とにかく上野を歩いてみようと、都美術館に行ってきた。
以前は、年に2回は都美術館の公募展に、知人の作品を見に出かけのだが、最近は体調のこともあり、訪れていなかったので本当に久しぶり。
今回はフェルメールという、今まで日本ではマイナーだった画家の展覧会を観にいった。寡作な作家だったらしく、こんなに多くの作品を一堂に集めた展覧会は、今後もうないだろうと、話題になっている。
結論から言うと、とにかく疲れた。
なんと言っても「音声ガイド」を使っている多くの鑑賞者の行動に疲れたのだ。
・絵を見るとは、こういう事だと何処かで教えられてしまったというか、
・解説を聞くのが鑑賞だと信じて疑わないというか、
・後方で見ている人に気遣わないというか、
・主催者に従順な大きな羊の群れというか、
とにかく疲れた。
展覧会では、惹かれる絵も、一瞥で興味がわかない絵もあるはずだ。
しかし、この鑑賞者たちは、順路に従って、保護柵に手をかけ、結果として、全ての作品を同じ距離から見ている
ヘッドセットを使っている人たちは、一点ごとの「音声ガイド」の解説が終わらないと、次の絵には移らない。後ろはつかえて前には行けない。結果、追い越し禁止のように、入り口から出口まで、保護柵に沿って人の列が出来ていた。
ちなみに、この「音声ガイド」は、ノンストップで聞いても40~50分ぐらいは掛かるとか。
大きな絵を、間近で見たって、その絵、全体は見えてこない。
展覧会では、大きな絵は遠くから、小さな絵は近くから見るのが常識。
細部を見たければ、その時近づけばいい。
大きな絵は、ある距離を持って絵全体を見たいと思う。たとえば、「マルタとマリアの家のキリスト」とか、「ディアナとニンフたち」とか。
しかしそれが全くできなかった。必ず、多くの人の頭が作品の下部に、シルエットになって張り付いているからだ。しかも、日よけの帽子をかぶったまま、見てる人だって沢山いた。後ろの人を気遣う気配は全くない。
人の流れは絶えることがなく、後ろのほうに立って、全体を見ようと、待っても、待っても、その全体が見えるという瞬間はなかった。
他にも、後ろに下がって、絵全体を見ようと爪先立ったり、背伸びしたりして頑張っている人たちも沢山いたが、僕もそうだったように、全体を見ることが出来なかった作品がいくつもあったに違いない。
主催者に仕組まれた見方ではなく、もっと自分の直感で絵を見たらどうかと強く感じた。
これが、フェルメールの展覧会の感想です。
作品としては、「ワイングラスを持つ娘」の、瞬間を切り取った動的な描写が見事で、新しい発見でした。
帰りに、動物園の側の「鶯だんご」を何十年ぶりかに食べて、やっと気持ちがクールダウンできました。
P.S.
この「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)」は、昔、どこかで見た一番印象的な作品です。今回はありませんでした。
僕は、ある作家の作品を気にいって読み始めると、その作家の作品の全部を読んでしまいたいという気持ちになる。だから、その人の本をまとめ買いする癖がある。かといって、必ずしも全てを一気に読み終えるというではなく、「積読」になることだってあるし、途中でいやになって、読むのを放棄することもある。
<森瑤子:ある日、ある午後>
この間数えてみたら、僕は生まれてから28回ほど引っ越してるこ。引越しは身軽が一番だから、本という重いたいものは引越しのたびに必要最小限のものになっていって、あっ、あの本、どこだっけな、んて後になって参照しようとしても、手元にほとんどがない。しょうがないから、図書館で限られた記憶をもとに、必死でのその本を探す羽目になる。
今、仕事関係以外で珍しく手元に残った作家の本は、立原正秋と森瑤子の文庫本のみ。それらは,カミさんの立派な本棚の片隅を、文庫本だから二段済みにして間借りしている。
最近、立原を時間があると読んでみたりしているが、若い頃の感じとはちがった立原を見つけて喜んでいる。
森瑤子も同じで、スッと手が伸びたのが「ある日、ある午後」という角川文庫だった。短編で、気軽に読んで楽しんでいたら、思わぬところに、次のような記述があった。
>二昔以上前、新宿に風月堂という喫茶店があった。当時、そこが、御茶ノ水の
ジローと並んで、私たちの溜まり場であった。コーヒーが一杯、確か七十円だった
ころだ。芸大の学生だったので、いつもバイオリンのケースをかかえていた。最初
にフランクのバイオリンソナタをリクエストとして、それからコーヒーを頼み、
バイオリンのケースの中から取り出すのが角川文庫の「中原中也詩集」であった。
リクエストした曲は、なかなか順番が回ってこなくて、かからなかった。だから中也
の詩は暗記するほどくりかえし読んだ。夜の10時ごろ、ようやくリクエストが掛か
り、私は文庫を閉じ、フランクを聴き、終わると大急ぎで家に帰るのだった。その
風月堂は、その後ヒッピーの溜まり場になったと聞く。もちろん、今はもうない。
森瑤子『ある日、ある午後』角川書店(角川文庫)、平成元年1月20日、頁198~199
なお、初出は、『朝日新聞』1986年1月19日~23日号とある。
森瑤子は1940年生まれだから、芸大生のころだとすると19才~22才位足して1959~62年位の時期のものだと推測できる。
また、初出が1986年とあるから、二昔の20年溯ると、1966以前ってことで、だいたい1960~65年くらいの思い出と思えば間違いない。
一方、僕の風月堂(僕的に言うと、Fugetsudo)に入り浸っていた時期は、60年安保の翌年、1961から65年の間だったから、もしかするとフランクのバイオリンソナタは森瑤子と一緒に聞いたのかもしれない。こんな発見は楽しい。
確かに、そのころの風月堂はクラシックのLPが流れていて、みんながリクエストして、その曲が流れるのを気長に待っていた。演奏中の曲のLPジャケットが、オーディオセットがでんと入っているガラス張りのレコード・ルームの前に、楽譜立てみたいなものに置いてあったと記憶している。
1960年代後半、アメリカの北爆を契機に立ち上がった「べ平連」や、70年安保闘争、新左翼などで衆目を集めた「風月堂」は、僕がFugetsudoから消えた後になって生まれてきた別の世界のようにみえる。
森さんのこのエッセイは、懐かしい空間、時間、音楽、空気を共有した古い友達に何十年か経って思いがけず出逢い、思い出を探りながら、その友と語らっているような気分にしてくれた。予期せず、楽しい時間だった。天国の森さんへ感謝。
P.S.
森さんの作品の中には、風月堂の描写が芸大生のころの思い出として、いくつかほかにも書かれているのを発見しました。
たとえば、『恋愛関係』角川書店(角川文庫)、昭和63年8月10日 とか。
最近、親しい知人に紹介されて知った映画祭がある。それは、「午前10時の映画祭」
名前の通り、毎朝10時から一日一回こっきり、一本だけの上映だ。
<午前10時の映画祭>
映画祭と言えば、有楽町の朝日ホールで行われるイタリア映画祭も楽しみで、ほとんど毎年見に行っている。ここでは、日本では最近、全く見られなくなった今日のイタリア映画を紹介してくれて、楽しんでいる。
今回の「午前10時の映画祭」は、1950~70年代当たりまでの古い名作をえらんで上映している。赤の50本と青の50本と区分けされているけど、どう違うのかは分からない。
全国にある東宝系の映画館でやっているから、どこの人でも地元で見ることができる。
とにかく、東宝さんが考え出した、これは良いあたらしいアイデアだ。
近くの映画館を探して、最近見たのが「スタンド・バイ・ミイ」 これはオリジナルの時期には、み損ねていたもので、歌だけは、空でも歌えるくらい知っている曲が流れる映画だ。
12歳の二人の男の子、これがやくざな親友同士。周りにさらに3人の友達、5人で森や林や沼や線路の鉄橋を渡ったりして2泊の旅をする物語だ。その映画の間、ずっとこの曲がかかっている。
これは楽しい映画で、僕に「ハックルベリー・フィンの冒険」を思い出させてくれた。この中で、ハックルベリー・フィンと同じく、どんどん親友は親友になり、また、他の人との関わり合いで、どんどん成長していく。幼馴染の深まりを、実に鮮やかに描き出している。
僕の幼馴染、そう、いつの間にか「ハックルベリー・フレンド」という言葉を作ってしまうくらい親しい幼馴染がいた。その後は、会ったこともない。でも忘れられない友達。彼と、僕の犬と、三人で、偶然なのだけれど、「スタンド・バイ・ミイ」と同じように、汽車をとめた事がある。そんな自分の小学生の頃の記憶へ、僕を飛翔させてくれた今度の映画だ。
僕の思い出はこうだ。
ある日、僕たちは近くの線路の中に入って歩いていた。どこか危険だっていう気持ちはあったのだと思うけど、遊びに夢中になって、いつかみんな線路を全速力で駆けていた。と、あるカーブを曲がった。と、僕たちに向かってすごいスピードで走ってくる蒸気機関車に出っくわしたのだ。
逃げろ、といって右側の山の斜面に飛んだ。みんな飛んだ。真っ黒な塊のC11がポッポーと警笛を鳴らし、火花を飛ばしてギッギギーとブレーキをかけながら、目の前を走りすぎた。僕たちが土手に飛び込むのと、機関車がそこに走りこんできたのは、ほんの一瞬の差だった。
僕たちは山の斜面で抱き合って震えていた。怖かった。列車は僕たちのいる場所をかなり通り過ぎて、やっと停まった。窓から大勢の人たちが身を乗り出して、僕たちのことを見ていた。
ハッと気が付くと、最後尾の車掌室から車掌さんが飛び降りてきて、怒鳴りながら僕たちのほうに走ってきた。これはマズイと僕たちは、全速力で列車と逆方向に走った。
「スタンド・バイ・ミイ」では、汽車は止まってくれなくて、愚図の二人は鉄橋から落っこちて、難をのがれたのだが、鮮やかに昔、一緒に汽車をとめた幼馴染のことを思い出させてくれた。
映画というメディアは、単にその映画を見せてくれるだけではなく、心の中の記憶をも呼び覚ましてくれる、すごい力があるのだと知った。
もう一つ発見があった。みんなも知っている、”Darling, Darling…“というのは、僕は恋人に向かって、懇願している男の言葉としてイメージしていたが、それは間違いだった。
本当は、幼馴染同士が、一緒にいれば怖くない、怖くないという意味だと大発見。ジョンレノンもカバーしているこの曲は、どこかで、曲解されて、恋の歌になってしまったようだ。
とにかく、久しぶりの映画、堪能した。
ちなみに、これから見たい映画を、「午前十時の映画祭」の予定表からピックアップすると、
・禁じられた遊び
・甘い生活
・シェーン
・シベールの日曜日
・山猫
・道
・鉄道員
・裏窓
こんな感じです。
<このロゴは、東宝の「午前十時の映画祭」のものをお借りしました>
友達に教えてもらったこの映画祭で、先日2本目のフイルム、「ニュー・シネマパラダイス」を見てきた。
<ジュゼッペ トルナトーレ監督@ヴェネチア>
監督は、ジュゼッペ トルナトーレ。日本では、「海の上のピアニスト」や、今回みた「ニュー・シネマパラダイス」などで知られるイタリアの大監督だ。
物語は、故郷、シチリアで多感な少年期を過ごし、今は映画の監督になっている大人のフラッシュバックを使った回顧の物語だ。
この映画についてはあとで触れるけれど、この映画を見て、僕にもフラッシュバックしてきたものがある。
若いころ、1970年代に2年ほど、ミラノに住んでいた。この映画を見ていて、その頃のミラノの映画館の情景が思い出されたのだ。この映画の画面は大部分、シチリアの田舎の小さな映画館の中の映像だ。それが、昔、僕がミラノの映画館で見た場景をはっきり蘇らせてくれた。
今もそうだけれど、イタリアでは外国映画はすべて吹き替えで上映される。日本のように字幕なんてものはない。もともと、映画は戦後の民衆の一大娯楽、唯一の娯楽であったから、文字の読めない人もたくさんいたわけだ。イタリア語に噴き替えれば、だれでも映画を楽しめるというわけだ。
だから、アランドロンも、オードリーも、ジョージ・チャキリスも、日本の侍も、みんなみんなイタリア語を話す。南ドイツのノイシュバン・シュタイン城を、初めて僕に教えてくれた映画、「チキチキ・バンバン」でも英国映画なのに、登場人物はみんなイタリア語で話す。なんだか変だなと思ったら、すべて吹き替えだった。
残念ながら、ミュージカルの歌、映画に出てくる歌は吹き替えられないから、フランス語だったり、英語だったりする。声の質の似た声優さんをたくさん揃えていなければできない映画の吹き替えだ。登場人物が、突然別の質の声で歌いだしたら、見ている方だって混乱するはずだ。
「ニュー:シネマパラダイス」に出てきた映画館の場景も懐かしかった。今のイタリアでどうなのかは知らないが、その頃のイタリアの映画館では、上映中、食べ物を持ち込んで豪快に食べながら、ワインを飲みながら映画を見ていた。観客同士のおしゃべりも自由だし、場末に行くとタバコを吸っている人もいた。映画の中の出来事や場面にも、声を出して一喜一憂する。とにかく客席がうるさいのだ。映画に集中できないってことだってある。
映画の最後のテロップが流れて終わりになると、映画が気に入ればみんなで大拍手だ。「ブラヴィー!!」と叫ぶ者もいる。
そして、なぜか知らないけれど、映画館の中に警察官が制服で立っていた。観客同士の喧嘩とか、よほど目に余る行為をやめさせる意味があったのだろう。
この映画を見て起こった僕のフラッシュバックはこのあたりにして、「ニュー・シネマパラダイス」に話をもどそう。
超荒筋は、シチリア(トルナトーレの故郷でもある)で少年、トトは映画館の映写室に入り込み、映写技師アルフレード(フィリプ・ノワレの素晴らしい演技)と仲良くなり、自分も映写技師となる。しかし失恋と従軍を契機に、シチリア島を出てローマで映画の大監督になる。ママからの突然の電話で知ったアルフレードの葬式に出席するため、30年ぶりに帰島する。シチリアに帰島を決める過程で、自分の少年期を一人回顧する。
何と言っても、現実の時間と、過去の時間へのフラッシュバックのうまさに引き込まれた。そして、アルフレードの言葉にうたれた。「島を出たら絶対に帰るな!」「外で大きく羽ばたけ!」と青年に対する言葉だ。彼は自分の死に際に、「トトには自分の死を知らせるな」と言い残す。
最後は、葬儀をすませてローマにもどった監督が、その昔、カトリックの司祭さんが検閲してカットした数限りないキスシーンや、ラブシーンの細切れフイルムをつなぎ合せ、数限りないキスシーンやベッドシーンだけが続くフイルムを作り上げ、それを見ている現在で終わる。
この映画を見て感じたことは郷愁だった。僕自身の少年期への郷愁だった。360度、どの方向へも進んでいける可能性に満ちていた少年時代。そして、一方現実には、これまで生きてきた自分、そして生きている今。
こうした長い時間と大きなギャップが、僕に郷愁を感じさせたのだろう。えらく自分を振り返らせる映画だった。鑑賞をお勧めします。
P.S.
この映画は、トルナトーレの撮ったドキュメンタリー、「マルチェロ・マストロヤンニ・甘い生活」を思い出させてもくれた。ローマ郊外のチネチッタでのカメラワークが美しかったとおぼえています。
<写真:flickerから、イタリア SupergaCinema.it社の「ヴェネチアのGiuseppe Tornatore」をお借りしました>
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