てつんどの独り言 その2

第三章( 5 / 19 )

「午前10時の映画祭」って知ってますか

 

 最近、親しい知人に紹介されて知った映画祭がある。それは、「午前10時の映画祭」

名前の通り、毎朝10時から一日一回こっきり、一本だけの上映だ。

 

0.16午前10時の映画祭.jpg

 

<午前10時の映画祭>

 

 映画祭と言えば、有楽町の朝日ホールで行われるイタリア映画祭も楽しみで、ほとんど毎年見に行っている。ここでは、日本では最近、全く見られなくなった今日のイタリア映画を紹介してくれて、楽しんでいる。

 

 今回の「午前10時の映画祭」は、1950~70年代当たりまでの古い名作をえらんで上映している。赤の50本と青の50本と区分けされているけど、どう違うのかは分からない。

 

 全国にある東宝系の映画館でやっているから、どこの人でも地元で見ることができる。

とにかく、東宝さんが考え出した、これは良いあたらしいアイデアだ。

 

 近くの映画館を探して、最近見たのが「スタンド・バイ・ミイ」 これはオリジナルの時期には、み損ねていたもので、歌だけは、空でも歌えるくらい知っている曲が流れる映画だ。

 

 12歳の二人の男の子、これがやくざな親友同士。周りにさらに3人の友達、5人で森や林や沼や線路の鉄橋を渡ったりして2泊の旅をする物語だ。その映画の間、ずっとこの曲がかかっている。

 

 これは楽しい映画で、僕に「ハックルベリー・フィンの冒険」を思い出させてくれた。この中で、ハックルベリー・フィンと同じく、どんどん親友は親友になり、また、他の人との関わり合いで、どんどん成長していく。幼馴染の深まりを、実に鮮やかに描き出している。

 

 僕の幼馴染、そう、いつの間にか「ハックルベリー・フレンド」という言葉を作ってしまうくらい親しい幼馴染がいた。その後は、会ったこともない。でも忘れられない友達。彼と、僕の犬と、三人で、偶然なのだけれど、「スタンド・バイ・ミイ」と同じように、汽車をとめた事がある。そんな自分の小学生の頃の記憶へ、僕を飛翔させてくれた今度の映画だ。

 

 僕の思い出はこうだ。

 

 ある日、僕たちは近くの線路の中に入って歩いていた。どこか危険だっていう気持ちはあったのだと思うけど、遊びに夢中になって、いつかみんな線路を全速力で駆けていた。と、あるカーブを曲がった。と、僕たちに向かってすごいスピードで走ってくる蒸気機関車に出っくわしたのだ。

 

 逃げろ、といって右側の山の斜面に飛んだ。みんな飛んだ。真っ黒な塊のC11がポッポーと警笛を鳴らし、火花を飛ばしてギッギギーとブレーキをかけながら、目の前を走りすぎた。僕たちが土手に飛び込むのと、機関車がそこに走りこんできたのは、ほんの一瞬の差だった。

 

 僕たちは山の斜面で抱き合って震えていた。怖かった。列車は僕たちのいる場所をかなり通り過ぎて、やっと停まった。窓から大勢の人たちが身を乗り出して、僕たちのことを見ていた。

 

 ハッと気が付くと、最後尾の車掌室から車掌さんが飛び降りてきて、怒鳴りながら僕たちのほうに走ってきた。これはマズイと僕たちは、全速力で列車と逆方向に走った。

 

 「スタンド・バイ・ミイ」では、汽車は止まってくれなくて、愚図の二人は鉄橋から落っこちて、難をのがれたのだが、鮮やかに昔、一緒に汽車をとめた幼馴染のことを思い出させてくれた。

 

 映画というメディアは、単にその映画を見せてくれるだけではなく、心の中の記憶をも呼び覚ましてくれる、すごい力があるのだと知った。

 

 もう一つ発見があった。みんなも知っている、”Darling, Darling…“というのは、僕は恋人に向かって、懇願している男の言葉としてイメージしていたが、それは間違いだった。

 

 本当は、幼馴染同士が、一緒にいれば怖くない、怖くないという意味だと大発見。ジョンレノンもカバーしているこの曲は、どこかで、曲解されて、恋の歌になってしまったようだ。

 

 とにかく、久しぶりの映画、堪能した。

 

 ちなみに、これから見たい映画を、「午前十時の映画祭」の予定表からピックアップすると、

 

 ・禁じられた遊び
 ・甘い生活
 ・シェーン
 ・シベールの日曜日
 ・山猫
 ・道
 ・鉄道員
 ・裏窓

 

 こんな感じです。

 

 

 

<このロゴは、東宝の「午前十時の映画祭」のものをお借りしました>

 

第三章( 6 / 19 )

「午前10時の映画祭」トルナトーレ作品

 

友達に教えてもらったこの映画祭で、先日2本目のフイルム、「ニュー・シネマパラダイス」を見てきた。

 

0.21Giuseppe Tornatore a Venezia.jpg

 

<ジュゼッペ トルナトーレ監督@ヴェネチア>

 

監督は、ジュゼッペ トルナトーレ。日本では、「海の上のピアニスト」や、今回みた「ニュー・シネマパラダイス」などで知られるイタリアの大監督だ。

 

物語は、故郷、シチリアで多感な少年期を過ごし、今は映画の監督になっている大人のフラッシュバックを使った回顧の物語だ。

 

この映画についてはあとで触れるけれど、この映画を見て、僕にもフラッシュバックしてきたものがある。

 

若いころ、1970年代に2年ほど、ミラノに住んでいた。この映画を見ていて、その頃のミラノの映画館の情景が思い出されたのだ。この映画の画面は大部分、シチリアの田舎の小さな映画館の中の映像だ。それが、昔、僕がミラノの映画館で見た場景をはっきり蘇らせてくれた。

 

今もそうだけれど、イタリアでは外国映画はすべて吹き替えで上映される。日本のように字幕なんてものはない。もともと、映画は戦後の民衆の一大娯楽、唯一の娯楽であったから、文字の読めない人もたくさんいたわけだ。イタリア語に噴き替えれば、だれでも映画を楽しめるというわけだ。

 

だから、アランドロンも、オードリーも、ジョージ・チャキリスも、日本の侍も、みんなみんなイタリア語を話す。南ドイツのノイシュバン・シュタイン城を、初めて僕に教えてくれた映画、「チキチキ・バンバン」でも英国映画なのに、登場人物はみんなイタリア語で話す。なんだか変だなと思ったら、すべて吹き替えだった。

 

残念ながら、ミュージカルの歌、映画に出てくる歌は吹き替えられないから、フランス語だったり、英語だったりする。声の質の似た声優さんをたくさん揃えていなければできない映画の吹き替えだ。登場人物が、突然別の質の声で歌いだしたら、見ている方だって混乱するはずだ。

 

「ニュー:シネマパラダイス」に出てきた映画館の場景も懐かしかった。今のイタリアでどうなのかは知らないが、その頃のイタリアの映画館では、上映中、食べ物を持ち込んで豪快に食べながら、ワインを飲みながら映画を見ていた。観客同士のおしゃべりも自由だし、場末に行くとタバコを吸っている人もいた。映画の中の出来事や場面にも、声を出して一喜一憂する。とにかく客席がうるさいのだ。映画に集中できないってことだってある。

 

映画の最後のテロップが流れて終わりになると、映画が気に入ればみんなで大拍手だ。「ブラヴィー!!」と叫ぶ者もいる。

 

そして、なぜか知らないけれど、映画館の中に警察官が制服で立っていた。観客同士の喧嘩とか、よほど目に余る行為をやめさせる意味があったのだろう。

 

この映画を見て起こった僕のフラッシュバックはこのあたりにして、「ニュー・シネマパラダイス」に話をもどそう。

 

超荒筋は、シチリア(トルナトーレの故郷でもある)で少年、トトは映画館の映写室に入り込み、映写技師アルフレード(フィリプ・ノワレの素晴らしい演技)と仲良くなり、自分も映写技師となる。しかし失恋と従軍を契機に、シチリア島を出てローマで映画の大監督になる。ママからの突然の電話で知ったアルフレードの葬式に出席するため、30年ぶりに帰島する。シチリアに帰島を決める過程で、自分の少年期を一人回顧する。

 

何と言っても、現実の時間と、過去の時間へのフラッシュバックのうまさに引き込まれた。そして、アルフレードの言葉にうたれた。「島を出たら絶対に帰るな!」「外で大きく羽ばたけ!」と青年に対する言葉だ。彼は自分の死に際に、「トトには自分の死を知らせるな」と言い残す。

 

最後は、葬儀をすませてローマにもどった監督が、その昔、カトリックの司祭さんが検閲してカットした数限りないキスシーンや、ラブシーンの細切れフイルムをつなぎ合せ、数限りないキスシーンやベッドシーンだけが続くフイルムを作り上げ、それを見ている現在で終わる。

 

この映画を見て感じたことは郷愁だった。僕自身の少年期への郷愁だった。360度、どの方向へも進んでいける可能性に満ちていた少年時代。そして、一方現実には、これまで生きてきた自分、そして生きている今。

 

こうした長い時間と大きなギャップが、僕に郷愁を感じさせたのだろう。えらく自分を振り返らせる映画だった。鑑賞をお勧めします。

 

P.S.

この映画は、トルナトーレの撮ったドキュメンタリー、「マルチェロ・マストロヤンニ・甘い生活」を思い出させてもくれた。ローマ郊外のチネチッタでのカメラワークが美しかったとおぼえています。

 

 

<写真:flickerから、イタリア SupergaCinema.it社の「ヴェネチアのGiuseppe  Tornatore」をお借りしました>

ライセンスはCreative Commonsの“表示  非営利”です

第三章( 7 / 19 )

イタリア映画「鉄道員」

 

 「午前10時の映画祭」で、懐かしい1956年のピエトロ・ジェルミ監督および主演の「鉄道員」を、おそらく40年ぶりくらいで見てきた。イタリア・ニューレアリズムの名作だったが、時間が経った今どう見えるのか楽しみだった。

 

0.23Capostazione-Firenze.jpg

 

<鉄道員>

 

 結論は、「そうだったなぁ」というところで止まってしまった。昔、見たときの生きた感情が全く舞い戻っては来なかったのだ。どこで、だれと見たのかは覚えてはいないけれど、このモノクロの映画に、最初に見た時には感動したものだ。

 

 ラストシーンの「ブゥオンジョルノ シニョーラ」と言う声と、階段を駆け下りていく靴音、そして、朝の始業を告げる街に響くサイレンの野太い音、それが昔も、今回も心に残った。このシーンのバックグラウンド・ミュージックも定番でよく覚えていた。

 

 しかし、ストーリーには全く感動しなかった。筋を知っていたからかもしれない。でも、二度目に見ても感動する映画が存在するのは確認済みだから、何かが違っているのだろう。

 

 この映画は、小学生の息子、サンドロの視点から見たパパを中心とした回想の映画だ。この視点の設定も、当時は新鮮だったのかもしれない。

 

 あらすじは、50歳のイタリア国鉄の特急の運転士(ローマ~フィレンツェ、ミラノ間)の家の物語だ。娘のできちゃった婚と、その孫になる子の死産、長男のぐうたらな生活、貧しいけれどいたずら盛りで明るいサンドロ。そして、夫を優しく見守る妻、そして、たくさんの飲み友達。

 

 自分の運転する列車へ青年が飛び込み自殺をした。この衝撃を受けた直後、ボローニャ駅で赤信号を見落とし、あわや正面衝突の大惨事のところを急ブレーキで何とか逃れる。格下げされて、入れ替え用SLの機関士。収入も激減。しかも、組合のストを破って「スト破り」のレッテルを張られる。家に居付かず、酒場を転々として飲み過ぎて体を壊す。

 

 サンドロに見つけられ家に帰る。何か月か療養してクリスマス。機関士の親友が、たくさんのともだちを連れてやってくる。長男も娘も戻ってくれる。しかし、このパーティーの後、彼は自慢のギターを弾きながら、眠るように死んでいく。

 

 なんだ、そんなことって、人生にあるよなって思ったのかもしれない。それは僕が、同じように人生を長く生きてきたから、こんな出来事は当たり前になってしまって、感動しなかったのかもしれない。

 

 最初に見た時には、まだ若くて、いろんなことに対する感度が高く、アンドレアの人生の悲喜劇を、自分にもこれから起こる可能性のある、幸、不幸のように感じて、感情移入をしていたのかもしれない。

 

 しかし、今回は自己投影を見ていたのかもしれない。生きてきた人生を振り返れば、「人生ってそんなもんさ!」と、うそぶいている自分がいるのかもしれない。そうであれば、感動しないのはよくわかる気がする。

 

 端的に言うと、自分の感情に鈍感になってきているのかもしれない。

 

 客席は僕よりも少し年齢の上の人が多かった気がする。懐かしさが、僕と同じように彼らを呼び寄せたにちがいない。

 

 1956年作成とは、僕の青年期の10年くらい前だ。この時代に青年期を迎えた人たちが「化石」と呼ばれ始めている、その年代に僕自身も確実に近づいている。

 

 生のイタリア語を聴けたのは楽しかった。今のイタリア語より少しゆっくりな感じがした。時代のせいかも…。

 

 一つ発見があった。

 

 今、イタリア国鉄で使われている駅の「何番線」を意味するBinario(対になったもの:プラットホーム)が、映画ではMarciapiedi(歩道、プラットホームと言う意味もある)と呼ばれていた。

 

 立派な駅も含めて、だいたいヨーロッパの駅のホームは、日本に比べて低いつくりだ。お客は、ほとんど線路と同じくらいの高さのプラットホームから、やっとこさと苦労しながら、客車に乗り込む。Marciapiediは名は体をあらわしていると言えそうだ。使用される単語も、時の流れとともに変わってきているようだ。

 

 

<写真はflickrから、Veletio Pirreraさんの ”Capostazione:駅長“をお借りしました>

ライセンスはCreative Commonsの“表示”です

第三章( 8 / 19 )

白磁・青磁の逸品との再会

 

 

 ミッドタウンのサントリー美術館で素晴らしい展覧会を見てきた。

 

  大阪市立東洋陶磁器美術館が改修工事のために閉館中。おかげで、東京のど真ん中で、安宅コレクションを中心とする「東洋陶磁器の美」展が開かれたのだ。

 

  大阪にも2回ほど見に行っているから、初めてではない物も多くあった。でも、やはり素晴らし物は何度見ても素晴らしい。

 

  実は、最初にこの流れの美術展に出くわしたのは、1960年代の初めに東京上野の国立博物館で行われた「東洋陶磁器美術展」まで遡る。その時に受けた印象が、今回、確かなものとして僕自身で再確認できた。とにかくすごい展覧会だ。

 

  何がすごいかというと、東洋の陶磁器の概観が浮き彫りになるからだ。

 

 つまり、作品の質、緊張感、他との比較での順位、正当性、インチキ性、洗練度、オリジナリティ、真似ごと、などが一目瞭然と体感できるからだ。これが僕にとっては、2回目の体験だから、間違いはないと確信している。

 

  今回は、日本のものとしては例外的に唯一、信楽の大壺出ていたが、そのほかは日本のものは全く出ていなかった。しかし確信はゆらがない。

 

 前回同様、今回も確信したのは、東洋陶磁器の順位づけとしては、間違いなく次の順序だ。

 

  1.朝鮮の青磁から白磁

  2.中国の青磁・白磁

  3.日本の陶磁器

 

  今回は、日本のものは一点だけだったので、自分の中の日本の陶磁器の記憶・印象を引き出したものだ。

 

  何の順位かというと、上にあげた作品の質による順位づけだ。

 

  中国のものにも悪くはないが、どちらかというと、武骨で美しくない。唐三彩とか、磁器とか、技術的な貢献は大だけれど作品が美しくはない。心に響いてこないのだ。作者の気持ちが、僕に伝わっては来ないのだ。例外は「飛青磁花生」ほか数点だった。

 

  時代が下がって、ヨローッパを意識し始めた景徳鎮にでもなったら、もうこれは商品でしかない。

 

 その点、朝鮮の青磁から白磁への時代を代表する15~8世紀の作品に接すると、そこには、美しさと、僕自身に語りかける作者の緊張感と、人間の手による「作る人」が現れていて、見る人を魅了する。

 

  技術的には、中国で始まり、朝鮮で磨かれ、それが日本にわたってきたわけだが、技術に磨きがかけられたのは、間違いなく朝鮮だ。しかも、もとは雑器だったのだから、素直な姿がより透けて見える。飾りが皆無だ。

 

  日本のものは、今回見られなかったが、僕の知っている限り、朝鮮を超えるものはない。どちらかというと、真似ごとにしか見えない。

 

  唐津、有田をはじめ、九谷、志野なども、どう見ても、作者の「ちょっと、これでどうだ」という心が臭い出してきていやになる。これは茶道具として、もてはやされた特徴が透けて見えてくる。緊張感などみじんもない。

 

  結果としては、われわれ日本人は、つまらない真似事の陶磁器に惑わされているというわけだ。

 

  朝鮮の磁器で、心を打ったものをいくつか厳選してあげると、次のようなものが浮かび上がってくる。

 

  一番は、何と言っても「青花窓絵草花文面取壺」だろう。

 

0.241青花絵窓草花文面取壺 軽.jpg

 

 

 <写真>

 

   何度か見ているのだが、僕の頭の中ではもう少し小ぶりだと思っていたが、どう

  して、大きなものだった。面取りが美しい。形が美しい。

   そして新たな発見もあった。僕は、ずっと楕円形の壺を記憶していたのだ 

  が、今回見ると、真円だ。これにはびっくりした。温かみと一緒に緊張感がみな 

  ぎっている。

 

二番目は、白磁の「白磁大壺」だろう。

 

0.242白磁志賀直哉蔵軽.jpg

 

<写真>

 

  壊されるという不幸にあっているが、ゆたかな、ゆったりとした存在感は偉大。

  こんなのを、自分の部屋にでもいておけたら、素晴らしいと思う。

 

  三番目は、「青花草花文面取瓶」だろう。

 

0.243青花草花文面取瓶.jpg

 

  <写真>

 

   見たらわかるとおり、面取りといい、染付といい、簡素で、しかし緊張感に満ちている。

 

ひとつ今回、おもしろい発見をした。

 

  こうした磁器の壺の世界に、物語性を持ったものを発見したのだ。それは「青い花虎鵲文壺」

 

 カササギガ飛んできて、木に止まり、虎(僕には猫に見えた)に話しかけ、ねこ 

 (虎)は、カササギの話を聞いて体を長~~~くして歩み去る。楽しかった。

 

  安宅の二代目から、伊藤忠、そして住友グループの思慮深い取扱いを受けて、あちこちに散らかることなく、素晴らしいコレクションを、そのまま大阪市に寄贈されたことは尊敬に値する。大阪人も商売、商売で、金もってこい!だけではではないようだ。

 

 ゆたかな気持ちになって、ミッドタウンを出た僕は、その後、三日程、画集をくりながら幸せだった。

 

P.S.

使用した絵は、展覧会で購入した絵葉書をスキャンしたものです。

 

0.244東洋陶磁器の美.jpg

 

<全体像>

 

徳山てつんど
てつんどの独り言 その2
0
  • 0円
  • ダウンロード

6 / 52