得なくなったのか、ラサールには見当がつかなかった。だが、逃亡中の彼を恐れさせるような事態が起こったのは間違いあるまい。

 コートのポケットに手を突っ込んで、首を縮め、視線を落として大股で歩く彼は、曲がり角で逆方向から来た男とぶつかった。衝突により両者は立ち止まったが、この時、ラサールは自分の目前にあるのが、つい最近馴染みになった男、デマレの顔であるのに気づいた。

 ショーウインドウからの明かりによって、彼らは一瞬、互いの顔をまともに見た。それから小声で詫びの言葉を告げ、やはり相手がデマレであると確信したラサールは、横に避けて、彼に道を譲った。疑われもせず、そのまま行くのを許された事により、彼の不信は深まった。ラサールは自分が彼に気づいたと気取られぬように心がけ、デマレの方も、あえて相手の姿を確認しようとはしなかった。だが、あのしつこいブラッドハウンドがジュネーブに姿を現したという事実は、ラサールが丁度この時に自問していた謎の回答を与えてくれた。あの男は、どのようにしてか、再び獲物の足跡を発見し、国境を越えてまで追ってきたのだ。

 フランスの密偵たちの大胆不敵振りについて、ラサールは知り過ぎるほど知っているし、それはルバも同じだろう。ジュネーブは国境に近接しており、この三年間、スイスに辿り着いた途端に自分の身は安全と気の緩んだフランスからの逃亡者が何人も連れ去られている実情を、あの時計職人は充分に意識しているはずだ。従って、ルバは慎重かつ油断のない行動をするであろうし、自分の家に国王を保護していたこの数日間は、尚の事、用心に用心を重ねていたはずだ。ルバの方にも、デマレと手下どもの出現を報告して来るような密偵がいるだろう。革命政府の密偵たちのジュネーブへの到着、これは勇敢なる王党派の時計職人が、高貴なる逃亡者の安全に不安を覚えるには充分だろう。

 つまりは、これがフォン・エンセが高貴なる被保護者と共に慌てて出発した理由、そしてルバその人が不在である理由という訳だ。恐らくルバは、彼らの安全を図りつつ、先導し警護する為にエンセたちに同行しているのだろう。

 備えあれば憂いなし。ラサールの対応は、己の同国人による卑劣な行動に備えて用心を怠らぬというものだった。夜にはドアにバリケードを築き、手の届く場所に装弾済のピストルを置いて眠り、そして日中は、害意ある連中が暴力沙汰に及ぶ可能性を考慮して、何処であろうと独りにならぬように留意した。

 危険な事態に備えて対処をしている事により、それ以外の時にはくつろいでいた。彼はレマン湖のマス料理とヌーシャテル産の白ワインを大いに楽しみ、旺盛な食欲で夕食をとり、そしてぐっすりと眠った。

 朝、彼は明るい日差しに誘われて外に出ると、散歩道をそぞろ歩き、美しい風景に心を奪われた。巨大な青い湖に反射する周囲の景観の壮大なる事。低い斜面にある果樹園と葡萄園から始まり、上方アルプスにあるエメラルド色の牧草地まで隆起している山麓地帯、更に上には再び巨大な岩々がそびえ、輝く氷雪で頂きが被われていた。彼は湖の水源であるローヌ川にかかった橋に足を向けた。焦茶色の梁に無骨な屋根が乗った赤色砂岩の建造物からは燃えるように赤い小塔が張り出しており、フランス人の目から見れば中世的で古めかしい趣があった。

 その近くで、群衆が防波堤につながれたボートに群がっていた。安全の為には人の多い場所にいた方が良いという判断か、ちょっとした好奇心かによって、彼はそちらに向かった。群衆の端にいた彼は、足早だが不規則で、よろめきつつも慌てて駆けつけたというような足音を背後に聞いた。振り返ると、息を弾ませつつ駆け寄った男が若い女を傍らで支え、その後を数人の子供たちが遅れてついて行くのが見えた。その男女は共に悲しげで、蒼白な顔をしており、女の方はすすり泣いていた。群集の際に立つラサールの脇を通り過ぎ、その男は乱暴に肘で人々を押しのけて道を作り、今や悲痛に泣き叫んでいる女性を通してやろうとした。「うちの人の処に行かせてちょうだい。ああ、ここを通して!お願いよ、通してちょうだい」

 小さな人垣を無理やり押し分け、彼らが前進して行くと、再び通り道は閉じた。

 チョッキと半ズボンを身に着けて、膝から下は素足という姿の若い船頭が、ラサールのすぐ脇に立っていた。ラサールは彼の方を向いた。

「何があったんだ?」

「土左衛門だよ」陰気な調子でそう答えてから、男は言い添えた。「気の毒な後家さんが泣いてんのさ。丁度、オカに死体が一つ上がったところだ」

「二つだよ」もう一人の男が訂正し、更に続けた。「ああ、デュウ・ド・デュウ!(神様神様!)無茶だったんだよ。嵐が来てるのはわかってたのに。だけど、あの紳士はローザンヌに急いで渡らなきゃいけない用事があったらしくてな、代金を余計に払うからって言ったんだ。だからってなぁ?」

「その金のお陰で、どうなったよ」最初の男が不機嫌な調子で言った。「岸から止める声が聞こえるのを無視して船を出した挙句、四人が溺れ死んで、若い後家さんが二人、路頭に迷うハメになったんだぜ」

 群衆は突然ざわめいた。野次馬の集団の中に一筋の小道が開き、其処には時折漏れる同情のつぶやきと、心痛で泣き叫ぶ女性の声だけしか乱すもののない静寂が生まれた。この土地の男が二人、担架で遺体を運びながら、堅実かつ重たい足どりで人込みの中を押し進み、その横では取り乱した様子でふらつく女性が、先程、道を開いた男によって支えられていた。

 彼らはラサールの近くを通過し、仰向けになって穏やかに微笑んでいる若くたくましい死者が見えた。二番目の担架が続いた。こちらの男は、より屈強な体格で、もつれた髪は色あせたブロンドだった。前方へ進み出たラサールの目は戦慄で大きく見開かれ、頬からは徐々に血の気が引いていった。彼が見下ろした先にある鉛色の顔、それはウルリッヒ・フォン・エンセの顔であった。

 ラサールは前に出ようとしたが、誰かが背後から乱暴に彼を押した。明らかになった事実に衝撃を受け、彼はしばし自失して、遺体の傍に立つ権利を主張する言葉が見つからなかった。彼が理性を取り戻した頃には、群衆の一部がその陰鬱な行進をとりまき、残りは四散していた。

 先程、彼が言葉を交わした若い船頭は、まだ横にいた。

「君、溺れたのは四人って言ったよね」そう話しかけた彼は、自分の声が平静を保っている事に我ながら驚いていた。

「四人だよ」男は同意した。「二人は船頭だった。兄弟のな。最初に運んでこられたのが、その片割れだ。次がその二人を雇った紳士。二番目の土左衛門よ。それから男の子。多分、あの紳士の息子だろうな。その四人全員が、二日前の晩に無茶やって溺れちまったって訳よ。他の死体はまだ上がってないが」

 ラサールは彼を見つめる視線に気づいた。見上げた先にはデマレの厳つく角ばった顔があった。彼にはかまわず、ラサールは無表情に群衆の後に従い、その場を立ち去った。

 明るい日差しが降り注ぐジュネーブの山々に囲まれた晴れやかな湖のほとりで、彼が全ての希望をかけていた冒険は、突然、そして残酷にも、悲劇的な結末を迎えた。

 運命の女神は、さながら性悪なあばずれ女の如くに、ほんの少し余所見をしている間に彼を裏切ったのであった。

第一部 終


  1. ジュネーブは16世紀に宗教的迫害から逃れた各地のカルバン派プロテスタントの亡命先となり、結果として多くの手工業者が集まる地となった。元々当地で栄えていた金細工職人が贅沢禁止令により転業を余儀なくされ、亡命機械職人の技術を取り入れて時計製造が発達、18世紀には大産業化している。 

一 フライヘア・フォン・シュタイン

 国王擁立者という大望を秘めた卵が死によって砕かれた瞬間、ラサールの悲喜劇には幕が下りた。その幕は、それから十三年が過ぎて、フランスの玉座が皇帝によって再び占拠されるべく準備が進められるようになるまで、再び上がる事はなかった。ナポレオン・ボナパルト1が自ら玉座に就かんとする素振りを見せ始めた事によって、かのコルシカ人が、往年の英国王チャールズ2に対してマンク3が果たしたのと同じ役割を演じてくれるであろうという、見当違いの期待を抱いていたルイ十八世は、狼狽と嫌悪に襲われた。

 1808年春までの間、ラサールの足取りを辿る手がかりとなるものは、一切見つからない。再び彼の痕跡が現れるのは、ベルリンの逮捕歴である。これにより想定できるのは、彼がレマン湖の悲劇の後、そもそもの旅の目的が完全に砕かれてしまったにもかかわらず、尚もドイツへの道を辿ったのであろうという事である。恐らく彼は、デマレの存在によってパリへの帰還が危険になったのではと懸念し、また画家として身を立てるには、フランスよりもプロイセンの方が容易と考えたのであろう。彼はフリードリヒ・ヴィルヘルムにジュネーブで起きた事件について伝え、王の脱出に際して自分が果した役割を利用し、プロイセン宮廷に出入りする為の足掛かりにしようと試みた可能性もある。

 だが、これらは推測に過ぎない。彼が何を考えてドイツに渡ったにせよ、資料から判断できるのは全てが不首尾に終わったという事であり、その中には画家として身を立てる道も含まれている。何故ならば、ようやくラサールの動向を把握できる資料というのが、彼がプリジャンというフランス人と共同でヘルプストストラッセにある館の二階で開いていた賭博場で起きた、喧嘩騒ぎの結果としての逮捕歴であるからだ。

 この記録と、これ以降の彼に関して記述のある資料の全てにおいて、彼はド・ラサールと名乗っている。彼が爵位を継いでしかるべき出自であったという点については、疑問の余地はほぼない。恐怖政治テルール時代のフランスにおいては愛国的な目から不穏分子と見なされるような称号を名乗らずにいたが、己の社会的地位を向上させようと苦闘する冒険家となってからは、貴族としての名を使う方が都合が良いと判断した、というのが妥当な解釈であろう。

 賭博場経営との関わりを除けば、彼の逮捕に関して他に不名誉な事実は何もない。その原因である喧嘩騒ぎにおいても、彼はあくまで受動的であったように見える。

 プリジャンは、ラサールのファロ賭博場4元締めクルーピエを務める男であり、必要に応じて浮薄な振る舞いもする魅力的な女を妻にしていた。筆者の推測では――そのような申し立てがあったか、その後の訴訟手続きで証明されたのではないかと思うが――彼女は主として、羽振りの良い客につけるサクラの役を務めていたようだ。この役割において、彼女が若いポーランド槍騎兵ウーラン5士官のハウプトマン・フォン・ヴァイセンシュタインを相手に上げた成果は、どうやら博打を成立させるのに必要な水準を大幅に超えていたように見受けられる。

 フォン・ヴァイセンシュタインが恐ろしく深酒をし、そして恐ろしく負けが込んでいたある夜、その婦人に対する彼の品行は目に余り、商売上の都合を考えて、夫としての面子は押さえる心構えをしていたプリジャンにして、怒りに駆られて抗議せざるを得ないほどだった。だが、その彼に対する返答は、白いコートを着た士官からの辛辣な侮辱であった。

「下賎なフランスのポン引き風情が、何を生意気な」

 プリジャンの顔は紅潮し、次に死人のような蒼白になった。そして彼の黒い目には、一瞬にして炎が吹き上がった。彼は立ち上がったが、その声は慎重と躍起の両方により抑制を強いられた激昂で震えていた。

「即刻、この館を立ち去っていただこう、フォン・ヴァイセンシュタイン大尉。すぐにだ」

 大尉は彼を嘲った。「それを命令するのはマダムの役目だな。そしてマダムは、そんなつれない科白は言わんだろうさ。エ、シャッツリ?(どうだい、べっぴんちゃん?)」

 マダムは既に、厚かましい男の腕が届かぬ位置まで退避しており、純白のドレスに包まれた大柄で整った肢体は、暗赤色をしたベルベットのカーテンを背にしていた。彼女は大きく目を見張り、その赤い唇は不安で半ば開かれていた。

 十人以上いる洒落者の賭け客は、皆がテーブルに着いていた。髪粉を振って黄色い制服を着た二名の従僕は、部屋の終端にあるビュッフェの両端で固い表情をして立っていた。ディーラー席のラサールは、丁度、新しいパックを手に取った処だった。静まり返った部屋の様子に、彼は包み紙を破らぬまま、再びそれを下に置いた。

 ここで改めて、もう一度、彼という人間について説明せねばなるまい。ベルリンのヘルプストストラッセの賭博場にいる、三十五歳のフロランス・ド・ラサールは、ダヴィッドのアトリエで学ぶ美術学生でありながら、ド・バッツ男爵に加担する事で窮乏をしのぎつつ、君主制回復を助けようとしていた青年とは、大きく異なる人間だった。彼がフォン・エンセの遺体に付き添ってジュネーブの教会墓地に行き、政治の世界で栄華を掴むという希望を男爵の亡骸と共に完全に埋葬してから、十三年が過ぎていた。だが、その費やした年月によって、彼の気性が丸くなるような事はなかった。彼が一見して、四十代の男性に見えるような風采であったという事実は、ラサールが如何に過酷な人生を歩んできたのかを示している。彼は昔よりずっと痩せており、全てが流れるように素早い動作の中には、しなやかな強靭さがうかがわれた。ラサールには、かつて天然痘で瀕死の床にあったものの、彼を愛する女性のたゆまぬ世話によって辛うじて命を拾い、その女性は結果として病に感染し、彼を看護しながら息を引き取った、という経験をしている事が判明している。これは彼の性質の硬化を助長したであろうと推察される出来事であったが、同時に彼女が生き延びてさえいれば、ラサールは彼女の愛に対して献身的な情愛をもって報い、それにより彼の精神は高められ、利己主義エゴイズムという罪業から救済されていたに違いないとも言える。ラサールが高熱で臥していた間、その女性が彼の顔面に当てた湿布を昼夜も休まず取替え続けてくれた為に、彼の顔には病の痕跡がほとんど残らずに済んだ。だが、にもかかわらず、病から生還した彼の容貌には、奇妙な変化があった。皮膚は縮んで骨格が際立つようになり、以前は柔らかく丸みを帯びていた顔立ちに鋭さが加味され、顔色は白に近い乳白色になっていた。かつては肩まであった髪は流行に合わせて短く刈り込まれ、未だ黒く艶やかではあるのだが、額から頭部の中央を通して生えている幅1インチほどの帯状の分だけは、完全な白髪になっていた。これは天然痘が残したもうひとつの置き土産であり、その奇異は彼の容貌に、ある種の不吉な特徴を与えていた。

 顔の青白さを際立たせる黒い襟飾りを付けた、明るい青地に銀ボタンの並んだ軍服風のダブルコートを身に着けた彼は、独自の流儀によって世渡りをしてきた男、如何なる非常時にも対処する能力を備えた男、侮ってかかるには危険な男の沈着を暗示するような、静かで観察力の鋭い目をしてファロ・テーブルを動かずにいた。

 その静かな両眼は、落ち着けと命ずるようにプリジャンに定められていた。だがプリジャンは、鼻持ちならぬ士官に対する怒りで我を忘れているかのように、ラサールの視線を無視した。怒りに駆られた彼は先刻の要求を繰り返した。

「フォン・ヴァイセンシュタイン大尉、私は貴方に、この館を去るように要求した。即刻、お引取り願う、さもなくば、相応の報いを甘受してもらう事になるが」

「報いだぁ?」大尉はプリジャンの激怒を煽るように、小馬鹿にしたような嘲笑を浮かべて彼を見た。怒り狂ったプリジャンはクルーピエの熊手をひったくると、それで大尉の横っ面を打った。

 それは怒りの全てを込めた凶悪な一撃であった。したたかに打たれたヴァイセンシュタインはよろめいた。体勢を立て直そうとしながらも、彼はしばしの間、驚きで麻痺したように呆然とした状態で突っ立ったまま、顔面から血を垂らしていた。それから呪いの言葉を吐くと、彼はサーベルに手をやり、力まかせに引き抜いた。

 店の者たちが駆け寄って、危うい処で大尉から武器を取り上げ、そしてその瞬間、エレガントな部屋の静寂は一気に熊の巣穴の如くと化した。フォン・ヴァイセンシュタインは腕を押さえ込んでいる人々の間で猛然と抵抗し、フランスの泥棒野郎どもの隠れ家を叩き潰してやると誓い、その誓いは概ね果たされた。何故ならテーブルと椅子は叩き壊され、装飾品は切り刻まれ、窓は破られたからである。

 その騒音が巡回中の警官たちの注意を引いて、彼ら――巡査部長と四人の部下――は秩序を回復させるべく踏み込んで来たのだが、卑劣にもフォン・ヴァイセンシュタインが自分は金を騙し取られたと申し立てた為に、逮捕者は三名の外国人だけという結果になった。ヴァイセンシュタインの軍における階級が警官たちに服従を強い、免責特権を保証したのである。

 ラサールにしてみれば、これは大いなる災難だった。拘置所で一夜を明かした後、プリジャンと共に行政長官の前に出頭した彼は、フォン・ヴァイセンシュタインによって風紀を乱す賭博場を開いた罪で告発され、プリジャンに対しては、それに加えてプロイセン王国軍の制服を着た士官を襲撃した件について、より重い罪状の告発がなされた。

 あの場に居合わせた四名の客が温情を発揮して、フランス人たちを弁護する為に足を運び、最初の一発が出るに至った挑発行為について証言をしてくれたのも無駄に終わった。司法は賭博場自体については――よくある話として――見逃してくれるかもしれない、だが、其処が不穏な騒動の舞台となった場合には、何らかの対処が必要だった。その上これは、ティルジットの和約6の翌年、西暦1808年の出来事だった。ボナパルトはフリードリヒ・ヴィルヘルム7から領土の半分を奪い、プロイセンという国家に大恥をかかせ、破滅の縁まで追いやっていた。フランス人に対する感情は、プロイセンの行政長官が彼らの法律違反に寛大な対処をする気になるような性質のものではなかった。

 ラサールに課された途方もない罰金は、彼の所有する財産の限度一杯に相当する金額であったように思われる。それに加えて、彼は三ヶ月の投獄を宣告された。彼のパートナーであるプリジャンも同様に罰金を科され、フォン・ヴァイセンシュタインを殴った罪に対しては、城塞刑務所への一年間の投獄という判決が下された。くだんの女性に対しては、彼らは騎士道精神にのっとって自由放免を許し、自分たちが夫に下した判決の結果として彼女が落とし込まれた貧困を大いに楽しむようにさせたのであった。

 ラサールが投獄され、刑期を全て務め終えた後に釈放された場合、彼はどん底に沈んで二度と浮かび上がる事はなかったはずだ。だが、このベルリンにおいては少々事情が違った。彼は時折ヘルプストストラッセの館に遊びに来るプロイセンの若き議員と、かなり親密な友誼を結んでいたのである。この貴族の名前は、カール・テオドール・フォン・エンセ。レマン湖の嵐によってフランス王と共に非業の死をとげた、フォン・エンセ男爵の甥にして相続人だった。

 その事実だけで、ラサールと彼が行動を共にする理由の説明になるだろう。ベルリンにおける彼らの邂逅が偶然だったのか、あるいは、こちらの方が可能性としては高いが、ラサールが彼を探し出したのかは定かでないが、この若き議員は、伯父の失踪の謎を解明する事によって、甥である自分の正式な遺産相続を可能にしてくれた男に対して、借りがあると考えた。そしてまた、ラサールがフォン・エンセの唯一の葬送者であるという話がジュネーブにおいて確認され、自然な情として感謝の念を抱いたというのもあるだろう。ラサールが賭博場を開くにあたっては、フォン・エンセからの資金援助などがあったのではという想像も、大いに有り得る話といえよう。

 ともかくも、投獄の身という苦境にあったラサールが助けを請うた相手はフォン・エンセであり、そのフォン・エンセは、即座に彼の援助に駆けつけた。ラサールを救い出すに際しては、彼は絶好の立場にあった。何故なら彼は、単に議員というだけでなく、現状においてプロイセンの政治を実質的に動かしている人物、偉大なる政治家ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・ウント・ツム・シュタイン首相8からの信頼が厚く、ほぼ筆頭補佐の位置にいたのである。

 イエナの大敗9と、巨額の賠償金を全て支払うまでは、フランス帝国軍のプロイセン王国への駐留を認めねばならぬというティルジットの和約がもたらした痛手から、この国はフォン・シュタインの辣腕によって、秘かに再生されつつあった。火を噴くが如き愛国心に突き動かされた彼には一切のためらいも迷いもなく、ボナパルトにより失陥しっかんの憂き目に遭わされた祖国を衰亡の道より救うという目的の為ならば、手段については拘泥せず、その目的に寄与すると判断すれば、道徳的側面から恥とされる行為など存在しなかった。彼の祖国に奉職した者の内、目的は如何なる手段も正当化するという信念を、これほどまでに強く抱いた者はかつて存在しなかっただろう。疲弊した祖国に再び繁栄をもたらす為に労を惜しまず働く一方で、彼は誤りを正す為の国家的蜂起を静かに計画し、準備をし、既にスペインとの間では、時が熟せば互いに支援するという密約を交わしていた。ボナパルトによって課されたプロイセン陸軍の兵数制限は、交替要員という抜け道によって回避され、武器を持つ事が可能な全てのプロイセンの男たちを潜在的な軍人に変えるという効果を次第に発揮していた。

 ボナパルトの警察大臣にして、今や帝政フランスにおける最も力を持った人物である、ジョゼフ・フーシェ配下の密偵たちの鼻先で、フォン・シュタインは全てを着実かつ成功裏に達成していた。

 カール・テオドール・フォン・エンセは、祖国救済の為にフォン・シュタイン首相と共に秘かに活動しているプロイセン貴族の小集団に属しており、従ってフォン・エンセは、自分の友人であると同時に、ブルボン王朝の為に刻苦し尽力してきた者の一人であり、自動的に反ボナパルト派と見なして当然の男について、この国の全権を有する首相に寛大なる処置を要請できるだけの立場にあったという事になる。

 ラサールはすぐさま釈放され、罰金を免除され、そして今後は亡命先である国の法を尊重し、二度とベルリンで賭博場を開かぬ事を唯一の条件として財産も回復された。

 当然ながらフォン・シュタインは、一見して、いかがわしい生活を送る不逞の輩としか思えぬこの男とフォン・エンセとの交流の始まりについて不思議に思った。

「数多い他の亡命者エミグレについても、同じ事が言えないでしょうか?」フォン・エンセはそう問いかけた。「生計を立てる為に不本意な職に就いているフランス貴族は、ドイツの至る処にいるのではありませんか?彼らは革命によって全てを失うという不幸にみまわれた、気の毒な紳士たちです」このような形でフォン・エンセはラサールを弁護した。彼は更に言葉を重ねた。「この男は画家としての才能を有しております。私は彼の作品を幾つか見た事があります。去りにし日々、彼の希望と目標は、芸術によって身を立てる事でした。しかしながら、その道の困難は閣下も御承知の通りです。残酷な運命にもてあそばれていなければ、ラサールは今頃、宮廷画家として名誉を得ていたかも知れません」そしてようやく、ラサールのルイ十七世救出についてを語る段になり、これによってフォン・エンセが彼に同情を寄せる理由が完全に明かされたのである。

「ああ、そうだった」シュタインは言った。「以前、君がこの件について話したのは覚えている」そして彼はすぐに、全ての政治的事件の関連性を探る思考に没頭した。「あの時、私はこう言った――そうだったね?――その一連の出来事は、フランスにおいて強く信じられ、広まり続けている説の裏付けになる。ルイ十七世はタンプル塔から逃亡しており、彼の死に関する公式発表は捏造であった、という説の」

 考えにふけり、大きな椅子に背を丸めて座っている首相は、小柄で禿げ上がり、引き締まった体躯をした五十代の男性であり、血色の悪い顔には皺があった。それは注目に値する顔だった。顎のラインは長く、口はやや厳しい形をしていた。高遠な額、水平に位置する黒い眉、垂れ下がった大きな鼻は、やや突き出した鋭い両眼に挟まれていた。

 彼らはシュタイン邸内にある、白い羽目板張りの図書室で座っていた。高い窓は庭園に向けて開かれ、五月も下旬、今が盛りの木蓮により、生温い大気は芳しい香気に満たされていた。

 背を丸めて椅子に座っている彼は、心ここに在らぬ様子で口元を象牙色のペーパーナイフで軽く叩いていた。彼は再び語り出したが、それは静かに思いにふけりつつ、己の思考をそのまま声に出しているかのようだった。「その少年が生き残っていたならば、物事はどれほど違っていただろうな!ボナパルトがルイ十八世を国王に擁立する事はないだろうが、国民感情に逆らえず、ルイ十七世を国王に擁立する役を務めるように迫られていたかもしれない。タンプル塔の孤児みなしご。悔恨からの反動状態にある国民感情の集約点として、これ以上のものはあるまいな!」彼は幾分、底意地の悪い微笑を浮かべた。「かつては私も夢に描いて…」彼は突然言葉を切った。「だが、夢などに何の意味がある?政治を担う者の責務は常に現実と共にあり、目の前には現実が……」彼は言いかけたまま肩をすくめた。「そのフランス人の名前は何といったね?」

 フォン・エンセは説明し、フォン・シュタインはそれを書き留めた。「フラウエンフェルトには、すぐに手紙を書こう。君の友人、ムッシュー・ド・ラサールは、今日にでも自由の身になるはずだ」

 これで差し当たりの問題は片付いた。だが一週間ほどが過ぎてから、フォン・エンセが再び首相と同席する機会を得た際に、シュタインは突然、彼に尋ねた。「君の友人ラサールだが、彼は未だベルリンにいるのかね?」

「はい、閣下」

 シュタインはためらっているように見えた。彼は顎に手をやり、考え込んでいた。それからそっけなく告げた。「彼と話してみたいのだが」

「彼も大変名誉に思う事でしょう。面談の日程は、どのようにいたしましょうか?」

 首相の返答はなかった。彼はライティングテーブルに向かうと、其処に座り、そして引出から子牛革ベラムで装丁した非常に薄い本を一冊取り出した。「ここに、かつて私に夢を見させた原稿がある。フランス王国第一王女マダム・ロワイヤル、現在はアングレーム公妃となった、あの不運な少年ルイ十七世の姉が記した回想録メモワールの写しだ。これは彼女がタンプル塔で過ごした最後の週に書かれ、あの塔内における幽閉生活の全貌が記録されている。その後、彼女が流浪の身にある叔父のルイ十八世と共にミタウに滞在していた時期に、ロシアの密偵がそれを見る機会を得て、更に写しをとった。しばらく経ってから、その男は私のエージェントの一人にくだんの写しを売ったのだ。私はこれを、歴史的な重要性を持った知的好奇心の対象と見なしてきた。これが、いつの日か政治的に利用できるとは考えもしなかった。現時点においては、ムッシュー・ド・ラサールの物語を裏付けるのに利用できるという側面が興味の対象だが。彼に問い質す事によって、より多くの情報を、この回想録メモワールの記述を補足できるようなものを提供してもらえるかもしれない。それを終えてから、恐らく私は何らかの提案をするだろう。私が彼という人物を、慎重で、抜目なく、勇敢であると判断した場合に限るが。明日10時に、彼を私の許に連れて来てくれたまえ」

 フォン・エンセは早速使いの役目を果し、そして時間通りに翌朝10時、彼の被保護者を首相に引き合わせた。

 男爵フライヘアフォン・ウント・ツム・シュタインは自宅の図書室で彼らを迎え、銀のインクスタンドと昨日見せた子牛革ベラム装丁の本以外は何も置かれていないマホガニーの大きなライティングテーブルを前にして、高い背もたれの付いた肘掛け椅子に座っていた。しばしの間、彼の厳しく刺すような凝視が訪問者のやや風変わりな容貌を検分し、その青白く落ち着いた、輝きを放つ力強い両目と、豊かな黒髪の中にある奇妙な白い房に思いを巡らし、その衣装の落着いた品の良さについて考察した。そしてようやく、訪問者の顔に光の当たる位置に据えられた椅子を示した。

「どうぞ座りたまえ。君もだ、カール。同席してくれたまえ」

 それから、机上に置かれた肘と手によって部分的に顔が隠された状態で、首相は流暢なフランス語による自己紹介をした。

 ルイ十六世の不運な息子がフランスから脱出した際にラサールが果たした役割が、彼の興味を喚起した事を述べてから、首相はタンプル刑務所に関する詳細な質問に入った。その構造、塔内の配置、監禁中のルイ十七世の取り扱い、そして王の脱出及び替え玉とのすり替えに用いた策の詳細。それぞれの質問に対してラサールは、落着いた様子で、即座に、きっぱりと、そして細大漏らさず回答した。

 最後に彼は尋ねられた。「君は正確な日付を覚えているだろうか、君が話してくれた、かの君主が塔から逃亡した日を?」

「完全に。我が人生における、忘れ難い日付の一つです。あれは1794年1月19日でした」

 シュタインは頷いた。「うむ。一致している。その日のマダム・ロワイヤルは、弟が連れ去られようとしているという印象を抱いた。彼女は、自身とマダム・エリザベートが階下に聞いた、人の出入りする物音を根拠として、そのような印象を持つに至った。彼女は後日、その物音はシモン夫妻の退去によって生じたものであり、彼女の弟は十八ヶ月後に死亡するまで独房内に留まっていたと知らされた。そのように彼女は記録している」彼はラサールの確固たる眼差しが投げかける問いに答えて説明した。「だが、それは単に他者から聞かされた話を書き記したに過ぎず、彼女自身が直接目や耳にした事実に基づいていないのは明白だ。94年1月の、問題の日の騒音を最後に、彼女自身が記している通り、下の部屋からの物音は一切聞こえなくなった。その時までは、彼女の弟が遊び歌う様子は、毎日マダム・ロワイヤルの耳に届いていた。彼女が一切、これらの事実を挙げていないのは妙だ。ここには演繹的推理を用いる必要がある、私はそう考える。この静寂は、君が話してくれた聾唖の替え玉と完全に合致している」

 彼は95年夏のフランスからの逃亡に関する質問に移り、ラサールの答えによって全ての経緯を聞き出した。

 それからフォン・シュタインは熟考による長い沈黙に陥ったが、その静寂は突然、更なる質問を発する彼自身の鋭利かつ耳障りな声で破られた。

「ムッシュー・ド・ラサール、フランスの正統な王に対する君の忠誠心は、変わる事なく続いている、そしてブルボン王朝復活の計画に熱意を持ち、熱情すら持って協力してくれる、そう考えても良いだろうか?」

「ざっくばらんにお話しいたしますが、閣下、政治に対する興味は、フォン・エンセ議員の伯父上を埋葬した日に死にました。その時から今まで、自分の利益になる事だけに専心してまいりました」

「だが、上手くやりおおせているようには見えない。そしてどう見ても、価値ある人生ではない」

「閣下、人は誰も、己に可能な範囲のやり方で生きているのです。言い換えれば、それ以外にどうしようもない限界の中で」

「私は君に対して、もっと価値のあるものを提供できる。君の冒険心と魂にとって」

「それは御親切に、閣下。充分な報酬がいただける仕事ならば、喜んでお引き受けします」

「他に条件はないのかね?」その問いは鋭いものだった。

「それ以外に付けるべき価値のある条件を知りませんので、閣下」

「よろしい。それについては保証しよう」フォン・シュタインは椅子に深く座ると、指先を合わせてきちんと据え、それからゆっくりと、そして明瞭に語り出し、驚くべき提案を行なった。

「君も同意すると思うが、自らをフランスの帝位に就けた、あのコルシカ人によって、欧州全土は悪夢の渦中にある。奴の恐るべき野心は世界を修羅の巷と化したが、その中でも、私の祖国より酷い苦しみを味わう事になった国家は他にあるまい。ナポレオン信奉者ボナパルティスト以外の真っ当な考えを持つ全ての人間は、この荒廃の終わりを思って溜息を吐き、祈り、そしてこの状態を終結させる為であれば、如何なる手段も正当化されると考えている。如何なる手段もだ。フランス国民ですら、あの男の独裁体制による苦しみで怨嗟の声を上げ始めている。奴が要求する犠牲、奴が栄光と呼ぶものを追い求める過程で作り出される大量の孤児と未亡人たちによって、フランス人はボナパルトという男を、自分たちが自由の名の下に犯した罪に対して、神が与えたもうた罰と見なし始めている。はっきりと言おう、フランスはあの暴政に疲弊しつつある」彼は挑むような態度でそう言うと、ラサールがそれに応じるのを待つかのように、ひと呼吸おいた。

「お言葉を返すようですが、閣下」彼は静かに答えた。「フランス人はまだ、ボナパルトの代わりにルイ十八世を受け入れるほど疲弊し切ってはいません」

「残念ながら、それは事実だ。そして君は、今まさに、ブルボン王朝復活の主たる障害を指摘したという訳だ。人々の同情心を掻き立てたり、己の意志に従わせるような器量を持たないブルボン家の現当主に対して、ボナパルトは無関心であるか侮っているかだ。しかし、あの国を構成している感情的でヒステリックな人々――こう表現する事を許してくれたまえ、ムッシュー・ド・ラサール――が興味を引かれるようなロマンチックな人物、受難像の如き姿で思い描かれ、虐待から死に至ったと噂される王子ならば、彼らの良心をわずかなりと揺さぶる事が可能かも知れず、故に彼の再出現は安堵をもたらし、無残な過ちを正す願望を喚起するだろう。彼があのコルシカ人に匹敵する、大規模で熱狂的な崇拝者を獲得するのは難しくはないであろうし、それが成れば、ボナパルトを徐々に弱体化するのも不可能ではない。よしんば速やかな現政権転覆が成らなかったとしても、彼の存在によって、フランス本国には大きな政治的混乱が引き起こされるのは必定、その結果として、欧州は侵略戦争からの休息を得る事ができる。この上、更に版図を広げんとするボナパルトの野心に抗する態勢を整える為の、猶予を持てるのだ。私の計画に加わってはくれまいか、ムッシュー・ド・ラサール」

「閣下、そのお考えには全面的に賛同いたします。しかし残念ながら、あの湖で起きた事故は取り返しがつきません」

 かすかな微笑で首相の唇が引かれた。「彼は溺死してなどいなかった、と考えてみたまえ。彼はプロイセン、オーストリア、あるいはロシアに無事辿り着き、そして今、再び姿を現したのだと――あのタンプル塔の孤児みなしごが――己の正当な権利を主張する為にね、そう考えてみてはどうだね?」

「しかし、そう考える為には…」ラサールは突然言葉を切った。彼は男爵フライヘアの奇妙な発言に含まれた重大な意味を悟った。「わかりました。しかし、ルイ十七世役を準備するには……。エルバゴー10が98年にその詐欺を働いて以来、今までに、一体、何人の偽者が現れたでしょうか?」

「数え切れぬほど。だが、その役を演じ通すのを可能にする為に必要な知識を有した者は、一人としていなかった。誰も持ち得なかったのだよ、ムッシュー・ド・ラサール、君と私が握っているような知識はね」彼は象牙色の人差し指で子牛革ベラム装丁の本を叩いた。「エルバゴーとそれに続く者たちのような、無知であるか説得力を欠いた、お粗末な王位狙いが成し得たものは、適切な準備を整えた候補者ならば何を成せるかを測るのに充分だ」

 彼は身を乗り出し、その声音は活気づいた。「私が提案する仕事とはそれだ、ムッシュー・ド・ラサール。王の死の間際まで身近にあった故に得た詳細な知識によって、そして容易に旧交を温める事の可能な王党派との古いよしみによって、これは君だけに可能な仕事なのだよ。

「話を先に進める前に、質問しておきたい事がある。全人類に対する貢献であり、君個人にとっての幸運の源となる事業に、着手する心構えはあるかね?」

 ラサールは、あまりにも皮肉めいたやり口で誘われた詐欺の重大性に、自分は面食らい、憤慨すらしていると、言わずもがなの事を述べた。外見上は図り難い無表情を保ちながらも、彼は心中で何と言って断るべきかを考えていた。だが、拒絶を口にする前に、彼は一つの質問を発した。

「閣下、我々が肉屋の息子を、あるいはパン屋か仕立屋の息子を、フランスの王座に据えるのに成功するとお考えなのですか?其処に彼を置き残す事は、可能でしょうか?」

 男爵フライヘアフォン・シュタインの内面に刻み込まれた貴族主義は、その想定に対し露骨な嫌悪を示した。「とんでもない。偽者を用意する目的は、このような詐欺を永続させる為ではなく、単に現在の血に飢えた簒奪者の足をすくう道具として利用する為だ。一度ひとたび、我々のブルボン革命が達成されたならば、まがい物の操り人形を退場させて、正統な王を連れて来る。必然的展開だ」

 確かに、これならば問題は違ってくる。だがラサールの白い顔は、首相の探るような視線に対して未だ無表情なままだった。彼は更にもう一つの質問をした。

「その役を演じる男は?既にその人物を見つけ出したのですか?」

「まだ該当者を探してはいない。それについては、同様に君の手助けが必要だ」

「彼は黄色い髪に青い目、血色の良い肌、アーチ形の眉、ふっくらとした唇、小さい鼻、顎にはえくぼがあります。背が高いとは思いません。あの少年は、年齢の割に背が低かった。そして肉付きは良い方、あるいは肥満型かも。ブルボンは肉付きの良い血統ですから」

「それは、君の答えと受け取って良いのかね、ムッシュー・ド・ラサール?」

 ラサールは、より明瞭な覚醒状態に己を奮い起こそうとしているかのようだった。彼は物憂げな笑みを浮かべたが、その中にはこの年月の間にいつしか混入した、ある種の狡猾さが含まれていた。「これは性急に着手できるような計画ではありません、閣下。少し考える時間をいただけませんか」

「よろしいとも。そして、これを役立ててくれたまえ」彼はラサールに、子牛革ベラム装丁の回想録メモワールを差し出した。「それを持ち帰って熟読するのだ。その中にある詳細な記述が、君の持つ知識に極めて重要な情報を加えてくれるだろう。それから再度、私の許で話をしようではないか」

 ラサールが再びやって来たのは三日後の事であり、彼は今回もまた、この会見の静かな立会人を務めるフォン・エンセに同伴されていた。一枚の絵が入った書類入れを持参したラサールは、それをフォン・シュタインの前に置いた。

「閣下、これは計画に相応しい男を捜す助けになるはずです、外見に関する限りですが」

 その絵には、天使のような顔が描かれていた。それはクシャルスキの筆になる有名な肖像画と非常に似ており、二つを並べて見た人間は、両方ともが同じ作者によるものと判断したかもしれない。

 フォン・シュタインは腕を真っ直ぐ伸ばしてそれを持ち、もっと良い光の中で検分する為に立ち上がった。「これは君が描いたのか?」

「はい、閣下」

「私は芸術的価値について論評するつもりはない。だが、この絵は私にとって明らかに役立ってくれそうだ」

「既に御説明申し上げましたが」とフォン・エンセが言った。「ムッシュー・ド・ラサールは画家なのです」

「自分自身の選択した職業はそうです」とラサールが言った。「ですが必要に迫られて、それ以外の様々な職をこなしております」

 フォン・シュタインは頷いた。「これは記憶だけを元に描いたのか?」

「ほとんどは。しかし、驚くような事ではありません。この肖像画は、かつて非常に気を入れて描き、更に何枚も複製を作ったものなので、十五年経っても忘れる事はできませんでした。その上、自分の画帳を未だ保存しておりますので。その中の一つには、閣下にお話しした例の日に、タンプル塔内で描いたスケッチがあるのです」

 フォン・シュタインは肖像画を置くと、ラサールの目を見つめた。「これは、君が計画に加わる覚悟ができているという意思表示かね」

 ラサールは軽く一礼した。「閣下の御為に、問題の役を演じられる男を探し出すのに必要なものは、全て提供いたします」

「必ず適任の者を見つけるぞ。安心して任せたまえ。君の言う通り、これは我々の捜索の助けになるだろう」そう言って引き結んだ薄い唇は、例えヨーロッパ全土を虱潰しに探し回る事になろうとも、必ずや目的に適う人材を見つけ出すと確約しているように見えた。

 後世の我々にも良く知られる、男爵フライヘアフォン・ウント・ツム・シュタインの人物像から判断すれば、彼が断固として目的の人材を探し出したであろうという事には疑いの余地はない。彼に行動の自由が許されていたならば、であるが。だが、五日後のある晩、蒼白になり、動揺した様子のフォン・エンセは、酷いニュースを土産にラサールの宿を訪れた。偉大なプロイセン首相は、フーシェのスパイ活動の巨大な蜘蛛の巣に絡めとられた。彼の密使は途中で捕えられ、秘密同盟を示す文言が含まれた、プロイセンが力を強めつつある現状を誇示した内容のスペインに宛てた親書11が奪われてしまったのである。プロイセン王に対しては、フォン・シュタインのフランス司法への引き渡しが要求されており、そしてフォン・シュタインは既に祖国から脱出していた。もしもナポレオンの手に落ちれば、彼の死は確実である。フォン・エンセ自身も荷物をまとめていた。このまま留まって、フォン・シュタインの陰謀に占めていた役割が明るみに出た場合、恐らく彼は銃殺隊に直面しなければならないだろう。

 そして途方もなく莫大な報酬が待ち受けているように思えていたラサールが手に入れた唯一の褒美は、マリー=テレーズ・シャルロット・ド・フランス、現アングレーム公妃によって書かれた回想録メモワールの、子牛革ベラム装丁の写本だけだった。


  1. ナポレオン・ボナパルト(1769年8月15日 1821年5月5日)
    コルシカ島の貧乏貴族の息子として生まれ、フランス革命戦争の動乱期に天才的な軍事指導者・政治家として出世を遂げた。クーデターにより総裁政府から政権を奪取、執政政府の第一執政として事実上の独裁権を握った後、1804年に「フランス人民の皇帝」に即位した。 

  2. チャールズ世(1630年5月29日 1685年2月6日)
    清教徒革命により斬首刑に処されたチャールズ世の息子。革命勃発前の1646年に英国を脱出し亡命生活を送る。クロムウェルの死後に復古王政の国王として帰国。イングランド及びスコットランド、アイルランド王として即位した(在位1660年5月29日 1685年2月6日)。 

  3. アルベマール公ジョージ・マンク(1608年12月6日 1670年1月3日)
    イングランドの貴族・軍人。イングランド共和国末期の混乱を収拾し、王政復古を実現させた功によりアルベマール公爵に叙された。 

  4. フランスを起源とするカード賭博。複数のプレーヤーがバンカーの引くカードを当てるもの。 

  5. ポーランド軽騎兵。ランス、サーベルや小銃などを装備した。 

  6. ナポレオン戦争中の1807年7月に、東プロイセンのネマン川沿いの町ティルジットで結ばれた講和条約。この和約によりプロイセンは大きく国力を削がれ、フランスとロシアとの間には協調関係が成立した。 

  7. フリードリヒ・ヴィルヘルム世(1770年8月3日 1840年6月7日)
    プロイセン国王(在位1797年11月16日 1840年6月7日)。浪費や猟色とは無縁の質素で家庭的な王であり、消極的な性格で軍事面の才能にも欠けていたが、宮廷には多数の有能な人材が集った。 

  8. ハインリヒ・フリードリヒ・カール・フォン・ウント・ツム・シュタイン(1757年10月25日 1831年6月29日)
    プロイセン王国首相(在任1807年10月 1808年11月)。ティルジットの和約以後、領土・人民ともに半減し国力の衰えたプロイセン復興の為に、農奴制廃止、土地売買の自由、職業選択の自由等の徹底的な改革を断行。更に都市条例による市民自治の導入、営業の自由、軍制改革、行政機構改革、教育改革等、プロイセン王国の近代化を推し進めた。 

  9. 1806年10月14日、ドイツのテューリンゲン、イエナおよびアウエルシュタットにおいて、フランス帝国軍とプロイセン王国軍の間で戦闘が行なわれた。ナポレオン自ら主力を率いてあたったイエナにおいては、プロイセン軍を壊滅状態まで追い込む完全勝利を収めた。同じ頃、アウエルシュタットの戦いにおいては、ダヴー元帥率いる第三軍団が兵数二倍のプロイセン軍を相手取って二倍の損害を与えるという、世界史においても稀な勝利を収めている。この戦いにおける大敗の結果、プロイセン全土がフランス軍に制圧された。 

  10. ジャン=マリー・エルバゴーはノルマンディーの仕立屋の息子であり、1796年9月に家を出て以降、詐欺行為を働きながら各地を転々とし、数回の投獄を経験した末に「タンプル塔から脱出し潜伏していたルイ十七世」を詐称して世を騒がせた。マトゥラン・ブリュノー、バロン・ド・リシュモン、カール・ヴィルヘルム・ナウンドルフ等、その後数多く出現する「偽王太子」の第一号と言われている。 

  11. プロイセン王国首相フォン・シュタインは、表面的にはナポレオンに従いつつも水面下ではオーストリアと連携し、北ドイツの民衆蜂起及び期を同じくしたスペインの蜂起を画策していた。しかし1808年8月、スペイン宛の密書がフランス帝国の手に渡り、フランス政府の官報『モニトウール・ユニヴェルセル』に全文転載される。ナポレオンから「フランス及びライン連合の敵」と宣言されたフォン・シュタインは国外逃亡を余儀なくされた。 

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