てつんどの独り言 その1

1章 友達、肉親( 4 / 27 )

「お袋」は生きていました

 

先日、スペインの友達を失った僕は、急に気になりだしたことがある。

 

それは、僕の心のお袋、ミュリエル ジェームス博士の消息だ。彼女は今、推定、97歳。98歳かもしれない。彼女が正確な年を教えてくれなかったからだ。1991年に会った時、75歳と言っていたから、計算上は98歳。

 

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<ミュリエル>

 

心のお袋というのは、僕自身が生まれてこの方持っていた心の傷、僕自身は気がついていなかったのだけれど、それを明らかにして、新しい僕を生きることが出来るようにしてくれたという僕の彼女への恩義があるからだ。今の僕を生み出した本当のお袋さんなのだ。

 

実の母は、とっくにくたばっている。僕が小学3年か4年の時に実母は離婚して家を出た。結果として僕は捨てられたのだ。

 

ド田舎に住んでいる油絵描きの景色は、決して豊かではない。親父とお袋、親父の母、つまり僕のおばあちゃん、姉二人の6人を、絵なんか買う人のいなかった昭和24~5年に、親父は食わせていかなくてはならなかったからだ。

 

親父は、東京のアトリエを3月10日の東京大空襲で焼け出され、德山一族が昔から住む岡山の山の中の遠縁を頼って、6人で疎開した。親父は太平洋戦争以前には、1930年協会などに参加して、一応、飯を食える絵描きだったようだ。特に建物、キリスト教会になると、結構知られて画家だったようだ。今も、港区の霊南坂教会には、親父が描いた教会の絵が残っているはずだ。

 

しかし敗戦で、絵を描いて売るっていう生活は成り立たなくなった。土佐の名家の出のお袋にとって、姑との折り合いの悪さも加わって、結果としては僕のすぐ上の姉を連れて土佐に帰って行った。さらに上の姉は、僕より10歳以上も年上だったから、小学校の先生をしながら、自立していた。残ったのは僕とおばあちゃんと親父だけ。

 

貧しかったから、ほとんど毎朝、僕がお豆腐屋さんに、ただおからを貰いに行っていた。もちろん弁当なんて学校に持って行けるわけはないから、昼休みに走って家まで帰って、おばあちゃんの作ってくれた芋粥をすすって、また学校に走って戻っていた。

 

こうした極貧の中に育った僕だったから、親父は僕の高校から僕の学費は出せなかった。自分で考えろと言われたのが中学2年生の終わり。それから、担任の先生、日本奨学会の特別奨学金、アルバイトなどで、なんとか大学卒業まで自力でやって来た。そんな僕だから、いわゆる普通の家庭の味は知らなかった。仲の良い親父とお袋、幸せそうな子供たち、なんて景色は持てなかったわけだ。

 

その後、親父は友達の奥さんと親しくなって、僕の継母として家に入れた。多感だった中学生の僕との間は、妥協は成り立たなかった。

 

大学はバイトと授業料免除で、やっとこさとこ卒業した。

 

会社に入って、僕を待っていたのは、人とのつながりの欠如の問題だった。なんでも一人でやって来たから、グループでしかできない社会の仕事は、まったく不向きだったわけだ。

 

一人でやれる間は、全く問題を感じていなかった。しかし、課長職になった途端、僕は、うまく仕事を進められなくなった。課の8割の部下が、僕とは仕事をしたくないと評価した。これでは仕事にならない。僕は自分ではどうしたらいいのか、全く分からなかった。

 

こんな状況にいた僕を救ってくれたのが、心の親父、故)岡野嘉宏先生だった。彼が、僕のコーチングをしてくれて、僕自身がどう歪なのかを知る手助けをしてくださった。それが僕のTA(交流分析)心理学との出会いだった。自分を知ることで、他の人とのコミュニケーションがうまく取れるようになっていった。

 

ミュリエルに出会ったのは、岡野先生の紹介で僕が参加した、カルフォルニアとネバダにまたがるタホ湖でのインターナショナル・ワークショップだった。このワークショップの主催者が、優しいおばあちゃん先生、ミュリエルだった。

 

TAの基本はグループワークだ。3週間、24時間、世界中から集まったいろんな人たちと過ごしていると、素の自分、本当の自分がさらけ出されてくる。それを、フィードバックしてもらって、自分を知るわけだ。

 

そこで明らかになった僕の心の闇は、小学生のころから、自分で生きた代償としての寂しさだった。小さい時に、優しく、温かく、背中を撫でられたり、優しい言葉をかけられたことがないという体験が、心の中に溜まりこんでいた。

 

結果として、人との親密な関係を築くことが出来ていなかったという発見だった。僕は湧き上がってくる寂しさの感情をおさえられなくて、ワークショップのみんなの前でオイオイ泣いた。僕の前に、この心の闇を引き出してくれたのが、僕の心のお袋、ミュリエル ジェームス博士なのだ。

 

つまり、僕のその後、二番目の人生を始めることが出来たのは、間違いなくミュリエルの存在があったからだ。

 

ミュリエルは、2010年に一人息子のジョンを亡くしていた。子供に先立たれるのは、心理学者のミュリエルにとっても、越しがたい絶望的な出来事だったに違いない。彼女はその数年前に、夫、アーニーもなくしていた。だから、彼女は一人ぼっちで取り残されてしまったわけだ。

 

あやまって転倒し、骨折をしたミュリエルは体調を崩し、老人性の骨折を繰り返し、いわゆる痴呆症が発症してきた。

 

ミュリエルとは、1991年のワークショップ以来、年に数回は電話し、手紙を書き、Xmasカードを送り、付き合いを続けていた。しかし、最近は、だんだん痴呆も加わってか、電話しても全く会話にならなくなった。

 

そして、2011年のXmasカードを最後に電話でも、手紙でも連絡が取れなくなった。

 

最悪を覚悟しながら、彼女の名前を冠した賞を出している国際TA協会(ITAA)にメールした。彼女の消息を求めて。

 

ITAAは、彼女は依然としてITAAのメンバーだと、教えてくれた。つまり、生きているって事が分かったわけだ。ITAAや、日本TA協会の人の助けもあって、ミュリエルが生きていることが分かった。助かった。

 

カリフォルニアの住所に、改めで絵ハガキを送った。なんとか、返事が来ることを祈っている。お袋を失くしたくはないのだ。

 

追記:ミュリエルは、2016年2月14日で99歳になって、ケアハウスで暮らしている。

1章 友達、肉親( 5 / 27 )

親父の絵、「飾り馬」を買い戻す

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<飾り馬>

 

親父は22年前に、貧乏な無名の洋画家として87歳で亡くなった。葬式は、文京区白山にある寺で1月の10日だった。その日、初雪が東京に降った。寒い日だった。その式には、400人を超えるお弟子さんたちや、絵画教室の教え子たちが集まってくれた。

 

親父は無名だと書いたけれど、お弟子さんたちや、絵画教室の教え子たちにはとても慕われた洋画家でもあった。僕から見ると、洋画家ではあるけれど、作家ではなかったということだ。教育者に近いと言えるだろう。

 

その経緯や、僕にとっての親父という存在については、僕の本に書いているのでそちらを読んでもらえばその背景が分かると思う。「親父から僕へ、そして君たちへ」を参照してください。http://forkn.jp/book/2064/

 

話を戻すと僕にも歳が迫ってきて、どこかで書いているけど、くたばる迄にやっておきたいこと、会っておきたい人たちのリストを作って、心臓君のご機嫌をみながら実行している。そんなリストの事を米語では棺桶リスト(Casket List)と言うらしい。

 

親父の残した絵は、くたばる時期の絵と、少し遡った時代の少数の絵と、あまりにもデカくて、どこにも行き場のない大作、400号の三枚だった。

 

僕の気に入った絵はほとんどなくて、最後の時期の抽象画を何枚か取って置いた。だが、僕には、それらの絵を親父の代表作とは思えなかった。

 

どちらかというと、遊びで描いた水彩の色紙(具象の絵)や、親父から見れば頼まれて描いていた未完成の具象の方が、よほどいい作品だと僕は思っている。

 

唯一、何としても手元に置いておきたい絵の存在を、僕は知っていた。知っていたのは存在だけで、誰がどこに、どんなふうに持っているかは知らなかった。その絵の存在を知ったのは、生前、お弟子さんたちが、銀座の東京セントラル美術館で開いてくれた親父の80歳記念作品展にあった。

 

小さな作品で、親父が自分で持ち主に頼んで、展覧会のために借り出したようだ。

 

僕の棺桶リストには、その絵を手に入れることが在った。それは、子どもや孫たちに、ほら、これがおじいちゃんの絵だよと、僕がくたばった後にも残して置きたかったからだ。

 

展覧会を開いてくれたお弟子さんたちに、訊ねてみたが正確には答えが返ってこない。親父のメモを発見したのは、その展覧会の画集の後の方に小さく記載されていた覚え書。

 

その絵が「飾り馬」。親父が谷中のアトリエを1920年310日に焼かれ、僕の家系の発祥地、中国山脈の山の中、徳山村に疎開をしたころの作品だった。

 

親父は昔の小さな城下町、中国勝山にある高校に美術の臨時講師の職を得て、一家6名(父と妻、母、子供3人)が、なんとか食いつないでいた。貧困な家庭だった。しかし、親父の心の中では、台東区谷中への帰京を果たそうと考えていたようだ。

 

この絵は、この頃、描かれていた。いい絵だった。昔の飾り馬を静物画として描いた小品だった。持ち主は、その小さな町の造り酒屋、辻本店の先々代の彌平さんが、篤志家として買ってくれたようだ。

 

勝山は旭川の流れの沿っていて、辻本店は「御前酒」という名前のお酒をしている蔵元。美しい大きな蔵と、酒の醸造のための大きな建物の、白壁と大屋根が美しい。

 

見ず知らずの人に手紙を書くのは初めてだ。

 

 『御社のHPに、「当蔵元の辻家では、明治から昭和にかけての当主が、文化的な活動にも積極性であり、自ら書画を嗜むことから…」と記載があるとおり、貧乏洋画家、德山巍にもご厚意を頂いたようで、先代のことは父がよく話しておりました。』

 

先代の奥様、智子さまにご協力いただくことができ、大きな蔵の中から、三月のお雛様飾りを取り出す時に、幸運にも、膨大な収集品のなかから、その絵を見つけていただいた。それも、偶然に見つかったようで…。

 

僕は、親父のくたばる頃の親父の絵の値段、つまり最後の頃の値段でお譲り頂き、その絵が僕の手元に届いた。

 

「飾り馬」はF3号(27.3 X 22.0㎜の小さな絵。しかし、息子が言うのは変かもしれないが、思った通り素晴らし絵だった。

 

今、僕の部屋の壁にかけて毎日見ている。隣には、僕の大好きなシャガールの

The Yellow Face」が掛かっている。この中にも黄色い馬のような動物が描かれている。「飾り馬」と似ている優しい目をしている。

 

これらを見ながら、このエッセイを書いている。これで、僕の棺桶リストの一項目に ○ が付いた。しあわせなことで、感謝。

 

さらに、今月(11月18日、2013年)、お弟子さんたちが開く、銀座・セントラル美術館でのグループ展へ、その「飾り馬」の出展依頼も受けた。また、誰かの目に留まることだろう。絵も喜んでいるだろう。

 

 

P.S.

「御前酒」の蔵元のある中国勝山は、元は岡山県真庭郡の中心だったのですが、残念ながら、高速の中国道からも、米子道からも外れ、美しい西蔵という辻本店のレストランを知る人はあまり多くないもよう。折がありましたら、ぜひ訪れてみてください。

HP: http://www.gozenshu.co.jp/index.html

 

1章 友達、肉親( 6 / 27 )

亡き親父の50年前を語る

 

過日、奇妙な体験をした。奇妙というより、頭の混乱した二人が話したと言った方が素直だろう。

 

銀座で、武内ヒロクニさんの個展があった。ヒロクニさんは、関西ではなじみが深い神戸出身のユニークな画家。

 

まえに毎日新聞の夕刊に「しあわせ食堂」というコラムがあった。ここにはいろんな有名人(例えば、田辺聖子、藤田まこと、星野哲郎さんなど合計50名)が、戦後の腹ペコの時代を思い出し、一人一人が懐かしい「たべもの」について短いエッセイを書いている。これらに度肝を抜く絵をつけたのが、ヒロクニさん。

 

これらの毎日新聞夕刊のエッセイと絵をまとめて、「しあわせ食堂」というタイトルで光人社から刊行されている。50のエッセイと、50の絵がついている。

 

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<しあわせ食堂>

 

ヒロクニさんに、僕宛のサインを書いてもらった本は、その後2~3日で読んでしまった。

 

僕の読み方がエッセイの読み方ではなかったからかもしれないが、50編の中のどれ一つ、今は覚えていない。いろんな人が書いたエッセイを、次から次へと読んでしまったので、みんながごちゃごちゃになって、結果として、何も残らないということを経験した例の一つだった。

 

冒頭の奇妙な体験について書いてみようと思うけれど、頭が混乱した一方が、一方的に書くのだから、うまく伝わるかどうかは分からない。

 

ヒロクニさんとの出会いは、親父のことを書いておこうと、資料をもとめてグーグルを検索したのがきっかけだった。唯一、武内ヒロクニさんのブログに親父の名前を見つけた。

 

ヒロクニさんのことを、東京の親父のお弟子さんたちに訊いてみたけれど、誰一人、ヒロクニさんを知らなかった。グーグルでヒロクニさんの絵も見つけた。具象とも、抽象ともいえるユニークな絵柄だった。

 

セピア色の写真に、親父と一緒に写っているヒロクニさんには、僕は見覚えがなかった。全くわからない。ブログの著者にメールした。返事があった。ヒロクニさんは、間違いなく僕の知らない親父を知っているようだ。チャンスがあれば、お会いしたいとメールを戻した。

 

しばらくして、銀座で個展を開くと言う案内を頂いた。奥さまがネット担当のようだ。

 

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<イワシの絵>

 

そこで、僕は銀座に出かけて、ヒロクニさんの絵を見て、奥様にお会いして、親父とのつながりをヒロクニさんからうかがった。

 

そこで、冒頭で話した混乱した会話が二人の間が生まれた。

 

ヒロクニさんは、僕より5歳上の洋画家。親父との接点は、僕が高校生の頃だったから、今から50年ほど前のことだ。場所は神戸。絵の先生と弟子の仲だったようだ。すべて、僕は初めて聞く話だった。

 

混乱したのは、ヒロクニさんが、僕の顔、声、白髪、しぐさなどに、彼が尊敬する(?)僕の親父を見出したのがきっかけだ。今話している目の前の僕のなかに、彼は親父の面影、イメージを見出し、まるで僕の親父と話しているかのような錯覚をもったようだ。

 

僕達は画廊のソファーに横に並んで掛けて話していた。右側に座ったヒロクニさんの顔を見ながら話すため、体を右に向けて、僕は右手の肘をソファーの背もたれに掛けていた。

 

ヒロクニさんが僕の手を見て、ちょっといい…と僕の手を取った。二人は握手した。温かな大きな手だった。親父の手にそっくりだとヒロクニさん。僕は親父の手は覚えていないけど、ヒロクニさんは覚えていたようだ。ヒロクニさんの手を僕のそれと比べてみた。かなり大きな手だった。僕の手も大きいから、ヒロクニさんも大きな手だった。

 

ヒロクニさんは、ヒロクニさんが知らない神戸以降の親父の事を聞きたいという。今度は僕が、ヒロクニさんが知らない親父について話す。二人は同じ「德山巍」について話しているけど、時代、年代の違う同一人物について語っているわけだから、三人が共有した世界はまったく無い。親父だけが、僕達、二人と時間を共有しているわけだけど、彼は22年前に亡くなっている。

 

僕が親父の話をするときには、成り行きで僕自身の事も話すことになる。ヒロクニさんにとっては、それが親父の話なのか、僕自身の話なのか、分からなくなってしまう。僕がヒロクニさんを混乱させているわけだ。

 

さらに、親父の事を僕に話しているうちに、僕と話しているのか、僕に親父のことを話しているのか、はたまた、親父と直接話しているのか、分からなくなってしまったようだ。

 

僕は親父に似ているとは思わない。きっと立ち振る舞いが似ているのだろう。

 

僕が年配のヒロクニさんを、先生と呼んで話したことも、混乱をさそったようだ。「先生」という言葉は、彼にとっては親父の意味だった。彼が先生という時は、親父。僕が先生という時は、ヒロクニさん。これも混乱を引き起こす原因。

 

そうなると、もうなにがなんだか、二人ともわからなくなって奇妙な会話になった。

 

ヒロクニさんは、混乱を解消しようとして、トイレに立った。

 

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<ようかんの絵>

 

当初の目的の、僕の知らない親父、50年前の姿の一部を知ることが出来た。

 

ヒロクニさんは、この会話をどう理解しているのかはわからない。二人とも混乱の中にいたから…。

 

僕にとっては、得難い機会だった。ありがとうございます、ヒロクニさん。

 

そういえば、ヒロクニさんは親父の晩年の風貌そっくりだった。どちらかと言うと、ヒロクニさんの方が、息子の僕より親父に似ているかもしれない。

 

 

注:添付の絵は、「しあわせ食堂」の本をスキャンしたので、真ん中で、切れている。ご容赦!

 

1章 友達、肉親( 7 / 27 )

お弟子さんたちのグループ展「ゆさい」

  親父、德山巍が没して22年。洋画家として、親父は美術界には名を残してはいない。

僕、親父、僕たち家族が一番、困窮していた1946年、太平洋戦争の終った翌年に描いた3号の「飾り馬」が、ことの始まり。こ絵の事は、すでにアップしているエッセイ、「飾り馬を買い戻す」に詳しい。

 

親父は、自分は洋画家であると同時に、素晴らしい教育者でもあったと僕は思っている。つまり、洋画を希望する人に教えるという才能にたけていたと思う。世間にはあまり知られていない上野・都美術館の公募展、「新構造社展」で審査委員として動いていた。そこで沢山の弟子を持っていた。

 

洋画の画壇の世界は、まるでやくざのような組織だと思っている。全国的な組織、「新構造社」の元に、沢山の独立したグループ、もしくは組のようなものがあって、そのカシラが弟子たちの面倒を見るという構図になっている。親父も、その一人で、沢山のお弟子さんを持っていた。

 

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<ゆさい展>

 

そのグループは、東京・台東区谷中・根岸にあって、30人くらいのお弟子さんたちがいたと思う。東京の他にも、関西、長野あたりにもグループがあって、そこのお弟子さんたちを面倒見るわけだ。ようは、新構造社展の油絵部門に出品できるように、画塾を開いて油絵の基本教育をやっていた訳だ。だいたいは、みんな素人からの希望者だった。

 

今から思うと、親父には、僕はあまり良い感情は持っていなかったと思う。それは、親父と僕の間に、絵について小さな事故が僕の小さい頃に在ったことに由来する。それについては、もう電子ブックに上げているから、ここでは書かない。

 

とにかく、僕の家族、つまり僕のカミさん、孫二人と僕の四人は、あまり親父のアトリエには現れなかった。年に一度、元旦にみんなで顔を見せるのが通例で、他には親父の家をみんなで訪れたことは記憶にない。

 

しかし、親父は別に淋しくもなかったようだ。それは、親父を慕って集まってくるお弟子さんたち、さらには台東区の生涯教育・絵画教室で出会った生徒さんたちに常に囲まれていたからだと思う。良い教育者だったのだと思う。

 

やくざの組みたいと思わせることが起きたのは、親父がくたばった時だ。親父とおなじような組の頭たちは、德山組の弟子たちを自分の組に組み入れようと、果敢に動いた記憶がある。まさに、草刈り場だったわけだ。しかし、親父の弟子たちは、自分の組、元德山組を守り、吸収をのがれたという歴史がある。

 

そんな「德山組」のお弟子さんたちが、今回、銀座でグループ展を開くので、「飾り馬」を借りたいと言ってきた。僕は、親父の絵が67年ぶりに人の目に触れるのは良いことだと思って、貸し出すことに喜んでOKを出した。

 

展覧会は、銀座2丁目のメルサの「銀座画廊」で開かれた。僕も、心臓君の機嫌が良かあったので、オープニングに出て簡単な挨拶をした。

 

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<貸し出した絵>

 

元德山組の「ゆさい」は18回目のグループ展で、隔年の開催だから、実に36年間も続いているわけだ。それだけ、絵に対する思い入れの深さが、德山組の組織力となって続いているわけだ。これは、本当にエネルギーのいる大変な継続だと尊敬する。

 

会場を一回りして、30点くらいの絵を見てみた。僕は絵を描けないから、素人の単なる感性に頼った観方になる。

 

すると、いろんな人の絵の中に、ある時期の親父の絵の片りんを発見することになった。あっ、これは、ユトリロに影響された時代に似ているとか、おう、これはルオーに親父が入れ込んでいた時代の匂いがするとか…

 

親父の画風は、4~5年おきに変化していた。もともと戦前、キリスト教会の風景画が世間に認められていたようだ。アメリカ大使館近くの霊南坂教会の絵、本郷の教会の絵など、親父の描いた絵が写真に残っている。確かにみられるいい絵だ。

 

しかし、その後、親父はユトリロの絵に出逢って、ショックを受けたようだ。親父が影響を受けた画家たちは、僕の知る限りでは、ユトリロ、佐伯雄三、ブラマンク、ルオーなどがいた気がする。しかし、結果として“西洋の真似をしていても日本の洋画は描けない”と、日本人の油絵と言う信念に傾いていったようだ。

 

ある時は墨の線を思わせる抽象であったり、ブラマンクやルオーに似たマチエールの具象風景であったり、赤と黒の抽象画であったり、日本の亀甲紋の作品であったり、十二単の源氏物語を思わせる色きらびやかな女性の着物姿であったり、天平の瓦紋に影響されたと思われるパターンの絵だったり、はたまた、日本画の屏風のような松、梅、桜のような大作だったりと、ドンドン変化している。どれもが、親父が自分の独自の世界を求めてさすらった後だろうと思う。

 

そうした、刹那の切り口が、お弟子さんの絵の中にポンと見えたのだ。ああ、この人はこの時代の親父を慕って今も絵を描いているんだ。この人は、亀甲紋だ。この人は、ルオーっぽい具象だ。この人は親父が十二単を描いていた頃に組に入ったのだと、自分では整理して見ることができた。親父の絵の、いろんな変遷の一つの断面として切りだしたような絵が、個々のお弟子さんの絵たちの中に見えたのだ。

 

ああ、德山組はこんな形で36年も営々と息づいているのだと納得した。楽しい、賑やかなグループ展だった。

 

展覧会が終って、あるお弟子さんと話していたら、その人の奥さんが、久しぶりにその展覧会を見て、“德山先生が生きていらしたころに比べると、緊張感が無くなっている”と評したようだ。お弟子さんの奥さんで、ご自分では絵をお描きにならない人だ。

 

そのお弟子さんには相当なショックだったようだ。

 

再来年に向けて、さらに自由な自分自身の絵を探し求めていってほしいと願っている。そして、36年間、よく頑張ってきたねとねぎらった。

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
てつんどの独り言 その1
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