てつんどの独り言 その1

1章 友達、肉親( 27 / 27 )

一番古い恩師を亡くしました

 僕の一番古い恩師を91歳で亡くしました。僕が高校2年の頃の担任で、卒業までお世話になった、58年前の恩師です。

 

 親父の都合で、僕にとっては唐突にも、淡路島の洲本高校に転校試験をうけて転校し、奥野先生のクラスに入ったことがきっかけ。彼は、若くて、英語の先生でした。県立洲本高校で、1年と2学期を過ごしましたが、この間、密度の濃い付き合いをいただきました。

 

 転校生(つまり島外からのよそ者)の僕に対して、先生は積極的にかかわってくださいました。部活では、自分では想像もしていなかった演劇部に誘われ、まごまごしていた僕を、育てっていただきました。僕も、それに乗り、自分で太宰治のむずかしい芝居を演出するまでに、積極的な行動をとれるようにもなりました。つまり、それまでの暗い思春期の真最中の僕を、そのメランコリックな世界から開放してくださったといってもいいでしょう。

 

 先生は、僕が来る前から「ポチ」とあだ名がついていました。何故だかわかりませんが、「ポチ」と親しみを込めて、生徒に呼ばれていました。決して、馬鹿にした呼び方ではなく、ユーモラスなあだ名として呼ばれていたと思います。

 

 その年の秋の体育会では、組対抗の応援のため、高さ15mほどの張りぼてを作るのが洲本高校の伝統でした。もともとの旧制洲本中学のバンカラな伝統が、こんなところに現れていたのでしょう。前年の1957年、ロシアの衛星、スプートニク2号にのせられて地球を周ったライカ犬からヒントを得て、スプートニクとポチの張りぼてを作ることになりました。

 

 夜、暗くなるまで、皆で作業し、竹の骨組みを作り、紙を張り、ポチの絵を描いたスプートニクを作りあげたのです。雨の日には、体育館まで張りぼてを避難させました。

 

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<1958年のスプートニクとポチ>

 

 この張りぼてを作る作業の中で、その頃、男子生徒のあこがれだったマドンナ、STさんと親しくなることができました。それは、この張りぼてを作っていて夜、遅くなり、誰かが彼女を大浜海岸に近い自宅まで送り届けることになりました。真っ先に手を挙げたのが僕だったのです。その後、何度か彼女をチャリの荷台に横乗りで乗せ、彼女は僕につかまって、チャリで帰宅したものです。その後、彼女とは東京で再開し、一緒の部屋に泊まるという重要なじゃんけんに負けて、友達付き合いが続きました。

 

 奥野先生の影響は、僕だけではありませんでした。僕が洲本高校で最初の友達になった炬口勝弘の変化にもかかわっていらっしゃいました。その変化には、僕もかかわっていたと思います。はじめの彼の印象は、がり勉で、暗い印象で、一人ぼっちで洲本に下宿していました。その彼を、彼が憧れていた東京の空気を持つ僕の親父、姉、そして僕の世界に引き入れたのです。彼の性格は明るくなりました。そして、どんどん、がり勉から離れていきました。淡路島の西海岸、都志の出身で、ご両親の期待を背負って、有名大学に入ってもらいたいとの希望から、少しずつずれていったのです。 こうして、炬口勝弘は、僕の大の親友になったわけです。根暗のがり勉の彼が、演劇部に入って芝居を始めたなんてことは、画期的な出来事でした。

 

 炬口とは、彼が早稲田の仏文にいたころ頃から、さらに親しくなりました。彼のかみさんを口説き落とすための体の良い道具に使われ、彼はその女史とねんごろになり、結婚しました。そして、生まれてきた男の子に、炬口名前の一文字と、僕の名前の一文字をとった「炬口炬人」という名前を付けました。彼は僕に恩義を感じていた表れでした。

 

炬口からの情報で、奥野先生の住所を知り、それからずっと賀状のやり取りが続きました。年賀状は、生きているしるしです。そんな付き合いが何十年も続いていました。 

 

奥野先生と再会するきっかけは、皮肉にも、炬口の脳梗塞の発作でした。炬口は、将棋界の写真を撮り始め、有名な写真家になり、羽生さんを主に追っかけていました。しかし、独り暮らしのお袋さんの看病のため、単身、仕事の量を減らして、淡路に帰って行きました。

 

そこに、脳こうそくの発作です。意識がなくなり、訪ねても仕方がないので、様子見をしていました。僕自身も、心臓に病気を持っていて、フットワークは軽くはなかったのです。彼に意識が戻ったと聞いたのは、2011年の末。翌年1月、僕はリスクを冒して、神戸空港まで飛びました。そして、レンタカーで、炬口が収容されていた病院を見舞いました。その時、奥野先生とも51年ぶりの再会を果たしました。

 

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<入院中の炬口>

 

結果的には、炬口が僕の奥野先生との再会を段取りしてくれたといってもいいでしょう。洲本で、同窓会の世話役をやってくださっている沢井女史と一緒にミニミニ同窓会をやりました。奥野先生はお元気でした。それが、2012年1月。

 

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<ミニ同窓会>

 

2013年には、淡路で同窓会があり、その際、奥野先生ともお目にかかりました。もちろん炬口とも。その後、炬口は脳梗塞の後遺症で、昨年、5月10日に天国に。大の親友を亡くし、僕は寂しくなりました。

 

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<奥野先生:2013年>

 

そして、この2016年5月、奥野先生の訃報に接しました。しかも、亡くなったのが、炬口と同じ、5月10日でした。奥野先生は、91歳でしたから、大往生と言えるでしょう。しかし、炬口と同じ日に亡くなるとは、炬口が呼びに来たのかもしれません。

 

 こうして、僕の一番古い恩師を亡くしました。それでなくても、友人、知人をどんどん亡くしている今日この頃、僕の生きられる時間も確実に短くなっているのを感じます。

 

 恩師といえば、大学時代の恩師、桂田利吉先生も1993年、91歳で他界。大学の教養の頃、これもお世話になり、迷惑をかけた、松太郎先生も、ほかの大学を1993年に退官され、消息は不明です。おそらく今、94歳。ご無事かどうか案じています。

 

 カスケットリスト(棺桶リスト)の乗っている、友達、先輩には、できるだけ早く会っておこうと、心がせかされる出来事でした。合掌。

 

 

2章 フラグメンタルな…( 1 / 21 )

フラグメンタルな… タイトル一覧

 

  環境考古学者の考えること

 

  汗臭い新宿

 

  自分史を映しだす車たち(その1)

 

  自分史を映しだす車たち(その2)

 

  久しぶりに夢中でTVを見た

 

  福島原発事故の真実

 

  入院、そしてオペ

 

  入院の日々

 

  夢の助言

 

  もう今年(2011)は終わり

 

  夏祭り

 

  金属疲労で「笑っていいとも」が終る 

 

  女性にとっていい仕事:SE

 

  いとおしいパートナーの高齢化

 

  物に対するこだわり

 

  夢で恋をした

 

  怪我の想い出を集めてみると

 

  異種の動物たちの友情

 

  共済病院12月13日 午後3

 

  だんだん分かってきた・ネットコミュニケーション

 

2章 フラグメンタルな…( 2 / 21 )

環境考古学者の考えること

 

 2008年3月にブログを再開して、何とか書き続け、もうすぐ1年になります。

 

 前にも書いたように僕の心臓は遺伝性の「肥大型心筋症」で、これ自体は直すことは出来ません。それから派生して出てくる症状、「心房細動」の発作を薬(劇薬といわれています)で止めるのがいま出来る治療です。最新の物理的な根治療法、「カテーテル・アブレーション」もやりましたが、結果は6ヶ月で再発。薬頼りの日々が続きます。発作が起きると胸が苦しくなります。

 

 この3月3日、ひな祭りは残念ながら、悪い意味で記念すべき日になりました。今まで、「心房細動」は長くても2週間ぐらい薬を飲み増して我慢すれば、なんとか正常な脈(同調律)に戻りました。が、今回はダメでした。発作を止めるには電気ショックしかなく、入院の予定で病院を訪ねました。しかし、そこで発見されたことは、より危険な症状である「心室頻拍」発症の確認でした。この「心室頻拍」は、突然死の「心室細動」の引き金になりやすいと言われています。大学病院は満床。入院の予定も立たず、劇薬の倍増で、様子見になりました。ですから、今も不整脈の嵐の中です。

 

 以前であれば、ショックで鬱の世界に舞い戻る可能性が大でしたが、今は鬱に関してはドラッグ・フリーになった自分自身に救われて、まぁ精神的には元気でいます。後は薬と神様にお任せするっきゃありません。

 

 死へのカウントダウンが、どのあたりかはわかりませんが、着実に進んでいるようです。一方、いっぱい、いっぱいエッセイに書きたいことが浮かんできているのだから、筆を早めなくては…とも思います。

 

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 <環境考古学者>

 

 今日のエントリーは暗い話しに見えるかもしれませんが、そうではなく、実は久しぶりに触発されたコラムを紹介したいと書いています。もちろんコラムニストへの相談も無しですが…。チョッと乱暴な議論もありますが…。

 

 日経ビジネス オンラインのコラムの、「この国のゆくえ」シリーズ

 2009年2月4日(水)で取りあげられた「今の資本主義はもう、やめてくれ」の

“森の国”の思想が次の経済システムを作る

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090203/184786/?P=1

 

です。

 

 語りは、 安田喜憲(やすだ・よしのり)先生。数千年のスパンで文明の盛衰を見つめる環境考古学者です。

 

 米国金融システムの崩壊からもたらされた世界を巻き込む恐慌の中で、日本は輸出依存型の経済構想と、ヴィジョンを持たない世襲政治と、官僚の独善的国の運営に身をゆだね、大揺れの現状にまごまごしているように見えます。こんな中で、安田先生は社会考古学者として、今の金融危機をどう見ているのかを語られます。

 

 先生は、地理学者として、自然と人間の関係に着目し、「気候が変わると文明が崩壊する」「森がなくなったら人類の生活が困窮する」などというテーマを研究され、地理学が環境考古学に発展していったようです。

 

 >「ギリシャ文明は木を切り尽くしたために崩壊した」では、

「こんな禿げ山のところで文明が発展するはずがない」。そして、「木を切り尽くしたために、文明が崩壊した」と実証されます。

 

 >「表土が流出し、内海を埋め、マラリアの巣窟になった」ためギリシャは滅び、ローマもしかり。

 

 >「価値観の収斂が文明の破壊につながった」では、

文明が発展する中で森が破壊され、禿げ山になった。多神教の死滅、そして、砂漠化が進行し、星空の彼方に天国の世界があるという妄想が生まれ、一神教が出現する。それがキリスト教。ローマ文明の持っていた多様性はキリスト教を国教として以降、失われていく。

 

 >「森林の消滅とともに広まったキリスト教」では、

「環境破壊はキリスト教の原罪」だと指摘されます。ローマ文明はヨーロッパ全体に広がります。そこには森林の伐採が伴います。そして、燃やす木がなくなって、石炭に手をつける。産業革命となる。そして、その過程で誕生した思想が市場原理主義。

マルサスは「人口論」で、「神の命の通り一生懸命働いていれば豊かになれるはずだ」。「貧しい人間は神の命に背いた人間であり、罰を受けているんだ」と決め付ける。市場原理主義は「神の見えざる手」を後ろ盾に、市場の自由な競争に任せておけば世の中うまくいくと考えて、ここに今の市場原理主義が大手を振ってまかり通ることになる基礎があると語られる。

 

 >「人間以外の生命に対する畏怖の念がなかった」では、

今の市場原理主義を伴う資本主義は一神教であるキリスト教から生まれた。自然と人間の関わりを聖書でうたっていないキリスト教は、自然に対する畏敬の念がない。キリスト教社会で生まれた今の経済理論は環境に想いを巡らせる発想がそもそもない。だからこそ、地球環境問題も生じたと論を進める。

資源を収奪し、欲望を肥大化。地球環境の問題も生まれた。

 

 >「式年遷宮を1300年続けられることが日本人の喜び」では、

一神教の世界は、現代の世界を支配している市場原理主義、妄想の世界を生んだ。金融システムも数字だけで生きている虚構の世界に過ぎないと断じる。

日本人は生きとし生けるものを崇拝し、他人の幸せを考え、慈悲の心を持って、人と自然が接するという素晴らしい伝統があった。でも、今は「成長こそが素晴らしい」という市場原理主義がはびこる。伊勢神宮の式年遷宮はゼロ成長での、持続性の維持の喜びではないかと語る。そして、肥大化する欲望を放置すれば、「2050~70年に現代文明は崩壊する」と予言する。

 

 >「イースター島の崩壊は森林破壊から始まった」では、

島の人口の増加が、島全体の衰亡への道を開いたと実証。イースター島は、今や、地球の置かれている姿に符合すると語る。さらには、地球温暖化の現象が崩壊への道をたどる動きに拍車をかけると指摘する。

 

 >「次のシステムを作るのは多神教の国、日本」では、

一神教の世界観に立脚した経済システムに代わる経済理論、経済システムを作るのは多神教の世界観を持つ日本しかありませんと言い切る。

 

 僕が、いくらアブリッジを作っても、真意は伝わりません。ぜひ、時間を見つけて、このコラム(5ページ)を読まれることをお勧めします。今の問題の根幹に触れた思いをいたしました。安田先生、ありがとうございました。

 

2章 フラグメンタルな…( 3 / 21 )

汗臭い新宿

 

 今や伊勢丹、高島屋などの競いあうショッピングの街、新宿。けばけばしい色と光に埋め尽くされた新大久保まで続く一寸おっかない、怪しげな店もある歓楽街、歌舞伎町。

いろんな形の高層ビルが無秩序に競い建つ副都心。チョッと歩くといつのまにか新宿高校の見える御苑。忘れられそうな西口の思いで横丁。そんな風景が今の人たちが思い浮かべる新宿の印象ではないだろうか。

 

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 <ボルガ>

 

 でも、新宿にはもっと別な印象もあった。

 

 先日の新聞に、歌声喫茶なんて旧い言葉が見えた。そう、あれは僕たちより、もう一世代古い時代の新宿の名物だったと思う。僕も「灯火(ともしび)」の最後の頃に、1~2度いった記憶がある。特に懐かしい感じはない。あのあたりにつながって出てくる思い出は、PEPEに建て替わる前のちっぽけな西武新宿線の駅だったりする。その駅から深夜、大学の教養の教授の上井草の家にみんなで何度か押しかけて、新婚の奥様に迷惑をかけた覚えなんかが蘇ってくる。

 

 「灯火」は、ある人たちの待合の場でもあったのだと思い出した。昔、新宿駅構内には汗臭い感じの特殊な場所があった。それは今で言うホームレスとかの人種でなくて、青春を楽しむ連中だった。そう、新宿駅は中央線の夜行列車の発着駅だった。いまの高島屋が立つあたりは、中央線の長距離列車の待機場所であり、貨物列車の操車場だったのだ。「あずさ」なんていうのは、その頃の名残だ。

 

夏山のシーズンになると、ドタ靴と呼んだ山靴を履いて、大きなザックを背負った若い男女が地下の中央通路の片隅に一列になって、夜行列車への乗り込みを通路や階段に座って待っているのをよく目にした。そのあたりは、どこか汗臭いものを感じさせていた。

 

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<あずさ3号>

 

中央線の夜行列車は大糸線の南小谷行とか、松本行とかがあって、夜の11時すぎ、新宿を出て、朝まだき頃、北アルプスの入り口、松本とか、後立山への白馬とか、更に奥の立山連邦を狙う人の信濃大町だとかに着く。今と違って、その頃はやたらそんな山男達が数多くいたのだ。

 

寝台急行の指定席がとれない普通の夜行の場合は、席を確保するのに並んで待つしかなかった。そうした列のあたりは、事実はそうではなくても、感覚的には汗臭さが漂うかの様な感じだった。

 

僕は後立山が大好きで、僕自身も何度か夏山でそうした列に並んだ記憶がある。白馬から鹿島槍までの縦走では寝台急行を使ったから、もしかしたら、常念か、上高地に入るために並んだのかもしれない。

 

それにしても、僕のあのでかい山靴とかザックなんかは何処に置いてきてしまったのだろう。全く思い出せない。

 

彼らのような山男たちが、時間待ちに歌声喫茶に入り、雪山賛歌とか、山男の歌とか、山の大尉とか、そんな山の歌を歌っていたんだと思い出した。僕たちが新宿を歩いていたよりも、一世代くらい前に始まった流れだった。西口にボルガなんて店もあった記憶がある。こうした流れは、1957年の井上靖の「氷壁」成功が山の人気を煽って出来たものかもしれない。(先日、ボルガが昔通り、あるのを見つけた)

 

車窓からの朝の安曇野は本当にきれいだった。後立山の魅力はここにあるといっても良い。

 

いつも思うのだが、白馬を「はくば」と読むのは賛成できない。やはり「しろうま」とよんで欲しい、雪形の由来も含めて…

 

山に行ってみたい。でも、もう今は眺めるだけだなぁ…とも思う。山行きの待ち行列の中にいた頃、まだ精神も体も若く、あらゆる可能性がその先にあるように思えた時間だった。

 

 

 

<あずさの写真は、Lover of Romanceさんの「あずさ3号」をお借りしました> 

ライセンス: Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 (CC BY-SA 3.0) 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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