てつんどの独り言 その2

第三章( 1 / 19 )

本、展覧会、映画 タイトル一覧

 

    久しぶりに夢中でTVを見た

   

 上野・都美術館のフェルメール展

   

  森瑤子の風月堂

  

 「午前10時の映画祭」って知ってますか

  

 「午前10時の映画祭」トルナトーレ作品

  

 イタリア映画「鉄道員」

  

 「白磁・青磁の逸品との再会

  

 「フレンチの侍」の読後感

  

 プーシキン美術館展

  

 エッセイ本について

   イ

 タリア映画祭 2014年『ようこそ、大統領!』をみて

  

 初詣ならぬ初美術館

  

 モダンアートと浅草

  

 芥川賞受賞作「火花」を読みました

  

 マルモッタンのモネ

  

 53年も続く読書会

 

 カラヴァッジョ展を見てきた

 

 モダンアート展から谷中へ

 

第三章( 2 / 19 )

久しぶりに夢中でTVを見た

 

 最近、集中してテレビをみることは少なくなったんだけれど、昨夜は一時間、夢中になってみて見てしまった。タモリが司会する、M.ステーションのサザン・オールース・スターズ30周年記念のライブだ。サザンはとにかく好きだし、懐かしい曲でいっぱいだ。

 

 30年というと、僕の世界は、大体サザンとオーバーラップしている。

 

0.00. サザン.jpg

 

CD

 

 みんなに愛されて、トップの座にこんなに長くいるグループも珍しい。ずっと僕は好きで、ブログの世界には、彼らの曲が陽水の曲と共に常にあった。

 

 僕の好きなのは、いとしのエリーとか、会いたいときに君はここにいない、なんかだけれど、サザンの曲はみんな好きだ。すばらしいエンタテェイナーだと思う。

 

 いとしのエリーというと忘れられない思い出がある。

 

 あれは僕たちのグループが、東伊豆に遊びに行った時のことだ。ホテルに門限があるとも知らず、朝の2~3時まで近くのスナックを貸しきり状態にして、みんなで、カラオケで歌ったり踊ったりして楽しんでいた。そのときにエリーの曲がかかっていた。みんなで一緒に歌って、みんなおおノリだった。

 

 その中に新入社員のITさんがいた。僕にとっては、初めての技術系新卒の大卒女性社員の一人で、みんなで大切に育てていた。

 

 彼女が新人研修を終えて、僕の課に配属されてまもなく、僕に電話が掛かってきた。出ると、Nですといわれた。Nさんと言う人は、僕の友人にも近しい仲間にもいなかったので訝っていると、はっとひらめいた。僕の部門の属するグループのトップ、担当常務の名前だ。

 

 もしかして、常務のNさんですか?と聞き返した。Nさんは、僕が紹介したITが、君のところでお世話になっていると聞いた。うまく育てて欲しいといわれた。僕は、一課長として、初めて話す偉い常務さんだった。とにかくびっくりして、わかりましたと答えた。大変な新入社員を配属されたもんだと、初めて知った。電話を切ったらわきの下に汗をかいていた。

 

 僕は、ITさんを特別扱いもせず、みんなにもそのことは話さず、普通にみんなと一緒に育てて行った。そのITさんが、その頃僕に言ったことを、今でも鮮明に覚えている。

 

 幸運にも、私は大学までこの社会に育ててもらったのだから、一人前になって、最低3年間は社会に貢献したいと思っているって言った。T大学の数学科の出身だったから、その大学では立派なことを教えているんだなぁとそのとき僕は思った。素直ないい子で、少しゆっくり目だけど順調に育っていった。

 

 その後、折があって聞いてみると、それは大学の教えではなくて、ITさんの家の教育が言わせた言葉だった。すごいことを教え込んだもんだと改めてITさんのうちのご両親の立派さを知った。

 

 そう、あの東伊豆の夜、門限で入り口が閉まっていたから、僕たち10人くらいは非常口からこっそりホテルの部屋に戻って眠った。翌朝、幹事はもとより監督責任のある僕も、ホテルの管理人さんからこっぴどく叱られたことを思い出す。当然だった。やっぱり若かったのだなぁと思う。

 

 そんなことも思い出しながら、サザンは僕にとって、大切な思い出を開く鍵でもあるんだと思った。

 

 桑田は、歌詞を間違えたり、声が嗄れていたりしたけど、サザンは間違いなく僕を楽しませてくれた。

 

 何時かのように、また再び僕たちの前に現れてくれることを願っているサザンだ。

 

P.S.

やっぱり、井上陽水にも頑張ってもらわなくては…と思う僕です。

 

第三章( 3 / 19 )

上野・都美術館のフェルメール展

 

 とにかく上野を歩いてみようと、都美術館に行ってきた。

 

 以前は、年に2回は都美術館の公募展に、知人の作品を見に出かけのだが、最近は体調のこともあり、訪れていなかったので本当に久しぶり。

 

0.01 少女.jpg

 

 今回はフェルメールという、今まで日本ではマイナーだった画家の展覧会を観にいった。寡作な作家だったらしく、こんなに多くの作品を一堂に集めた展覧会は、今後もうないだろうと、話題になっている。

 

 結論から言うと、とにかく疲れた。

 

 なんと言っても「音声ガイド」を使っている多くの鑑賞者の行動に疲れたのだ。

 

 ・絵を見るとは、こういう事だと何処かで教えられてしまったというか、

 ・解説を聞くのが鑑賞だと信じて疑わないというか、

 ・後方で見ている人に気遣わないというか、

 ・主催者に従順な大きな羊の群れというか、

 

とにかく疲れた。

 

 展覧会では、惹かれる絵も、一瞥で興味がわかない絵もあるはずだ。

 

 しかし、この鑑賞者たちは、順路に従って、保護柵に手をかけ、結果として、全ての作品を同じ距離から見ている

 

 ヘッドセットを使っている人たちは、一点ごとの「音声ガイド」の解説が終わらないと、次の絵には移らない。後ろはつかえて前には行けない。結果、追い越し禁止のように、入り口から出口まで、保護柵に沿って人の列が出来ていた。

 

 ちなみに、この「音声ガイド」は、ノンストップで聞いても40~50分ぐらいは掛かるとか。

 

 大きな絵を、間近で見たって、その絵、全体は見えてこない。

 

 展覧会では、大きな絵は遠くから、小さな絵は近くから見るのが常識。

 

 細部を見たければ、その時近づけばいい。

 

 大きな絵は、ある距離を持って絵全体を見たいと思う。たとえば、「マルタとマリアの家のキリスト」とか、「ディアナとニンフたち」とか。

 

 しかしそれが全くできなかった。必ず、多くの人の頭が作品の下部に、シルエットになって張り付いているからだ。しかも、日よけの帽子をかぶったまま、見てる人だって沢山いた。後ろの人を気遣う気配は全くない。

 

 人の流れは絶えることがなく、後ろのほうに立って、全体を見ようと、待っても、待っても、その全体が見えるという瞬間はなかった。

 

 他にも、後ろに下がって、絵全体を見ようと爪先立ったり、背伸びしたりして頑張っている人たちも沢山いたが、僕もそうだったように、全体を見ることが出来なかった作品がいくつもあったに違いない。

 

 主催者に仕組まれた見方ではなく、もっと自分の直感で絵を見たらどうかと強く感じた。

 

 これが、フェルメールの展覧会の感想です。

 

 作品としては、「ワイングラスを持つ娘」の、瞬間を切り取った動的な描写が見事で、新しい発見でした。

 

 帰りに、動物園の側の「鶯だんご」を何十年ぶりかに食べて、やっと気持ちがクールダウンできました。

 

P.S.

この「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)」は、昔、どこかで見た一番印象的な作品です。今回はありませんでした。

第三章( 4 / 19 )

森瑤子の風月堂

 

 僕は、ある作家の作品を気にいって読み始めると、その作家の作品の全部を読んでしまいたいという気持ちになる。だから、その人の本をまとめ買いする癖がある。かといって、必ずしも全てを一気に読み終えるというではなく、「積読」になることだってあるし、途中でいやになって、読むのを放棄することもある。

 

0.06 ある日、ある午後.jpg

 

<森瑤子:ある日、ある午後>

 

 この間数えてみたら、僕は生まれてから28回ほど引っ越してるこ。引越しは身軽が一番だから、本という重いたいものは引越しのたびに必要最小限のものになっていって、あっ、あの本、どこだっけな、んて後になって参照しようとしても、手元にほとんどがない。しょうがないから、図書館で限られた記憶をもとに、必死でのその本を探す羽目になる。

 

 今、仕事関係以外で珍しく手元に残った作家の本は、立原正秋と森瑤子の文庫本のみ。それらは,カミさんの立派な本棚の片隅を、文庫本だから二段済みにして間借りしている。

 

 最近、立原を時間があると読んでみたりしているが、若い頃の感じとはちがった立原を見つけて喜んでいる。

 

 森瑤子も同じで、スッと手が伸びたのが「ある日、ある午後」という角川文庫だった。短編で、気軽に読んで楽しんでいたら、思わぬところに、次のような記述があった。

 

 

  >二昔以上前、新宿に風月堂という喫茶店があった。当時、そこが、御茶ノ水の

 ジローと並んで、私たちの溜まり場であった。コーヒーが一杯、確か七十円だった

 ころだ。芸大の学生だったので、いつもバイオリンのケースをかかえていた。最初

 にフランクのバイオリンソナタをリクエストとして、それからコーヒーを頼み、

 バイオリンのケースの中から取り出すのが角川文庫の「中原中也詩集」であった。

 リクエストした曲は、なかなか順番が回ってこなくて、かからなかった。だから中也 

 の詩は暗記するほどくりかえし読んだ。夜の10時ごろ、ようやくリクエストが掛か 

 り、私は文庫を閉じ、フランクを聴き、終わると大急ぎで家に帰るのだった。その

 風月堂は、その後ヒッピーの溜まり場になったと聞く。もちろん、今はもうない。

 

 森瑤子『ある日、ある午後』角川書店(角川文庫)、平成元年120日、頁198199

 なお、初出は、『朝日新聞』1986119日~23日号とある。

 

 森瑤子は1940年生まれだから、芸大生のころだとすると19才~22才位足して195962年位の時期のものだと推測できる。

 

また、初出が1986年とあるから、二昔の20年溯ると、1966以前ってことで、だいたい196065年くらいの思い出と思えば間違いない。

 

 一方、僕の風月堂(僕的に言うと、Fugetsudo)に入り浸っていた時期は、60年安保の翌年、1961から65年の間だったから、もしかするとフランクのバイオリンソナタは森瑤子と一緒に聞いたのかもしれない。こんな発見は楽しい。

 

 確かに、そのころの風月堂はクラシックのLPが流れていて、みんながリクエストして、その曲が流れるのを気長に待っていた。演奏中の曲のLPジャケットが、オーディオセットがでんと入っているガラス張りのレコード・ルームの前に、楽譜立てみたいなものに置いてあったと記憶している。

 

 1960年代後半、アメリカの北爆を契機に立ち上がった「べ平連」や、70年安保闘争、新左翼などで衆目を集めた「風月堂」は、僕がFugetsudoから消えた後になって生まれてきた別の世界のようにみえる。

 

 森さんのこのエッセイは、懐かしい空間、時間、音楽、空気を共有した古い友達に何十年か経って思いがけず出逢い、思い出を探りながら、その友と語らっているような気分にしてくれた。予期せず、楽しい時間だった。天国の森さんへ感謝。

 

P.S.

森さんの作品の中には、風月堂の描写が芸大生のころの思い出として、いくつかほかにも書かれているのを発見しました。

たとえば、『恋愛関係』角川書店(角川文庫)、昭和638月10日 とか。

徳山てつんど
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