最近、神様がいつまで、僕を生かしておいてくれるのかが分からなくなってきたから、今までの時間の中で出会ってきたものたちのことを記録し始めた。
これが結構面白い。いろんな切り口がある。
たとえば、延べ10日以上話したことのある女ともだちのリストだとか、うまれてこのかた、何度どこからどこへ引っ越したとか…。
女ともだちは、いろいろ差し障りがあるので、リストをお見せすることはできない。
引っ越した回数は、26回と出た。びっくりだ。住んでいた場所だけでもこんなにある。生まれは、谷中墓地近く。以来26回というと多い方かもしれない。でも住むところを決めるのは、自分ではできない期間が結構あるからしょうがない、自分が決定したものでない引っ越しも、いっぱい入っている。
<FIAT 850S>
そういう意味では、主体的に選んだ自分の記録は、一番は車かもしれない。これは誰かが押し付けたりするものではないからだ。全部、自分の意志決定でやったものだ。
並べてみると。こんなふうになる。時間の経過と同じ順番だ。
フィアット 850s
フィアット 128
マツダ ファミリア
日産 N510
三菱 ギャラン
日産 810
フォルクスワーゲン 初代ゴルフ
ボルボ 360GTL
三菱 ギャラン
スバル インプレッサ
スバル R2
なぜ最初がフィアットだったかといえば、僕が30近くなるまで、日本では車は買えなかった時代だからだ。
僕の親友は、その頃トヨタのパブリカのオンボロに乗っていて、信州に行ったときはサイドブレーキが全くきかない状態で走っていた。走っていると足元の穴から、流れ去る道路が見えたくらいのしろものだった。そんなパブリカで、パトカーを追っかけたって思いでもある。
僕がフィアットの新車850スーパーを手に入れたのは、僕が幸いにもイタリア・ミラノの駐在員を言い渡されたからだ。
イタリアでは、その頃は車がないと、公共交通手段は市内を除いて貧しくて電車しかなかったから、自由に動くことができなかった。
僕のオフイスはミラノから広大な敷地を求めて、20キロくらい離れたサイトに移った。朝は、地下鉄の終点からプルマンと呼ばれる2両編成のバスが出ていたけれど、ほかに夕方までミラノの戻ることはできなかった。仕事上の必要もあって、車を買うことになった。
この幸運が、その後の僕の行動半径を、アルプスを越えてオーストリアやドイツまで広げてくれたのだ。思い出深い車だった。たかだか、850㏄のエンジンを後部に乗せたRR方式の古い設計だったけれど、僕には夢のようだった。
車は会社のミラノ支店のイタリア人と、直接、ミラノのフィアットの工場まで出向いて、ラインでまさに組み立てている最中の一台を選んだ。これがフィアット850Sとの出会いだった。この車の名前の呼び方は、日本語ではちょっと変な感じがする。オットチェント・チンクワンタだ。0をとって、85を読むとオッタンタチンケだ。さいごのケをコに変えると、元気のいい男性ということになって、日本人の笑いのもととなる。
その頃のミラノの大衆車としては、最近、新しく1200㏄で新しいデザインで復活した500が主流だった。だから、僕の車は、大衆車の中で、ちょっこり上等なグレードだったのだ。しかも「スーパー」がついている。何がスーパーだったのかは忘れてしまった。エンジンがチューンアップされていたのかも。
この車には丸2年、乗った。
平地では、平気で時速150㎞も出るので、どんどん走った。でも、山道は苦手だった。アルプス越えなんかの時には、本当に火を吐いて登っていた。かわいそうでもあった。フィアットの整備工場で、スピードの出しすぎで、プラグが焼けたとよく文句を言われた。そのくらい飛ばし屋さんだったのだろう。
日本のお偉いさんが、ミラノに来た時、僕が足になって送り迎えをした時、お前さんの運転は怖いと言われた。でも、ミラノでは普通の運転だった。
今は、日本でもそんな契約があるようだけれど、2年後の残存価格を決めておいて、2年後に買うかどうかを決める契約だった。僕の任期が2年で切れて、フィアットとおさらばとなった。懐かしい思い出が詰まった最初の車だった。
128については、リースで4か月、二度目の赴任の時に乗っただけだ。
この車は、世界最初のFF(前輪駆動)で、それ以降の車の基礎を築いた優秀な車だった。もちろん、850Sに比べれば、ハンドルの反応が良くて、格段に運転しやすく、馬力もあった。
先日、イタリア人留学生に話してみたら、彼は全く128を知らなかった。いい車だったのに。
僕にとって、フィアットはいろいろな思い出を詰め込んだ名前で、あの若い、活動的な自分の時間がよみがえってくる。
またチャンスがあったら、新しいフィアット500には試乗してみたい気がする。
P.S.
2012年に、イタリアでレンタカーの新型フィアット500の乗ることができました。
今年の1月に自分の歴史を振り返る手がかりとして、僕が乗ってきた歴代の車たちの(その1)を書いた。
<ボルボ360GLT>
参照:自分史を映しだす車たち(その1)
(その1)では僕がイタリア・ミラノでの生活で選んだ車たちをあつかった。
乗っていた車を思い出すことで、その時代の自分を思い出すことができる。
ある時は楽しい思い出であり、ある時は悲しい、つらい思い出でもある。
一応、思い出してもらうために再度、歴代の車を書いておこう。
フィアット 850S : その1で書いた僕の初めての車
フィアット 128 : その1で書いた、フィアット850Sの後継車
マツダ ファミリア
日産 N510
三菱 ギャラン
日産 810
フォルクスワーゲン 初代ゴルフ
ボルボ 360GLT
三菱 ギャラン
スバル インプレッサ 4WD
スバル R2
プジョー206
フィット
注:前回のリストに、プジョー206とフィットが加わった
R2は、スバルがトヨタに飲み込まれて、軽自動車の自己開発ができなくなったため、ダイハツの車をOEMで売り始めたからだ。きっとトヨタの狙いは、自分の持っていないスバルの水平対向エンジン技術だけだと思う。他には富士重工を取り込む理由はみあたらない。
トヨタとの関係で、あの懐かしいスバル360からの富士重工の長い軽自動車開発の火は消えた。結果として、次を軽で選べばトヨタの軽自動車担当のダイハツの車に乗ることになる。それはトヨタ車には絶対乗らないという僕の主義に反するから選択肢ではなかった。
結構楽しんでいたインプレッサは、10年にもなってボロボロ。それで、R2になったのだが、これも7年。そろそろ替え時だった。かといって、新しい3ナンバーの、いかついインプレッサに乗る気はなかった。
とにかく日本の車で、いま乗ってみたい車は全くない。そこで、次はちょっと小粋なプジョーになったわけだ。もちろん中古。1万3千キロが気に入った。
N510とギャランと初代ゴルフは、僕の楽しい時間の中に詰め込まれている。
一番つらい思いはボルボ360GLTに詰まっている。
ボルボの安全神話は、全くのでたらめだと思った。
よく壊れた。ディーラーに言わせると、それが、乗員への安全とためだと言い張った。
一度、問題のリストを作って、日本の代理店の社長さんに送りつけたことがある。手元には今はないので、思い出して書いてみると…
・無理矢理、左ハンドルを右ハンドルにしたから、アクセル・ケーブルがエンジンの上を左から右に走っていた。ケーブルはエンジンの熱に常にさらされて、ケーブル内部の潤滑油が焼け、アクセルが戻らなくなった。車が止まらないのだ。怖かったね。根幹的な非安全車だ、
・東名を走っていたら、フッとルーム・ミラーが消えた。衝突した場合、乗員を傷つけないようにとガラスに直接貼ってあった。それが何にもしなくても落こったのだ。サイドミラーだけで、高速を運転せざるを得なかった。
・エンジン・マウントのゴムが劣化した。エンジンがシャシーとぶつかって、ガンガンと音を立て始めた。ディーラーは、衝突した時に、エンジンが緩衝剤になって、乗員への被害を最小にするためだとぬかした。4万キロで交換となった。エンジンを持ち上げて、またやわらかいマウントと交換した。もちろん高い金を請求された。
・前輪のロッドとハブの間のゴムの緩衝材が、劣化してゴキゴキいいだした。同じことが、4年間の間に2回も起きた。2回目は、何が問題かが自分で判断できるようになっていた。ふざけんじゃない。
まあ、こんな具合だった。すごく当たりの悪いボルボに乗って苦労していた時期だ。
まあ、ボルボのために少し弁護しておかなくてはならないかもしれない。実はこのボルボ360GLTは、スエーデンの設計でも製造でもなかった。オランダのネッドカーという子会社が、ボルボに委託されて設計・製造していたのだ。
三菱ギャランは、金食い虫で手のかかるボルボに呆れ果てて、手に入れたものだ。10万キロ走ってくれた。6万キロくらいで、タイミングベルトが切れた。ぷつんと切れた。ただでエンジンをとっかえてもらったが、その後、三菱の大問題となったリコール隠しの車だったのだ。
N510と、初代ギャランと、ゴルフと、インプレッサの時間が、いい付き合いの時期だった。
その中でも、ベストカーはスバル・インプレッサだった。
<この写真は、WikimediaのThomas doerferさんの写真をお借りしました>
Creative Commons ライセンスの“表示・継承 3.0
最近、集中してテレビをみることは少なくなったのだけど、昨夜(2008年)は一時間、夢中になってみて見てしまった。タモリが司会する、M.ステーションのサザン・オールース・スターズ30周年記念のライブだ。サザンはとにかく好きだし、懐かしい曲でいっぱいだ。
<サザン CD>
30年というと、僕の世界は、大体サザンとオーバーラップしている。
みんなに愛されて、トップの座にこんなに長くいるグループも珍しい。ずっと僕は好きで、ブログの世界には、彼らの曲が陽水の曲と共に常にあった。
僕の好きなのは、いとしのエリーとか、会いたいときに君はここにいない、なんかだけれど、サザンの曲はみんな好きだ。すばらしいエンタテェイナーだと思う。
いとしのエリーというと忘れられない思い出がある。
あれは僕たちのグループが、東伊豆に遊びに行った時のことだ。ホテルに門限があるとも知らず、朝の2~3時まで近くのスナックを貸しきり状態にして、みんなで、カラオケで歌ったり踊ったりして楽しんでいた。そのときにエリーの曲がかかっていた。みんなで一緒に歌って、みんなおおノリだった。
その中に新入社員のHSさんがいた。僕にとっては、初めての技術系新卒の大卒女性社員の一人で、みんなで大切に育てていた。
彼女が新人研修を終えて、僕のところに配属されてまもなく、僕に電話が掛かってきた。出ると、Oですといわれた。Oさんと言う人は、僕の友人にも近しい仲間にもいなかったので訝っていると、はっとひらめいた。僕の部門の属するグループのトップ、担当常務の名前だ。
もしかして、常務のOさんですか?と聞き返した。Oさんは、僕が紹介したHSが、君のところでお世話になっていると聞いた。うまく育てて欲しいといわれた。僕は、一課長として、初めて話す偉い常務さんだった。とにかくびっくりして、わかりましたと答えた。大変な新入社員を配属されたもんだと、初めて知った。電話を切ったらわきの下に汗をかいていた。
僕は、HSさんを特別扱いもせず、みんなにもそのことは話さず、普通にみんなと一緒に育てて行った。そのHSさんが、その頃僕に言ったことを、今でも鮮明に覚えている。
幸運にも、私は大学までこの社会に育ててもらったのだから、一人前になって、最低3年間は社会に貢献したいと思っているって言った。T大学の数学科の出身だったから、その大学では立派なことを教えているんだなぁとそのとき僕は思った。素直ないい子で、少しゆっくり目だけど順調に育っていった。
その後、折があって聞いてみると、それは大学の教えではなくて、HSさんの家の教育が言わせた言葉だった。すごいことを教え込んだもんだと改めてHSさんのうちのご両親の立派さを知った。
そう、あの東伊豆の夜、門限で入り口が閉まっていたから、僕たち10人くらいは非常口からこっそりホテルの部屋に戻って眠った。翌朝、幹事はもとより監督責任のある僕も、ホテルの管理人さんからこっぴどく叱られたことを思い出す。当然だった。やっぱり若ったのだなぁと思う。
そんなことも思い出しながら、サザンは僕にとって、大切な思い出を開く鍵でもあるのだと思った。
桑田は、歌詞を間違えたり、声が嗄れていたりしたけど、サザンは間違いなく僕を楽しませてくれた。
何時かのように、また再び僕たちの前に現れてくれることを願っているサザンだ。
P.S.
やっぱり、陽水にも頑張ってもらわなくては…と思う僕です。
3月11日の東日本大震災から、2か月以上がたちました。
この間、福島原発を人間のコントロール下に置くという作業は、遅々と進んでいません。次から次へと問題が見つかります。問題はもともと存在していたのですが、気がつかなかった、もしくは考えなかっただけのようです。今のところは、工程表を出そうが、どうしようが、ほんとうの収束のめどは立っていないのが現状です。
<福島第一原子力発電所からの汚染の状況>
この間、国民は小出しにされる情報で、問題の重要性に対する感覚が鈍り、あたかもいい方向に収束しているかの思っているようです。
メディアを通して、僕たちが知りえたことは、どうも嘘っぱちのような気がしてなりません。それは、次のような経緯から芽生えてきた疑問でした。
・メルトダウンの発表の遅さ
・あたかも制御できているかのような小出しの情報
・政府の中で推進サイドとチェック・アンド・バランスの原子力委員会の機能が働いていなかったこと
・経済産業省の原子力保安院の、怠慢、お役所仕事
・東京電力の、独占企業での企業利益の追求が安全確保に優先していた事実
・福島の歴代の知事たちは、こぞって、原子力の安全神話を県民に吹き込んできた
・地元の人たちも、安全神話と、国からの交付金につられて、首長を選んできた
・政府の原子力専門家は、原発ありきで発信し、リスクについては目をそらしてきた
・メディアも、安全神話に対して同調し、乗っかるだけで、リスクの検証をしなかった
・原発に批判的な専門家の意見を全く吸い上げなかったし、報道の公正さを欠いた
・政府、東電に近い大学などの原子力専門家も、本当のリスクは口にしなかった
などなど。
こうした疑問を払しょくし、本当のことを知りたいと、ネットで検索をいっぱい、いっぱいかけました。その結果、政府、東電、メディア、御用学者たちが言っていることは、コインの一面を言っているにすぎないとわかりました。もう一つの面は、語られなかったリスクです。
確かに、今回の福島の直接的な原因は、津波による、全ての非常用電源の喪失であることは間違いありません。
しかし本当は、日本各地に、「地震国日本」に原発のリスクをよく考えないで、安全神話にのっかって、どんどん推進してきた政府、電力会社の大きな誤りがあります。
津波の非常用電源もさることながら、原子炉という複雑かつデリケートで、壊れやすい存在そのものが、地震に耐えうるものではないようです。そういうことが、次々に分かってきています。原子炉、格納容器、その物自体は頑丈に作られていますが、それに付随する各種のパイプ、配管などは、地震に対して脆弱でした。
<事故前の福島第一原子力発電所>
逆に言えば、津波が来なくても、M8クラスの地震が起きれば、そこにある原子力発電所は、格納容器、原子炉本体、および冷却制御装置の破壊で、福島第一と同じ経緯をたどることになると知りました。
まずネットの検索で見つかったのは、
キーワードは「最悪のシナリオ」でした。真実を語る素晴らしい番組を発見したので、お知らせします。
本当のことを知りたくないので、それをパスする傾向がある日本の国民性について語り、それと原発事故の関連性を踏み込んで、語っている番組です。
YouTubeへ投稿されていました。「福島の事故の最悪のシナリオ」が2011年3月25日に放送されていました。
旧聞の属すると思われるかもしれないですが、実は、その後の事故の展開を、事故の2週間後には、的確に予想していたのです。
残念ながら、または当然ながら、ここで語られた最悪のシナリオは、今日にいたるまでの2か月間、その後に起きた事実、現実で確実に裏付けられてきています。現実に起きた事象が、予測が正しかったと証明し続けています。
横並び、お上に弱い、大新聞の言うこと、メディアの言うことをうのみにする、民族性にも触れられています。今度の事故は、そうした国民性が背負いこんだものだという観点は的確です。
福島原発の事態の進展は、京大の小出裕章助教の推測どおりでした。唖然としました。
ちょっと長いですが、パート1だけでも見てみてください。
あえて最悪のシナリオとその対処法を考える【Part1】
http://www.youtube.com/watch?v=7W3ZI6ENAl0
あえて最悪のシナリオとその対処法を考える【Part2】
http://www.youtube.com/watch?v=lvrrSbbScMU&feature=fvwrel
少し自分の頭を回す必要があると感じました。皆さんはどうでしょう?
その後、5月21日に、「福島原発巨大事故 今何が必要か」の放送がありました。
この日も原発の持つ途轍もない危険と、解決不可能な将来を勉強しました。問題の収束方法すらわからないということです。
約1時間40分。ちょっと長いですが、時間を作って観てみてください。
題名:「福島原発巨大事故 今何が必要か」
発言者は、科学者の広瀬隆氏。
国会議員の勉強会での発言です。
データを持って、警鐘を鳴らしました。
・日本のエネルギーは、原子力に頼る必要は全くない。全体の5%以下の貢献です
・LPGベースのコンバインド火力で、安全に、安く電気は賄える
・日本の54基の原発の全てで、地震のために福島と全く同じ大事故が100%起こる
・今まで作り出してきた原子のごみを、どう片づけるかは、技術的に確立していない
・青森県の六ヶ所村は、再利用技術はなくて、増え続ける貯蔵所に過ぎなく満杯に近い
・今動いているすべての原発を即刻、廃炉にしていかないと、本当に日本は沈没する
いい加減な、政府、東電、御用学者、馬鹿メディアの言っていることは全く嘘っぱちであると、痛切に思いました。
1時間40分を惜しいとは思いません。どうぞ、皆さんもご覧ください。
勉強しましょう!精確な情報を知りましょう!
<事故以前の福島原発は、「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」が出典>
ライセンスは、出典を明記することが自由使用の条件です