今や伊勢丹、高島屋などの競いあうショッピングの街、新宿。けばけばしい色と光に埋め尽くされた新大久保まで続く一寸おっかない、怪しげな店もある歓楽街、歌舞伎町。
いろんな形の高層ビルが無秩序に競い建つ副都心。チョッと歩くといつのまにか新宿高校の見える御苑。忘れられそうな西口の思いで横丁。そんな風景が今の人たちが思い浮かべる新宿の印象ではないだろうか。
<ボルガ>
でも、新宿にはもっと別な印象もあった。
先日の新聞に、歌声喫茶なんて旧い言葉が見えた。そう、あれは僕たちより、もう一世代古い時代の新宿の名物だったと思う。僕も「灯火(ともしび)」の最後の頃に、1~2度いった記憶がある。特に懐かしい感じはない。あのあたりにつながって出てくる思い出は、PEPEに建て替わる前のちっぽけな西武新宿線の駅だったりする。その駅から深夜、大学の教養の教授の上井草の家にみんなで何度か押しかけて、新婚の奥様に迷惑をかけた覚えなんかが蘇ってくる。
「灯火」は、ある人たちの待合の場でもあったのだと思い出した。昔、新宿駅構内には汗臭い感じの特殊な場所があった。それは今で言うホームレスとかの人種でなくて、青春を楽しむ連中だった。そう、新宿駅は中央線の夜行列車の発着駅だった。いまの高島屋が立つあたりは、中央線の長距離列車の待機場所であり、貨物列車の操車場だったのだ。「あずさ」なんていうのは、その頃の名残だ。
夏山のシーズンになると、ドタ靴と呼んだ山靴を履いて、大きなザックを背負った若い男女が地下の中央通路の片隅に一列になって、夜行列車への乗り込みを通路や階段に座って待っているのをよく目にした。そのあたりは、どこか汗臭いものを感じさせていた。
<あずさ3号>
中央線の夜行列車は大糸線の南小谷行とか、松本行とかがあって、夜の11時すぎ、新宿を出て、朝まだき頃、北アルプスの入り口、松本とか、後立山への白馬とか、更に奥の立山連邦を狙う人の信濃大町だとかに着く。今と違って、その頃はやたらそんな山男達が数多くいたのだ。
寝台急行の指定席がとれない普通の夜行の場合は、席を確保するのに並んで待つしかなかった。そうした列のあたりは、事実はそうではなくても、感覚的には汗臭さが漂うかの様な感じだった。
僕は後立山が大好きで、僕自身も何度か夏山でそうした列に並んだ記憶がある。白馬から鹿島槍までの縦走では寝台急行を使ったから、もしかしたら、常念か、上高地に入るために並んだのかもしれない。
それにしても、僕のあのでかい山靴とかザックなんかは何処に置いてきてしまったのだろう。全く思い出せない。
彼らのような山男たちが、時間待ちに歌声喫茶に入り、雪山賛歌とか、山男の歌とか、山の大尉とか、そんな山の歌を歌っていたんだと思い出した。僕たちが新宿を歩いていたよりも、一世代くらい前に始まった流れだった。西口にボルガなんて店もあった記憶がある。こうした流れは、1957年の井上靖の「氷壁」成功が山の人気を煽って出来たものかもしれない。(先日、ボルガが昔通り、あるのを見つけた)
車窓からの朝の安曇野は本当にきれいだった。後立山の魅力はここにあるといっても良い。
いつも思うのだが、白馬を「はくば」と読むのは賛成できない。やはり「しろうま」とよんで欲しい、雪形の由来も含めて…
山に行ってみたい。でも、もう今は眺めるだけだなぁ…とも思う。山行きの待ち行列の中にいた頃、まだ精神も体も若く、あらゆる可能性がその先にあるように思えた時間だった。
<あずさの写真は、
ライセンス: Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 (CC BY-SA 3.0)
最近、神様がいつまで、僕を生かしておいてくれるのかが分からなくなってきたから、今までの時間の中で出会ってきたものたちのことを記録し始めた。
これが結構面白い。いろんな切り口がある。
たとえば、延べ10日以上話したことのある女ともだちのリストだとか、うまれてこのかた、何度どこからどこへ引っ越したとか…。
女ともだちは、いろいろ差し障りがあるので、リストをお見せすることはできない。
引っ越した回数は、26回と出た。びっくりだ。住んでいた場所だけでもこんなにある。生まれは、谷中墓地近く。以来26回というと多い方かもしれない。でも住むところを決めるのは、自分ではできない期間が結構あるからしょうがない、自分が決定したものでない引っ越しも、いっぱい入っている。
<FIAT 850S>
そういう意味では、主体的に選んだ自分の記録は、一番は車かもしれない。これは誰かが押し付けたりするものではないからだ。全部、自分の意志決定でやったものだ。
並べてみると。こんなふうになる。時間の経過と同じ順番だ。
フィアット 850s
フィアット 128
マツダ ファミリア
日産 N510
三菱 ギャラン
日産 810
フォルクスワーゲン 初代ゴルフ
ボルボ 360GTL
三菱 ギャラン
スバル インプレッサ
スバル R2
なぜ最初がフィアットだったかといえば、僕が30近くなるまで、日本では車は買えなかった時代だからだ。
僕の親友は、その頃トヨタのパブリカのオンボロに乗っていて、信州に行ったときはサイドブレーキが全くきかない状態で走っていた。走っていると足元の穴から、流れ去る道路が見えたくらいのしろものだった。そんなパブリカで、パトカーを追っかけたって思いでもある。
僕がフィアットの新車850スーパーを手に入れたのは、僕が幸いにもイタリア・ミラノの駐在員を言い渡されたからだ。
イタリアでは、その頃は車がないと、公共交通手段は市内を除いて貧しくて電車しかなかったから、自由に動くことができなかった。
僕のオフイスはミラノから広大な敷地を求めて、20キロくらい離れたサイトに移った。朝は、地下鉄の終点からプルマンと呼ばれる2両編成のバスが出ていたけれど、ほかに夕方までミラノの戻ることはできなかった。仕事上の必要もあって、車を買うことになった。
この幸運が、その後の僕の行動半径を、アルプスを越えてオーストリアやドイツまで広げてくれたのだ。思い出深い車だった。たかだか、850㏄のエンジンを後部に乗せたRR方式の古い設計だったけれど、僕には夢のようだった。
車は会社のミラノ支店のイタリア人と、直接、ミラノのフィアットの工場まで出向いて、ラインでまさに組み立てている最中の一台を選んだ。これがフィアット850Sとの出会いだった。この車の名前の呼び方は、日本語ではちょっと変な感じがする。オットチェント・チンクワンタだ。0をとって、85を読むとオッタンタチンケだ。さいごのケをコに変えると、元気のいい男性ということになって、日本人の笑いのもととなる。
その頃のミラノの大衆車としては、最近、新しく1200㏄で新しいデザインで復活した500が主流だった。だから、僕の車は、大衆車の中で、ちょっこり上等なグレードだったのだ。しかも「スーパー」がついている。何がスーパーだったのかは忘れてしまった。エンジンがチューンアップされていたのかも。
この車には丸2年、乗った。
平地では、平気で時速150㎞も出るので、どんどん走った。でも、山道は苦手だった。アルプス越えなんかの時には、本当に火を吐いて登っていた。かわいそうでもあった。フィアットの整備工場で、スピードの出しすぎで、プラグが焼けたとよく文句を言われた。そのくらい飛ばし屋さんだったのだろう。
日本のお偉いさんが、ミラノに来た時、僕が足になって送り迎えをした時、お前さんの運転は怖いと言われた。でも、ミラノでは普通の運転だった。
今は、日本でもそんな契約があるようだけれど、2年後の残存価格を決めておいて、2年後に買うかどうかを決める契約だった。僕の任期が2年で切れて、フィアットとおさらばとなった。懐かしい思い出が詰まった最初の車だった。
128については、リースで4か月、二度目の赴任の時に乗っただけだ。
この車は、世界最初のFF(前輪駆動)で、それ以降の車の基礎を築いた優秀な車だった。もちろん、850Sに比べれば、ハンドルの反応が良くて、格段に運転しやすく、馬力もあった。
先日、イタリア人留学生に話してみたら、彼は全く128を知らなかった。いい車だったのに。
僕にとって、フィアットはいろいろな思い出を詰め込んだ名前で、あの若い、活動的な自分の時間がよみがえってくる。
またチャンスがあったら、新しいフィアット500には試乗してみたい気がする。
P.S.
2012年に、イタリアでレンタカーの新型フィアット500の乗ることができました。
今年の1月に自分の歴史を振り返る手がかりとして、僕が乗ってきた歴代の車たちの(その1)を書いた。
<ボルボ360GLT>
参照:自分史を映しだす車たち(その1)
(その1)では僕がイタリア・ミラノでの生活で選んだ車たちをあつかった。
乗っていた車を思い出すことで、その時代の自分を思い出すことができる。
ある時は楽しい思い出であり、ある時は悲しい、つらい思い出でもある。
一応、思い出してもらうために再度、歴代の車を書いておこう。
フィアット 850S : その1で書いた僕の初めての車
フィアット 128 : その1で書いた、フィアット850Sの後継車
マツダ ファミリア
日産 N510
三菱 ギャラン
日産 810
フォルクスワーゲン 初代ゴルフ
ボルボ 360GLT
三菱 ギャラン
スバル インプレッサ 4WD
スバル R2
プジョー206
フィット
注:前回のリストに、プジョー206とフィットが加わった
R2は、スバルがトヨタに飲み込まれて、軽自動車の自己開発ができなくなったため、ダイハツの車をOEMで売り始めたからだ。きっとトヨタの狙いは、自分の持っていないスバルの水平対向エンジン技術だけだと思う。他には富士重工を取り込む理由はみあたらない。
トヨタとの関係で、あの懐かしいスバル360からの富士重工の長い軽自動車開発の火は消えた。結果として、次を軽で選べばトヨタの軽自動車担当のダイハツの車に乗ることになる。それはトヨタ車には絶対乗らないという僕の主義に反するから選択肢ではなかった。
結構楽しんでいたインプレッサは、10年にもなってボロボロ。それで、R2になったのだが、これも7年。そろそろ替え時だった。かといって、新しい3ナンバーの、いかついインプレッサに乗る気はなかった。
とにかく日本の車で、いま乗ってみたい車は全くない。そこで、次はちょっと小粋なプジョーになったわけだ。もちろん中古。1万3千キロが気に入った。
N510とギャランと初代ゴルフは、僕の楽しい時間の中に詰め込まれている。
一番つらい思いはボルボ360GLTに詰まっている。
ボルボの安全神話は、全くのでたらめだと思った。
よく壊れた。ディーラーに言わせると、それが、乗員への安全とためだと言い張った。
一度、問題のリストを作って、日本の代理店の社長さんに送りつけたことがある。手元には今はないので、思い出して書いてみると…
・無理矢理、左ハンドルを右ハンドルにしたから、アクセル・ケーブルがエンジンの上を左から右に走っていた。ケーブルはエンジンの熱に常にさらされて、ケーブル内部の潤滑油が焼け、アクセルが戻らなくなった。車が止まらないのだ。怖かったね。根幹的な非安全車だ、
・東名を走っていたら、フッとルーム・ミラーが消えた。衝突した場合、乗員を傷つけないようにとガラスに直接貼ってあった。それが何にもしなくても落こったのだ。サイドミラーだけで、高速を運転せざるを得なかった。
・エンジン・マウントのゴムが劣化した。エンジンがシャシーとぶつかって、ガンガンと音を立て始めた。ディーラーは、衝突した時に、エンジンが緩衝剤になって、乗員への被害を最小にするためだとぬかした。4万キロで交換となった。エンジンを持ち上げて、またやわらかいマウントと交換した。もちろん高い金を請求された。
・前輪のロッドとハブの間のゴムの緩衝材が、劣化してゴキゴキいいだした。同じことが、4年間の間に2回も起きた。2回目は、何が問題かが自分で判断できるようになっていた。ふざけんじゃない。
まあ、こんな具合だった。すごく当たりの悪いボルボに乗って苦労していた時期だ。
まあ、ボルボのために少し弁護しておかなくてはならないかもしれない。実はこのボルボ360GLTは、スエーデンの設計でも製造でもなかった。オランダのネッドカーという子会社が、ボルボに委託されて設計・製造していたのだ。
三菱ギャランは、金食い虫で手のかかるボルボに呆れ果てて、手に入れたものだ。10万キロ走ってくれた。6万キロくらいで、タイミングベルトが切れた。ぷつんと切れた。ただでエンジンをとっかえてもらったが、その後、三菱の大問題となったリコール隠しの車だったのだ。
N510と、初代ギャランと、ゴルフと、インプレッサの時間が、いい付き合いの時期だった。
その中でも、ベストカーはスバル・インプレッサだった。
<この写真は、WikimediaのThomas doerferさんの写真をお借りしました>
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最近、集中してテレビをみることは少なくなったのだけど、昨夜(2008年)は一時間、夢中になってみて見てしまった。タモリが司会する、M.ステーションのサザン・オールース・スターズ30周年記念のライブだ。サザンはとにかく好きだし、懐かしい曲でいっぱいだ。
<サザン CD>
30年というと、僕の世界は、大体サザンとオーバーラップしている。
みんなに愛されて、トップの座にこんなに長くいるグループも珍しい。ずっと僕は好きで、ブログの世界には、彼らの曲が陽水の曲と共に常にあった。
僕の好きなのは、いとしのエリーとか、会いたいときに君はここにいない、なんかだけれど、サザンの曲はみんな好きだ。すばらしいエンタテェイナーだと思う。
いとしのエリーというと忘れられない思い出がある。
あれは僕たちのグループが、東伊豆に遊びに行った時のことだ。ホテルに門限があるとも知らず、朝の2~3時まで近くのスナックを貸しきり状態にして、みんなで、カラオケで歌ったり踊ったりして楽しんでいた。そのときにエリーの曲がかかっていた。みんなで一緒に歌って、みんなおおノリだった。
その中に新入社員のHSさんがいた。僕にとっては、初めての技術系新卒の大卒女性社員の一人で、みんなで大切に育てていた。
彼女が新人研修を終えて、僕のところに配属されてまもなく、僕に電話が掛かってきた。出ると、Oですといわれた。Oさんと言う人は、僕の友人にも近しい仲間にもいなかったので訝っていると、はっとひらめいた。僕の部門の属するグループのトップ、担当常務の名前だ。
もしかして、常務のOさんですか?と聞き返した。Oさんは、僕が紹介したHSが、君のところでお世話になっていると聞いた。うまく育てて欲しいといわれた。僕は、一課長として、初めて話す偉い常務さんだった。とにかくびっくりして、わかりましたと答えた。大変な新入社員を配属されたもんだと、初めて知った。電話を切ったらわきの下に汗をかいていた。
僕は、HSさんを特別扱いもせず、みんなにもそのことは話さず、普通にみんなと一緒に育てて行った。そのHSさんが、その頃僕に言ったことを、今でも鮮明に覚えている。
幸運にも、私は大学までこの社会に育ててもらったのだから、一人前になって、最低3年間は社会に貢献したいと思っているって言った。T大学の数学科の出身だったから、その大学では立派なことを教えているんだなぁとそのとき僕は思った。素直ないい子で、少しゆっくり目だけど順調に育っていった。
その後、折があって聞いてみると、それは大学の教えではなくて、HSさんの家の教育が言わせた言葉だった。すごいことを教え込んだもんだと改めてHSさんのうちのご両親の立派さを知った。
そう、あの東伊豆の夜、門限で入り口が閉まっていたから、僕たち10人くらいは非常口からこっそりホテルの部屋に戻って眠った。翌朝、幹事はもとより監督責任のある僕も、ホテルの管理人さんからこっぴどく叱られたことを思い出す。当然だった。やっぱり若ったのだなぁと思う。
そんなことも思い出しながら、サザンは僕にとって、大切な思い出を開く鍵でもあるのだと思った。
桑田は、歌詞を間違えたり、声が嗄れていたりしたけど、サザンは間違いなく僕を楽しませてくれた。
何時かのように、また再び僕たちの前に現れてくれることを願っているサザンだ。
P.S.
やっぱり、陽水にも頑張ってもらわなくては…と思う僕です。