2008年3月にブログを再開して、何とか書き続け、もうすぐ1年になります。
前にも書いたように僕の心臓は遺伝性の「肥大型心筋症」で、これ自体は直すことは出来ません。それから派生して出てくる症状、「心房細動」の発作を薬(劇薬といわれています)で止めるのがいま出来る治療です。最新の物理的な根治療法、「カテーテル・アブレーション」もやりましたが、結果は6ヶ月で再発。薬頼りの日々が続きます。発作が起きると胸が苦しくなります。
この3月3日、ひな祭りは残念ながら、悪い意味で記念すべき日になりました。今まで、「心房細動」は長くても2週間ぐらい薬を飲み増して我慢すれば、なんとか正常な脈(同調律)に戻りました。が、今回はダメでした。発作を止めるには電気ショックしかなく、入院の予定で病院を訪ねました。しかし、そこで発見されたことは、より危険な症状である「心室頻拍」発症の確認でした。この「心室頻拍」は、突然死の「心室細動」の引き金になりやすいと言われています。大学病院は満床。入院の予定も立たず、劇薬の倍増で、様子見になりました。ですから、今も不整脈の嵐の中です。
以前であれば、ショックで鬱の世界に舞い戻る可能性が大でしたが、今は鬱に関してはドラッグ・フリーになった自分自身に救われて、まぁ精神的には元気でいます。後は薬と神様にお任せするっきゃありません。
死へのカウントダウンが、どのあたりかはわかりませんが、着実に進んでいるようです。一方、いっぱい、いっぱいエッセイに書きたいことが浮かんできているのだから、筆を早めなくては…とも思います。
今日のエントリーは暗い話しに見えるかもしれませんが、そうではなく、実は久しぶりに触発されたコラムを紹介したいと書いています。もちろんコラムニストへの相談も無しですが…。チョッと乱暴な議論もありますが…。
日経ビジネス オンラインのコラムの、「この国のゆくえ」シリーズ
2009年2月4日(水)で取りあげられた「今の資本主義はもう、やめてくれ」の
“森の国”の思想が次の経済システムを作る
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090203/184786/?P=1
です。
語りは、 安田喜憲(やすだ・よしのり)先生。数千年のスパンで文明の盛衰を見つめる環境考古学者です。
米国金融システムの崩壊からもたらされた世界を巻き込む恐慌の中で、日本は輸出依存型の経済構想と、ヴィジョンを持たない世襲政治と、官僚の独善的国の運営に身をゆだね、大揺れの現状にまごまごしているように見えます。こんな中で、安田先生は社会考古学者として、今の金融危機をどう見ているのかを語られます。
先生は、地理学者として、自然と人間の関係に着目し、「気候が変わると文明が崩壊する」「森がなくなったら人類の生活が困窮する」などというテーマを研究され、地理学が環境考古学に発展していったようです。
>「ギリシャ文明は木を切り尽くしたために崩壊した」では、
「こんな禿げ山のところで文明が発展するはずがない」。そして、「木を切り尽くしたために、文明が崩壊した」と実証されます。
>「表土が流出し、内海を埋め、マラリアの巣窟になった」ためギリシャは滅び、ローマもしかり。
>「価値観の収斂が文明の破壊につながった」では、
文明が発展する中で森が破壊され、禿げ山になった。多神教の死滅、そして、砂漠化が進行し、星空の彼方に天国の世界があるという妄想が生まれ、一神教が出現する。それがキリスト教。ローマ文明の持っていた多様性はキリスト教を国教として以降、失われていく。
>「森林の消滅とともに広まったキリスト教」では、
「環境破壊はキリスト教の原罪」だと指摘されます。ローマ文明はヨーロッパ全体に広がります。そこには森林の伐採が伴います。そして、燃やす木がなくなって、石炭に手をつける。産業革命となる。そして、その過程で誕生した思想が市場原理主義。
マルサスは「人口論」で、「神の命の通り一生懸命働いていれば豊かになれるはずだ」。「貧しい人間は神の命に背いた人間であり、罰を受けているんだ」と決め付ける。市場原理主義は「神の見えざる手」を後ろ盾に、市場の自由な競争に任せておけば世の中うまくいくと考えて、ここに今の市場原理主義が大手を振ってまかり通ることになる基礎があると語られる。
>「人間以外の生命に対する畏怖の念がなかった」では、
今の市場原理主義を伴う資本主義は一神教であるキリスト教から生まれた。自然と人間の関わりを聖書でうたっていないキリスト教は、自然に対する畏敬の念がない。キリスト教社会で生まれた今の経済理論は環境に想いを巡らせる発想がそもそもない。だからこそ、地球環境問題も生じたと論を進める。
資源を収奪し、欲望を肥大化。地球環境の問題も生まれた。
>「式年遷宮を1300年続けられることが日本人の喜び」では、
一神教の世界は、現代の世界を支配している市場原理主義、妄想の世界を生んだ。金融システムも数字だけで生きている虚構の世界に過ぎないと断じる。
日本人は生きとし生けるものを崇拝し、他人の幸せを考え、慈悲の心を持って、人と自然が接するという素晴らしい伝統があった。でも、今は「成長こそが素晴らしい」という市場原理主義がはびこる。伊勢神宮の式年遷宮はゼロ成長での、持続性の維持の喜びではないかと語る。そして、肥大化する欲望を放置すれば、「2050~70年に現代文明は崩壊する」と予言する。
>「イースター島の崩壊は森林破壊から始まった」では、
島の人口の増加が、島全体の衰亡への道を開いたと実証。イースター島は、今や、地球の置かれている姿に符合すると語る。さらには、地球温暖化の現象が崩壊への道をたどる動きに拍車をかけると指摘する。
>「次のシステムを作るのは多神教の国、日本」では、
一神教の世界観に立脚した経済システムに代わる経済理論、経済システムを作るのは多神教の世界観を持つ日本しかありませんと言い切る。
僕が、いくらアブリッジを作っても、真意は伝わりません。ぜひ、時間を見つけて、このコラム(5ページ)を読まれることをお勧めします。今の問題の根幹に触れた思いをいたしました。安田先生、ありがとうございました。
今や伊勢丹、高島屋などの競いあうショッピングの街、新宿。けばけばしい色と光に埋め尽くされた新大久保まで続く一寸おっかない、怪しげな店もある歓楽街、歌舞伎町。
いろんな形の高層ビルが無秩序に競い建つ副都心。チョッと歩くといつのまにか新宿高校の見える御苑。忘れられそうな西口の思いで横丁。そんな風景が今の人たちが思い浮かべる新宿の印象ではないだろうか。
<ボルガ>
でも、新宿にはもっと別な印象もあった。
先日の新聞に、歌声喫茶なんて旧い言葉が見えた。そう、あれは僕たちより、もう一世代古い時代の新宿の名物だったと思う。僕も「灯火(ともしび)」の最後の頃に、1~2度いった記憶がある。特に懐かしい感じはない。あのあたりにつながって出てくる思い出は、PEPEに建て替わる前のちっぽけな西武新宿線の駅だったりする。その駅から深夜、大学の教養の教授の上井草の家にみんなで何度か押しかけて、新婚の奥様に迷惑をかけた覚えなんかが蘇ってくる。
「灯火」は、ある人たちの待合の場でもあったのだと思い出した。昔、新宿駅構内には汗臭い感じの特殊な場所があった。それは今で言うホームレスとかの人種でなくて、青春を楽しむ連中だった。そう、新宿駅は中央線の夜行列車の発着駅だった。いまの高島屋が立つあたりは、中央線の長距離列車の待機場所であり、貨物列車の操車場だったのだ。「あずさ」なんていうのは、その頃の名残だ。
夏山のシーズンになると、ドタ靴と呼んだ山靴を履いて、大きなザックを背負った若い男女が地下の中央通路の片隅に一列になって、夜行列車への乗り込みを通路や階段に座って待っているのをよく目にした。そのあたりは、どこか汗臭いものを感じさせていた。
<あずさ3号>
中央線の夜行列車は大糸線の南小谷行とか、松本行とかがあって、夜の11時すぎ、新宿を出て、朝まだき頃、北アルプスの入り口、松本とか、後立山への白馬とか、更に奥の立山連邦を狙う人の信濃大町だとかに着く。今と違って、その頃はやたらそんな山男達が数多くいたのだ。
寝台急行の指定席がとれない普通の夜行の場合は、席を確保するのに並んで待つしかなかった。そうした列のあたりは、事実はそうではなくても、感覚的には汗臭さが漂うかの様な感じだった。
僕は後立山が大好きで、僕自身も何度か夏山でそうした列に並んだ記憶がある。白馬から鹿島槍までの縦走では寝台急行を使ったから、もしかしたら、常念か、上高地に入るために並んだのかもしれない。
それにしても、僕のあのでかい山靴とかザックなんかは何処に置いてきてしまったのだろう。全く思い出せない。
彼らのような山男たちが、時間待ちに歌声喫茶に入り、雪山賛歌とか、山男の歌とか、山の大尉とか、そんな山の歌を歌っていたんだと思い出した。僕たちが新宿を歩いていたよりも、一世代くらい前に始まった流れだった。西口にボルガなんて店もあった記憶がある。こうした流れは、1957年の井上靖の「氷壁」成功が山の人気を煽って出来たものかもしれない。(先日、ボルガが昔通り、あるのを見つけた)
車窓からの朝の安曇野は本当にきれいだった。後立山の魅力はここにあるといっても良い。
いつも思うのだが、白馬を「はくば」と読むのは賛成できない。やはり「しろうま」とよんで欲しい、雪形の由来も含めて…
山に行ってみたい。でも、もう今は眺めるだけだなぁ…とも思う。山行きの待ち行列の中にいた頃、まだ精神も体も若く、あらゆる可能性がその先にあるように思えた時間だった。
<あずさの写真は、
ライセンス: Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 (CC BY-SA 3.0)
最近、神様がいつまで、僕を生かしておいてくれるのかが分からなくなってきたから、今までの時間の中で出会ってきたものたちのことを記録し始めた。
これが結構面白い。いろんな切り口がある。
たとえば、延べ10日以上話したことのある女ともだちのリストだとか、うまれてこのかた、何度どこからどこへ引っ越したとか…。
女ともだちは、いろいろ差し障りがあるので、リストをお見せすることはできない。
引っ越した回数は、26回と出た。びっくりだ。住んでいた場所だけでもこんなにある。生まれは、谷中墓地近く。以来26回というと多い方かもしれない。でも住むところを決めるのは、自分ではできない期間が結構あるからしょうがない、自分が決定したものでない引っ越しも、いっぱい入っている。
<FIAT 850S>
そういう意味では、主体的に選んだ自分の記録は、一番は車かもしれない。これは誰かが押し付けたりするものではないからだ。全部、自分の意志決定でやったものだ。
並べてみると。こんなふうになる。時間の経過と同じ順番だ。
フィアット 850s
フィアット 128
マツダ ファミリア
日産 N510
三菱 ギャラン
日産 810
フォルクスワーゲン 初代ゴルフ
ボルボ 360GTL
三菱 ギャラン
スバル インプレッサ
スバル R2
なぜ最初がフィアットだったかといえば、僕が30近くなるまで、日本では車は買えなかった時代だからだ。
僕の親友は、その頃トヨタのパブリカのオンボロに乗っていて、信州に行ったときはサイドブレーキが全くきかない状態で走っていた。走っていると足元の穴から、流れ去る道路が見えたくらいのしろものだった。そんなパブリカで、パトカーを追っかけたって思いでもある。
僕がフィアットの新車850スーパーを手に入れたのは、僕が幸いにもイタリア・ミラノの駐在員を言い渡されたからだ。
イタリアでは、その頃は車がないと、公共交通手段は市内を除いて貧しくて電車しかなかったから、自由に動くことができなかった。
僕のオフイスはミラノから広大な敷地を求めて、20キロくらい離れたサイトに移った。朝は、地下鉄の終点からプルマンと呼ばれる2両編成のバスが出ていたけれど、ほかに夕方までミラノの戻ることはできなかった。仕事上の必要もあって、車を買うことになった。
この幸運が、その後の僕の行動半径を、アルプスを越えてオーストリアやドイツまで広げてくれたのだ。思い出深い車だった。たかだか、850㏄のエンジンを後部に乗せたRR方式の古い設計だったけれど、僕には夢のようだった。
車は会社のミラノ支店のイタリア人と、直接、ミラノのフィアットの工場まで出向いて、ラインでまさに組み立てている最中の一台を選んだ。これがフィアット850Sとの出会いだった。この車の名前の呼び方は、日本語ではちょっと変な感じがする。オットチェント・チンクワンタだ。0をとって、85を読むとオッタンタチンケだ。さいごのケをコに変えると、元気のいい男性ということになって、日本人の笑いのもととなる。
その頃のミラノの大衆車としては、最近、新しく1200㏄で新しいデザインで復活した500が主流だった。だから、僕の車は、大衆車の中で、ちょっこり上等なグレードだったのだ。しかも「スーパー」がついている。何がスーパーだったのかは忘れてしまった。エンジンがチューンアップされていたのかも。
この車には丸2年、乗った。
平地では、平気で時速150㎞も出るので、どんどん走った。でも、山道は苦手だった。アルプス越えなんかの時には、本当に火を吐いて登っていた。かわいそうでもあった。フィアットの整備工場で、スピードの出しすぎで、プラグが焼けたとよく文句を言われた。そのくらい飛ばし屋さんだったのだろう。
日本のお偉いさんが、ミラノに来た時、僕が足になって送り迎えをした時、お前さんの運転は怖いと言われた。でも、ミラノでは普通の運転だった。
今は、日本でもそんな契約があるようだけれど、2年後の残存価格を決めておいて、2年後に買うかどうかを決める契約だった。僕の任期が2年で切れて、フィアットとおさらばとなった。懐かしい思い出が詰まった最初の車だった。
128については、リースで4か月、二度目の赴任の時に乗っただけだ。
この車は、世界最初のFF(前輪駆動)で、それ以降の車の基礎を築いた優秀な車だった。もちろん、850Sに比べれば、ハンドルの反応が良くて、格段に運転しやすく、馬力もあった。
先日、イタリア人留学生に話してみたら、彼は全く128を知らなかった。いい車だったのに。
僕にとって、フィアットはいろいろな思い出を詰め込んだ名前で、あの若い、活動的な自分の時間がよみがえってくる。
またチャンスがあったら、新しいフィアット500には試乗してみたい気がする。
P.S.
2012年に、イタリアでレンタカーの新型フィアット500の乗ることができました。
今年の1月に自分の歴史を振り返る手がかりとして、僕が乗ってきた歴代の車たちの(その1)を書いた。
<ボルボ360GLT>
参照:自分史を映しだす車たち(その1)
(その1)では僕がイタリア・ミラノでの生活で選んだ車たちをあつかった。
乗っていた車を思い出すことで、その時代の自分を思い出すことができる。
ある時は楽しい思い出であり、ある時は悲しい、つらい思い出でもある。
一応、思い出してもらうために再度、歴代の車を書いておこう。
フィアット 850S : その1で書いた僕の初めての車
フィアット 128 : その1で書いた、フィアット850Sの後継車
マツダ ファミリア
日産 N510
三菱 ギャラン
日産 810
フォルクスワーゲン 初代ゴルフ
ボルボ 360GLT
三菱 ギャラン
スバル インプレッサ 4WD
スバル R2
プジョー206
フィット
注:前回のリストに、プジョー206とフィットが加わった
R2は、スバルがトヨタに飲み込まれて、軽自動車の自己開発ができなくなったため、ダイハツの車をOEMで売り始めたからだ。きっとトヨタの狙いは、自分の持っていないスバルの水平対向エンジン技術だけだと思う。他には富士重工を取り込む理由はみあたらない。
トヨタとの関係で、あの懐かしいスバル360からの富士重工の長い軽自動車開発の火は消えた。結果として、次を軽で選べばトヨタの軽自動車担当のダイハツの車に乗ることになる。それはトヨタ車には絶対乗らないという僕の主義に反するから選択肢ではなかった。
結構楽しんでいたインプレッサは、10年にもなってボロボロ。それで、R2になったのだが、これも7年。そろそろ替え時だった。かといって、新しい3ナンバーの、いかついインプレッサに乗る気はなかった。
とにかく日本の車で、いま乗ってみたい車は全くない。そこで、次はちょっと小粋なプジョーになったわけだ。もちろん中古。1万3千キロが気に入った。
N510とギャランと初代ゴルフは、僕の楽しい時間の中に詰め込まれている。
一番つらい思いはボルボ360GLTに詰まっている。
ボルボの安全神話は、全くのでたらめだと思った。
よく壊れた。ディーラーに言わせると、それが、乗員への安全とためだと言い張った。
一度、問題のリストを作って、日本の代理店の社長さんに送りつけたことがある。手元には今はないので、思い出して書いてみると…
・無理矢理、左ハンドルを右ハンドルにしたから、アクセル・ケーブルがエンジンの上を左から右に走っていた。ケーブルはエンジンの熱に常にさらされて、ケーブル内部の潤滑油が焼け、アクセルが戻らなくなった。車が止まらないのだ。怖かったね。根幹的な非安全車だ、
・東名を走っていたら、フッとルーム・ミラーが消えた。衝突した場合、乗員を傷つけないようにとガラスに直接貼ってあった。それが何にもしなくても落こったのだ。サイドミラーだけで、高速を運転せざるを得なかった。
・エンジン・マウントのゴムが劣化した。エンジンがシャシーとぶつかって、ガンガンと音を立て始めた。ディーラーは、衝突した時に、エンジンが緩衝剤になって、乗員への被害を最小にするためだとぬかした。4万キロで交換となった。エンジンを持ち上げて、またやわらかいマウントと交換した。もちろん高い金を請求された。
・前輪のロッドとハブの間のゴムの緩衝材が、劣化してゴキゴキいいだした。同じことが、4年間の間に2回も起きた。2回目は、何が問題かが自分で判断できるようになっていた。ふざけんじゃない。
まあ、こんな具合だった。すごく当たりの悪いボルボに乗って苦労していた時期だ。
まあ、ボルボのために少し弁護しておかなくてはならないかもしれない。実はこのボルボ360GLTは、スエーデンの設計でも製造でもなかった。オランダのネッドカーという子会社が、ボルボに委託されて設計・製造していたのだ。
三菱ギャランは、金食い虫で手のかかるボルボに呆れ果てて、手に入れたものだ。10万キロ走ってくれた。6万キロくらいで、タイミングベルトが切れた。ぷつんと切れた。ただでエンジンをとっかえてもらったが、その後、三菱の大問題となったリコール隠しの車だったのだ。
N510と、初代ギャランと、ゴルフと、インプレッサの時間が、いい付き合いの時期だった。
その中でも、ベストカーはスバル・インプレッサだった。
<この写真は、WikimediaのThomas doerferさんの写真をお借りしました>
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