The Lost King 失われし王 ルイ=シャルル(上)

二 男爵ジャン・ド・バッツ

 十月同日の夜、アルマンチュー男爵ジャン・ド・バッツは、ショワズール公爵邸オテル・ド・ショアズール 1の裏、メナール通り某所にある、豪奢だが落ち着いた部屋で書きものにいそしんでいた。彼はカーテンを引いて蝋燭の明かりで作業しており、室内では暖炉に赤々と火が燃え盛り、丸太に混じった松毬まつかさの発する芳香が漂っていた。

 この驚嘆すべき人物、当時のヨーロッパにおいて、最も果敢に王党派を利する為の活動をしていた男は、秘密工作員としては類を見ぬ豪胆を備えていた。彼はまるで、危険に備えた用心というものをいさぎよしとしておらぬように見えた。己の正体をベールに包む手間などめったにかけずに、彼はいつであれ必要とあらば、身をさらした状態で何処にでもおもむき、焼けた石炭の上を涼しい顔をして裸足で歩く者のように危険な場所に踏み込んだ。

 己の身が罠網で包まれた時、余人ならば半狂乱になるか無駄に足掻き苦しむであろう処を、ド・バッツは黄金のはさみで静かに網を切り、するりと通り抜けるのである。これほどまでに賄賂の使い方を熟知した者は他におらず、これほどまでの大規模に買収という手口を駆使した者も彼より他にはいなかった。潤沢な黄金とは別に、彼には自在に供給可能な共和国紙幣が無尽蔵にあったが、それはシャラントンで秘密裏に稼動している自前の印刷機で刷られたものであった。この偽札は、彼に無制限の資金力を与えただけではない。紙幣価値の恐ろしいまでの暴落を加速する事によって、王党派の目的に貢献したのである。

 彼の間者は到る処にいた。公安委員会の全議事録は、彼と内通しているセナールという秘書によって即座に漏らされていた。そして革命裁判所を唯一の例外として、彼の便宜を図るように買収された役人がいない政府の部署は存在しなかった。にもかかわらず、ルイ十六世の命を救わんとした企て、そして後日に試みられた王妃と御子たちをタンプル塔から救出せんとする企てが成功裏に終わらなかったのは、彼には予測不能の障害をもたらした運命の悪意によるものだった。これら一連の計画を企てたのが彼である事は判明しており、他にも共和国政府に対して死刑相当の様々な罪を犯していたにもかかわらず、ほとんど捜索もされず、自由に活動を続けられたという事実、それは己の身を守る為に彼が駆使した財の力を示す充分な証明となるであろう。

 彼の風采はといえば、中背で姿勢の良い、凛然たる美丈夫であり、鼻と顎は押しが強く、目は生気に満ちていた。今、彼はコートとベストを脱いで、フリル付きのシャツと黒いサテンのぴったりした膝丈キュロットという姿で座っており、その艶やかな黒髪は、過激な平等主義サンキュロティズムがはびこる以前と変わりなく、下げ髪を垂らすスタイルに整えられていた。

 時折、棚の上に置かれた鍍金オルモル時計に目をやりつつ、彼は書きものを続けていたが、それも予期していた物音に遮られるまでだった。年配の使用人ティッソが、市民ラサールを案内してやって来たのであった。

 ド・バッツは椅子に座ったまま半身をひねると、訪問者に向き合った。

「遅かったな、フロランス」

 ラサールは、その強健な痩身にきっちりと着込んでいた暗緑色の乗馬コートのボタンを外した。彼は円錐コニカル帽を脱ぐと、長く伸ばした犬の垂れ耳アン・オレイユ・ド・シアンスタイルの艶やかな黒髪を振り出した。

「随分と長い尋問で、最後までは立ち会えませんでした。ダヴィッドは、終わりまで待ってはいられなかったんです。夕方の議会は反革命容疑者法2についての議論なので、我らがリュクルゴス3は自分の席に着いている必要がありましたから。エリザベート内親王マダム・エリザベートが奴らの汚い手で取調べを受ける直前に、俺はダヴィッドと一緒にあの場を離れなければなりませんでした。なにせ、彼の引き立てのお陰で、随行者としてタンプル塔に潜り込めただけの立場なので」

 彼には物憂げに、ゆっくりと話す癖があったが、それには至極抑制された話しぶりの中にも、冷笑しつつ半ばおどけたような調子をもたらす間延びした発音が伴っていた。そのような話しぶりが、無遠慮で図太そうな青白い顔や力強い口に組み合わさると、笑みを浮かべても余計に皮肉めいて見えるだけであった。

「何があった?」ド・バッツが尋ねた。

「思いつく限り最低な、底の底というのを想像してみてください、それでも、あの紳士方の反吐が出るような作り話までは届かないはずですよ」彼は胸がむかつく思いで、タンプル塔で目撃した一部始終を詳細に説明した。「あの少年は、自分が何を話しているのか理解していなかった。あれは丸暗記するように仕込まれた話で、あの子の判断力は鈍らされていたんです。尊大で我が強く、言う事だけは威勢のいい、大人の男の猿真似。あの悪党どもは、あの少年が用済みになる前に、精神を完全に腐らせてしまうつもりですよ。それから、あの少女。連中の汚い手が穢れない純真のベールを引き裂いた時、あの娘は持って生まれた性質を根こそぎ変えられるような衝撃を経験したはずです。激しく苦悶しながら、彼女はあの不幸な少年に向かって怒りをぶつけていた。本当に酷い光景でした。子供たちが、あんな風に利用されるのを見せられるとはね!」彼は懐中から画帳を取り出した。「多分、この時の強い感情が、ダヴィッドがいつも俺に欠けていると言う天啓をくれたんだと思います」彼はド・バッツの前に、開いた画帳を差し出した。「如何です?」

 しかし深い思いに沈んだ男爵は、ラサールの絵に目を向けなかった。

「この不快な手口はエベールだな。奴は王妃を確実に断頭台ギヨティーヌ送りにする必要に迫られているのだ」

「殺すだけじゃ足りないんですか?寄ってたかって、あの女性に泥を塗りたくる必要が、何処にあるんです?神は眠っているんですか?」

「神?神に何の関係があるというのだ?」男爵の抑制された声には、悲壮な嘲りが含まれていた。「これまで神に向けられた最も悪質な侮辱は、神が自らに似せて人間を創ったという主張だ。人間!悪意に満ち、貪欲で、偽善的なる人間、悪の攻撃に対しては、あらゆる点で隙だらけの存在だ。さあ、真実を直視したまえ、フロランス、君がまだ若いうちにね。そうすれば君は多くの過ちを犯さずに済むはずだ。人間の本性は、善ではないのだよ」

 ようやく彼の視線はスケッチの上に落ち、たちまち其処に釘づけになった。彼は首を振った。「悲劇的な絵だ。哀れな御子よ!」

 ラサールは己の画業を披露する誇らしさのあまり、その悲劇を意識の外に置いていた。彼は描画の持つ力に関するダヴィッドの称揚を引用し、雄弁な描線を指摘して、それに比べれば元になった現実の苦しみなど取るに足りぬものであるかのように語った。熱弁は無駄に終わった。何故ならば、ド・バッツにとって重要なのは、その肖像画によって伝えられたものであり、それを伝えた手段ではないからだ。

 その痛ましい絵に描かれている、陰険な表情によって半ば隠された少年らしく愛らしい顔が、彼を強烈に揺さぶった。

 彼は突然、熱情の突風がほとばしるように語りだした。

「神、我を助けたまう。如何なる犠牲を払おうと、例え我が手でタンプル塔の壁を崩さねばならぬとも、私は必ず、あの御子を救い出す。フロランス、これは君の助力にかかっている」

 ラサールの目は丸くなった。彼の唇は怪しむような形になった。「それは難しいでしょう」

「そして危険だ。往々にして、成すべき価値のある事というのは、そのどちらかであるか、あるいはその両方であるかだ。だが、困難や危険は少ないに越した事はない。君を当てにしても良いだろうか?君は問題の場所を知っている。先刻まで其処にいたのだからな」

 ラサールは豪胆な性分であったが、しかし無謀ではなかった。彼は冷静で論理的、そして感傷とは無縁の男だった。男爵の密偵頭の一人として、既に彼は大胆かつ熟練した仕事振りを見せていた。任務の遂行を可能にする為に、急進的共和主義者ダヴィッドの生徒兼助手である彼は、これみよがしに進歩的かつ活発な革命家として振舞ってきた。彼はジャコバン・クラブとコルドリエ・クラブに加わり、コミューン議会の選挙に当選して、自分の自治区セクシオンの代表として議席を得てもいた。これにより、彼は情報源を直に観察していたのである。そのようにして情報を探った彼は、何らかの国家的重要性を帯びる可能性のあるスケッチの作成を口実にして、自分をタンプル塔に同行させるようにとダヴィッドを説き伏せる事に成功したのであった。

 しかしながら先程の申し出は、絶望的に危険であるのみならず、破滅が運命づけられているように思えた。彼はためらい、眉を寄せた。

「成功の可能性がゼロでないのなら、協力するのにやぶさかではないのですが」

「よろしい。この問題を可能にする話をしようではないか」

 夕餉ゆうげの席で、彼らは更にそれについて論じた。ド・バッツと食事を共にする為に、つまりは急騰している食料品の法外な代金を支払う余裕がある者の物惜しみしない食卓を目当てに、ラサールは留まったのである。革命家や観念論者イデオローグや利己主義者に、富の公平な分配という約束で騙された不運な民衆が得たもの、それは窮乏と飢餓だった。無論、貧困者の為には給付金が用意されていた。国家の減衰にはつきものの制度である。それは自治区の会合に出席すれば得られる事になっていた。だがそれは、一週間に、たったの40スーにしかならないのだ。パンが1ポンドにつき30フラン、そして専制政治の時代には一瓶が8スーだったワインは今や20フラン以下では買えないというのに、40スーが何の足しになるというのか?パレ・ロワイヤルのレストランは繁盛していた。劇場と賭博場には常連客が通っていた。革命の恩恵を受けた者たちは裕福になり、たらふく飲み食いしていた。だが、専制君主の支配という溝から救い出されたはずの民衆は、専制君主が玉座にいた時代には想像もしなかった悲惨の深淵にはまり込んでおり、彼らがその軽信性によって己の目隠しの結び目を自らの手で固くし続ける限り、この国の状態は変わりなく続くだろう。

 それについて、ド・バッツは以下のような表現を用いて示唆した。「私の計画が成就せぬ限り、自分が食いものにされている事にすら気づかぬ愚か者たちは、偽善的な標語を頭に詰め込まれ、空っぽの胃袋を抱えて、正気に立ち返る事もかなわぬままだろうな」

「それで思い出しましたが」ラサールは告げた。「明日の夕食代を持ってないんです」

「君が私を訪ねて来る時は常にそうだろう」

「おっと、貴方を訪問する時に限った話じゃありませんよ。ほとんど素寒貧すかんぴんなんです。ブーツには穴が開いたままだし、他にも…」

 男爵は彼の言葉を遮った。「君には一週間前に千フランを渡したはずだが」

「千フランぽっちが何になるんです?アシニャ4の価値がどんどん落ち続けてるのは、御存知でしょう?この御時世じゃ、千フランは金貨一枚の価値もないんですよ。それに」と彼は物憂げに言った。「貴方の刷った紙屑が流通の中に入り込めば、その分、革命政府の財政破綻が進むんじゃありませんか?」

「君は常にもっともらしい科白を吐く。しかし、私は金の事だけを考えている訳ではない」厳格に、刺すような視線が、当惑の滲むラサールの顔に向けられた。「時折、判断に迷うのだが、君は大義の為に働いているのかね?それとも私から受け取る金の為に働いているのかね?」

 ラサールは微笑まずにいられなかった。「愚問ですね!その両方の為に働いてるんですよ。はっきりさせておきましょう。貴方の金なしじゃ、俺は生きていけませんよ、なにせ、革命に身ぐるみ剥がされましたんでね。俺が相続するはずだった地所も、奴らが伯父の首をはねた時に没収されました。俺が金で動く人間だと判断するなら、どうぞ御自由に。それだって、俺を信用する根拠としては充分なはずですよ。俺は王党派の為に働かなきゃならない。何故なら、俺が自分の土地を取り戻せるかもしれない唯一の希望は、君主制の回復にかかっているんだから。それが上手くいかなかったら画家になるしかない。ダヴィッドからは、俺には芸術家になる為に必要な深い洞察力が欠けているって言われてますがね。無秩序社会には画家の生きる場所はありません、ジャック=ルイ・ダヴィッドみたいに、野外式典の総合演出を仕切るような能力があれば別ですが。如何です、俺の現在と未来、両方とも同じものを頼みにしているのは明白でしょう。この点に関しては、疑う必要はないはずですよ、俺の道徳的な美点は信じるに足らないとしてもね」

「なるほど、君は率直だ。そして無情だ。その若さにしては不思議なくらいに無情だ」

「速く歳をとるんですよ、この腐敗の温床に住む人間はね。そして無情になるんです。しまいにぺてん師エスクローになって金をせびるのを恥とも思わなくなる、俺みたいにね。ブーツに大穴が開いてる時に、自尊心が何の役に立つっていうんです、ジャン?」

 そのブーツを直す為に、その夜、男爵は彼に偽造紙幣の束ではなく、本物の金貨をひと握り与えた。男爵は、それについては皮肉っぽくも率直だった。

「君は今や、軽々けいけいに危険にさらすには貴重過ぎる身になってしまったのだ、フロランス。偽造したアシニャを所持するのは危険だ、それが私の印刷機で刷った出来の良いものであってもな。タンプル塔から救い出さねばならぬ少年がいる。この任務は君が考えている以上に、君の為にあるような仕事だ。君も理解しているように、来るべき王政回復の時に備えて国王を護る事は、宮廷画家となる為の最も確実な道なのだから」

「シャルロットの籐籠5の中に俺の頭が転がり落ちていなければね」ラサールは金貨をポケットに入れた。「どちらの道かはコインの裏表みたいなものですから。行動方針が決定したら、すぐに知らせてください」

 しかしながら――作戦展開の――決定に到達するまでに、ド・バッツは三ヶ月を要した。その間に、不幸な王妃は元々の罪状に加え、実の息子が意図せずして告発者となった複数の余罪で起訴されて、詮議が始まる前から既に決定済みの有罪判決を下された末に、革命広場プラス・デ・ラ・レヴォリュシオンへと荷馬車で運ばれていった。そしてサントノレ通りに面した窓から見物していたダヴィッドは、名人技による素早く、恐ろしく、冷酷な筆さばきによって、今日こんにちの我々にも良く知られている、かの女性のスケッチ6を作成したのであった。彼はルーブルの北分館にある自分のアトリエにそれを飾り、特にラサールに対して、その妙技を手本として示した。

 依然としてラサールは、タンプル塔で描いた三つのスケッチを基にしたルイ十七世の肖像画に取り組んでいた。そして、ようやく描きあがったものは、クシャルスキ7が約十八ヶ月前に描いた肖像画と非常に良く似ていた。ダヴィッドは、それを単に出来の良い職人芸に過ぎぬと決めつけて酷評したが、それはいささか厳し過ぎる評価であったかもしれない。その絵は、モデルとなった人物の特徴を非常に良く捉えていたのだ。師匠を満足させる為に、ラサールは更に大きなカンバスに描き直したが、それは前作にも増して型にはまりきった出来であった。

 其処には、ダヴィッドがラサールによるスケッチの一枚に見出して彼のねじくれた心を大いに喜ばせた、あの陰険な薄ら笑いは失われていた。しかしながら、いくら師が辛辣な嘲りを浴びせようと、彼の弟子がその肖像画の中に、あの邪悪な攻撃性、少年の顔に浮かんだ一瞬の表情を完全に再現する事はできなかった。ラサールは再度、今度はほぼ細密画ミニアチュールに近い小品を試してみた。彼はその一つの主題に取り組む事に三ヶ月の大半を費やし、目隠しをしたままでも小さな国王の肖像画を描くのが可能なまでに、全ての線と面を記憶するに至った。

 ある日、彼はそんな日常が、たまらなく可笑しくなった。世界が激動し、国境には他国の軍隊が押し寄せ、テュイルリー庭園の向こうではギロチンが日々の刈り入れにいそしんでいるというのに、自分はといえば、絵に描かれた顔や、彼の欠点についてくどくど不平を並べる師匠について思い悩んでいるのだから。

 ド・バッツから行動開始の連絡がようやく届いたのは、そのような時だった。


  1. ルイ十四世時代の財産家アントワーヌ・クローザの大邸宅。クローザの孫娘との結婚により、エティエンヌ=フランソワ・ド・ショワズール公爵の所有となった。 

  2. 1793年9月17日国民公会にて採択。「反革命的行動」という曖昧な罪状による恣意的な告発を可能にし、恐怖政治を加速させた。ダヴィッドは保安委員会の委員として300以上の政治犯の逮捕状に副署している。 

  3. スパルタの伝説的立法者。 

  4. 革命期のフランスで使用された紙幣。本来は公債券だが、正貨が不足していた為に通貨として流通された。革命期のハイパーインフレの原因のひとつ。アッシニア。ちなみに通貨単位が正式にフランに改められるのは1795年になってから。 

  5. 斬首刑後に死刑囚の頭を入れる為の柳籠の俗称。 

  6. ルイ・ダヴィッド作『Marie Antoinette conduite à l'échafaud 処刑台に向かうマリー=アントワネット』オリジナルはルーブル美術館所蔵。(作者のJacques Louis David は1825年没につき本画像はパブリックドメインである)Marie Antoinette on the Way to the Guillotine 

  7. アレクサンドル・クシャルスキ(1741年3月18日 1819年11月5日)
    ポーランドの肖像画家。マリー=アントワネット専属の画家となり、当時の王族の肖像を多数手がけている。代表作『Louis Charles, Dauphin de France』『Marie Antoinette au Temple』 

三 市民ジョゼフ・フーシェ

 ド・バッツとラサールの共謀の結果として、革命暦第雪月ニボーズ初旬――キリスト紀元でいえば、1793年12月の終わり近く――のある日、この美術学生は、サントノーレ通りの薄汚い建物の四階まで階段を登る事となった。愛想は良いがやつれた面持ちの若い女性がノックに応えてドアを開けると、彼は市民議員ジョゼフ・フーシェ1は御在宅でしょうかと尋ねた。

 予定された作戦の足がかりとなる人物として、ド・バッツはショーメットに狙いを定める事に決めたのだが、丁度、それと時を同じくして、ジョゼフ・フーシェが突然、派遣議員として共和制徹底の任務に従事していたニヴェルネー州から帰還した。フーシェは、ロベスピエール2によって矛先を向けられた、彼の節度に関する嫌疑から己を守る為にパリに戻ってきたのである。

 この予想外の帰還とその状況から、ド・バッツは自分たちの目的にとってはフーシェの方がより有益であろうと判断するに至った。彼は既に、この男の経歴を観察し、その背景を調べ上げていた。

 教職の為にオラトリオ会3で学んだフーシェは、七年の間、オラトリオ会所属の学校で教鞭を執っていた。ニオールで数学、ヴァンドームでは論理学を教え、1783年にアラスで物理学講師を任されて以降は勤勉に奉職を続けていた。気体静力学の研究には熱心で、1791年にはナントで気球の上昇実験を行って、周辺住民を驚きと恐怖で震え上がらせた事もあった。92年に結婚したが、これを期に教会関連の全ての職を断念し、既に拝命していた赴任先を辞退する事となった。政治の為に教職に見切りをつけると同時に、彼はロワール地区代表として議員選挙に立候補し、当選した。つまりこの男は、とド・バッツはラサールに解説した。まさに日和見主義者中の日和見主義者、信念なき男、常に状況の使用人、そして常に勝利の側にいる可能性が高い人物でもある。何故ならば、その卓越した知性と狡猾さによって、彼は常に勝者を予測する事が可能であるからだ。状況が故王に対して寛大な方向に傾いていた時、フーシェは国王助命の論拠を反論し難いものとして受け入れていた。議論の大勢が逆方向に大きく傾いた時、フーシェは国王死刑に票を投じる以外に選択の余地なしと判断した。西国における彼の任務4は比類ない無慈悲をもって始められたが、その方針は己の栄達には無慈悲が必須であると彼が判断していた期間、継続された。革命思想を持つ者たちの多くを混乱せしめた狂信、野蛮、臆病とは無縁な明晰な頭脳が世論は虐殺に吐き気を催し始めているという兆候を察知すると、フーシェは節度ある方針に転換した。そして彼は更なる炎と流血を抑制する一方で、依然として無慈悲な方針を要求してくる――世論の変化を認知するに敏ではない――政府に対しては、炎と流血に満ちた報告書を送り続けたのである。

 だがロベスピエールは容易に騙されたりはせず、覇権を掌握する兆候を見せた全ての人間に対して目を光らせるのと同じく、綿密に、油断なく、フーシェを監視していた。何故ならば、フーシェは既に、その活動によって声望を得ていたからである。彼の知的能力は信頼を獲得し、その後追いをする派閥は人数を増し続けており、アナクサゴラス・ショーメット――この男自身が大衆の偶像アイドルである――がその筆頭となっていた。

 ロベスピエールは、フーシェの中に自分を追い落とし得るライバルの可能性を認知したのみならず、私怨に類する動機というのも別に持っていた。革命以前、アラスにおける教職時代に、このオラトリオ会士とかの弁護士との間には交友関係が結ばれていた。フーシェは彼に金を貸した事もあった。だが、それによって、フーシェが自分の妹と結婚する約束を反故にしてアラスを去ったという事実を水に流すのは、ロベスピエールにとっては難しい事だった。フーシェは既に彼女を誘惑していたのではないかと疑われていた。しかしながら、恐らくそれは邪推であろう。何故ならば、フーシェが道徳観念や他の諸々に左右される事なく知的判断を優先するのは、その並外れて禁欲的な性質が付随する冷徹な精神によるものであったからだ。

 それらに加えて、かつてのオラトリオ会士、今や名うての無神論者である彼が、派遣議員としての自分の任務は担当地域の脱キリスト教化であると認識していた点も問題であった。彼はショーメットと共に理性レゾンの女神5をでっち上げ、祭儀を敢行していたのだが、それは理神論者デイスト6ロベスピエールにとっては不快極まりないものだったのだ。

 ショーメットから、君の頭上にいきなり雷が落ちるかもしれないぞという警告を受け取ったフーシェは、自分の足をすくおうと画策する連中と対決する為に、すぐさまパリに向かった。

 フーシェは単に彼らの質問に答えたのみならず、大仰な巧言を用いたもっともらしい弁論によって彼らを納得させ、少なくとも一時的には圧倒した。そしてまた、彼は議論よりも雄弁なものを持参していた。彼は議会の床上に、夥しい量の金銀を山と積み上げたのである。十字架、聖杯、聖パン皿、聖体容器、燭台等々、西国の教会から没収した品々と、マザラン公爵家の冠7のような飾りもの。そして彼は表明した。この品々は全て、共和国の為に戦った人々がブーツとパンを買えるように、熔解して現金に変える為に集められたのだと。

「我々にとって、うってつけの人材だ」ド・バッツは、そうラサールに語った。「当人も自覚しているように、彼は危険と困難の状況にある。彼は来たるべき変化を察知し、明確な意思表示を先延ばしにし過ぎる危険性も理解しているが、それでも時期尚早な行動は危険であるとも考えている。現状において、あの男にできるのは、事態を見極め、武装して待つ事だ。彼は提供される武器を拒まないだろう。そして彼の知性は、我々の申し出る武器の力を高く評価するはずだ」

 そのような訳で、ラサールはサントノーレ通りにある建物の階段を登り、くだんの派遣議員が居住する粗末な一人部屋に入る事となった。ベッドが押し込まれたアルコーヴは、一室と数えるには無理があった。にもかかわらず、フーシェの妻は其処を別室として扱い、その中に引っこむと境目にぼろぼろの仕切りを置いた。

 これでラサールはフーシェと二人きりになったと見なすべきなのかもしれないが、しかしむずかって泣き、咳き込んで息を切らす病んだ子供をなだめている女市民シトワイエンヌの様子は、嫌でも伝わってきた。

 派遣議員は既に、通りを見下ろす二つの汚い窓のうち、片方の傍らに立っていた。それまで書きものをしていたノートは閉じられていた。立ち上がって待つ彼は、長身で痩せぎすの神経質そうな人物であり、赤味がかった髪をしていた。髭のない面長の顔は、これほどやつれて蒼ざめていなければ、個性的な魅力のある容貌と言えたかも知れない。それは元教師の実年齢である三十三歳よりも、ずっと年がいった男の顔だった。目蓋の垂れた、眠たげな色素の薄い目には、何処か不吉でひやりとさせるものがあり、薄い一文字の口からは、感傷に流される事のない知的な人物であるのがうかがえた。

「私に御用だそうですね、市民シトワイヤン?」彼の態度は冷ややかで礼儀正しく、声は細かった。雄弁の才を要求される政治家でありながら、彼には元々、弱い喉という不利があり、更に昨日の議会では大いに喉を酷使させられて、未だ充分に回復していなかった。

 この重要人物を尋ねて辿り着いた先が予想外にむさ苦しい環境だった事に動揺していたラサールは、我に返ると帽子を脱いで一礼し、あらかじめ良く考えていた自己紹介をした。

「幸いにも、昨日の議会での貴方について耳にしまして、生粋の共和主義精神に対する敬意と、心ある市民が皆、どのように感じているかを――自由の破壊者と戦う我々が、貴方のような断固たる闘士を擁している事を非常に心強く思っているとお伝えしたく、駆けつけました」

 フーシェは一瞬の間、謹厳に彼を見つめた。それから「それを、どうしても伝えたかったという訳ですか、市民」と言い、更に「その為に、わざわざ四階まで階段を登ってきたと」と続けた声音には、疑念が含まれていた。

 ラサールの微笑はすまなそうなものになった。「もうひとつ用件がありまして」

「でしょうね」

「俺は画家なんです、市民議員。まだ学生の身ですが、今年の官展サロン8に展示されたいと願っています。それで、画題自体が重要なものなら、その願いが実現する可能性が高まるのでは、と思いまして。この偶然の巡り合わせを自分の有利にしようとする試みが、貴方にとって無駄になったりはしないと約束します」

 如何なる野心を叶えるに際しても、偶然の巡り合わせを自分の利にする機会を決して見逃さぬ事で知られた男の青白い顔には、氷の張った水面に射す冬陽の如き微笑が浮かんだ。「それはそれは。しかし何故、私の処に来たのです?恥ずかしながら、芸術とは縁がなくて。余暇は仕事と同じく、全て科学に費やしてきたものですから」

「俺が描きたいのは、貴方の肖像画なんです、市民議員」彼は片方のポケットから画帳を、もう片方から鉛筆を取り出した。「下準備の素描を、お許しいただけないでしょうか……。俺は敬愛する貴方の理想主義から霊感を受けて……」

「なるほど。良くわかりました。私は市民からの要請を無下に断る事はめったにないのですよ、事情が許される限りはね。しかし、これは時間がかかるでしょうし、私はすぐにパリを発たなければなりません。西国での任務がありますので」彼は懐から取り出した時計を見た。「残念ですが、君の用件は、またの機会にしてもらわねば」

 ラサールの顔には内心の狼狽が表れた。「それほどお時間はいただきません。筆は早い方なので。下準備の素描と若干の覚書だけです、次にまた貴方がパリにいらした時に、カンバスにとりかかれるように」

 生気のない、冷やかな目が彼を見つめていた。「そんな手際の良さを、何処で身に着けたんだね?」そして彼は、更に踏み込んできた。「君は学生だと言ったね。誰の門下で学んでいるのかな?」

「ルイ・ダヴィッドに師事しています」

「ああ!偉大な画家だ。古典的な伝統を我々に伝えてくれている」彼の態度は和らいだ。血管が透けて見える骨ばった手の鷲の鉤爪を思わせる長い指が、この部屋には二つしかない椅子の片方を若者に示した。「座りたまえ。半時間程度でも君の役に立つのなら、付き合いましょう」

「ああ、有難うございます、助かります!では、すみませんが、そちらに座ってください、市民シトワイヤン、横顔を光の方へ。そうです。ああ、もう少し窓の方を。少しだけで結構です。それでいい」

 彼の鉛筆はきびきびと動き、しばしの間、ラサールはスケッチに没頭した。しかし主線を描き終えた時、これで見せ掛けは充分と判断した彼は、描く手を止めずに話を始めた。

「本当に残念ですね、市民。貴方がパリから離れるなんて、残念でなりませんよ。ここには貴方が必要なんです。はびこる腐敗と戦う為に」

 フーシェは答えなかった。考え込んでいるかのように、彼は座っていた。しばしスケッチに集中した後、再びラサールは口を開いた。

「妙な噂があるんです。アトリエやカフェで耳にしたのですが。根も葉もない話かもしれませんが、でも、聞いた者は不安になってしまいますよね」

「どんな種類のものだね?」乾いた細い声が尋ねた。

「ただ聞いた話を繰り返すだけでも、我が身を危うくするようなのもあって。そう……例えば、最近耳にした噂は、プチカペーの誘拐に関する陰謀です」

 彼は、自分の希望する方向に話を転がせるような応答を期待した。しかしフーシェは、そのようなきっかけを与えてはくれなかった。「失敗は避けられないだろうね」と彼は言った。「既に試みた者もいるが。ショーメットがタンプル塔の管理をしている限り、そのような心配は杞憂というものだろう」

「それならいいんですが。本当に、そんな心配が必要ないならいいんですが。貴方がそうおっしゃるのなら、安心ですね」ラサールはスケッチを続けながらも、頭では別方向から攻撃する道を懸命に探っていた。「それでも誘惑を考えると、人心は不安になるものです」

「具体的には、どんな誘惑だね?」

 今度は良い反応だった。本題に入るきっかけにできる。「フランスの敵が、いわゆるルイ十七世の身柄に対して支払うであろう金額です」

「それは愛国者を誘惑する事はできまいよ。愛国者は金に貪欲ではない。愛国者が求めるのは、ささやかなものだ。武器とパン、そして40クラウン9の収入だ」

 ラサールは溜息を吐いた。彼は質素な部屋に、ちらりと視線を走らせた。

市民シトワイヤン、全ての愛国者が貴方のようだったら、何の心配もないでしょうが」

「私のようではない愛国者は、愛国者とは呼べまい」フーシェは言った。「だが、それほど心配ならば、市民ショーメットに会うといい。彼はタンプル塔と、その囚人に対して責任がある」彼は再び時計を取り出して見た。「スケッチはできたかね。私は時間に追われていてね」

 自分の意図が怪しまれたのを、ラサールは理解した。そして、その性質を確認する手間すらかけずに、フーシェはラサールの意図をくじいたのであった。これ以上は食い下がっても無駄と認めざるを得なかった。謝辞と共に、彼はほんのしばし、静かに作業を続けた。

 描き終えた時、フーシェは彼と共に立ち上がった。「君の絵を見せてもらえるかな?」

 ラサールは画帳を差し出した。生気のない目は、そのページを見つめた。

「なるほど」それは奇妙な評だった。「君はアーティスト10だ」彼は脇を向いて呼びかけた。「ボンヌ!おいで、この絵を見てごらん」

 呼ばれてやってきた大人しく優しげな女性は、そのスケッチを見ると暗く疲れた目を好奇心できらめかせた。その肖像は実物より美化されたものだった。何故ならば、ラサールはモデルの容貌を忠実に描き写してはいたが、しかし――ダヴィッドが彼の将来の為に冷笑的に指摘するように――其処に内包された、曰く言い難い他者を撥ねつけるような力を捉える事には失敗していたからである。

「素敵ね」彼女は叫んだ。「そっくりだわ、ジョゼフ、今にも話しだしそう」

「もしそれが話しだしたら、私とは似ても似つかない事を言うだろうね」

「冗談よ、市民シトワイヤン。夫はこういう人なの」彼女は深刻そうに耳をそばだてているラサールを見て、優しく声をかけた。

「できれば、すぐにでも絵の具で描きたかったのですが、女市民シトワイエンヌ。またお会いする日まで待たなければなりませんね」

 そのように装ったまま、そして儀礼的な賛辞を何度も述べてから、彼は去って行った。

「魅力的な若者ね」ボンヌ=ジャンヌは言った。

「ああ、魅力的だ」彼女の夫は同意した。「魅力は密偵にとって、最良の商売道具だからね」

「密偵?」彼女の目には偽りない恐怖があった。「あの人は、密偵なの?」

「少なくとも、その可能性はある。ルイ・ダヴィッド、ロベスピエールに心酔している崇拝者。ロベスピエール、彼は私を捕らえるべく罠を広げている。彼らが結託していても不思議はない。そして彼は、ここに留まるのを許すと予想通り陰謀について話した。荷造りをした方が良いね、そして西国に戻ろう」

 簡易ベッドの中にいる子供はむずかっていた。ボンヌ=ジャンヌの顔に不安の色が濃くなった。「二日か三日、遅らせる事はできないの?ニエーヴル11の具合がとても悪いのよ」

 心痛で彼の目は細くなった。彼は妻の肩に愛情を込めて片手をまわした。「ニエーヴルの為には、我々が血に酔った連中から逃げる方が大事なんだよ。野の獣が残酷なのは、知能が低くて恐怖心に駆られているせいだ。人間もそれと変わらない。ただ愚か者と臆病者だけが残酷になる」

 にもかかわらず、リヨンにおいてフーシェは炎と血を用いて己の名を刻み、それによって彼は永遠の悪名を得た。そして彼は、その全てを自覚的に行ったのである。彼が残酷に行動したのは愚かさ故でも臆病故でもなく、勝利への階梯を築くまでの間、己の地盤を維持する為であり、現政権における支配的な空気を大きく逸脱してはならぬが故であった。


  1. ジョゼフ・フーシェ(1759年5月21日 1820年12月25日)
    恐怖政治期から総裁政府、執政政府、第一帝政、復古王政期までの激動の時代を生き抜き、変節を繰り返しながら権力中枢で辣腕を振るい続けた政治家にして、近代的な国家警察の祖。この物語のもう一人の主人公である。詳しくは下巻の巻末解説を参照。 

  2. マクシミリアン・ロベスピエール(1758年5月6日 1794年7月28日)
    ジャコバン派内モンターニュ派。地方の弁護士から第三身分議員に転進、ジャコバン派内のセクト争いに勝ち残り、1793年7月に公安委員会入りしてからは事実上の革命政府首班として強権を振るい、他派や反革命派の粛清を断行した。 

  3. 16世紀にイタリアから始まった、宗教教育を目的とした在俗聖職者の会。教会音楽発展にも大きく寄与している。 

  4. パリに次ぐ大都市リヨンにおける反革命派の叛乱鎮圧後、国民公会は「リヨンの完全破壊」を決定し1793年11月にジャン=マリー・コロー・デルボワとジョゼフ・フーシェを派遣、二千人近い市民が粛清された。尚、史実においては、同年12月にパリの公会及びジャコバン・クラブで釈明を行なったのはコロー・デルボワである。 

  5. エベール、モモロら無神論者たちは理性崇拝を提唱し、既存の教会にミサを禁じた上で理性崇拝寺院への転向を強制、「理性の祭典」と称する祭儀を行った。同様のキリスト教廃絶運動は地方に波及し、フーシェも1793年の秋に担当地域であるニエーヴルにおいて、ショーメットと共に教会からの貴重品没収と理性崇拝カルト普及を行っている。 

  6. 啓蒙時代のヨーロッパに栄えた宗教思想。世界の創造者としての神は認めるが、その後の宇宙は自律的に駆動し発展しているとする。無神論とは一線を画す。 

  7. フーシェの派遣先ニエーヴル県にはマザラン宰相の甥の一族であるマンチーニ公爵の居城があった。 

  8. 1725年に始まったパリの芸術アカデミーの公式展覧会。サロン・ド・パリ。 

  9. 原文 forty crowns 英国通貨に合わせた表記と思われる。 

  10. 原文 an artist 恐らく「芸術家」と「術策を弄する狡猾な人」のダブルミーニング(本章のフーシェはダヴィッドを指してはpainterと言っている)。 

  11. ニエーヴル・フーシェ(1793年 1794年)
    ジョゼフ・フーシェの長女。フーシェが議員として派遣されたニエーヴル県で誕生し、現地の大聖堂で「市民洗礼」を受けている(これはフランスにおいて現代まで続いている非宗教の後見人指名制度である市民洗礼の最初の例と言われている)。 

四 代理官ショーメット

「市民ショーメットに会うといい」フーシェからそのように告げられたラサールは、その助言に従うように、翌日、ショーメットとの接触を試みる事になった。

 コミューンの代理官を待ち伏せする目的で、さりげない風を装いつつ、テュイルリー宮のホールをうろついていた若い画家は、件の要人から声をかけられて、人の少ない場所に連れ出された。

「君がフーシェに話した、プチカペー誘拐の陰謀というのは、どんな内容なんだね?」

「ああ、その事ですか!多分根も葉もない噂ですよ」

 彼らは宮殿の階段上に出た。

 十二月のその日、晴れてはいたが気温は低く、恐らくはそのせいで、中庭の浮浪者の数はいつもより少なかった。其処にいたのは少数の雑多な集団であり、その大部分は、理想郷ユートピアを築く試みによって大量に生み出された、飢えて痩せこけた失職者たちだった。特に目立っているのは、女たち――やかましく攻撃的な年配の女たち――であり、彼女らは下町の魚売り女ポワッサルドに至るまでが、いっぱしの政治家と化したかのように解放という幻想を共有していた。二、三人の新聞売りが記事の内容を大声で叫んでいるが、それはコーブルク1や不実なピット2による共和国に対する陰謀が発覚したという、日課の如き声明だった。門口を出た外にあるカルーゼル広場では、乞食たちが哀れみを請い、その内の何人かは、同情を買う為に己の傷や不具になった手足を見せびらかしていた。彼らの存在はショーメットにとって悩みの種であった。彼はラサールに、あの連中は貴族の陰謀で集められ、行進させられているのだと毒づいた。社会が貧困に陥っているような錯覚を引き起こし、共和国の信用を失墜させるのが目的なのだと。

 サン=ニケーズ通りでは、怒れる騒々しい女たちの間を通り抜けるのに少々難儀した。パン屋に殺到した女たちは、列を守らせようとする四名の警備兵が発する命令や、彼らが振り回すパイクにすら猛然と抵抗していた。ラサールは、これも反革命派の仕掛けた工作なんですか?と皮肉っぽく尋ねた。

「あの女どもは」と、皮肉に気づかずショーメットは答えた。「もう手に負えん。増長した挙句、男の領分にまでしゃしゃり出て来やがった。女の持ち場は家の中、祖国を守る為に子供を生み育てるのが本分だよ。法律でその点をはっきりさせんとな3。それはともかく、君が話した貴族連中の陰謀だが……」

「貴族の陰謀については話してませんよ。俺は貴族が関わってるとは思ってません」

「君は愛国者が例の少年を誘拐しようと企んでいると言うつもりかね?愛国者が、あの少年と何をしようというんだ?」

「本気で訊いてるんですか?」ラサールは、ショーメットの単純さを笑っているようだった。「考えてもごらんなさい、我が友よ、オーストリアの伯父一族4は、少年の身柄にどれだけの金を支払うでしょうね?少なくとも、百万は確実、多分五百万、一千万までいくかもしれない。しかもオーストリア金貨で、ですよ、ショーメット、アシニャ紙幣なんかじゃなくて。金持ちになりたい人間にとっては大金を手に入れる近道でしょ、権力が欲しい人間にとっても、多分これは権力を手にする近道ですよね。もし反動勢力が優勢になって、共和国が圧倒される情勢に転んだら、『国王の保護者』の立場を手に入れた人間はどうなると思います?」

 ショーメットの無骨な顔が瞬く間に深刻になるのを見て、ラサールは再び笑いだした。「動機が充分なのはわかったでしょ。貴方の囚人を良く見張ってください、ショーメット。貴方の囚人から目を離しちゃいけませんよ」

「もちろんだ、そうするとも!もっと詳しく話してくれ。公安委員会に持ち込む証拠が欲しい」

「確たる証拠はないんです。つまり、特定の人物を告発するだけの材料がないんですよ。何人かの名前が挙げられるのは聞きました。でも、はっきりとした根拠があるわけじゃない。こんな状況で個人名を出して嫌疑をかけるというのは、まずいでしょう」

「共和国が大きな危険にさらされたままの方が、もっとまずかろう。無実の人間の頭が何個か落ちる方がマシじゃないか」ショーメットは愛国的信念を譲らなかった。「公安委員会に出頭して、君が聞いた名前を証言したまえ」

 ラサールは首を振った。「その場合、真っ先に貴方の名前を挙げる事になりますよ」

「私?」ショーメットは息を呑んだ。「馬鹿な!私だと?」彼は呆然とした。彼らは角を曲がってオペラ座の入り口前に立っていた。売り口上を叫びながら、栗売り女が近寄ってきた。鍋をボロボロのショールに包み、肘に引っ掛けて運んでいた女は、その包みを解いて茹で栗を差し出した。苛立っていたショーメットは横柄な態度でそれを無下に追い払い、栗売り女は口汚い罵りを返したのだが、その際に、彼が革命政府の飾帯を着けているにもかかわらず、その女は「貴族アリストクラトの豚野郎」と悪態を吐いたのであった。

 ショーメットは女の罵り声が聞こえない場所まで、同行者を強引に引っぱって行った。

「女どもめ!まったく、あの女どもときたら!」彼は再び足を止めた。「私の名前が、その噂の中に出てくると言うのか」彼は激怒した。

「他の人たちに比べれば、ある程度のもっともらしさはありますからね」

「何処にだ?一体全体、それはどういう意味なんだ?」

「タンプル塔はコミューンの刑務所です。貴方はコミューンの代理官、タンプル塔に出入り自由なパリで唯一の人物です。貴方の場合、少なくとも機会はあります。馬鹿げた話とばかりも言えないんじゃないですか?こういう場合に真っ先に疑われるのは、それが実行可能な立場にある人間ですからね」

「なるほど」ショーメットは考え込んでいるようだった。彼は無精髭の生えた顎を撫でた。「そうか、なるほど」既に微量の毒が効き始めたのだろうかと微睡まどろむような目で彼を見つめているラサール青年に向かって、ショーメットはゆっくりと尋ねた。「他の名前は聞いたかね?」

「大物ばかりなので。軽々しく口には出せない名前ですよ」

「私にもかね?ここだけの話という事でも?」

「公安委員会で証言させられるのは、勘弁願いますよ。それが一番危ない。まあ、多分ですけど、事実ではない告発が刺激になって、本物の裏切り者が行動に出る可能性もありますし。何のかの言っても、五百万から一千万の大金ですからね、愛国者としての義務を放棄する人間も少なくないかもしれない」

「確かにな。まったくだ!まったく、その通りだ!うんうん。早まった告発はやめよう。約束する。で、他には誰の名前を聞いたんだ?」

「一人は、バラス5」ラサールは図々しくもでまかせを言った。

「ふん、奴なら噂が本当でも、これっぽっちも驚かんぞ。快楽主義で金遣いが荒く、馬や女に散財してるからな。奴は自分の贅沢三昧の為に数百万を懐に入れているんだ、あの忌まわしい、腐りきった貴族崩れめが。けっ!」彼はこれ見よがしに唾を吐いた。「他には誰が?」

「もう一人は」ラサールは声を低めた。「ロベスピエール」

 ナイフで突き刺されたかのように、ショーメットは飛び上がった。驚愕した彼は、興奮のあまり危険なまでに無思慮な言動を見せた。

「神よ、なんてこった!フーシェの言う通りだとすれば、つまりあの、髪粉を振って絹のストッキングと小奇麗なコートを着た、気取り屋のムッシュー・ド・ロベスピエールは、腹の底では貴族かぶれって事だ」

「フーシェがそんな事を?抜け目のなさでは定評のある人物ですからね、フーシェは。彼の言葉は傾聴に値しますよ、だからって、ロベスピエールが小カペーの身柄を手中にしようと考えているだなんて明言はできませんが」

「だが、奴はやるかもしれん、手に入るものの値打ちを考えればな。君が説明してくれたようにだ。豚公め!奴はやるかもしれん」

「ショーメット、タンプル塔には優秀な監視を置いてください」彼は立ち止まっていた。「俺はここで失礼します。ダヴィッドからアトリエに来るように言われているので。ああ、そうそう、フーシェといえば、昨日、彼のスケッチを描いたんですよ。是非お見せしたいな。それから、近いうちに貴方の肖像画を描かせていただきたいんです、ショーメット」代理官のずんぐりした容貌を値踏みするように見る彼の黒い目からは、眠たげな様子は消え去っていた。「素晴らしい画題ですよ、我が友。描き甲斐がある。いいですか、これは芸術家としての意見ですよ。その、気高く高遠な額。いにしえのローマびとのようだ。形のいい、断固たる決意を感じさせる口の線。この辺りは描き易いんだが。でも、誰もが感じる捉え難い気高さを表現する為に、その炎を、貴方の目に秘めた荘厳な輝きを写し取るのは簡単じゃない。至難の業だ。でも、挑戦する価値はある。ぜひ試させてください、ショーメット」

「親愛なるラサール君!我が友よ!」芸術家が専門用語を使って話した為に、単なるお世辞とは思いもせず、ショーメットは称賛の言葉で上機嫌になった。「君の都合の良い時に、いつでも。遠慮は無用だよ」

 かくして狡猾なラサールは、代理官をそそのかす為の機会を作り出した。

 そして彼は時間を無駄にしなかった。その翌日――ド・バッツから、熱烈な称賛と共に、更に10ルイの報酬を得て――彼はショーメットが部屋を借りているフィーユ・サン=トーマス通りにある家の三階に、カンバスとイーゼルと絵の具箱を運び込んだ。代理官の住居は、快適かつ、成功した愛国者という身分相応に贅沢なものであった。なにせ、彼は確かに経済的に成功していたのである。役人としての報酬に加えて、彼には政治パンフレット執筆者としてかなりの収入があった。彼の家庭は、妻とおぼしき器量良しで豊満なアンリエット・シモニンによって取り仕切られていた。

 ラサールは、たちまち彼女と親しくなった。彼は労せずして女性を惹きつける類の魅力を備えており、ここで少々それを駆使してみたのである。居間の壁が殺風景なのよ、と彼女が不満を漏らしたので、彼はショーメットの肖像を描く合間に、師ダヴィッドの有名な作品の写しに過ぎない『ルイ・カペーの処刑』と『マラーの死』を含む四、五枚の絵を、即席で描き上げて進呈した。

 その作業中、彼女はラサールの周囲をうろついて甲斐甲斐しく世話を焼き、時にはババロアーズ6、時にはカフェ、そしてファルスブールのノワイヨー7や南洋産リキュール(実際にはフォーブール・サン=ジェルマン8で作られていたのだが)が入った小型グラスプティ・ヴェールなどを出してもてなした。あっという間に彼女とねんごろになったラサールは、その影響によって本命である夫の方との親交も深まり、肖像画が完成するより前に、家族同然の扱いをされるようになっていた。この利点には不利も伴っていた。ラサールの作業中、何かと世話焼きに現れるアンリエットのせいで、この家に出入りするようになった本当の目的となる会話に入るのが難しくなっていたのだ。しかしようやく、妻を市場への使いに出す事によって、ショーメットが自ら、しばし二人きりになれる機会を作り出してくれた。

 これはラサールには予測済だった。何故ならば、ド・バッツとの連携によって慎重に下地が整えられていたからである。

 ショーメットは、栄えある役職の正装姿で描かれる為に座っていた。金ぴかのボタン付きの青いコート、小文字体ミナスキュールで小さく『人権宣言』が刻まれた真鍮板を下げた青白赤トリコロールの衿、青白赤トリコロールの飾帯、一度も抜いた事のないサーベル、そして羽飾りパナシェ付きの帽子の下からは、手入れの悪い黒髪が垂れていた。王侯貴族の厚顔かつ拙劣な紛い物のように、彼は品のない、粗野な汗ばんだ顔をラサールに向けていた。

 アンリエットを計画的に外出させた日、ショーメットはしばらくの間、何やら考え込んでいた。それから突然、彼は沈黙を破った。

「バラスが昨日、タンプル塔にやって来たんだよ」

 それを聞かされた画家は硬直したように筆を動かす手を止めたが、しかし彼の驚きは単なる芝居だった。その訪問は、ド・バッツと内通している公安委員会の秘書セナールが、それとなくバラスに働きかけた結果によるものだった。カペーの子供たちのような、社会的重要性を帯びた共和国の囚人が二名、幽閉されている場所なのですから、公安はコミューンの刑務所の状態を把握しておくべきではないでしょうか、との進言を受けたバラスは、敏速に行動した。

 驚きから立ち直ったかのように装い、ラサールは尋ねた。「貴方の許可を得て、ですか?」

「公安委員会の命令だ、私には副署も求められなかった。こんな越権行為は二度と許さんぞ」

 ラサールは深刻に考え込むような目つきになった。「それで、彼は何の用だったんです?」

「ああ!何の用だと?見た処では、奴はぐるっと視察して周る以上の事は何もしなかった。あの少年の個室に入って、次に階上の女たちの部屋まで行った」

「一人で?」その質問には怯えが含まれているようだった。

「いやいや。シモンが同行した。忠実な番犬だよ」

 静寂が続いた。上の空な様子で、ラサールはパレットの上で絵の具を混ぜた。ようやく口を開いた時、彼は無意識に内心の思いを声に出しているかのようだった。「何だか…これじゃまるで……あの噂もあながち……」

「私もそれを疑っているんだ」ショーメットにはラサールがほのめかした噂が何であるかを問い質す必要はなかった。「絶対に尻尾を掴んでやるぞ。ああ、こん畜生めフィシュトレ!まあ、なんにせよ、あの馬鹿は時間の無駄をした訳だがな」

「アナクサゴラス、俺だったら確認しますよ」

「とっくに確認済みだ。私の管理下で、そんな事は不可能だ。あの少年に何かあれば、すぐに気がつく」

「そうは思いますが、でも……有り得ないはずの事が時々起こるのが、世の中ですしね。すぐにでも替え玉を用意した方がいい」

「替え玉?冗談を言ってるのか。替え玉なんぞ、何処で見つけるんだ?」

「そんなの何百万人だって見つかりますよ。結局の処、八歳の子供の替え玉を探すのは、それほど難しい仕事でもないですからね。個性が固まる前の幼い子供なんて、みんな似たり寄ったりだから」

「今度は脅かすつもりかね。君はシモンの存在を忘れているぞ」

「まさか。ちゃんと覚えてますよ。賄賂を使えばいいんです。賄賂を受け取ってる人間が何百万人もいるのを忘れてるんじゃないですか」

「くだらんな!シモンには賄賂は効かんぞ」

「なら、彼には立ち退いてもらいましょう。バラスが彼を移動させるのを希望したって説明すればいい。公安委員会の圧力なら、シモンも抵抗できないでしょ?」

「バラスなぞ好きにやらせとけ。私は自分の立場くらい弁えとるし、対策は自分なりにとる」

 ラサールの顔には、友人であるアナクサゴラスに対する深刻な懸念が表れていた。「俺が貴方の立場だったら、悠長に待ったりしませんよ。貴方には代理官として、あの子供の安全についての責任がある。アナクサゴラス、何処かの悪党が少年の誘拐に成功した場合、貴方の首が落ちるって事、良く考えましたか?それに断言しますけど、現在の情勢は、今まで以上に誘惑が強いはずですよ。我が軍はヴァンデで苦戦しています9。国境では専制君主たちの攻撃に押されているんです」興奮に煽られたように、片方の手にパレットと腕木マールスティック 10、もう片方の手に絵筆を持った彼は、やや乱暴に身振りした。「日和見主義者――バラスであれ別の誰かであれ――は、反革命勢力が優勢になった時の保身を図って、あの子供の身柄を確保する為にとんでもない行動に出るかもしれない。もしそんな事になったら、アナクサゴラス、ギヨティーヌの刃が貴方の衿代わりになりますよ。ああ、なんて事だろう、我が友よ!その時の貴方の姿を想像しただけで、震えが止まらない」

 アナクサゴラスは、暗く深刻な感情に引き動かされた。彼は椅子から腰を上げ、この日はもう、モデルを務めるのをお終いにした。

「確かにその通りだ、畜生め!」ショーメットは背中で手を組んで、ゆっくりとした歩みで行ったり来たりを繰り返し、彼の馬鹿げたサーベルは踵にぶつかってガチャガチャと鳴った。

「警備を倍に、いや三倍にするぞ。それからコミューンは、如何なる者も――公安委員会の者であろうと――私の命令なしではタンプル塔へ立ち入る事は許さない、という法令を通過させるだろう」

 ラサールの目は輝いた。「それなら、かなり安心ですよ、我が友よ」

「かなり!」ショーメットが怒鳴り立てた。「かなり?なんだってんだ、これじゃ充分じゃないとでも言うのか?」

「多分、貴方に好意を持ってる分だけ、つい心配し過ぎてしまうんでしょうが」

「だが、まだやれる事があると?これ以上、私に何ができる?」

「ああ、いや、何もないです。何も」

「その口ぶりは、心からのものじゃないな。君が言う『何もない、何も』は『何かある、何か』にしか聞こえんよ。畜生!遠慮はいらん。これ以上、私に何ができるというんだ?」

 彼らは向かい合わせに立っていたが、ラサールの顔には、その考えの尋常でない深刻さが表れていた。「いや、貴方には無理だ。つまり、早い話が……。ああ、駄目だ!」彼はその考えを払いのけた。

「早い話が何なんだ?」ショーメットは食い下がった。

「言っても仕方ない事ですよ。貴方は途方もないって考えるでしょうし、でもやっぱり……考えれば考えるほど……あの餓鬼が絶対盗まれないようにするには、これは良い手なんだが」

「そりゃどういう手だ?」

「誰かに盗まれるのを防ぐ為に。貴方自身で、あの餓鬼を盗むんです」

「私自身であれを盗むだと!気でも狂ったか?」

「気狂い沙汰に聞こえるのは、無理もないですよ。もっともだと思います。それでもやっぱり……やっぱり……もし貴方が、あの少年を音もなく連れ去って、そして何処かに……誰も疑わないような何処かに隠してしまえば、もう誰にも手出しはできないはずだ」

 彼を凝視するショーメットの粗野な顔は、呆然とした驚きから不機嫌そうな思案顔へと徐々に変化した。それから彼は肩をすくめると、ぷいと横を向いた。「やれやれ!気がふれとる!」

「この意見は却下されるだろうな、とは思ってました。でも、これが貴方の身を安全にする確実な道ですよ、貴方が何と言おうとね」

 ショーメットは苛立った。「だが、子供が消えている事がバレたら?その時は安全どころじゃあないぞ?」

「充分安全ですよ。心配なんてないでしょ、貴方はいつでも少年を出して見せられるんですから。共和国の怒りを買うような心配はいらないし、仮にその頃には君主制が回復していたとしても、君主制側の怒りもね。俺はそんな心配なんて思いつきもしませんでしたよ。それはさて置き!」唐突に、彼は絵筆を片付ける為に背を向けた。「今日は、そろそろおいとましないと」

 だがショーメットは息を荒げ、突然ラサールの脇に回り込んだ。

「君はバラスの利益を図って提案してるんじゃないだろうな」

「俺が?バラスの利益を?待ってくださいよ。俺の話した事が?俺は誰の回し者でもありませんよ。可能性の話をしただけです、もし俺が貴方の立場だったら、こうするだろうっていう。けど、まあ、要するに、俺は臆病者なんでしょうね、アナクサゴラス。貴方みたいに不屈の闘志とか、ローマ魂とかの持ち合わせはないんで。絶対安全だっていう保証がないと、夜も眠れない。それだけです」

 それだけで充分だった。常に豪胆そうに振舞ってはいたものの、心底は臆病者である革命闘士に対して、深刻に考えるべき問題を与えるには充分だった。「共和国の怒りを買うような心配はいらないし、仮にその頃には君主制が回復していたとしても、君主制側の怒りもね」というラサールの狡猾な科白は、二十四時間、彼の脳裏にまとわりついて離れなかった。

 その翌日、意図的に完成を引き伸ばしていた肖像画に最後の仕上げをする為に訪れた時、若い画家はアンリエットがまたもや不在である事に気づいたが、その理由は考えるまでもない事だった。

 そしてラサールが自分の仕事にとりかかるや否や、早速ショーメットは本題を切り出した。

「小カペーについて、君が昨日言った事を考えたんだがな、フロランス君。君の提案には立腹したが。しかし君の助言は優れたものだったよ、とはいえ、あくまで実行可能なものならばという話だが」

「何か問題でも?」

「幾つか。まずはシモン、あの少年の世話係だ」

「何も難しい事はないですよ。シモンを任命したのは貴方なんだから。解雇するのも簡単なはずでしょ」

「だがその後は?代わりの人間を指名せにゃならん」

「確かにね。でも貴方はシモンの出発と彼の後継者の到着の間に、わずかな空白の時間を作り出す事ができますよ。その瞬間に交換する」

「おお、それだ。交換。二番目の問題はそれだよ」

「最初のに比べれば、ずっと簡単な問題ですけどね」ラサールはカンバスから離れて代理官の前までやって来た。「この際なので、打ち明けてしまいます。俺は昨日、八歳の子供の替え玉を用意するのは簡単な仕事だって言いましたが、それはつい先週、絵のモデルを探している時に、小カペーの替え玉として使えそうな同じ年頃の子供を見つけたからなんです。本物を良く知らない人間なら簡単に騙されるような。同じように色白でふっくらした顔、同じような藁色の髪と青い目の」

「そうか」と、強烈な皮肉を込めてショーメットは言った。「だが、そいつが一言、口を利けば…」

「その子は聾唖者です」ラサールはそう言い、驚いたショーメットは厳しく懐疑的な目つきになった。

 彼はひと呼吸置いてから、先を続けた。「実の処、その少年に気づいたのは、そのせいでした。その子は哀れみを請う為に――父親役の片腕の乞食が指図したんでしょうが――首から下げた板に自分の障害を書いて示していました。ああいう子供は買い取るか、それとも二百か三百リーヴルも払えば、無期限で雇う事ができます。あの子がカペーと瓜二つだとか、物凄く良く似ているなんて言うつもりはありせん。でも、色白で、ふくよかで、黄色い髪をした同じ年頃の少年、大雑把な特徴は同じですよ」

「小カペーの特徴には、幾つか特殊なものが含まれている」ショーメットは激しい調子で言った。「奇妙な種痘跡、片方の腿にある――糞忌々しい聖霊サン=テスプリみたいな――鳩の形に見える静脈、それから変形した右耳は、左の耳たぶの倍の大きさだ」

「でも、新しい世話係と勤務中の委員たちは、それを全部知らされる必要はないし、その子供は坊主頭に裸のまま歩き回る訳じゃない」

 ショーメットは背を丸めて椅子に座ったまま、顎に片手を置き、額に皺を寄せて考え込んでいた。昨夜の彼が夜明けまで人知れず懊悩して過ごした障害は、一気に消え去った。だが、それでも尚、彼は前進をためらった。

「その乞食の子だが、君は連れて来れるか」

「二百か三百フランの用意さえあれば、できるはずですよ。貴方がやると決めたというのなら、俺も手を尽くしますが」

「そう簡単には決められんよ。よくよく考えなきゃならん問題は多い。糞みたいに山ほどあるんだ」

「その間に、例の少年を確保しておきましょうか?」

 ショーメットは怯えているように見えた。「念の為にというなら、そうするといい。うん。別にそれで害がある訳でもないしな。諸事検討するのは、君がその子供を確実に押さえてからでいい」

「任せてください、アナクサゴラス」そう請合うとラサールは精力的に肖像画の方に専念したので、彼はその日の内にそれを仕上げてしまった。本来の目的を達成した以上、もうここに長居する必要はなくなった。既にショーメットは喉の奥まで餌を飲み込んでいた。計画の最初の、そして最も困難な段階は過ぎたのであった。


  1. フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(1737年12月26日 1815年2月26日)
    オーストリア帝国の軍人。第一次対仏大同盟軍にオーストリア領ネーデルラント陸軍司令官として参加。 

  2. ウィリアム・ピット(1759年5月28日 1806年1月23日)
    英国首相(在任1783年 1801年、1804年 1806年)。在任中にフランス革命が勃発、フランス共和国に対し強硬路線を採りヨーロッパ諸国に呼びかけて対仏大同盟を組織した。 

  3. フランス革命初期には多くの女性が出版物や集会によって政治運動に参加したが、やがてジャコバン・クラブと対立、女性活動家の多くが反革命容疑により弾圧された。ショーメットは1793年11月に執行されたオランプ・ド・グージュとロラン夫人の処刑を歓迎する見解をパリ市民に向けて公表している。 

  4. 本章の前年に逝去した神聖ローマ皇帝レオポルト世はフランス王妃マリー=アントワネットの兄。 

  5. ポール・バラス(1755年6月30日 1829年1月29日)
    バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ。没落貴族出身だが革命勃発後はジャコバン派を支持、国民公会議員としてルイ十六世処刑に賛成票を投じた。本章の時期は派遣議員の立場を利用して汚職と公金横領で私腹を肥やし、ロベスピエールとの対立を深めつつある。 

  6. この時代のババロアーズ(ババロア)は生クリーム入りの暖かい飲み物。 

  7. ブランデーに杏仁などで風味をつけたリキュール。 

  8. 富豪の邸宅が集まっているパリの街区。 

  9. キリスト教信仰の篤いフランス西部では、ヴァンデ地方を中心に革命政府に対する反乱が起き、外国の援助を受けた王党派が抵抗を続けていた。 

  10. 画家が細部を描く際に絵筆を持った手を支える短い棒。 

五 傀儡師

 ラサールは罠に餌を付け、騙され易いアナクサゴラスが、その中に足を踏み入れるように誘導した。彼はあらゆる難所に対する解決策を用意し、あらゆる障害を回避する道を示して見せた。彼が選択した曲がりくねった道には、そのような難所や障害が少なからず存在し、それらの中には、当初はド・バッツの知性をもってしても克服不可能と思われていたものも、幾つか含まれていた。

 代理官が挙げた問題点の内、最後の一つに対する解決策を与えた時、この役人はラサール自身も確かにそれは高い評価であると認めるような表現を用いて賞賛した。

「いやあまったく!君は数学教授あがりのフーシェに劣らぬ、計算高い頭の持ち主だな」

 例の聾唖の子供も当然の如く捜し出されたが、ラサールの見立て通りに本職の乞食が商売道具として使う孤児に過ぎなかったので、ショーメットが提供した三百リーヴルで何の障害もなく買い取る事ができた。実を言えば、その孤児の所有権は、既に先手を打ったド・バッツが獲得していたのであるが。

 次のステップはシモンとその妻を追い出す事なのだが、その方法を示したのは、またしてもラサールであった。

 今やショーメットは、もの憂げで倦怠したような声と覇気に欠ける目立たない物腰をしてはいるが、秀でた知力の持ち主である若い画家に完全に操縦されて、彼の指示に几帳面かつ忠実に従うようになっていた。年内最後のコミューン議会において、彼は如何なる者も複数の公職に同時に就く事を禁ずるという法令を提案した。

 ラサールは議員としてその場におり、同じく議員であるアントワーヌ・シモンも、タンプル地区代表として、そして若いカペーの教育係を任された世の耳目を集める有名人として出席していた。

 ショーメットは偽善者の常として、あえて人前で異を唱える者などめったにいない謹厳かつ高尚なる原理原則を根拠とした問題を提起する事によって、最初の段階から反対意見を封殺してしまった。複数の公職を兼任する事を激しく責める際に、彼は公費の負担により報酬を増やそうと努めるような人間は、悪しき市民であると非難したのであった。

 その日の夕方までの議論では、この問題はまだ討論の段階に過ぎなかった。だが、シモンにしてみれば、提出された法案が己に及ぼす忌まわしい影響を思い描いて、深い不安に落ち入るには充分だった。

 閉会後に階段を降りる途中で、彼は傍らにラサールがいるのに気づいた。

「やあ、市民シモン」

 十月の例の日にタンプル塔で顔を合わせて以来、この若い画家に対して親近感を抱くように仕向けられていたシモンは、親しげなどら声で挨拶を返し、彼らは共に大路へと進んで行った。

 ラサールは慎重に探りを入れた。

「もしショーメットのあの主張が法律になったら、文句を言う奴はかなりいるだろうね」

「俺ぁ、議員の仕事も勘定に入れられんじゃねぇかと思ってるンよ」と不平がましくシモンが応じた。

「まぁね、あれも報酬が出るから」

 シモンが吐いた悪態だけで、ラサールが求めていた回答としては充分だった。

「ああ、市民シモン。悲しい現実だよねぇ、権力を振るう手段を与えられた人間は、必ず暴君になるんだから。奴らは自分の望みと思いつきを、下の人間に一方的に押し付けるんだ。権力の快感を味わう事に比べたら、そいつが不当な行為かどうかなんて、気にやしないのさ」

「豚公め、けど実際、その通りだよな、市民ラサール。どうなっちまうんだろうな?」

「あの酷い法令が通過しない事に希望をかけよう。今できるのはそれだけだ、我が友よ」

 問題の法令が通過しつつある時に、シモンが己の狼狽を慰める為にラサールを求めるようにさせるには、これで充分だった。更なる事態の展開は、ほとんど間を置かずに起こった。次のコミューン議会において、ショーメットに強いられた投票により、如何なる者も複数の役職に就く事を禁ずる、また、これは兼任が議員としての活動の妨げになっているか否かには左右されない事を明確とする、という法が通過した。シモンは、彼自身には年六千フラン、妻には年四千フランの報酬をもたらしてくれる、タンプル塔の管理人を辞さねばならぬという巨大な災難が我が身を襲ったなど、にわかに信じる事ができなかった。

 彼をその羨望に値する役目に任命したのは、他ならぬショーメットその人だった。そしてその待遇に値したのは、シモンの妻マリー=ジャンヌだった。頑丈で筋骨たくましいが心根は非常に女らしく、男性的な外見とは裏腹に良妻賢母型の彼女は看護婦の適性があった為に、テュイルリー宮への攻撃後にコルドリエ女子修道会に収容されていたマルセイユの負傷兵たちの世話に献身していた。これは公益を資する行いであり、とりわけコミューンに対して貢献していた。よってショーメットは、彼女の夫に管理人職を――その他の点で、シモンは代理官が必要と考えた条件を満たしていた為に――与えるという形で、マリー=ジャンヌに報酬を与えたのである。

 あまりにも突然、かつ独断的に、己の安楽と社会的重要性が奪い取られるのを目の当たりにした時、その公職が与えられた経緯に関する記憶自体がシモンの憤慨を加速した。

 閉会後、シモンは如何にも彼のような愚か者に相応ふさわしく、この厳しい法令の適用を特例によって免れるようにショーメットが便宜を図ってくれはしまいかと希望を抱いて、彼を探し求めて捕まえると、しばし話し合った。彼はこの件について嘆願した。しかし法的不可侵で身を固めたショーメットは、著しく不適切な提案に衝撃を受けたかのように装って、威嚇的な調子で応じた。国家から強奪する利益に執着するようでは、良き愛国者とは言えまい。実際、この件で君の愛国心に疑念が沸いたのだがね、と。

 単純かつ無知なシモンは、その恐ろしい科白に震え上がり、大慌てで代理官に別れの挨拶を告げた。だがしかし、彼の恐れは激怒を静める類のものではなかった。それどころか、怒りの炎を煽る風であり、計画に引き込む時期をうかがっていたラサールにとって、シモンはハンマーで打つ為に柔らかくされた金属と化したが如しであった。

 謀略のヌシは突き刺すような夜の空気から身を守る為に目の高さまで外套にくるまり、靴屋がグレーヴ広場から姿を現したと同時に、その傍らに早足でやって来た。

「其処にいるのは市民シモンじゃないか?やあ、我が友よ。どうだい?俺の言った通りになったかい?あの新しい法令は、君が受けて当然だったはずの恵まれた待遇を取り上げるんじゃないかって、俺が心配してた通りにさ」

 耐え難い苦悶のうめきによって、シモンは内心を吐露し始めた。「なんてぇ、ご立派で愛国的な思いつきだよ!あんな……ああ、チクショウめ!」警戒心と無念の板挟みが、彼から言葉を奪った。

「隠さなくたっていいよ、俺も同じ気持ちさ。君の為に怒ってるし、君と一緒に怒ってる」若い画家の声は情感豊かだった。「酷い法令だ。有り得ないくらい酷いよ。誰かに聞かれたってかまいやしない。こんなの専制もどきじゃないか。権力の濫用だ」

「まったくだぜ」シモンは熱烈に応じた。「豚公どもめ、まったくその通りだ!」意を強くした彼は警戒心を捨てた。「クソッタレな独裁。身の毛もよだつ圧政。ぶっちゃけりゃ、そういう事よ。官職に居座ってる寝取られ野郎どもは、テメェらだけで甘い汁を吸ってやがるのさ。あいつらは小っこい国王だよ!ぶっちゃけりゃ、そういう事よ。小っこい国王だ。そのうちみんな気がつくぜ。そん時ゃ見物だ。そのうち奴らも、一年前にテメェらでシャルロットの籐籠におっぽり込んだ国王と、おんなじ目にあうんだぜ」

「君の怒りは当然だよ、我が友よ!まるっきり――気がついたかい?――あの酷い法令は、君を狙い打ちにしたみたいだからね」

「俺を?俺をか?」

「気がついてなかったのかい?こんなに酷い打撃を受ける議員が、君の他にいるかい?」

「そうだ、何てこった!」愚かなシモンは言った。管理人という身分のせいで肥大した虚栄心により、彼は易々と納得させられた。「けどよ、なんで俺っちが?」

「ああ!俺に謎解きしろって言うのかい」

「それそれ、それだよ。謎。奴らの汚ねぇ仕事を任されて、俺より上手くこなせる人間は、他にいねぇってのがわからねぇのかよ、連中は。あの小僧を見てみろや。あんた、三ヶ月前にあの子を見たよな、市民ラサール。王族っ気を抜かれたあの子をよ。すっかり王族っ気を抜いてやったんだぜ。あの小僧っ子の今のザマを見ろよ。あのメッサリナが、腹を痛めた実のお袋が、奴に会う為にあの世から戻って来たとしてもよ、見分けがつかないはずだぜ。そいつは誰の仕事だよ?俺だ、チクショウめ。この俺様だよ!それだってのに、奴らは犬っころみたいに俺を追い出そうっていうんだぜ。連中は、俺っちを追い出したいんだ」

「それだよ」ラサールが言った。「連中は君を追い出したいんだ。君が今、説明した通りにね。君は鋭いよ、親愛なる市民シモン。ショーメットがあの法令を通過させたのは、君を追い出す為なんだ。君は真相を突き止めた。一目瞭然ってやつだ」

「なんてこった!」シモンが言った。

「そして、どうしてそんな事をしたのか?説明がいるかい、もう、君にも、はっきりと見えてるんじゃないか?君はあまりにも働き者で、あまりにも用心深くて、あまりにも模範的な愛国者だ。君は奴らの汚い貴族主義の計画にとって、邪魔なのさ。ああ、これで何もかもはっきりしたよ。ショーメットと奴の仲間たちは、情勢が変化した時、専制政治に戻った時に、身の安全を確かにしようと企んでるんだ。連中には根性も勇気もないのさ。ちょっとばかり物事が上手く運ばないと、すぐに自分たちが負けると考えるんだ。俺は何回か、そういう場面を見てるからね。お陰で、この悪事のカラクリにも察しがついたんだよ。連中は自分たちの安全しか頭にないのさ」

 シモンは、彼にも理解できるような話ならば、どんな悪事でも鵜呑みにする気が満々だった。「あのクソッタレの悪党が俺を追い出すと、どうして連中が安全になるんだ?」

 暗闇の中、忍び笑うラサールの声が聞こえ、彼は自分の腕がラサールの細く強健な指で掴まれるのを感じた。「多分だけど」恐ろしく淡々と、若い画家が言った。「連中は、あの小僧を盗むつもりなんだと思うよ。その手始めに、君を余所にやろうとしてるんじゃないか?」

「あの餓鬼を盗むって?どうして盗むんだ?」

「売り飛ばす為にだよ」

「売り飛ばす?誰が奴を買いたがってるって言うんだ?」

「オーストリアの皇帝を筆頭に、何人も。あの子を売り飛ばせば、明日にでも金貨で五〇万は手に入れられるよ。多分、それよりもっと高く取れるかもね」

 口を突いて溢れ出た罵詈雑言が、シモンの驚きの深さを証明していた。彼は暗闇で道に迷っていた時に突然ひとつの光明を見た男のように、自分自身がそう思いたがっていた者についての最悪の話に易々と飛びつき、信じ込んだ。ラサールが彼を押し留めた時も、シモンは依然として周囲を気にせずまくし立てていた。

 彼らはスービーズ通りを横切ろうとしていた処であり、其処に右方から自治地区の警備隊が近づいて来た。隊長は進み出ると、ランタンを二人の徘徊者の顔の高さまで上げた。

「止まれ!ああ、あんたか、市民シモン」彼はラサールの方に視線を移した。「証明書を、市民」

 ラサールは懐から証明書を取り出すと、灯に向けて広げて見せた。それを確認すると、警備隊は二人を放免し、どしどしと重い足音を響かせて歩み去った。

 シモンは激しい非難を再開した。ひとしきりは支離滅裂だったが、しかし最後には、それは一つの結論に向けて首尾一貫したものになった。市民ラサールは正しかった。あんたが言う通りに違いない。ショーメットは欲深で業突く張りの卑怯者だ。奴はオーストリアにあの小僧を売るつもりなんだな?このアントワーヌ・シモンに邪魔される間は避けて。彼は御照覧あれと地獄の悪魔どもの名を唱えた。俺はあの糞野郎を告発してやるぞ、と。

「まあまあ」ラサールは言った。「よく考えなよ。ショーメットは二十四時間以内に君をナイフでぶっすりやるぞ。奴が企んでる事は、誰にだって見当がつけられるくらい単純なものさ。でも法律を前にして、ただの推理が何の役に立つっていうんだ?できるもんなら俺が自分で奴を告発するさ、それを証明できるならね。でも俺は、無駄にギヨティーヌの下に首を突っ込むほどイカレちゃいない」

「じゃあ、俺っちはなんにもできないってのか?こんな汚ねェ事をよ、指をくわえて見てろってのか?」

「市民シモン、今の君は、ものすごく危険な立場なんだよ。現実的に考えてね、君にできる事なんて何もないんだよ。例えば君が先回りして小僧を盗んで奴らを出し抜いてやるなんて、いくらなんでも正気の沙汰じゃないだろ」

 シモンはハッと息を呑んだ。「正気の沙汰じゃないって?けど、正気じゃねぇってンなら、元からだろ?他の奴らにできる事ならよ、俺にだってできるのが道理ってもんじゃねぇのか?」

「まあまあ!ちょっと落ち着けよ。君はとんでもない計画を持ちかけてるんだぜ」

「俺は共和国の為に小カペーを護ろうって言ってんだ。何とかできるはずなんだ」

「君の言う通り、何とかできるはずだろうさ、でなきゃ、あの悪党たちは考えなしって事になるからね。でも、難しいのはその方法だ。そうだなぁ、ちょっと考えてみようか」彼はしばらく静かに考えを巡らせているようだった。「教えてくれないか、君はいつ、タンプル塔を出て行くんだ?」

「俺に訊いてどうするよ?あんたが知ってるより詳しい話は聞かされてないんだよ。多分一週間か、二週間の内じゃねぇかな」

「そうか。きっと君の予想通りなんだろうが。一番賢いやり方はね、君が出て行く時に、あの子を一緒に連れて行くって手だよ。まあ待てよ!聞きなって」

 嗜められたシモンは、我を抑えて青年の話に耳を傾けた。

 長いタンプル通りを歩きながら、ラサールは着実に話を続け、そしてその間、シモンは一歩を進める毎に深く、更に深く、その巧妙な若い紳士のまことしやかな雄弁に深く魅了されていくのであった。

 その夜遅く、ラサールはメナール通りのド・バッツに現状を簡潔に説明した。

「行進中ですよ、男爵。俺は操り人形を踊らせる楽器を抱えている処です。ショーメットには、バラスに先んじて少年を誘拐して確保するよう説得しました。ショーメットは、まず始めにシモンが誘拐を実行するように説得してくれと、俺を説得しました。シモンには、ショーメットの行動を防ぐ為に先んじて彼が同じ事を行うよう説得し、そして彼の共和主義者としての良心をなだめる為に五〇万をチラつかせました。全てが列を成しています。いずれシモンとショーメットの間の何処かで、連結を外す為に介入するつもりですが。その時が来るまでは滞りなく進んでいくでしょう。ギヨティーヌみたいに滞りなくね」

 ド・バッツ、陰謀の首魁は、物憂げに微笑んでいる若い男を畏怖の目で見た。

イソノ武威
作家:ラファエル・サバチニ
The Lost King 失われし王 ルイ=シャルル(上)
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