てつんどの独り言 その1

1章 友達、肉親( 5 / 27 )

親父の絵、「飾り馬」を買い戻す

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<飾り馬>

 

親父は22年前に、貧乏な無名の洋画家として87歳で亡くなった。葬式は、文京区白山にある寺で1月の10日だった。その日、初雪が東京に降った。寒い日だった。その式には、400人を超えるお弟子さんたちや、絵画教室の教え子たちが集まってくれた。

 

親父は無名だと書いたけれど、お弟子さんたちや、絵画教室の教え子たちにはとても慕われた洋画家でもあった。僕から見ると、洋画家ではあるけれど、作家ではなかったということだ。教育者に近いと言えるだろう。

 

その経緯や、僕にとっての親父という存在については、僕の本に書いているのでそちらを読んでもらえばその背景が分かると思う。「親父から僕へ、そして君たちへ」を参照してください。http://forkn.jp/book/2064/

 

話を戻すと僕にも歳が迫ってきて、どこかで書いているけど、くたばる迄にやっておきたいこと、会っておきたい人たちのリストを作って、心臓君のご機嫌をみながら実行している。そんなリストの事を米語では棺桶リスト(Casket List)と言うらしい。

 

親父の残した絵は、くたばる時期の絵と、少し遡った時代の少数の絵と、あまりにもデカくて、どこにも行き場のない大作、400号の三枚だった。

 

僕の気に入った絵はほとんどなくて、最後の時期の抽象画を何枚か取って置いた。だが、僕には、それらの絵を親父の代表作とは思えなかった。

 

どちらかというと、遊びで描いた水彩の色紙(具象の絵)や、親父から見れば頼まれて描いていた未完成の具象の方が、よほどいい作品だと僕は思っている。

 

唯一、何としても手元に置いておきたい絵の存在を、僕は知っていた。知っていたのは存在だけで、誰がどこに、どんなふうに持っているかは知らなかった。その絵の存在を知ったのは、生前、お弟子さんたちが、銀座の東京セントラル美術館で開いてくれた親父の80歳記念作品展にあった。

 

小さな作品で、親父が自分で持ち主に頼んで、展覧会のために借り出したようだ。

 

僕の棺桶リストには、その絵を手に入れることが在った。それは、子どもや孫たちに、ほら、これがおじいちゃんの絵だよと、僕がくたばった後にも残して置きたかったからだ。

 

展覧会を開いてくれたお弟子さんたちに、訊ねてみたが正確には答えが返ってこない。親父のメモを発見したのは、その展覧会の画集の後の方に小さく記載されていた覚え書。

 

その絵が「飾り馬」。親父が谷中のアトリエを1920年310日に焼かれ、僕の家系の発祥地、中国山脈の山の中、徳山村に疎開をしたころの作品だった。

 

親父は昔の小さな城下町、中国勝山にある高校に美術の臨時講師の職を得て、一家6名(父と妻、母、子供3人)が、なんとか食いつないでいた。貧困な家庭だった。しかし、親父の心の中では、台東区谷中への帰京を果たそうと考えていたようだ。

 

この絵は、この頃、描かれていた。いい絵だった。昔の飾り馬を静物画として描いた小品だった。持ち主は、その小さな町の造り酒屋、辻本店の先々代の彌平さんが、篤志家として買ってくれたようだ。

 

勝山は旭川の流れの沿っていて、辻本店は「御前酒」という名前のお酒をしている蔵元。美しい大きな蔵と、酒の醸造のための大きな建物の、白壁と大屋根が美しい。

 

見ず知らずの人に手紙を書くのは初めてだ。

 

 『御社のHPに、「当蔵元の辻家では、明治から昭和にかけての当主が、文化的な活動にも積極性であり、自ら書画を嗜むことから…」と記載があるとおり、貧乏洋画家、德山巍にもご厚意を頂いたようで、先代のことは父がよく話しておりました。』

 

先代の奥様、智子さまにご協力いただくことができ、大きな蔵の中から、三月のお雛様飾りを取り出す時に、幸運にも、膨大な収集品のなかから、その絵を見つけていただいた。それも、偶然に見つかったようで…。

 

僕は、親父のくたばる頃の親父の絵の値段、つまり最後の頃の値段でお譲り頂き、その絵が僕の手元に届いた。

 

「飾り馬」はF3号(27.3 X 22.0㎜の小さな絵。しかし、息子が言うのは変かもしれないが、思った通り素晴らし絵だった。

 

今、僕の部屋の壁にかけて毎日見ている。隣には、僕の大好きなシャガールの

The Yellow Face」が掛かっている。この中にも黄色い馬のような動物が描かれている。「飾り馬」と似ている優しい目をしている。

 

これらを見ながら、このエッセイを書いている。これで、僕の棺桶リストの一項目に ○ が付いた。しあわせなことで、感謝。

 

さらに、今月(11月18日、2013年)、お弟子さんたちが開く、銀座・セントラル美術館でのグループ展へ、その「飾り馬」の出展依頼も受けた。また、誰かの目に留まることだろう。絵も喜んでいるだろう。

 

 

P.S.

「御前酒」の蔵元のある中国勝山は、元は岡山県真庭郡の中心だったのですが、残念ながら、高速の中国道からも、米子道からも外れ、美しい西蔵という辻本店のレストランを知る人はあまり多くないもよう。折がありましたら、ぜひ訪れてみてください。

HP: http://www.gozenshu.co.jp/index.html

 

1章 友達、肉親( 6 / 27 )

亡き親父の50年前を語る

 

過日、奇妙な体験をした。奇妙というより、頭の混乱した二人が話したと言った方が素直だろう。

 

銀座で、武内ヒロクニさんの個展があった。ヒロクニさんは、関西ではなじみが深い神戸出身のユニークな画家。

 

まえに毎日新聞の夕刊に「しあわせ食堂」というコラムがあった。ここにはいろんな有名人(例えば、田辺聖子、藤田まこと、星野哲郎さんなど合計50名)が、戦後の腹ペコの時代を思い出し、一人一人が懐かしい「たべもの」について短いエッセイを書いている。これらに度肝を抜く絵をつけたのが、ヒロクニさん。

 

これらの毎日新聞夕刊のエッセイと絵をまとめて、「しあわせ食堂」というタイトルで光人社から刊行されている。50のエッセイと、50の絵がついている。

 

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<しあわせ食堂>

 

ヒロクニさんに、僕宛のサインを書いてもらった本は、その後2~3日で読んでしまった。

 

僕の読み方がエッセイの読み方ではなかったからかもしれないが、50編の中のどれ一つ、今は覚えていない。いろんな人が書いたエッセイを、次から次へと読んでしまったので、みんながごちゃごちゃになって、結果として、何も残らないということを経験した例の一つだった。

 

冒頭の奇妙な体験について書いてみようと思うけれど、頭が混乱した一方が、一方的に書くのだから、うまく伝わるかどうかは分からない。

 

ヒロクニさんとの出会いは、親父のことを書いておこうと、資料をもとめてグーグルを検索したのがきっかけだった。唯一、武内ヒロクニさんのブログに親父の名前を見つけた。

 

ヒロクニさんのことを、東京の親父のお弟子さんたちに訊いてみたけれど、誰一人、ヒロクニさんを知らなかった。グーグルでヒロクニさんの絵も見つけた。具象とも、抽象ともいえるユニークな絵柄だった。

 

セピア色の写真に、親父と一緒に写っているヒロクニさんには、僕は見覚えがなかった。全くわからない。ブログの著者にメールした。返事があった。ヒロクニさんは、間違いなく僕の知らない親父を知っているようだ。チャンスがあれば、お会いしたいとメールを戻した。

 

しばらくして、銀座で個展を開くと言う案内を頂いた。奥さまがネット担当のようだ。

 

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<イワシの絵>

 

そこで、僕は銀座に出かけて、ヒロクニさんの絵を見て、奥様にお会いして、親父とのつながりをヒロクニさんからうかがった。

 

そこで、冒頭で話した混乱した会話が二人の間が生まれた。

 

ヒロクニさんは、僕より5歳上の洋画家。親父との接点は、僕が高校生の頃だったから、今から50年ほど前のことだ。場所は神戸。絵の先生と弟子の仲だったようだ。すべて、僕は初めて聞く話だった。

 

混乱したのは、ヒロクニさんが、僕の顔、声、白髪、しぐさなどに、彼が尊敬する(?)僕の親父を見出したのがきっかけだ。今話している目の前の僕のなかに、彼は親父の面影、イメージを見出し、まるで僕の親父と話しているかのような錯覚をもったようだ。

 

僕達は画廊のソファーに横に並んで掛けて話していた。右側に座ったヒロクニさんの顔を見ながら話すため、体を右に向けて、僕は右手の肘をソファーの背もたれに掛けていた。

 

ヒロクニさんが僕の手を見て、ちょっといい…と僕の手を取った。二人は握手した。温かな大きな手だった。親父の手にそっくりだとヒロクニさん。僕は親父の手は覚えていないけど、ヒロクニさんは覚えていたようだ。ヒロクニさんの手を僕のそれと比べてみた。かなり大きな手だった。僕の手も大きいから、ヒロクニさんも大きな手だった。

 

ヒロクニさんは、ヒロクニさんが知らない神戸以降の親父の事を聞きたいという。今度は僕が、ヒロクニさんが知らない親父について話す。二人は同じ「德山巍」について話しているけど、時代、年代の違う同一人物について語っているわけだから、三人が共有した世界はまったく無い。親父だけが、僕達、二人と時間を共有しているわけだけど、彼は22年前に亡くなっている。

 

僕が親父の話をするときには、成り行きで僕自身の事も話すことになる。ヒロクニさんにとっては、それが親父の話なのか、僕自身の話なのか、分からなくなってしまう。僕がヒロクニさんを混乱させているわけだ。

 

さらに、親父の事を僕に話しているうちに、僕と話しているのか、僕に親父のことを話しているのか、はたまた、親父と直接話しているのか、分からなくなってしまったようだ。

 

僕は親父に似ているとは思わない。きっと立ち振る舞いが似ているのだろう。

 

僕が年配のヒロクニさんを、先生と呼んで話したことも、混乱をさそったようだ。「先生」という言葉は、彼にとっては親父の意味だった。彼が先生という時は、親父。僕が先生という時は、ヒロクニさん。これも混乱を引き起こす原因。

 

そうなると、もうなにがなんだか、二人ともわからなくなって奇妙な会話になった。

 

ヒロクニさんは、混乱を解消しようとして、トイレに立った。

 

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<ようかんの絵>

 

当初の目的の、僕の知らない親父、50年前の姿の一部を知ることが出来た。

 

ヒロクニさんは、この会話をどう理解しているのかはわからない。二人とも混乱の中にいたから…。

 

僕にとっては、得難い機会だった。ありがとうございます、ヒロクニさん。

 

そういえば、ヒロクニさんは親父の晩年の風貌そっくりだった。どちらかと言うと、ヒロクニさんの方が、息子の僕より親父に似ているかもしれない。

 

 

注:添付の絵は、「しあわせ食堂」の本をスキャンしたので、真ん中で、切れている。ご容赦!

 

1章 友達、肉親( 7 / 27 )

お弟子さんたちのグループ展「ゆさい」

  親父、德山巍が没して22年。洋画家として、親父は美術界には名を残してはいない。

僕、親父、僕たち家族が一番、困窮していた1946年、太平洋戦争の終った翌年に描いた3号の「飾り馬」が、ことの始まり。こ絵の事は、すでにアップしているエッセイ、「飾り馬を買い戻す」に詳しい。

 

親父は、自分は洋画家であると同時に、素晴らしい教育者でもあったと僕は思っている。つまり、洋画を希望する人に教えるという才能にたけていたと思う。世間にはあまり知られていない上野・都美術館の公募展、「新構造社展」で審査委員として動いていた。そこで沢山の弟子を持っていた。

 

洋画の画壇の世界は、まるでやくざのような組織だと思っている。全国的な組織、「新構造社」の元に、沢山の独立したグループ、もしくは組のようなものがあって、そのカシラが弟子たちの面倒を見るという構図になっている。親父も、その一人で、沢山のお弟子さんを持っていた。

 

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<ゆさい展>

 

そのグループは、東京・台東区谷中・根岸にあって、30人くらいのお弟子さんたちがいたと思う。東京の他にも、関西、長野あたりにもグループがあって、そこのお弟子さんたちを面倒見るわけだ。ようは、新構造社展の油絵部門に出品できるように、画塾を開いて油絵の基本教育をやっていた訳だ。だいたいは、みんな素人からの希望者だった。

 

今から思うと、親父には、僕はあまり良い感情は持っていなかったと思う。それは、親父と僕の間に、絵について小さな事故が僕の小さい頃に在ったことに由来する。それについては、もう電子ブックに上げているから、ここでは書かない。

 

とにかく、僕の家族、つまり僕のカミさん、孫二人と僕の四人は、あまり親父のアトリエには現れなかった。年に一度、元旦にみんなで顔を見せるのが通例で、他には親父の家をみんなで訪れたことは記憶にない。

 

しかし、親父は別に淋しくもなかったようだ。それは、親父を慕って集まってくるお弟子さんたち、さらには台東区の生涯教育・絵画教室で出会った生徒さんたちに常に囲まれていたからだと思う。良い教育者だったのだと思う。

 

やくざの組みたいと思わせることが起きたのは、親父がくたばった時だ。親父とおなじような組の頭たちは、德山組の弟子たちを自分の組に組み入れようと、果敢に動いた記憶がある。まさに、草刈り場だったわけだ。しかし、親父の弟子たちは、自分の組、元德山組を守り、吸収をのがれたという歴史がある。

 

そんな「德山組」のお弟子さんたちが、今回、銀座でグループ展を開くので、「飾り馬」を借りたいと言ってきた。僕は、親父の絵が67年ぶりに人の目に触れるのは良いことだと思って、貸し出すことに喜んでOKを出した。

 

展覧会は、銀座2丁目のメルサの「銀座画廊」で開かれた。僕も、心臓君の機嫌が良かあったので、オープニングに出て簡単な挨拶をした。

 

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<貸し出した絵>

 

元德山組の「ゆさい」は18回目のグループ展で、隔年の開催だから、実に36年間も続いているわけだ。それだけ、絵に対する思い入れの深さが、德山組の組織力となって続いているわけだ。これは、本当にエネルギーのいる大変な継続だと尊敬する。

 

会場を一回りして、30点くらいの絵を見てみた。僕は絵を描けないから、素人の単なる感性に頼った観方になる。

 

すると、いろんな人の絵の中に、ある時期の親父の絵の片りんを発見することになった。あっ、これは、ユトリロに影響された時代に似ているとか、おう、これはルオーに親父が入れ込んでいた時代の匂いがするとか…

 

親父の画風は、4~5年おきに変化していた。もともと戦前、キリスト教会の風景画が世間に認められていたようだ。アメリカ大使館近くの霊南坂教会の絵、本郷の教会の絵など、親父の描いた絵が写真に残っている。確かにみられるいい絵だ。

 

しかし、その後、親父はユトリロの絵に出逢って、ショックを受けたようだ。親父が影響を受けた画家たちは、僕の知る限りでは、ユトリロ、佐伯雄三、ブラマンク、ルオーなどがいた気がする。しかし、結果として“西洋の真似をしていても日本の洋画は描けない”と、日本人の油絵と言う信念に傾いていったようだ。

 

ある時は墨の線を思わせる抽象であったり、ブラマンクやルオーに似たマチエールの具象風景であったり、赤と黒の抽象画であったり、日本の亀甲紋の作品であったり、十二単の源氏物語を思わせる色きらびやかな女性の着物姿であったり、天平の瓦紋に影響されたと思われるパターンの絵だったり、はたまた、日本画の屏風のような松、梅、桜のような大作だったりと、ドンドン変化している。どれもが、親父が自分の独自の世界を求めてさすらった後だろうと思う。

 

そうした、刹那の切り口が、お弟子さんの絵の中にポンと見えたのだ。ああ、この人はこの時代の親父を慕って今も絵を描いているんだ。この人は、亀甲紋だ。この人は、ルオーっぽい具象だ。この人は親父が十二単を描いていた頃に組に入ったのだと、自分では整理して見ることができた。親父の絵の、いろんな変遷の一つの断面として切りだしたような絵が、個々のお弟子さんの絵たちの中に見えたのだ。

 

ああ、德山組はこんな形で36年も営々と息づいているのだと納得した。楽しい、賑やかなグループ展だった。

 

展覧会が終って、あるお弟子さんと話していたら、その人の奥さんが、久しぶりにその展覧会を見て、“德山先生が生きていらしたころに比べると、緊張感が無くなっている”と評したようだ。お弟子さんの奥さんで、ご自分では絵をお描きにならない人だ。

 

そのお弟子さんには相当なショックだったようだ。

 

再来年に向けて、さらに自由な自分自身の絵を探し求めていってほしいと願っている。そして、36年間、よく頑張ってきたねとねぎらった。

 

1章 友達、肉親( 8 / 27 )

旧友との再会 その1

 カスケット・リスト(棺桶リスト)を作って、くたばる前にやっておきたいことを書き出している。その一項目に、昔の友人、知人と会っておきたいというのがある。

 

持病の心臓君の様子を見ながら、リストの項目にチャレンジしている。もちろん僕の意志だけではどうにもならないこともあるけど、声をかけてOKを出してくれる人たちに会っている。

 

今年の旧友との再会は三つあった。皆20年以上の時間が流れての再会だ。こんなに長い間、何故気になっていたのかというには、それぞれの理由がある。それを含めて紹介したみたい。そして、僕の喜びの記録としても残して置きたい。

 

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<シェフの絵>

 

Oさん。

彼は、僕の後輩と言える人だけれど、逆にうんとお世話になった人で、絶対に会っておきたい人の一人だった。彼にはとても恩義を感じている。

 

I社のコンサルタント・ビジネスの立ち上げの時、心臓の病気を抱えながら、僕はその第一期生に選ばれ18名でコンサルチームはスタートした。会社にとって、新しい事業でビジネスを立ち上げるのは大変だった。過酷な、徹夜続きのコンサル業務が始まった。

 

しかし皮肉にも、それまで病気の存在は分かっていたものの、発症がなくてなんとか折り合いをつけていた僕の心臓君が発症し始めた。遺伝性の病気、心房細動で一分間に170拍も打つ頻拍が発症する。苦しく立ってはいられてなくて、体は熱を持ってくる。これを止めるには、救急病院で電気ショックを受けるしか方法がない。悔しいけどどうにも自分ではならないのだ。

 

こんな状態では、チームの仲間たちの足を引っ張るので、コンサルを降りることにした。僕の開発・製造部門からは、僕が唯一のメンバーだったから、なんとか、僕の後任を部門内で探すことに…。コンサルタント事業部へのキャリア・パスを失うことは、今後の部門SEのキャリア展開の可能性にも影響するとの思いもあったったからだ。

 

僕は、内心焦っていた。他の部門からの優秀なSEと伍して動ける人は唯一、Oさんしか思いつかなかった。SEの課長時代の仲間で、当時オートーメーション技術を担当する生産技術部長だった。

 

彼に会って、口説いて僕の後任としてコンサル部門に入ってもらった。彼は努力してクライアントの信頼を勝ち取った。すごい。僕の肩の荷がやっと降り、ホッとしたというものだ。

 

横浜で会って話していると、30年間という長い時間が、あっという間に「昨日」のような時間になって飛び去り、またたく間に昔の「徳さん、Oさん」の親しさを取り戻せた。楽しかった。彼にとっても、コンサルは新しいキャリアとして良かったようで、お互いに感謝だった。ただ、メチャクチャな残業で、彼の家族にはウンと迷惑だっただろう。

 

そうそう、この時、市川さんの本をもらった。

 

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<アイスバイン>

 

Tさん。

津田塾の数学科を出て三菱の研究部門にいたIT系の女性。僕の部のSEの中途入社に応募してきて、最終面接で次長さんが会うので部長の僕も同席した。僕の第一印象は、なぜか、かなり憔悴しているようだな…だった。話を聞くと、どうも会社の中で人間関係がうまくいってないらしい。しっかりとした話はするのだが、どこか暗い印象だった。

 

次長さんが採りたいと言ってきた時、僕は同意した。理由は、津田塾の卒業生に対する過去の高い評価が僕の中にあったからだ。仕事を与えれば、彼女たちは、最終的にはなんとかやってくれるという体験をしていたから、彼女にも賭けてみようと思ったわけだ。暗さ、憔悴感は、部門の明るい職場風土の中で消えていくにちがいないと思ってもいた。

 

入社後、CAD,CAE(コンピュータを使った製品開発)の分野で、明るく仕事をし始めた直後、僕はコンサルに転出した。だから、その後の変化を確認できていなかった。あれからうまく自信を取りも出せたのだろうかと、ずっと気になっていた。

 

Facebookを使い始めた今年の初め、TさんがFBのユーザーだと分かった。大阪でIT関連の職で活躍しているらしい。うまく立ち直ったのだろうかと心配していたからメッセージを送った。東京に出てくることがあったら、飯を食おうと言っておいた。

 

出張で出てきて渋谷で会ってみると、昔と違って、明るく、たくましい大阪のおばちゃんになっていた。もともとの美形は、それなりの歳をとって、それなりにやはり美形だった。結婚して名前も変わり、今はもう中学生の娘さんがいて明るかった。

 

どうしているだろうかという僕の心配は消えた。その後をFBで見ている限り、楽しい仕事をやっているようだ。やはり、SEは女性の適職だと確信した。今後も頑張ってとエールを送った。

 

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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