てつんどの独り言 その2

第三章( 4 / 19 )

森瑤子の風月堂

 

 僕は、ある作家の作品を気にいって読み始めると、その作家の作品の全部を読んでしまいたいという気持ちになる。だから、その人の本をまとめ買いする癖がある。かといって、必ずしも全てを一気に読み終えるというではなく、「積読」になることだってあるし、途中でいやになって、読むのを放棄することもある。

 

0.06 ある日、ある午後.jpg

 

<森瑤子:ある日、ある午後>

 

 この間数えてみたら、僕は生まれてから28回ほど引っ越してるこ。引越しは身軽が一番だから、本という重いたいものは引越しのたびに必要最小限のものになっていって、あっ、あの本、どこだっけな、んて後になって参照しようとしても、手元にほとんどがない。しょうがないから、図書館で限られた記憶をもとに、必死でのその本を探す羽目になる。

 

 今、仕事関係以外で珍しく手元に残った作家の本は、立原正秋と森瑤子の文庫本のみ。それらは,カミさんの立派な本棚の片隅を、文庫本だから二段済みにして間借りしている。

 

 最近、立原を時間があると読んでみたりしているが、若い頃の感じとはちがった立原を見つけて喜んでいる。

 

 森瑤子も同じで、スッと手が伸びたのが「ある日、ある午後」という角川文庫だった。短編で、気軽に読んで楽しんでいたら、思わぬところに、次のような記述があった。

 

 

  >二昔以上前、新宿に風月堂という喫茶店があった。当時、そこが、御茶ノ水の

 ジローと並んで、私たちの溜まり場であった。コーヒーが一杯、確か七十円だった

 ころだ。芸大の学生だったので、いつもバイオリンのケースをかかえていた。最初

 にフランクのバイオリンソナタをリクエストとして、それからコーヒーを頼み、

 バイオリンのケースの中から取り出すのが角川文庫の「中原中也詩集」であった。

 リクエストした曲は、なかなか順番が回ってこなくて、かからなかった。だから中也 

 の詩は暗記するほどくりかえし読んだ。夜の10時ごろ、ようやくリクエストが掛か 

 り、私は文庫を閉じ、フランクを聴き、終わると大急ぎで家に帰るのだった。その

 風月堂は、その後ヒッピーの溜まり場になったと聞く。もちろん、今はもうない。

 

 森瑤子『ある日、ある午後』角川書店(角川文庫)、平成元年120日、頁198199

 なお、初出は、『朝日新聞』1986119日~23日号とある。

 

 森瑤子は1940年生まれだから、芸大生のころだとすると19才~22才位足して195962年位の時期のものだと推測できる。

 

また、初出が1986年とあるから、二昔の20年溯ると、1966以前ってことで、だいたい196065年くらいの思い出と思えば間違いない。

 

 一方、僕の風月堂(僕的に言うと、Fugetsudo)に入り浸っていた時期は、60年安保の翌年、1961から65年の間だったから、もしかするとフランクのバイオリンソナタは森瑤子と一緒に聞いたのかもしれない。こんな発見は楽しい。

 

 確かに、そのころの風月堂はクラシックのLPが流れていて、みんながリクエストして、その曲が流れるのを気長に待っていた。演奏中の曲のLPジャケットが、オーディオセットがでんと入っているガラス張りのレコード・ルームの前に、楽譜立てみたいなものに置いてあったと記憶している。

 

 1960年代後半、アメリカの北爆を契機に立ち上がった「べ平連」や、70年安保闘争、新左翼などで衆目を集めた「風月堂」は、僕がFugetsudoから消えた後になって生まれてきた別の世界のようにみえる。

 

 森さんのこのエッセイは、懐かしい空間、時間、音楽、空気を共有した古い友達に何十年か経って思いがけず出逢い、思い出を探りながら、その友と語らっているような気分にしてくれた。予期せず、楽しい時間だった。天国の森さんへ感謝。

 

P.S.

森さんの作品の中には、風月堂の描写が芸大生のころの思い出として、いくつかほかにも書かれているのを発見しました。

たとえば、『恋愛関係』角川書店(角川文庫)、昭和638月10日 とか。

第三章( 5 / 19 )

「午前10時の映画祭」って知ってますか

 

 最近、親しい知人に紹介されて知った映画祭がある。それは、「午前10時の映画祭」

名前の通り、毎朝10時から一日一回こっきり、一本だけの上映だ。

 

0.16午前10時の映画祭.jpg

 

<午前10時の映画祭>

 

 映画祭と言えば、有楽町の朝日ホールで行われるイタリア映画祭も楽しみで、ほとんど毎年見に行っている。ここでは、日本では最近、全く見られなくなった今日のイタリア映画を紹介してくれて、楽しんでいる。

 

 今回の「午前10時の映画祭」は、1950~70年代当たりまでの古い名作をえらんで上映している。赤の50本と青の50本と区分けされているけど、どう違うのかは分からない。

 

 全国にある東宝系の映画館でやっているから、どこの人でも地元で見ることができる。

とにかく、東宝さんが考え出した、これは良いあたらしいアイデアだ。

 

 近くの映画館を探して、最近見たのが「スタンド・バイ・ミイ」 これはオリジナルの時期には、み損ねていたもので、歌だけは、空でも歌えるくらい知っている曲が流れる映画だ。

 

 12歳の二人の男の子、これがやくざな親友同士。周りにさらに3人の友達、5人で森や林や沼や線路の鉄橋を渡ったりして2泊の旅をする物語だ。その映画の間、ずっとこの曲がかかっている。

 

 これは楽しい映画で、僕に「ハックルベリー・フィンの冒険」を思い出させてくれた。この中で、ハックルベリー・フィンと同じく、どんどん親友は親友になり、また、他の人との関わり合いで、どんどん成長していく。幼馴染の深まりを、実に鮮やかに描き出している。

 

 僕の幼馴染、そう、いつの間にか「ハックルベリー・フレンド」という言葉を作ってしまうくらい親しい幼馴染がいた。その後は、会ったこともない。でも忘れられない友達。彼と、僕の犬と、三人で、偶然なのだけれど、「スタンド・バイ・ミイ」と同じように、汽車をとめた事がある。そんな自分の小学生の頃の記憶へ、僕を飛翔させてくれた今度の映画だ。

 

 僕の思い出はこうだ。

 

 ある日、僕たちは近くの線路の中に入って歩いていた。どこか危険だっていう気持ちはあったのだと思うけど、遊びに夢中になって、いつかみんな線路を全速力で駆けていた。と、あるカーブを曲がった。と、僕たちに向かってすごいスピードで走ってくる蒸気機関車に出っくわしたのだ。

 

 逃げろ、といって右側の山の斜面に飛んだ。みんな飛んだ。真っ黒な塊のC11がポッポーと警笛を鳴らし、火花を飛ばしてギッギギーとブレーキをかけながら、目の前を走りすぎた。僕たちが土手に飛び込むのと、機関車がそこに走りこんできたのは、ほんの一瞬の差だった。

 

 僕たちは山の斜面で抱き合って震えていた。怖かった。列車は僕たちのいる場所をかなり通り過ぎて、やっと停まった。窓から大勢の人たちが身を乗り出して、僕たちのことを見ていた。

 

 ハッと気が付くと、最後尾の車掌室から車掌さんが飛び降りてきて、怒鳴りながら僕たちのほうに走ってきた。これはマズイと僕たちは、全速力で列車と逆方向に走った。

 

 「スタンド・バイ・ミイ」では、汽車は止まってくれなくて、愚図の二人は鉄橋から落っこちて、難をのがれたのだが、鮮やかに昔、一緒に汽車をとめた幼馴染のことを思い出させてくれた。

 

 映画というメディアは、単にその映画を見せてくれるだけではなく、心の中の記憶をも呼び覚ましてくれる、すごい力があるのだと知った。

 

 もう一つ発見があった。みんなも知っている、”Darling, Darling…“というのは、僕は恋人に向かって、懇願している男の言葉としてイメージしていたが、それは間違いだった。

 

 本当は、幼馴染同士が、一緒にいれば怖くない、怖くないという意味だと大発見。ジョンレノンもカバーしているこの曲は、どこかで、曲解されて、恋の歌になってしまったようだ。

 

 とにかく、久しぶりの映画、堪能した。

 

 ちなみに、これから見たい映画を、「午前十時の映画祭」の予定表からピックアップすると、

 

 ・禁じられた遊び
 ・甘い生活
 ・シェーン
 ・シベールの日曜日
 ・山猫
 ・道
 ・鉄道員
 ・裏窓

 

 こんな感じです。

 

 

 

<このロゴは、東宝の「午前十時の映画祭」のものをお借りしました>

 

第三章( 6 / 19 )

「午前10時の映画祭」トルナトーレ作品

 

友達に教えてもらったこの映画祭で、先日2本目のフイルム、「ニュー・シネマパラダイス」を見てきた。

 

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<ジュゼッペ トルナトーレ監督@ヴェネチア>

 

監督は、ジュゼッペ トルナトーレ。日本では、「海の上のピアニスト」や、今回みた「ニュー・シネマパラダイス」などで知られるイタリアの大監督だ。

 

物語は、故郷、シチリアで多感な少年期を過ごし、今は映画の監督になっている大人のフラッシュバックを使った回顧の物語だ。

 

この映画についてはあとで触れるけれど、この映画を見て、僕にもフラッシュバックしてきたものがある。

 

若いころ、1970年代に2年ほど、ミラノに住んでいた。この映画を見ていて、その頃のミラノの映画館の情景が思い出されたのだ。この映画の画面は大部分、シチリアの田舎の小さな映画館の中の映像だ。それが、昔、僕がミラノの映画館で見た場景をはっきり蘇らせてくれた。

 

今もそうだけれど、イタリアでは外国映画はすべて吹き替えで上映される。日本のように字幕なんてものはない。もともと、映画は戦後の民衆の一大娯楽、唯一の娯楽であったから、文字の読めない人もたくさんいたわけだ。イタリア語に噴き替えれば、だれでも映画を楽しめるというわけだ。

 

だから、アランドロンも、オードリーも、ジョージ・チャキリスも、日本の侍も、みんなみんなイタリア語を話す。南ドイツのノイシュバン・シュタイン城を、初めて僕に教えてくれた映画、「チキチキ・バンバン」でも英国映画なのに、登場人物はみんなイタリア語で話す。なんだか変だなと思ったら、すべて吹き替えだった。

 

残念ながら、ミュージカルの歌、映画に出てくる歌は吹き替えられないから、フランス語だったり、英語だったりする。声の質の似た声優さんをたくさん揃えていなければできない映画の吹き替えだ。登場人物が、突然別の質の声で歌いだしたら、見ている方だって混乱するはずだ。

 

「ニュー:シネマパラダイス」に出てきた映画館の場景も懐かしかった。今のイタリアでどうなのかは知らないが、その頃のイタリアの映画館では、上映中、食べ物を持ち込んで豪快に食べながら、ワインを飲みながら映画を見ていた。観客同士のおしゃべりも自由だし、場末に行くとタバコを吸っている人もいた。映画の中の出来事や場面にも、声を出して一喜一憂する。とにかく客席がうるさいのだ。映画に集中できないってことだってある。

 

映画の最後のテロップが流れて終わりになると、映画が気に入ればみんなで大拍手だ。「ブラヴィー!!」と叫ぶ者もいる。

 

そして、なぜか知らないけれど、映画館の中に警察官が制服で立っていた。観客同士の喧嘩とか、よほど目に余る行為をやめさせる意味があったのだろう。

 

この映画を見て起こった僕のフラッシュバックはこのあたりにして、「ニュー・シネマパラダイス」に話をもどそう。

 

超荒筋は、シチリア(トルナトーレの故郷でもある)で少年、トトは映画館の映写室に入り込み、映写技師アルフレード(フィリプ・ノワレの素晴らしい演技)と仲良くなり、自分も映写技師となる。しかし失恋と従軍を契機に、シチリア島を出てローマで映画の大監督になる。ママからの突然の電話で知ったアルフレードの葬式に出席するため、30年ぶりに帰島する。シチリアに帰島を決める過程で、自分の少年期を一人回顧する。

 

何と言っても、現実の時間と、過去の時間へのフラッシュバックのうまさに引き込まれた。そして、アルフレードの言葉にうたれた。「島を出たら絶対に帰るな!」「外で大きく羽ばたけ!」と青年に対する言葉だ。彼は自分の死に際に、「トトには自分の死を知らせるな」と言い残す。

 

最後は、葬儀をすませてローマにもどった監督が、その昔、カトリックの司祭さんが検閲してカットした数限りないキスシーンや、ラブシーンの細切れフイルムをつなぎ合せ、数限りないキスシーンやベッドシーンだけが続くフイルムを作り上げ、それを見ている現在で終わる。

 

この映画を見て感じたことは郷愁だった。僕自身の少年期への郷愁だった。360度、どの方向へも進んでいける可能性に満ちていた少年時代。そして、一方現実には、これまで生きてきた自分、そして生きている今。

 

こうした長い時間と大きなギャップが、僕に郷愁を感じさせたのだろう。えらく自分を振り返らせる映画だった。鑑賞をお勧めします。

 

P.S.

この映画は、トルナトーレの撮ったドキュメンタリー、「マルチェロ・マストロヤンニ・甘い生活」を思い出させてもくれた。ローマ郊外のチネチッタでのカメラワークが美しかったとおぼえています。

 

 

<写真:flickerから、イタリア SupergaCinema.it社の「ヴェネチアのGiuseppe  Tornatore」をお借りしました>

ライセンスはCreative Commonsの“表示  非営利”です

第三章( 7 / 19 )

イタリア映画「鉄道員」

 

 「午前10時の映画祭」で、懐かしい1956年のピエトロ・ジェルミ監督および主演の「鉄道員」を、おそらく40年ぶりくらいで見てきた。イタリア・ニューレアリズムの名作だったが、時間が経った今どう見えるのか楽しみだった。

 

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<鉄道員>

 

 結論は、「そうだったなぁ」というところで止まってしまった。昔、見たときの生きた感情が全く舞い戻っては来なかったのだ。どこで、だれと見たのかは覚えてはいないけれど、このモノクロの映画に、最初に見た時には感動したものだ。

 

 ラストシーンの「ブゥオンジョルノ シニョーラ」と言う声と、階段を駆け下りていく靴音、そして、朝の始業を告げる街に響くサイレンの野太い音、それが昔も、今回も心に残った。このシーンのバックグラウンド・ミュージックも定番でよく覚えていた。

 

 しかし、ストーリーには全く感動しなかった。筋を知っていたからかもしれない。でも、二度目に見ても感動する映画が存在するのは確認済みだから、何かが違っているのだろう。

 

 この映画は、小学生の息子、サンドロの視点から見たパパを中心とした回想の映画だ。この視点の設定も、当時は新鮮だったのかもしれない。

 

 あらすじは、50歳のイタリア国鉄の特急の運転士(ローマ~フィレンツェ、ミラノ間)の家の物語だ。娘のできちゃった婚と、その孫になる子の死産、長男のぐうたらな生活、貧しいけれどいたずら盛りで明るいサンドロ。そして、夫を優しく見守る妻、そして、たくさんの飲み友達。

 

 自分の運転する列車へ青年が飛び込み自殺をした。この衝撃を受けた直後、ボローニャ駅で赤信号を見落とし、あわや正面衝突の大惨事のところを急ブレーキで何とか逃れる。格下げされて、入れ替え用SLの機関士。収入も激減。しかも、組合のストを破って「スト破り」のレッテルを張られる。家に居付かず、酒場を転々として飲み過ぎて体を壊す。

 

 サンドロに見つけられ家に帰る。何か月か療養してクリスマス。機関士の親友が、たくさんのともだちを連れてやってくる。長男も娘も戻ってくれる。しかし、このパーティーの後、彼は自慢のギターを弾きながら、眠るように死んでいく。

 

 なんだ、そんなことって、人生にあるよなって思ったのかもしれない。それは僕が、同じように人生を長く生きてきたから、こんな出来事は当たり前になってしまって、感動しなかったのかもしれない。

 

 最初に見た時には、まだ若くて、いろんなことに対する感度が高く、アンドレアの人生の悲喜劇を、自分にもこれから起こる可能性のある、幸、不幸のように感じて、感情移入をしていたのかもしれない。

 

 しかし、今回は自己投影を見ていたのかもしれない。生きてきた人生を振り返れば、「人生ってそんなもんさ!」と、うそぶいている自分がいるのかもしれない。そうであれば、感動しないのはよくわかる気がする。

 

 端的に言うと、自分の感情に鈍感になってきているのかもしれない。

 

 客席は僕よりも少し年齢の上の人が多かった気がする。懐かしさが、僕と同じように彼らを呼び寄せたにちがいない。

 

 1956年作成とは、僕の青年期の10年くらい前だ。この時代に青年期を迎えた人たちが「化石」と呼ばれ始めている、その年代に僕自身も確実に近づいている。

 

 生のイタリア語を聴けたのは楽しかった。今のイタリア語より少しゆっくりな感じがした。時代のせいかも…。

 

 一つ発見があった。

 

 今、イタリア国鉄で使われている駅の「何番線」を意味するBinario(対になったもの:プラットホーム)が、映画ではMarciapiedi(歩道、プラットホームと言う意味もある)と呼ばれていた。

 

 立派な駅も含めて、だいたいヨーロッパの駅のホームは、日本に比べて低いつくりだ。お客は、ほとんど線路と同じくらいの高さのプラットホームから、やっとこさと苦労しながら、客車に乗り込む。Marciapiediは名は体をあらわしていると言えそうだ。使用される単語も、時の流れとともに変わってきているようだ。

 

 

<写真はflickrから、Veletio Pirreraさんの ”Capostazione:駅長“をお借りしました>

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徳山てつんど
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