てつんどの独り言 その1

1章 友達、肉親( 8 / 27 )

旧友との再会 その1

 カスケット・リスト(棺桶リスト)を作って、くたばる前にやっておきたいことを書き出している。その一項目に、昔の友人、知人と会っておきたいというのがある。

 

持病の心臓君の様子を見ながら、リストの項目にチャレンジしている。もちろん僕の意志だけではどうにもならないこともあるけど、声をかけてOKを出してくれる人たちに会っている。

 

今年の旧友との再会は三つあった。皆20年以上の時間が流れての再会だ。こんなに長い間、何故気になっていたのかというには、それぞれの理由がある。それを含めて紹介したみたい。そして、僕の喜びの記録としても残して置きたい。

 

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<シェフの絵>

 

Oさん。

彼は、僕の後輩と言える人だけれど、逆にうんとお世話になった人で、絶対に会っておきたい人の一人だった。彼にはとても恩義を感じている。

 

I社のコンサルタント・ビジネスの立ち上げの時、心臓の病気を抱えながら、僕はその第一期生に選ばれ18名でコンサルチームはスタートした。会社にとって、新しい事業でビジネスを立ち上げるのは大変だった。過酷な、徹夜続きのコンサル業務が始まった。

 

しかし皮肉にも、それまで病気の存在は分かっていたものの、発症がなくてなんとか折り合いをつけていた僕の心臓君が発症し始めた。遺伝性の病気、心房細動で一分間に170拍も打つ頻拍が発症する。苦しく立ってはいられてなくて、体は熱を持ってくる。これを止めるには、救急病院で電気ショックを受けるしか方法がない。悔しいけどどうにも自分ではならないのだ。

 

こんな状態では、チームの仲間たちの足を引っ張るので、コンサルを降りることにした。僕の開発・製造部門からは、僕が唯一のメンバーだったから、なんとか、僕の後任を部門内で探すことに…。コンサルタント事業部へのキャリア・パスを失うことは、今後の部門SEのキャリア展開の可能性にも影響するとの思いもあったったからだ。

 

僕は、内心焦っていた。他の部門からの優秀なSEと伍して動ける人は唯一、Oさんしか思いつかなかった。SEの課長時代の仲間で、当時オートーメーション技術を担当する生産技術部長だった。

 

彼に会って、口説いて僕の後任としてコンサル部門に入ってもらった。彼は努力してクライアントの信頼を勝ち取った。すごい。僕の肩の荷がやっと降り、ホッとしたというものだ。

 

横浜で会って話していると、30年間という長い時間が、あっという間に「昨日」のような時間になって飛び去り、またたく間に昔の「徳さん、Oさん」の親しさを取り戻せた。楽しかった。彼にとっても、コンサルは新しいキャリアとして良かったようで、お互いに感謝だった。ただ、メチャクチャな残業で、彼の家族にはウンと迷惑だっただろう。

 

そうそう、この時、市川さんの本をもらった。

 

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<アイスバイン>

 

Tさん。

津田塾の数学科を出て三菱の研究部門にいたIT系の女性。僕の部のSEの中途入社に応募してきて、最終面接で次長さんが会うので部長の僕も同席した。僕の第一印象は、なぜか、かなり憔悴しているようだな…だった。話を聞くと、どうも会社の中で人間関係がうまくいってないらしい。しっかりとした話はするのだが、どこか暗い印象だった。

 

次長さんが採りたいと言ってきた時、僕は同意した。理由は、津田塾の卒業生に対する過去の高い評価が僕の中にあったからだ。仕事を与えれば、彼女たちは、最終的にはなんとかやってくれるという体験をしていたから、彼女にも賭けてみようと思ったわけだ。暗さ、憔悴感は、部門の明るい職場風土の中で消えていくにちがいないと思ってもいた。

 

入社後、CAD,CAE(コンピュータを使った製品開発)の分野で、明るく仕事をし始めた直後、僕はコンサルに転出した。だから、その後の変化を確認できていなかった。あれからうまく自信を取りも出せたのだろうかと、ずっと気になっていた。

 

Facebookを使い始めた今年の初め、TさんがFBのユーザーだと分かった。大阪でIT関連の職で活躍しているらしい。うまく立ち直ったのだろうかと心配していたからメッセージを送った。東京に出てくることがあったら、飯を食おうと言っておいた。

 

出張で出てきて渋谷で会ってみると、昔と違って、明るく、たくましい大阪のおばちゃんになっていた。もともとの美形は、それなりの歳をとって、それなりにやはり美形だった。結婚して名前も変わり、今はもう中学生の娘さんがいて明るかった。

 

どうしているだろうかという僕の心配は消えた。その後をFBで見ている限り、楽しい仕事をやっているようだ。やはり、SEは女性の適職だと確信した。今後も頑張ってとエールを送った。

 

 

1章 友達、肉親( 9 / 27 )

旧友との再会 その2 ビッグ・ブラザー

 Ni、Yu、Sさん、Yさん、四人の元部下と会ったのは30年ぶり。

 

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<アイスバイン>

 

僕の部門では、ビッグ・ブラザー制度というものがあった。新卒入社のSEに、彼らの先輩に仕事上の相談役としての役割、そして社会人としての成長にも関わらせた。新人一人に一人、3年以上の先輩の経験者を「兄貴・姉:ビッグ・ブラザー」として指名し、面倒を見てもらった。一応、任期は2年。先輩としての指導力アップにもつなげたかった。

 

iとSさん、YuとYさんはその組み合わせの中の二組。その彼らが、今も、時々会っているという。その会合に、Niさんが他の仲間の意向も聞いて、僕を招待してくれた。こんなにうれしいことはない。

 

彼らと一緒に働いていた頃は、僕もまだ新米の課長さんで、へどもどしながら、仕事をしていた頃だから、特に新卒SEの指導と言う意味では、ビッグ・ブラザーたちの活躍に助けられたこともたくさんあった。

 

会う場所は僕に任せるというので、僕は渋谷の「つばめグリル」に予約しようとしたがダメで、品川の店に頼み込んだ。なぜ「つばめ」か…というと、ここのアイスバインが逸品。ドイツ料理のへ偏見を吹っ飛ばす味だということだ。ドイツ駐在時に覚えた味だ。

 

品川の店で会ったら、ものの5分も経たないうちに30年前の空気になった。

 

声をかけてくれたNiさんには、特別の思い出がある。僕が新米のSE課長だった頃、僕の下にいたNiさんは、癖はあるけど優秀なSEで、スタッフSE(係長)への昇進を僕が推薦し、昇進した最初のスタッフSEだった。

 

その頃I社では、社外の飲み会などは、全て割り勘だった。同僚は当たり前だと思うけど、偉い人も、上司も、平を含めた部下も、みんな割り勘、それが常識だった。それは、その頃の日本の常識では非常識だった。

 

僕は大学時代のバイト先の先輩や上司におごられて嬉しかったのだから、このI社の慣習にはなじめなかった。それで、僕は僕の部下の係長昇進の時には、僕が個人的にお祝いをしようと決めた。勿論自腹だ。

 

その最初がNiさん。横浜駅西口の小料理屋で昇進祝いの時間を持った。勘定の時、僕が奢るよと言ったら、Niさんはびっくりした顔をした。本当ですかと訊いている顔は、ほころんでいった。これは、新米課長の僕にとっても、昇進した彼にとってもうれしい記憶になった。

 

その後も、一般職から係長への就任の時には、Niさんを前例として、僕の下にいるすべての部下の係長昇進に、このお祝い会を続けた。課長時代も、昇進する部下の数が増えた部次長時代も、ずっとやって来た。それが上司の常識だろうと思って、何十人もの部下と二人で、時には三人(昇進者が2人いた)で、お祝いの席をもうけた。それは部下を知る良い機会だった。それが、I社の割り勘の慣習を変えたかどうかは定かではない。

 

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<ツバメ 品川>

 

女性SEのはしり、Sさんには忘れられないエピソードがある。Sさんが僕の課に配属されて、しばらくして、「Naだが、知人の娘さん、Sがそちらにお世話になっているようだから、よろしく頼む」と電話がかかってきた。「どちらのNaさんですか」と訊いたら、常務取締役だと言う。びっくりした。Sさんは、お嬢様だったのだ。

 

じつは、SさんもYさんも津田塾の数学科。今もSEとして現役。子供も独立したから、仕事を続けられると言う。うれしいことだ。「その1」で書いたTさんの後輩だ。やはり、SEは女性には適職。今や在宅勤務が可能になったから、より可能性が広がっているだろうと思う。

 

もう一人の男性、Yuについては、僕のI社への新卒入社の頃、東京大田区のCサイトで同じ大部屋にいた、別の課の課長さんの親父さんにまで溯る。大きな声で話される、みんなに慕われていた快活な人だった。I社の明るい社風を教えてくれるスポーツマンでもあった。そして、息子がYu。明るくて、よく気がつくスタッフSEだった。今もその明るさ、闊達さは親父と変わらない。

 

Yuとペアを組んだ新人、Yさんは、Sさんの同期で、同じく津田塾の出身。目立ちはしないが、コツコツと成長していった記憶がある。今回、分かったことがある。YさんはSさんの同じ大学の同じ学年で、入社後、「お嬢」のSさんのボディガードだったってことだ。悪い虫がつかないように、Sさんに密着していたという。Sさんは、「お嬢」として守られていたのだ。もちろん彼女、Yさんの判断でのことだ。

 

この会のあと、Sさんから貰った“あっという間に30年溯れました”とのメールは、嬉しいものだった。

 

また会えるかどうかは分からない。部下が成長してくれたことを確認できると、僕自身もほっこりするわけだ。

 

P.S.

この会の勘定は、僕は払わせてもらえなかった。幹事のNiさんの好意に甘えました。

 

 

1章 友達、肉親( 10 / 27 )

53年ぶりの同窓会

 神戸から明石海峡大橋を渡ったすぐそばのホテル・ウエスティンで、高校の同窓会が開かれた。

 

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<橋>

 

 高校卒業後、53目年の同窓会。200名くらいの卒業生の中で65人位が集まったのだから、すばらしい。卒業生の3割が集まったということは、皆まだまだ元気だと言うことだ。

 

僕にとっても、53年と言うのはこれまでの人生の7割以上の時間だから、大変、長い時間の隔たりがあったわけだ。

 

53年ぶりに会った親しい友達は4名。そのうち部活の仲間だったのが3名。僕の悪友と一緒に、面白い子だと親交があったのが一人。もちろん、僕も含めて年を取っていた。この3人とは53年間、全くの音信の無い関係だった。しかし、話し始めると、53年の長い時間がさらりと溶けていく。友達ってそんなものなのだとうれしくなる。

 

部活仲間と話していると、やっていた活動が鮮やかに思い出される。普通の娘さんだったKさんは美しく年を取っていた。昔より美しい。その頃の主演女優の一人だった。

 

A君とは、演出家と主役の係わり。僕は芝居がまったく出来なかったので、偉そうに演出をやっていた。しかも、高校生の演劇としてはちょっと難しい太宰の作品を取り上げたりして、背伸びしていた自分いた。今思うと恥ずかしい。A君は、今でも演劇をやっているそうだ。すごい。バスの声と、身長が高い。今も楽しんでいるようだ。

 

H君とは、とにかく親しい友達だった。何をするにも、一緒だったような記憶がある。お互い、なんの秘密もなかった仲だ。名古屋に住んでいて、一度、賀状を出したかもしれないけれど続かなかった。彼に貰ったバイオリンはものにならなくて、僕の転居、転居の流れの中で消えてしままった。だから若干、僕には罪の意識もある。

 

ハム子さんは、僕の悪友Taと一緒に冷やかしながら行き来していた子。公子と言う名前だけれど、Taと僕は、ハム子と呼んでいた。53年ぶりに話したら、悪友と僕が彼女の自宅に遊びに行っていたことすら、すっかり忘れている。でも、ちょっと天然なところが、昔の面影通りだ。

 

後は、10年ぶりにあった弁護士のK君。息子も弁護士になったけど、自分の元町の法律事務所は継いでくれなかったと、ちょっと寂しそう。弁護士も厳しい世界に入ったようだ。彼の勧めで、僕は昔、自筆遺言状を書いた。そうでなかったら、遺言は書いていなかっただろうと思う。感謝。

 

今回神戸に出かけた理由には、もう一つ、大切な目的があった。どこかで書いているけど、悪友のTaは脳梗塞で倒れてリハビリ中。民間医療施設で無言の世界に住んでいる。くたばる前に、どうしても、もう一度会っておきたかったのだ。同じ高校の旧友。悪友。

 

彼は、みんなと一緒にいたプレー・ルームに僕が入っていくと、僕を見つけて、笑みを浮かべて、車椅子の上で手を振ってくれた。元気そうだと思った。

 

今回、試みがあった。「あ い う え お」50音のボードを作ってもって行った。食事を自分でできるのだから、指は思い通りに動くわけだ。そうであれば、ボードのひら仮名を順番に指さして「う れ し い」とか、彼が意志を表現できると思ったからだ。

 

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<指の握手>

 

しかし、出来なかった。言葉を頭の中で作る回路が壊れているのかもしれない。彼は、僕が彼の人さし指を取ってやって見せたら、彼は凍り付いて、表情が消えた。悔しかったのかもしれないし、僕にバカと言っていたのかもしれない。脳の中で、言語が形成できていたなら、きっと、指で表現できると考えていたのだが…。

 

その帰りに、恩師のO先生にも会ってきた。なぜか、僕がO先生を迎えに行って、Taの見舞いに一緒に行くと思っていらしたらしい。マンション型の老人ホームにお伺いしたら、ジャケットを着て、外行きのパリッとした服装で出ていらした。アッと思った。Taのことが気になっているので、一緒に見舞いたいとの気持ちなのだと分かった。申し訳ない。

 

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<恩師>

 

近くの喫茶店で1時間くらい話して帰ってきた。もちろん、Taの状況も話しておいた。先生は、もう90歳に近い歳とは思えなく、お元気そう。こんな年になっても、教え子の事を気にかけて頂けるっていうことは、幸せなことなんだなぁと思いながら神戸まで車を飛ばした。

 

神戸の街は昨年、訪れているけれど、どんどん変わって行っている。僕に言わせれば、悪い方に変わってきている。17年前の震災からの復興は目覚ましいけれど、失っていっているものがあるようだ。

 

たとえば、トーアロード。昔は、個人商店のユニークな店がたくさんあって、歩いても楽しい町だった。デリカテッセンの始まりの店もあった。ジャズのピアノバーもあった。でも今は、車がビュンビュン走る通りでしかない。

 

六甲山ケーブルカーは壊れたままで、バスで代行サービス。ケーブルカーでの景色が売りだったのに、バスじゃしょうがない。天災だからしょうがないが、このままだと、六甲への客は、なあんだ…ってことになるだろう。

 

フロインドリーブもがらりと変わって、懐かしいパン屋さんが、何のことは無い、女性陣に占領されたランチ・レストランと化して、元々は古い教会だった空間を埋めている。ちょっと寂しくないか…と独り言。

 

一番ひどかったのはジャズの店、ソネ。とんでもないトリオが、ピアノとドラムスとのリズムがとれないまま、上手くもないヴォーカルを唄わしている。ベースはまだ経験が浅いらしく、しゃかりきで、ピアノとドラムスの間で汗をかいている。いても仕方ないから、ワンステージで帰ってきた。

 

今度もし神戸に行くことがあったら、よく考えて、行動しようと自戒。大好きだった神戸も、寂しくなったものだ。

 

P.S.

昨年も試したクリスマスのシトレン。フロインドリーブのそれは、日本一だと今も信じている。

 

1章 友達、肉親( 11 / 27 )

35年ぶりのいとこ会

 僕の記憶にある最後の「いとこ会」は19712年位だと思う。いとこの美女、AYさんが、イタリア駐在から帰ってきた僕がプレゼントしたお土産(僕は何だったか、忘れている)を、とても喜んでくれたのを覚えているからだ。イタリア駐在が終ったのが1971年だったから、だいたい、そんな時期だと思うのだ。

 

このいとこ会は、僕の半血の姉、KN姉貴が発案した、主に東京にいるお袋系のいとこの集りだった。だいたいは姉貴の家が会場になり、いつも10人くらいのいとこが集まって楽しい会だった。その頃、いとこはみんな若く、これから何でもありの若さあふれる参加者だった。

 

僕はその頃、自由が丘に住んでいたから上の姉と一緒に何度か出席した写真が今も残っている。みんな若い。

 

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1964のいとこ会>

 

あれから30~40年。みんなの人生が展開され、みんなが今に至る自分の歴史を紡いできたわけだ。つまり自分の人生を作ってきたわけだ。

 

今年の年賀状のアドレスで、自由が丘に住んでいるKWちゃんとメールで連絡が取れるようにになった。彼女が「飛鳥」のクルージングで描いてもらったというご夫婦の似顔絵が面白くて、僕がメールを打ったのが切掛けだ。

 

やり取りの中で僕が、昔は「いとこ会」なんてやっていたね、懐かしいね、会ってみたいねって、と軽い気持ちでいったことが切掛けになって、KWちゃんが動いてくれた。五月末に、彼女の自宅、自由が丘で21世紀のいとこ会が開かれた。いとこの子供たち、つまりはとこたちも集まり、11人の大パーティー。

 

KWちゃんが、みんなに自己紹介を促して、分かりにくいところを、自分で補足をしてくれた。お袋の姉妹の子供たちが5名と僕がいとこ関係。さらに、各々の配偶者と子供たちが集まったのだ。

 

なじみがないだろうと、僕の好きなイタリア・ワインの発泡酒、スプマンテ(フランスのシャンパンと同じような)の辛口の赤、ランブルースコを3本買って、前もってKWちゃんに送った。そして、それを冷やしておいてもらった。それでの乾杯のあとには、高知に住んでいる従妹が、高知からわざわざ持ってきてくれた野菜や、刺身や、フルーツが出て、おいしい、楽しい会になった。

 

みんなが近くにいる人と話し始めるから、会合は一つにはまとまらない。幾つもの組が出来て、あちら、こちらで自由に話している。大きな声を出さないと、隣の人と話している声だって聞こえないくらいだ。賑やか。もう遠慮のない会話になって、取り留めもない。

 

「本当に30年もの時間が流れていても、盛り上がり… 楽しめるのは血筋ですかネ…」と後でKWちゃんが感想をメールしてきた。

 

この参加には僕的な目的があった。それは母方のルーツを知ることだった。

 

僕の母は、親父と親父の母とは折り合いが悪く、さらに、戦後の赤貧に耐え切れず、すぐ上の姉を連れて土佐の実家の係累を頼って、僕の家を出た。僕が小学4年のことだから、僕は母を身近に肌を感じながら、母と生活したという実感はない。つまり、母を知らないといってもいいだろう。

 

僕は、母の実家の人たちの兄弟とか、姉妹とか、よく分かっていなかった。僕は、母方のおじいちゃんや、おばあちゃんの名前も正確には知らなかった。つまり、遠い存在だったのだ。

 

僕は、どこかで書いているけれど、カスケットリスト(棺桶リスト)を作って、くたばる迄に、いろいろやっておきたいことを書き出して、出来ることから実行している。その項目の中の一つに、「土佐・奈半利の竹崎家のルーツを調べる」があった。このいとこ会で、分かる限りの情報を得たいと思っていた。

 

会がたけなわになってきたとき、僕は、ホストのKWちゃんに、家系図みたいなものを書いてよと頼んだ。みんなだって、分かるところしか分かってないんだから…と。

 

KWちゃんの娘さんが大きな紙を出してきて、曾おじいちゃんと曾おばあちゃんをまずトップに書いて、分かる人から、その系図みたいなものに自分の情報を書き入れていった。そうやって、やっと、そこにいる人のつながりが皆にわかったのだ。

 

もう一つ、知っておきたいことがあった。それは、僕のおじいちゃんに当る竹崎音吉と、寺田寅彦、さらには夏目漱石との関係だ。

 

竹崎音吉と寺田寅彦の土佐中学(高知高校)、五校(熊本に在った旧姓第五高等学校)、東京帝大での関係が書いてある本を探していた。その本のことも尋ねて見たいとおもっていた。KWちゃんが取り出してきた本のなかに、「「藪柑子集」の研究」という高知市民図書館発行の立派な本があった。

 

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<「藪柑子集」の研究>

 

後日、高知市民図書館に連絡して、なんとか入手できないかと問い合わせたら、幸い、図書館に在庫があった。注文して、僕の手もとに届いた。それが、この本。

 

なぜ、竹崎のルーツ探しを始めたかというと、父方の徳山氏の方は客観的な文書で、はっきりしたので、今度は母方の竹崎家の情報を入手しておきたかったからだ。

 

これで、僕の子供たち、さらには孫たちに、自分たちの系譜を残すことが出来たわけで、僕のホームページに、新たに母方のルーツの記述ができることになった。皆に感謝だ。

 

今回出席した、はとこたちが「はとこ会」でも作ろうかと話していた。KN姉貴の初志が次の代にも引きつがれるとしたら、それは天国の姉貴にとってもうれしいことに違いない。

 

しかし、音吉おじいちゃんから数えて、同じ血を四分の一ずつ持つ「いとこ」のような繋がりを、八分の一の血を持つ「はとこ」たちが、血縁として、同じルーツとして感じられるかな…と、帰りの東横線の中で疑問がわいた。でもいいか…。

 

竹崎家の血の中には、いとこや、はとこ、周りの話や、記録などから、土佐の明るい、開かれた、積極的な進取の気性が見て取れた。いとこたちはそんな人生を生きてきたようだ。そんな血が、僕にも流れているなと思い当たるところがあった。

 

いいいとこ会だった。

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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