てつんどの独り言 その1

1章 友達、肉親( 1 / 27 )

友達、肉親 タイトル一覧

   「カスケット・リスト」の友

 

   イグナチオの死

  

   「お袋」は生きていました!

 

   親父の絵、「飾り馬」を買い戻す

 

   亡き親父の50年前を語る

 

   お弟子さんたちのグループ展「ゆさい」

 

   旧友との再会 その1

 

   旧友との再会 その2 

 

   53年ぶりの同窓会

 

   35年ぶりのいとこ会

 

    大学からの友達、3人会 横浜

 

   懐かしい人との再会、3件 

 

   20年ぶりにカラオケを唄ってみると

 

   男の会話かな

 

   逝っちまった2

 

   無邪気なガキ、YMさんが天国へ

 

   56年来の親友、炬口勝弘が逝く

 

   逝ってしまった身近な人たち

 

   「マリアージュ」のこと

 

   築地から銀座へ

 

   ルーツの村の秋だより

 

   二番目に古い友達と一番古い友達

 

   シュトレンと姉の物語

 

   都電荒川線で鬼子母神へ

 

   バレンタインデーに思う

 

   一番古い恩師を亡くしました

1章 友達、肉親( 2 / 27 )

「カスケット・リスト (棺桶リスト)」の友

Casket List:

Everyone has some idea of what they would like to accomplish in their lifetime. Putting it into a list helps crystalize that idea and turns vague notions into a lifetime plan of action

 

 

 高校時代からの親しい友達が、脳こうそくで倒れたのは2011年の5月。 一人住まいだったから、発見されたのは半日後だったようだ。脳梗塞は時間との戦いだと聞いている。梗塞が起きてから、どれだけ早く脳の血管を詰まらせている血の塊を除去するか、溶かすことが大切なようだ。

 

 彼の最初の病状が伝わった時は、意識はあるようだけれど、全身まひで大変だということだった。僕の頭には、もしかすると、これから植物人間としての彼の将来しかないのかも…ということが浮かんだ。

 

 あれから7か月。なんとかして、彼を見舞ってあげたいと思い続けていた。何しろ、僕が大学に入る頃、彼の早稲田の下宿に転がり込み、大家さんの目を盗んで、狭い4畳半に二人で暮らした生活があったくらいの付き合いだったから。

 

 僕はどこかで書いているので、ご存知かもしれないが、先天的な心臓の病気を持っている。心臓の筋肉が肥大し固くなった「肥大型心筋症」の持ち主で、この10年くらいに不整脈発作が頻発するようになった。それまでは、病気の存在は知っていたけれど、実生活には全く問題なくて、仕事も徹夜もこなしていた。

 

 肥大型心筋症が原因で不整脈発作を発症するが、おだやかな不整脈であれば何もしなくてもいいのだけれど、僕の場合は、発作をほっておくと慢性心不全をひきおこす危険が高いと言われている。これまで4回の、唯一の根治治療といわれているカテーテル・アブレーション手術を受けたけれども、根治はしなかった。頻脈を抑える強い薬を飲んで、今後も様子見だ。

 

 僕のドクターは、僕に1日1仕事、一回4時間までという行動制限をつけている。この時間の中で動き回れる世界は非常に限られている。僕の住む横浜からは、神戸の近くの彼の病院までは、普通に考えるとこの制限では無理。片道でも6時間はかかる。

 

 彼が、少し良い方向になってきているという知らせが入ったのは、2012年の11月。意識のない植物人間を見舞っても、僕も悲しくなると思っていたが、この知らせは僕を勇気づけた。くたばるまでには一度、なんとかして「逢っておきたい人のリスト」のトップにいる友だ。こうしたリストを英語では、「カスケット・リスト」と言うらしい。カスケットとは棺桶のことだ。

 

 いろいろ考えたけれど、少しのリスクは覚悟で、見舞いに行くことをドクターには内緒で決断した。

 

 彼が入院中の病院は、神戸から高速を飛ばして30分くらいだ。神戸までは遠くて新幹線は使えない。幸いANAに神戸便があった。自宅から羽田まで1時間。なんとかなると考えた。

 

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<神戸>

 

 阪神淡路大震災の2年後に一度行ったきりの神戸の街を飛行機から見た。さほど変わってはいないようだ。しかし、港に船の影は見えない。さびれた港だ。

 

 翌日、彼の近親者とか友人たちには全く知らせず、不意打ちを食わそうと予約なしで病院に入った。それとなく聞いておいた酒とタバコ以外の好物、甘い物の虎屋の練り菓子をお土産に…。

 

 彼は、想像していたより元気だった。車いすに乗っていた。安全のために拘束衣で車いすに縛られてはいたが、僕が彼の名前を呼ぶと頭を上げた。最初、不思議そうな顔をした。しかし僕がマスクを取ると、アッと驚いた表情になった。よかった、彼は僕を認識していると、少し鼻の中がグスンときた。

 

彼の顔に、僕の顔を近づけて、真正面から見つめた。笑いが彼の顔に浮かんだ。よかった。これなら大丈夫だ、来たかいがあったと思った。僕の作戦、不意打ちは効果があったようだ。

 

彼がもごもご、何かしゃべり始めたが、全く意味が取れない。彼の左の手を取って撫でてみると、やはり不自由なようだ。意のままには動かせない。左足も車椅子に乗っけたきりだ。でも右足で床をけって、車いすを動こうとしていた。植物人間ではなかった。生きた、意志のあるちゃんとした人間だった。

 

 僕は、くたばる前に、必ず一度は会うと約束したじゃないかと言った。彼はうなずいた。会話が成り立ったのだ。

 

彼はプロの写真家だから良い写真を撮る。彼が撮って年賀状として送ってくれた葉書の何枚かと、彼が僕の家を訪ねてきた時、僕と二人(と一匹の犬)で撮った写真を持って来たので見せる。

 

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<伊豆高原の家で>

 

僕が写真を褒めると、彼が説明を始めた。よくは分からなかったけれど、彼の意図が、感情が、筋肉が動いているのを感じてホッとする。もう笑いがこぼれている。明るい日差しの中で、二人の笑顔がカメラに残った。その日は、神戸にとんぼ返り。

 

翌日は、友人や恩師に僕が行くことを伝えてあったので、その人たちと会う。この恩師とは高校の卒業以来の再会。同じく「キャスケット・リスト」に載っている先生。

 

病院に行くと、彼の友人が僕を待っていた。初めてのその人と一緒の見舞いになった。昨日の不意打ちの時、彼が「夢を見たのだ」と思ってはまずいと、明日も必ず来るよ!と言ってあった。その日、彼は最初から笑顔だった。彼は、僕を待っていたのだ。僕の言葉を理解し確信していたのだと僕が確認した。

 

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<親友>

 

 ドクターとの約束は守れなかったけれど、神戸でレンタカーを返却したのは、6時間後だった。リスクはあったけれど、幸い発作は起きなかった。

 

 仮眠をとって、懐かしい神戸の街を少しだけゆっくりと歩く。トアロードは全くさびしくなってしまった。昔、神戸出張の時に、何度も行ったジャズのライブ・ハウスを探す。北野のソネだけは昔のまま残っていた。古参のウエイターをつかまえて聞いてみると、震災で神戸のジャズハウスは様変わりのよう。懐かしい店も、何軒かつぶれて消えていた。

 

 翌日、午後の便で羽田に飛んで帰ってきた。この4日間、幸い発作は出なかった。

 

 疲れは残ったが、僕の気持ちは満ちたりていた。彼はちゃんとリハビリと、言語機能の回復訓練を行っていけば、あるレベルの普通の生活がきっとできるだろうと思う、元通りとはいかないだろうけど。

 

 翌日、彼と撮った写真を葉書に焼いて、二週一枚ずつ送ることにして、最初の写真を送った。彼の脳細胞への刺激になればそれでいい。

 

 これで、僕の「キャスケット・リスト」に2つ丸が付いた。宿題の一部ができたのだ。彼には、元気になって、横浜で会おうと宿題を残してきた。

 

追記:20155月、彼は息を引き取った。4年間頑張ったのだ。僕は、この間3回、彼に会うことが出来た。合掌

 

1章 友達、肉親( 3 / 27 )

イグナチオの死

 

スペインから届いたメールは、僕の知らない人からだった。

 

しかし、それは悲しい便りだとすぐにわかった。僕には、スペインには一人しか友達がいない。彼の名前は、イグナチオ ツーター。スペインの古都、サラゴサというローマ時代からの古い町に住む歯科医。

 

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<地元紙の記事>

 

妹さんからの死亡の知らせだった。59歳で、ジョギング中に自動車にひかれて死亡したと言う。元気で過ごしていたのに…。

 

彼とは、もう20年来の友人。

 

カリフォルニアのタホ湖で開かれたTAのインターナショナル・ワークショップで3週間を一緒に過ごした仲だ。

 

そのワークショップは、世界中から、人種、言語、宗教、金持ちと普通の人、ジェンダーなど、全ての属性に関係なく集まった20名くらいでのワークだった。共通言語は英語。僕がおばあちゃん先生と呼ぶミュリエル ジェームス博士の主宰する、例年のタホ湖での夏のワークショップ。

 

僕の動機は、転職の希望を持って勉強していたTAへの理解を深めるためだった。同時に、離婚問題で子供たちをどうしようかと悩んでいる時期だった。

 

おばあちゃん先生は、参加者全員を5~6個のコンドウに割り当てた。僕のコンドウにも5名の“家族”が生まれた。この5名は、ワークショップの一週間単位は、24時間一緒に暮らす。そこでは、自然発生的に“家族”の役割が出来てくる。この単位で、朝食も、昼ごはんも、夕食用の買い物も、夕食の準備も、復習も、遊びもする。

 

これだけ密な時間を過ごすと、ドンドン、その人の素の姿が明らかになってくる。繕いの顔では過ごせないのだ。

 

別のコンドウだったけれど、イグナチオとは、どういうわけかすぐに親しくなった。どこか、人見知りで、憎めない奴だった。そして、美しい目をしていた。彼の参加の動機は、他人とのやり取りを自然なものにするためだったと記憶にある。

 

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<イグナチオと僕>

 

TAは基本的には、グループワークが基本だ。ミュリエルの理論的な解説は、具体的なワークをした後に明かされる。単にクラスでTAの理論を教えるわけではないのだ。だから、楽しい。

 

3000mを超すシェラネバダ山脈のど真ん中に、他の人には会わないようにして、ひとりぼっちで心を空にして1時間以上、自分だけの時間を過ごすフィールドワーク。心を空にするとは、シェラネバダの大自然の中に身を置いて、何も考えないで、深い森とか、小川かとかの自然だけを感じて過ごすことだ。

 

そして心が空っぽになったら、今度は意識を集中して、目の中に飛び込むものを探すのだ。いろんなものに意識を集中して、自分の心に語りかけてくる物の出現を待つ。そこで、自分に訴えるもの、何かが感じられたら、それを観察して、それはなんだと見据えてみるのだ。すると、それは自分の心の中に存在する何かだと気がつく。

 

ここに、自分の持っている心の問題を解くヒントがあるわけだ。僕には、僕の心の中にあった、深い寂しさを見つけ出す糸口があった。木の切り株が優しい、信頼でつながった愛犬の姿に見えたのだ。僕自身は、あいらしいものを常に欲しいと思っているのだと…。

 

イグナチオとは、ネバダのカーソンシティにある温泉プールでの“プーリング”というワークを一緒にやった。

 

このワークにはいくつかの意味があって、一つ目は母親の子宮の中に漂う自分の浮遊感を感じて自分の原点に戻ること。自分は守られているという感覚を大人になった自分が実感すること。

 

二つ目は、他の人を信頼して、自分を委ねるということを体験することだ。イグナチオと僕はペアーとなって、一人が自分でプールに浮くことが出来るように片方がサポートすることだ。人間は肺の空気だけで、本当は浮けるのだ。

 

僕は、彼のサポートを受けて、簡単に自分で浮くことが出来た。イグナチオがすぐ側にいて、僕が沈みそうになれば助けてくれるわけだ。委ねることだ。

 

しかし、イグナチオは簡単には浮かなかった。体のどこかに緊張して不自然なところがあると、すぐに沈み始める。自分を誰かに委ねるということが出来ないと、浮けるものではないのだ。何度も、イグナチオは沈みそうになり、僕の差し出す僕の腕の上に彼の腰は支えられて沈まない。

 

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<プーリング>

 

何回目かのトライで、僕は信頼されたのか、フッと彼は浮くことが出来た。僕もそうだったけど、彼の涙があふれた。それこそ他の人を信頼することが出来るということの証だ。

 

こうして友達となった二人は、3週間のワークショップが終ってからもサンフランシスコを一緒に歩いて、一人だけでは味わえない、心の共感を確かめたのだ。

 

その後、20年以上、クリスマスカード、時々の電話、メールの交換で、友達でいた。2008年にサラゴサで行われた「水のEXPO」の年には、サラゴサにやって来いと誘いを受けたけれど、残念、僕の心臓君がウンと言わなかった。

 

イグナチオの死で、僕が毎年出すクリスマスカードの3枚の1枚が出せなくなった。後の2枚は、僕が若いころに駐在したミラノ・モンツァの古い友人と、もう98歳になる、タホ湖のワークショップのおばちゃん先生のミュリエルだけになった。ミュリエルとは最近連絡が取れない。心配している。

 

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<ミュリエル>

 

ミュリエルには、今日絵葉書を出した。何か反応があることを願っている。

1章 友達、肉親( 4 / 27 )

「お袋」は生きていました

 

先日、スペインの友達を失った僕は、急に気になりだしたことがある。

 

それは、僕の心のお袋、ミュリエル ジェームス博士の消息だ。彼女は今、推定、97歳。98歳かもしれない。彼女が正確な年を教えてくれなかったからだ。1991年に会った時、75歳と言っていたから、計算上は98歳。

 

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<ミュリエル>

 

心のお袋というのは、僕自身が生まれてこの方持っていた心の傷、僕自身は気がついていなかったのだけれど、それを明らかにして、新しい僕を生きることが出来るようにしてくれたという僕の彼女への恩義があるからだ。今の僕を生み出した本当のお袋さんなのだ。

 

実の母は、とっくにくたばっている。僕が小学3年か4年の時に実母は離婚して家を出た。結果として僕は捨てられたのだ。

 

ド田舎に住んでいる油絵描きの景色は、決して豊かではない。親父とお袋、親父の母、つまり僕のおばあちゃん、姉二人の6人を、絵なんか買う人のいなかった昭和24~5年に、親父は食わせていかなくてはならなかったからだ。

 

親父は、東京のアトリエを3月10日の東京大空襲で焼け出され、德山一族が昔から住む岡山の山の中の遠縁を頼って、6人で疎開した。親父は太平洋戦争以前には、1930年協会などに参加して、一応、飯を食える絵描きだったようだ。特に建物、キリスト教会になると、結構知られて画家だったようだ。今も、港区の霊南坂教会には、親父が描いた教会の絵が残っているはずだ。

 

しかし敗戦で、絵を描いて売るっていう生活は成り立たなくなった。土佐の名家の出のお袋にとって、姑との折り合いの悪さも加わって、結果としては僕のすぐ上の姉を連れて土佐に帰って行った。さらに上の姉は、僕より10歳以上も年上だったから、小学校の先生をしながら、自立していた。残ったのは僕とおばあちゃんと親父だけ。

 

貧しかったから、ほとんど毎朝、僕がお豆腐屋さんに、ただおからを貰いに行っていた。もちろん弁当なんて学校に持って行けるわけはないから、昼休みに走って家まで帰って、おばあちゃんの作ってくれた芋粥をすすって、また学校に走って戻っていた。

 

こうした極貧の中に育った僕だったから、親父は僕の高校から僕の学費は出せなかった。自分で考えろと言われたのが中学2年生の終わり。それから、担任の先生、日本奨学会の特別奨学金、アルバイトなどで、なんとか大学卒業まで自力でやって来た。そんな僕だから、いわゆる普通の家庭の味は知らなかった。仲の良い親父とお袋、幸せそうな子供たち、なんて景色は持てなかったわけだ。

 

その後、親父は友達の奥さんと親しくなって、僕の継母として家に入れた。多感だった中学生の僕との間は、妥協は成り立たなかった。

 

大学はバイトと授業料免除で、やっとこさとこ卒業した。

 

会社に入って、僕を待っていたのは、人とのつながりの欠如の問題だった。なんでも一人でやって来たから、グループでしかできない社会の仕事は、まったく不向きだったわけだ。

 

一人でやれる間は、全く問題を感じていなかった。しかし、課長職になった途端、僕は、うまく仕事を進められなくなった。課の8割の部下が、僕とは仕事をしたくないと評価した。これでは仕事にならない。僕は自分ではどうしたらいいのか、全く分からなかった。

 

こんな状況にいた僕を救ってくれたのが、心の親父、故)岡野嘉宏先生だった。彼が、僕のコーチングをしてくれて、僕自身がどう歪なのかを知る手助けをしてくださった。それが僕のTA(交流分析)心理学との出会いだった。自分を知ることで、他の人とのコミュニケーションがうまく取れるようになっていった。

 

ミュリエルに出会ったのは、岡野先生の紹介で僕が参加した、カルフォルニアとネバダにまたがるタホ湖でのインターナショナル・ワークショップだった。このワークショップの主催者が、優しいおばあちゃん先生、ミュリエルだった。

 

TAの基本はグループワークだ。3週間、24時間、世界中から集まったいろんな人たちと過ごしていると、素の自分、本当の自分がさらけ出されてくる。それを、フィードバックしてもらって、自分を知るわけだ。

 

そこで明らかになった僕の心の闇は、小学生のころから、自分で生きた代償としての寂しさだった。小さい時に、優しく、温かく、背中を撫でられたり、優しい言葉をかけられたことがないという体験が、心の中に溜まりこんでいた。

 

結果として、人との親密な関係を築くことが出来ていなかったという発見だった。僕は湧き上がってくる寂しさの感情をおさえられなくて、ワークショップのみんなの前でオイオイ泣いた。僕の前に、この心の闇を引き出してくれたのが、僕の心のお袋、ミュリエル ジェームス博士なのだ。

 

つまり、僕のその後、二番目の人生を始めることが出来たのは、間違いなくミュリエルの存在があったからだ。

 

ミュリエルは、2010年に一人息子のジョンを亡くしていた。子供に先立たれるのは、心理学者のミュリエルにとっても、越しがたい絶望的な出来事だったに違いない。彼女はその数年前に、夫、アーニーもなくしていた。だから、彼女は一人ぼっちで取り残されてしまったわけだ。

 

あやまって転倒し、骨折をしたミュリエルは体調を崩し、老人性の骨折を繰り返し、いわゆる痴呆症が発症してきた。

 

ミュリエルとは、1991年のワークショップ以来、年に数回は電話し、手紙を書き、Xmasカードを送り、付き合いを続けていた。しかし、最近は、だんだん痴呆も加わってか、電話しても全く会話にならなくなった。

 

そして、2011年のXmasカードを最後に電話でも、手紙でも連絡が取れなくなった。

 

最悪を覚悟しながら、彼女の名前を冠した賞を出している国際TA協会(ITAA)にメールした。彼女の消息を求めて。

 

ITAAは、彼女は依然としてITAAのメンバーだと、教えてくれた。つまり、生きているって事が分かったわけだ。ITAAや、日本TA協会の人の助けもあって、ミュリエルが生きていることが分かった。助かった。

 

カリフォルニアの住所に、改めで絵ハガキを送った。なんとか、返事が来ることを祈っている。お袋を失くしたくはないのだ。

 

追記:ミュリエルは、2016年2月14日で99歳になって、ケアハウスで暮らしている。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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