てつんどの独り言 その1

1章 友達、肉親( 3 / 27 )

イグナチオの死

 

スペインから届いたメールは、僕の知らない人からだった。

 

しかし、それは悲しい便りだとすぐにわかった。僕には、スペインには一人しか友達がいない。彼の名前は、イグナチオ ツーター。スペインの古都、サラゴサというローマ時代からの古い町に住む歯科医。

 

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<地元紙の記事>

 

妹さんからの死亡の知らせだった。59歳で、ジョギング中に自動車にひかれて死亡したと言う。元気で過ごしていたのに…。

 

彼とは、もう20年来の友人。

 

カリフォルニアのタホ湖で開かれたTAのインターナショナル・ワークショップで3週間を一緒に過ごした仲だ。

 

そのワークショップは、世界中から、人種、言語、宗教、金持ちと普通の人、ジェンダーなど、全ての属性に関係なく集まった20名くらいでのワークだった。共通言語は英語。僕がおばあちゃん先生と呼ぶミュリエル ジェームス博士の主宰する、例年のタホ湖での夏のワークショップ。

 

僕の動機は、転職の希望を持って勉強していたTAへの理解を深めるためだった。同時に、離婚問題で子供たちをどうしようかと悩んでいる時期だった。

 

おばあちゃん先生は、参加者全員を5~6個のコンドウに割り当てた。僕のコンドウにも5名の“家族”が生まれた。この5名は、ワークショップの一週間単位は、24時間一緒に暮らす。そこでは、自然発生的に“家族”の役割が出来てくる。この単位で、朝食も、昼ごはんも、夕食用の買い物も、夕食の準備も、復習も、遊びもする。

 

これだけ密な時間を過ごすと、ドンドン、その人の素の姿が明らかになってくる。繕いの顔では過ごせないのだ。

 

別のコンドウだったけれど、イグナチオとは、どういうわけかすぐに親しくなった。どこか、人見知りで、憎めない奴だった。そして、美しい目をしていた。彼の参加の動機は、他人とのやり取りを自然なものにするためだったと記憶にある。

 

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<イグナチオと僕>

 

TAは基本的には、グループワークが基本だ。ミュリエルの理論的な解説は、具体的なワークをした後に明かされる。単にクラスでTAの理論を教えるわけではないのだ。だから、楽しい。

 

3000mを超すシェラネバダ山脈のど真ん中に、他の人には会わないようにして、ひとりぼっちで心を空にして1時間以上、自分だけの時間を過ごすフィールドワーク。心を空にするとは、シェラネバダの大自然の中に身を置いて、何も考えないで、深い森とか、小川かとかの自然だけを感じて過ごすことだ。

 

そして心が空っぽになったら、今度は意識を集中して、目の中に飛び込むものを探すのだ。いろんなものに意識を集中して、自分の心に語りかけてくる物の出現を待つ。そこで、自分に訴えるもの、何かが感じられたら、それを観察して、それはなんだと見据えてみるのだ。すると、それは自分の心の中に存在する何かだと気がつく。

 

ここに、自分の持っている心の問題を解くヒントがあるわけだ。僕には、僕の心の中にあった、深い寂しさを見つけ出す糸口があった。木の切り株が優しい、信頼でつながった愛犬の姿に見えたのだ。僕自身は、あいらしいものを常に欲しいと思っているのだと…。

 

イグナチオとは、ネバダのカーソンシティにある温泉プールでの“プーリング”というワークを一緒にやった。

 

このワークにはいくつかの意味があって、一つ目は母親の子宮の中に漂う自分の浮遊感を感じて自分の原点に戻ること。自分は守られているという感覚を大人になった自分が実感すること。

 

二つ目は、他の人を信頼して、自分を委ねるということを体験することだ。イグナチオと僕はペアーとなって、一人が自分でプールに浮くことが出来るように片方がサポートすることだ。人間は肺の空気だけで、本当は浮けるのだ。

 

僕は、彼のサポートを受けて、簡単に自分で浮くことが出来た。イグナチオがすぐ側にいて、僕が沈みそうになれば助けてくれるわけだ。委ねることだ。

 

しかし、イグナチオは簡単には浮かなかった。体のどこかに緊張して不自然なところがあると、すぐに沈み始める。自分を誰かに委ねるということが出来ないと、浮けるものではないのだ。何度も、イグナチオは沈みそうになり、僕の差し出す僕の腕の上に彼の腰は支えられて沈まない。

 

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<プーリング>

 

何回目かのトライで、僕は信頼されたのか、フッと彼は浮くことが出来た。僕もそうだったけど、彼の涙があふれた。それこそ他の人を信頼することが出来るということの証だ。

 

こうして友達となった二人は、3週間のワークショップが終ってからもサンフランシスコを一緒に歩いて、一人だけでは味わえない、心の共感を確かめたのだ。

 

その後、20年以上、クリスマスカード、時々の電話、メールの交換で、友達でいた。2008年にサラゴサで行われた「水のEXPO」の年には、サラゴサにやって来いと誘いを受けたけれど、残念、僕の心臓君がウンと言わなかった。

 

イグナチオの死で、僕が毎年出すクリスマスカードの3枚の1枚が出せなくなった。後の2枚は、僕が若いころに駐在したミラノ・モンツァの古い友人と、もう98歳になる、タホ湖のワークショップのおばちゃん先生のミュリエルだけになった。ミュリエルとは最近連絡が取れない。心配している。

 

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<ミュリエル>

 

ミュリエルには、今日絵葉書を出した。何か反応があることを願っている。

1章 友達、肉親( 4 / 27 )

「お袋」は生きていました

 

先日、スペインの友達を失った僕は、急に気になりだしたことがある。

 

それは、僕の心のお袋、ミュリエル ジェームス博士の消息だ。彼女は今、推定、97歳。98歳かもしれない。彼女が正確な年を教えてくれなかったからだ。1991年に会った時、75歳と言っていたから、計算上は98歳。

 

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<ミュリエル>

 

心のお袋というのは、僕自身が生まれてこの方持っていた心の傷、僕自身は気がついていなかったのだけれど、それを明らかにして、新しい僕を生きることが出来るようにしてくれたという僕の彼女への恩義があるからだ。今の僕を生み出した本当のお袋さんなのだ。

 

実の母は、とっくにくたばっている。僕が小学3年か4年の時に実母は離婚して家を出た。結果として僕は捨てられたのだ。

 

ド田舎に住んでいる油絵描きの景色は、決して豊かではない。親父とお袋、親父の母、つまり僕のおばあちゃん、姉二人の6人を、絵なんか買う人のいなかった昭和24~5年に、親父は食わせていかなくてはならなかったからだ。

 

親父は、東京のアトリエを3月10日の東京大空襲で焼け出され、德山一族が昔から住む岡山の山の中の遠縁を頼って、6人で疎開した。親父は太平洋戦争以前には、1930年協会などに参加して、一応、飯を食える絵描きだったようだ。特に建物、キリスト教会になると、結構知られて画家だったようだ。今も、港区の霊南坂教会には、親父が描いた教会の絵が残っているはずだ。

 

しかし敗戦で、絵を描いて売るっていう生活は成り立たなくなった。土佐の名家の出のお袋にとって、姑との折り合いの悪さも加わって、結果としては僕のすぐ上の姉を連れて土佐に帰って行った。さらに上の姉は、僕より10歳以上も年上だったから、小学校の先生をしながら、自立していた。残ったのは僕とおばあちゃんと親父だけ。

 

貧しかったから、ほとんど毎朝、僕がお豆腐屋さんに、ただおからを貰いに行っていた。もちろん弁当なんて学校に持って行けるわけはないから、昼休みに走って家まで帰って、おばあちゃんの作ってくれた芋粥をすすって、また学校に走って戻っていた。

 

こうした極貧の中に育った僕だったから、親父は僕の高校から僕の学費は出せなかった。自分で考えろと言われたのが中学2年生の終わり。それから、担任の先生、日本奨学会の特別奨学金、アルバイトなどで、なんとか大学卒業まで自力でやって来た。そんな僕だから、いわゆる普通の家庭の味は知らなかった。仲の良い親父とお袋、幸せそうな子供たち、なんて景色は持てなかったわけだ。

 

その後、親父は友達の奥さんと親しくなって、僕の継母として家に入れた。多感だった中学生の僕との間は、妥協は成り立たなかった。

 

大学はバイトと授業料免除で、やっとこさとこ卒業した。

 

会社に入って、僕を待っていたのは、人とのつながりの欠如の問題だった。なんでも一人でやって来たから、グループでしかできない社会の仕事は、まったく不向きだったわけだ。

 

一人でやれる間は、全く問題を感じていなかった。しかし、課長職になった途端、僕は、うまく仕事を進められなくなった。課の8割の部下が、僕とは仕事をしたくないと評価した。これでは仕事にならない。僕は自分ではどうしたらいいのか、全く分からなかった。

 

こんな状況にいた僕を救ってくれたのが、心の親父、故)岡野嘉宏先生だった。彼が、僕のコーチングをしてくれて、僕自身がどう歪なのかを知る手助けをしてくださった。それが僕のTA(交流分析)心理学との出会いだった。自分を知ることで、他の人とのコミュニケーションがうまく取れるようになっていった。

 

ミュリエルに出会ったのは、岡野先生の紹介で僕が参加した、カルフォルニアとネバダにまたがるタホ湖でのインターナショナル・ワークショップだった。このワークショップの主催者が、優しいおばあちゃん先生、ミュリエルだった。

 

TAの基本はグループワークだ。3週間、24時間、世界中から集まったいろんな人たちと過ごしていると、素の自分、本当の自分がさらけ出されてくる。それを、フィードバックしてもらって、自分を知るわけだ。

 

そこで明らかになった僕の心の闇は、小学生のころから、自分で生きた代償としての寂しさだった。小さい時に、優しく、温かく、背中を撫でられたり、優しい言葉をかけられたことがないという体験が、心の中に溜まりこんでいた。

 

結果として、人との親密な関係を築くことが出来ていなかったという発見だった。僕は湧き上がってくる寂しさの感情をおさえられなくて、ワークショップのみんなの前でオイオイ泣いた。僕の前に、この心の闇を引き出してくれたのが、僕の心のお袋、ミュリエル ジェームス博士なのだ。

 

つまり、僕のその後、二番目の人生を始めることが出来たのは、間違いなくミュリエルの存在があったからだ。

 

ミュリエルは、2010年に一人息子のジョンを亡くしていた。子供に先立たれるのは、心理学者のミュリエルにとっても、越しがたい絶望的な出来事だったに違いない。彼女はその数年前に、夫、アーニーもなくしていた。だから、彼女は一人ぼっちで取り残されてしまったわけだ。

 

あやまって転倒し、骨折をしたミュリエルは体調を崩し、老人性の骨折を繰り返し、いわゆる痴呆症が発症してきた。

 

ミュリエルとは、1991年のワークショップ以来、年に数回は電話し、手紙を書き、Xmasカードを送り、付き合いを続けていた。しかし、最近は、だんだん痴呆も加わってか、電話しても全く会話にならなくなった。

 

そして、2011年のXmasカードを最後に電話でも、手紙でも連絡が取れなくなった。

 

最悪を覚悟しながら、彼女の名前を冠した賞を出している国際TA協会(ITAA)にメールした。彼女の消息を求めて。

 

ITAAは、彼女は依然としてITAAのメンバーだと、教えてくれた。つまり、生きているって事が分かったわけだ。ITAAや、日本TA協会の人の助けもあって、ミュリエルが生きていることが分かった。助かった。

 

カリフォルニアの住所に、改めで絵ハガキを送った。なんとか、返事が来ることを祈っている。お袋を失くしたくはないのだ。

 

追記:ミュリエルは、2016年2月14日で99歳になって、ケアハウスで暮らしている。

1章 友達、肉親( 5 / 27 )

親父の絵、「飾り馬」を買い戻す

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<飾り馬>

 

親父は22年前に、貧乏な無名の洋画家として87歳で亡くなった。葬式は、文京区白山にある寺で1月の10日だった。その日、初雪が東京に降った。寒い日だった。その式には、400人を超えるお弟子さんたちや、絵画教室の教え子たちが集まってくれた。

 

親父は無名だと書いたけれど、お弟子さんたちや、絵画教室の教え子たちにはとても慕われた洋画家でもあった。僕から見ると、洋画家ではあるけれど、作家ではなかったということだ。教育者に近いと言えるだろう。

 

その経緯や、僕にとっての親父という存在については、僕の本に書いているのでそちらを読んでもらえばその背景が分かると思う。「親父から僕へ、そして君たちへ」を参照してください。http://forkn.jp/book/2064/

 

話を戻すと僕にも歳が迫ってきて、どこかで書いているけど、くたばる迄にやっておきたいこと、会っておきたい人たちのリストを作って、心臓君のご機嫌をみながら実行している。そんなリストの事を米語では棺桶リスト(Casket List)と言うらしい。

 

親父の残した絵は、くたばる時期の絵と、少し遡った時代の少数の絵と、あまりにもデカくて、どこにも行き場のない大作、400号の三枚だった。

 

僕の気に入った絵はほとんどなくて、最後の時期の抽象画を何枚か取って置いた。だが、僕には、それらの絵を親父の代表作とは思えなかった。

 

どちらかというと、遊びで描いた水彩の色紙(具象の絵)や、親父から見れば頼まれて描いていた未完成の具象の方が、よほどいい作品だと僕は思っている。

 

唯一、何としても手元に置いておきたい絵の存在を、僕は知っていた。知っていたのは存在だけで、誰がどこに、どんなふうに持っているかは知らなかった。その絵の存在を知ったのは、生前、お弟子さんたちが、銀座の東京セントラル美術館で開いてくれた親父の80歳記念作品展にあった。

 

小さな作品で、親父が自分で持ち主に頼んで、展覧会のために借り出したようだ。

 

僕の棺桶リストには、その絵を手に入れることが在った。それは、子どもや孫たちに、ほら、これがおじいちゃんの絵だよと、僕がくたばった後にも残して置きたかったからだ。

 

展覧会を開いてくれたお弟子さんたちに、訊ねてみたが正確には答えが返ってこない。親父のメモを発見したのは、その展覧会の画集の後の方に小さく記載されていた覚え書。

 

その絵が「飾り馬」。親父が谷中のアトリエを1920年310日に焼かれ、僕の家系の発祥地、中国山脈の山の中、徳山村に疎開をしたころの作品だった。

 

親父は昔の小さな城下町、中国勝山にある高校に美術の臨時講師の職を得て、一家6名(父と妻、母、子供3人)が、なんとか食いつないでいた。貧困な家庭だった。しかし、親父の心の中では、台東区谷中への帰京を果たそうと考えていたようだ。

 

この絵は、この頃、描かれていた。いい絵だった。昔の飾り馬を静物画として描いた小品だった。持ち主は、その小さな町の造り酒屋、辻本店の先々代の彌平さんが、篤志家として買ってくれたようだ。

 

勝山は旭川の流れの沿っていて、辻本店は「御前酒」という名前のお酒をしている蔵元。美しい大きな蔵と、酒の醸造のための大きな建物の、白壁と大屋根が美しい。

 

見ず知らずの人に手紙を書くのは初めてだ。

 

 『御社のHPに、「当蔵元の辻家では、明治から昭和にかけての当主が、文化的な活動にも積極性であり、自ら書画を嗜むことから…」と記載があるとおり、貧乏洋画家、德山巍にもご厚意を頂いたようで、先代のことは父がよく話しておりました。』

 

先代の奥様、智子さまにご協力いただくことができ、大きな蔵の中から、三月のお雛様飾りを取り出す時に、幸運にも、膨大な収集品のなかから、その絵を見つけていただいた。それも、偶然に見つかったようで…。

 

僕は、親父のくたばる頃の親父の絵の値段、つまり最後の頃の値段でお譲り頂き、その絵が僕の手元に届いた。

 

「飾り馬」はF3号(27.3 X 22.0㎜の小さな絵。しかし、息子が言うのは変かもしれないが、思った通り素晴らし絵だった。

 

今、僕の部屋の壁にかけて毎日見ている。隣には、僕の大好きなシャガールの

The Yellow Face」が掛かっている。この中にも黄色い馬のような動物が描かれている。「飾り馬」と似ている優しい目をしている。

 

これらを見ながら、このエッセイを書いている。これで、僕の棺桶リストの一項目に ○ が付いた。しあわせなことで、感謝。

 

さらに、今月(11月18日、2013年)、お弟子さんたちが開く、銀座・セントラル美術館でのグループ展へ、その「飾り馬」の出展依頼も受けた。また、誰かの目に留まることだろう。絵も喜んでいるだろう。

 

 

P.S.

「御前酒」の蔵元のある中国勝山は、元は岡山県真庭郡の中心だったのですが、残念ながら、高速の中国道からも、米子道からも外れ、美しい西蔵という辻本店のレストランを知る人はあまり多くないもよう。折がありましたら、ぜひ訪れてみてください。

HP: http://www.gozenshu.co.jp/index.html

 

1章 友達、肉親( 6 / 27 )

亡き親父の50年前を語る

 

過日、奇妙な体験をした。奇妙というより、頭の混乱した二人が話したと言った方が素直だろう。

 

銀座で、武内ヒロクニさんの個展があった。ヒロクニさんは、関西ではなじみが深い神戸出身のユニークな画家。

 

まえに毎日新聞の夕刊に「しあわせ食堂」というコラムがあった。ここにはいろんな有名人(例えば、田辺聖子、藤田まこと、星野哲郎さんなど合計50名)が、戦後の腹ペコの時代を思い出し、一人一人が懐かしい「たべもの」について短いエッセイを書いている。これらに度肝を抜く絵をつけたのが、ヒロクニさん。

 

これらの毎日新聞夕刊のエッセイと絵をまとめて、「しあわせ食堂」というタイトルで光人社から刊行されている。50のエッセイと、50の絵がついている。

 

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<しあわせ食堂>

 

ヒロクニさんに、僕宛のサインを書いてもらった本は、その後2~3日で読んでしまった。

 

僕の読み方がエッセイの読み方ではなかったからかもしれないが、50編の中のどれ一つ、今は覚えていない。いろんな人が書いたエッセイを、次から次へと読んでしまったので、みんながごちゃごちゃになって、結果として、何も残らないということを経験した例の一つだった。

 

冒頭の奇妙な体験について書いてみようと思うけれど、頭が混乱した一方が、一方的に書くのだから、うまく伝わるかどうかは分からない。

 

ヒロクニさんとの出会いは、親父のことを書いておこうと、資料をもとめてグーグルを検索したのがきっかけだった。唯一、武内ヒロクニさんのブログに親父の名前を見つけた。

 

ヒロクニさんのことを、東京の親父のお弟子さんたちに訊いてみたけれど、誰一人、ヒロクニさんを知らなかった。グーグルでヒロクニさんの絵も見つけた。具象とも、抽象ともいえるユニークな絵柄だった。

 

セピア色の写真に、親父と一緒に写っているヒロクニさんには、僕は見覚えがなかった。全くわからない。ブログの著者にメールした。返事があった。ヒロクニさんは、間違いなく僕の知らない親父を知っているようだ。チャンスがあれば、お会いしたいとメールを戻した。

 

しばらくして、銀座で個展を開くと言う案内を頂いた。奥さまがネット担当のようだ。

 

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<イワシの絵>

 

そこで、僕は銀座に出かけて、ヒロクニさんの絵を見て、奥様にお会いして、親父とのつながりをヒロクニさんからうかがった。

 

そこで、冒頭で話した混乱した会話が二人の間が生まれた。

 

ヒロクニさんは、僕より5歳上の洋画家。親父との接点は、僕が高校生の頃だったから、今から50年ほど前のことだ。場所は神戸。絵の先生と弟子の仲だったようだ。すべて、僕は初めて聞く話だった。

 

混乱したのは、ヒロクニさんが、僕の顔、声、白髪、しぐさなどに、彼が尊敬する(?)僕の親父を見出したのがきっかけだ。今話している目の前の僕のなかに、彼は親父の面影、イメージを見出し、まるで僕の親父と話しているかのような錯覚をもったようだ。

 

僕達は画廊のソファーに横に並んで掛けて話していた。右側に座ったヒロクニさんの顔を見ながら話すため、体を右に向けて、僕は右手の肘をソファーの背もたれに掛けていた。

 

ヒロクニさんが僕の手を見て、ちょっといい…と僕の手を取った。二人は握手した。温かな大きな手だった。親父の手にそっくりだとヒロクニさん。僕は親父の手は覚えていないけど、ヒロクニさんは覚えていたようだ。ヒロクニさんの手を僕のそれと比べてみた。かなり大きな手だった。僕の手も大きいから、ヒロクニさんも大きな手だった。

 

ヒロクニさんは、ヒロクニさんが知らない神戸以降の親父の事を聞きたいという。今度は僕が、ヒロクニさんが知らない親父について話す。二人は同じ「德山巍」について話しているけど、時代、年代の違う同一人物について語っているわけだから、三人が共有した世界はまったく無い。親父だけが、僕達、二人と時間を共有しているわけだけど、彼は22年前に亡くなっている。

 

僕が親父の話をするときには、成り行きで僕自身の事も話すことになる。ヒロクニさんにとっては、それが親父の話なのか、僕自身の話なのか、分からなくなってしまう。僕がヒロクニさんを混乱させているわけだ。

 

さらに、親父の事を僕に話しているうちに、僕と話しているのか、僕に親父のことを話しているのか、はたまた、親父と直接話しているのか、分からなくなってしまったようだ。

 

僕は親父に似ているとは思わない。きっと立ち振る舞いが似ているのだろう。

 

僕が年配のヒロクニさんを、先生と呼んで話したことも、混乱をさそったようだ。「先生」という言葉は、彼にとっては親父の意味だった。彼が先生という時は、親父。僕が先生という時は、ヒロクニさん。これも混乱を引き起こす原因。

 

そうなると、もうなにがなんだか、二人ともわからなくなって奇妙な会話になった。

 

ヒロクニさんは、混乱を解消しようとして、トイレに立った。

 

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<ようかんの絵>

 

当初の目的の、僕の知らない親父、50年前の姿の一部を知ることが出来た。

 

ヒロクニさんは、この会話をどう理解しているのかはわからない。二人とも混乱の中にいたから…。

 

僕にとっては、得難い機会だった。ありがとうございます、ヒロクニさん。

 

そういえば、ヒロクニさんは親父の晩年の風貌そっくりだった。どちらかと言うと、ヒロクニさんの方が、息子の僕より親父に似ているかもしれない。

 

 

注:添付の絵は、「しあわせ食堂」の本をスキャンしたので、真ん中で、切れている。ご容赦!

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
てつんどの独り言 その1
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