てつんどの独り言 その1

2章 フラグメンタルな…( 8 / 21 )

入院、そしてオペ

 今日も気温30℃、湿度70%超えだったけど、南北の窓を開け放つと、マンションを風が通り抜けていく。たそがれ時に、窓でベルモットを飲んでいると涼しく感じる。これはいい。ここにいると、朝凪と、夕凪がはっきりわかる。風の方向が全く逆になるのだ。その間、凪ぐ。

 

 電車の音が聞こえる。僕は小さいころ、谷中墓地から続く日暮里駅の小さな陸橋で、おそらくおばあちゃんと一緒に聞いて慣れ親しんだ電車の音は、懐かしい感じがする。どこかイン・プリントされているようだ。別に電車が好きなわけではないが、コロロン、コロロンという、線路に残す電車の音が好きだ。それを、ベルモットを片手に楽しんでいる。

 

0.17横須賀共済.jpg

 

<横須賀共済病院>

 

 またまた、5年前と同じく、カテーテル・アブレーション手術を受けることになった。

 

 この前のアブレーションでは、先生に、「神様しか、手が届かないところがあった」と言われたけれど、半年は薬なしで発作も出なかった。でも、その後、発作が再発して、アンカロンという劇薬(抗不整脈剤ではこれ以上強い薬はないと言われている)で、対症療法を続けてきた。

 

 心房細動という不整脈発作が時々起きて、苦しくなり、薬を飲み続けると、運良くおさまったりしていた。

 

 しかし、今年、いろいろのストレスのためか、2月末に発作が起きて、それが4か月も止まらない。しかも、心房細動より、ワン・ランク高い(悪い方に)心房頻拍だという。脈泊数が数分の間に、60~120bpsの間で動き回る。全く気持ちが悪くて、落ち着かない。そして、胸が苦しい。

 

 肥大型心筋症の根治・治療とわれているカテーテル・アブレーションをもう一度受けてはどうでしょうと、主治医に勧められた。技術は、毎年進んでいますという言葉に乗って、今月末から心房頻拍を絶つオペのために入院することになった。

 

 日本で二番目に、この手術の実績がある病院だから、まさかの事は起きないだろうとは思っている。でも、万が一ということもある。準備を始めた。

 

 まずは、遺言書の書き直しだ。時間が経過して、状況が変わってくると、いろいろ書くべき新しいことも出てくる。それに、前回は明記しなかった遺言書の執行者の指名を加えた。

 

 二日かけてワードで編集し、やっと良いだろうと汚い字で自筆遺言書を書く。しかし間違える。二回ほど書き直してやっと出来上がった。

 

 少し気が楽になる。まだ、この遺言書に役立ってほしくはないのだが、心臓の病気だから、逝くときは逝く。そんなわけで、こんな今日的な書き込みになった。

 

2章 フラグメンタルな…( 9 / 21 )

入院の日々

 

 6月末から7月初めにかけて、34日の予定で心臓の頻脈性不整脈を根治(=対症療法の薬物療法ではなく原因から物理的に処置して治す)の為のカテーテル・アブレーション手術を日本で一、二の実績を持つ病院で受けた。

 

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<病室>

 

 *注:

 手術については添付の「不整脈の根治を目指すカテーテル・アブレーション」(京都大学附属病院 循環器内科)のホームページをごらんください。

 http://kyoto-u-cardio.jp/shinryo/chiryo/00604/

 

 ご心配をおかけしたと思いますので、入院の日々について報告をしておきたいと思います。いつもの雑駁な文にしますが、ゴメンなさいです。

 

 今回の入院は、緊急入院ではなく、予定されていた入院だったから、準備を前もってやっておくことができた。

 

 いつもは旅行の時に使う、必要品のリストのアップデートを始めた。担当の先生から言われていた最短34日を、同じ期間の旅行と同じと考えて、旅行リストに入院に特別に必要なものを書き加えてく。

 

 たとえば、寝たまま液体を飲める吸い飲みとか、T字帯(越中ふんどし)とか、睡眠を確保するための耳栓、アイマスクだとか、スリッパ、入院関係の書類、医療保険の書類、電気カミソリと充電器、電動歯ブラシと充電器などを書き加える。

 

 もちろん、その中には服用する薬もある。先生が34日と言ったから、まあ1週間分あればいいだろうと、5種類の薬を小袋に入れて1週間分準備する。

 

 これらの品々をボストンバックに詰めると、結構な大きさになった。この猛暑の中を、自分で運ぶのは嫌だからクロネコヤマトを使うことにした。宛先を聞こうと病院に電話したら、病院では受け取れませんときた。しょうがないから、クロネコヤマトの横須賀のセンター留にして、入院の朝、行きがけに受け取ることに。

 

 入院の日は、翌日の手術の予備検査のみ。脳こうそくの原因となる、血液の中に血の塊(血栓)がないかのエコー検査。あとは取り立てやることはない。

 

 5人収容の大部屋で、カーテンを仕切って左右に二人。通路をはさんで二人。5人の共同生活が始まる。結果として、入院中、延べ7人の人と共に暮らした。

 

 中には、一度も口を利かなかった人も一人いた。でもこの人は例外。同じ部屋だから、自分の病気だとか手術の事だとか、いくつかの共通の事で口をきくようになる。著名な担当医の話も出る。

 

 僕が、左隣の人と親しくなったのは、単純な理由だった。

 

 実は、ちょっと気にはしていたのだけれど、いつも現金を持ち歩かない僕には、小銭が全くなかった。しかし、病院では飲む水は売店か、自販機で買うしかなかったのだ。

1万円札を握って、売店まで降りたときにはもう閉店。自販機はとみると、千円札からの小銭しか受け付けない機械ばかり。困った。

 

 仕方なく、挨拶したばかりの左隣りのKさんに千円の借金を申し込んだ。快く千円を貸してもらった千円を握って、やっとペットの水を手に入れたのは、消灯の1時間前だった。僕の名刺にIOU\1000と書いて渡した。借用書だ。あなたに千円借りていますってことだ。

 

 おなじ手術を受ける人でも、その動機の違いには驚かされた。

 

 ある人は、危険を伴った手術をワルファリンという血液をサラサラにする薬を飲みたくないという理由で手術を受ける人もいた。その人は心房細動の嫌な自覚症状はないけれど、ワルファリンを飲みたくない、つまり、納豆が食べたいとの一心で手術を受けるって人だった。手術前に奥様が、思い込んだら仕方がないとこぼしていらした。そうしたら、1000件に1つくらいの確率で起きる手術の失敗。この手術が効かなかった。本人はがっくり。奥さまは、もう二度とこの手術はやらないでしょうと言いながら、3泊4日で退院された。彼は、納豆はやはり今後も食べられないわけだ。

 

 中には、この病院の常連(?)もいた。いろんな部位の病気で、過去数回の入院。看護師さんたちをからかっている。今回は、ペースメーカーを埋め込む手術を受けたトビの人。仕事柄、高い所で発作が起きては危険だから、仕方なくペースメーカーを胸に34日で退院。

 

 病院の食事は本当にまずい。栄養士さんが、毎日の献立を考えているそうだけれど、全くおいしくない。味がしない。カロリーは、大盛りのごはんが中心。とても耐えられなくて、売店で何十年ぶりかで買う海苔のつくだ煮、柴漬けなんかを自己判断で補って食べる。決定的な問題は、野菜の不足と乳製品が牛乳のみということ。特に僕の場合は痔主で、毎日の便通はとても大切。しかし、牛乳は下痢になるので飲めない。

 

 またまた、売店に行って、ヨーグルトとチーズと野菜100%ジュースのお世話になる。

 

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<野菜ジュース>

 

 千円を借りた左隣のKさんとは、それがきっかけでよく話すようになった。素晴らしいバリトンで、遠くからもその声はよく聞こえる。穏やかなひとで、彼は心房細動で、鎌倉の個人病院から紹介を受けて緊急入院していた。心臓病棟の大部分の患者がそうであるように、24時間無線のモニターが付いていて、時々、ナースステーションから看護師さんが飛んでくる。

 

 Kさんの場合、瞬間的に190BPM(一分間の心拍数=正常値は60~90)まで跳ね上がるから、モニターに反応して看護師さんがふっとんでくるのだ。決まって、点滴。本人も気持ちが悪くて寝たきりになる。

 

 彼が立ち上がって僕と話したり、トイレへ行ったりすると、BPMが上がるらしい。彼は、飛び込みだから「何か月待ち」のアブレーションの待ち行列には、いつ入れるかわからない。いつ何をするということが決まっていない患者ほど不安なものはない。

 

 次の日に、僕のオペの日が来た。朝9時からのオペで、準備は8:30から。僕は、僕の心臓が遺伝的に異形だと知っていたし、前回のアブレーションで焼き切れなかったという主治医に言葉を聞いていたから、深追いはしないでくださいと先生に釘を刺して手術台に上がった。

 

 自分の狂った心拍のリズム、鼓動の早さがモニターで聞こえる。一定のインターバルで、胸の一部が熱くなって高周波電流で胸の内側の筋肉が焼かれていく。それが実感できる。60度くらいの温度で、心臓の内部が焼かれるわけだ。

 

 先生は頑張った。予定の4時間を大幅に超えて、6時間半頑張った。僕には、先生ががんばっているのがよくわかる。不整脈の発生源の領域が想定以上に存在するのだ。先生以外の他のスタッフは、疲れ果てて、気持ちが乗っていないのがよくわかる。

 

 固い手術台に縛られて、6時間半。部屋に帰って絶対安静で6時間。合計12時間以上、身動きできなくて、もう僕は腰の痛みとしびれに悲鳴を上げた。これで、よくなってくれなくてはと期待する。

 

 睡眠導入剤をもらって、その夜はよく眠った。オペの翌日、僕の脈は正常な洞調律に戻っていた。やった~!と思った。1000人に一人くらいの確率で起きる失敗ではなかったのだ。一番恐れていた、医療事故も、合併症もなかった。感謝、感謝!

 

 しかし、翌日、僕のモニターは心房頻拍を示していた。手術前は、60~110BPMを数分間で動き回っていたが、今度は90~110BPMで高止まりだ。早歩をやっていると同じ感じで、心臓がバクバクしている。体が熱い。がっかりする僕。悔しがる先生。

 

 先生は点滴を指示されたが、その薬はぼくには全くきかない薬だった。

 

 最短の34日の入院の願いは吹き飛んだ。僕の喜びはほんの一日だけだったのだ。

 

 今は、脈拍を下げる新しい薬で、90BPMで高止まり。悪い固定化で、67日で退院。

 

 Kさんには、どこかでまたお会いしましょうとは言えなくて、入院中の彼と別れを告げた。彼の手術の日は、僕の退院の翌日に決まっていた。それは本当に良かった。

 

 次の僕のチェックポイントは8月の初旬。どういう方向になるのか、分からない。

もう一度、アブレーションをやるのか、何かほかの手立てを考えるのか…。全て、主治医の頭の中。

 

 可能性があるのなら、僕はもう一度そのチャンスにかけてもいいと思ってはいる。

しかし、…。

 

 

<写真素材「足成」から、「あけぼの」さんの「病室」をお借りしました>

2章 フラグメンタルな…( 10 / 21 )

夢の助言

 

 今日、見た夢は、まさに今の私に対する優しい警告、助言だとしか思えない。

 

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<夢の助言>

 

 夢の中の物語:

 

 急こう配の山が続く場所(三浦半島?)に、他の家をさらに越えて、崖の上の白い小さな家に僕は住んでいる。部屋から海が見える。ベランダにでる。

 

 と突然の風。

 

 僕の手にあった、オリーブ色の手帳がはらりと風に吹かれて、舞い落ちていく。見ていると、僕の家の下の、またその下の家の庭に落ちたのが見える。

 

 大切な手帳だから、あわてて坂を下って、見当をつけてある家を訪ねる。

 

 のっそり出てきたのは、かなり年配の男の人。招き入れてくれた。ここも、僕のうちと同じような小さな地味なものだ。室内は薄暗い。

 

 落した手帳のことを話すと、狭い庭に案内された。芝生の上に、オリーブ色の手帳があった。大切な手帳を取り戻せて、安心。

 

 暗がりに、奥さんと思われる人の声がゆったりと聞こえる。

 

 と、裏の崖との間の狭い空間に動物がいるらしい。

 ご主人が声をかけると、ゆっくりその動物は現れた。牛の鼻に似た大きな鼻を持つ大きな犬だった。ゆっくりとした動きで、優しい目をしている。

 

 ご主人の手元を見ると、パレットに色鮮やかな油絵の具が並んでいる。油絵を描いている途中に、僕が訪れたようだ。

 

 話を聞くと、昔、女子美の教授だったとか。今は、静かな時間の中で気ままに絵を描いているという。決して立派な作品ではないが、8号くらいのキャンバスに、浜の絵が描かれていた。

 

 時間がとても、緩やかに、ゆっくり、ゆったり流れていく。その世界に身を置いている自分が懐かしい気がする。

 

 どうも、自分が長いこと持つことのなかった、ゆったりとした時間を感じた。なんだか懐かしいなぁと言ったら、また遊びのおいで…と送り出された。すると、隣の家の窓が開いて、大きな前衛的な絵を描いている人が、先ほどの絵描きさんに、グワッシュはないかいと大声で語りかけていた。

 

 僕は、オリーブ色の手帳を手にして、ゆっくり急こう配の細い道を、自分の家のベランダを見上げながら登っていく。

 

 ここで夢は終わった。

 

 この2年半ほど、人生の中で、そうあるものではない大きな方向転換のためのプロジェクトに奔走して、時間をあまりにも粗雑に扱ってきたのではないかと、目覚めた僕は気がついた。結果を出すために、頑張ったとも言えるし、我武者羅過ぎたともいえる。

焦っていたともいえる。

 

 歳をとればとるほど、一日の重みが違ってくる。65歳の人の一日と、30歳のこれからの人生が永久にあるかのように生きている人の一日とは、その重み、大切さが、うんと違うと思っている。

 

 一日は同じ24時間ではないのだ。24/43800(例えば、65歳の人のあと5年間の余命であれば)は、24/350400(30歳の人の70歳までの余命であれば)とは、その一日の重さ、大切さが違うのだ。余命に対する重さは、65歳では、30歳の人の8倍も重いのだ。

 

 夢で出会った、人達は、ゆっくりとした時間の中で、自分の大切な時間をいつくしみながら生きていると感じたのだ。

 

 幸い、僕のプロジェクトは終わった。忘れていた、ゆったりとした時間を、これからは大切に過ごそうと、今朝、考えた。

 

 

 

<この写真は、flickrからJanetR3さんの“Dream”をお借りしました>

 ライセンス:Creative Commonsの“表示”です 

 

2章 フラグメンタルな…( 11 / 21 )

もう今年(2011)は終わり

 

 もう今年は終わり。2011年は、僕にとっては本当に激動の年だった。そんなことを振り返りながら、新しい世界へ踏み出したいと思っている今…。

 

時系列的に並べてみると、やはり今年は忘れられない出来事の連続のようだ。

 

・私的な、一生に何度もないと思われる一大プロジェクトの完了。これについては、きっと時間という希釈作用の後で、述べることができるかもしれない。でも今は、まだ非連続性の世界ではなくて、今につながる生の感情が湧き上がってくるから、書ける代物ではない。書くということは、ちょっと客体化してからやっとできることであって、生のままでは書けないものだと経験が語っている。苦しさ、エネルギー、感情、勘定、断絶、などが立ち返ってくるからだ。

 

・仙台からの劇的な脱出については、ブログに書いたとおりだ。人に話すと、強運だといわれている。幸運でもあった。友達宛の便りに、次の通り書いている。

 

仙台を離れることになりましたので 仙台のマンションを売却しましたが その引き渡しが3月11日の午前中 仙台で行われました。

引き渡しが 予定より早く終わりました。小雪もちらついてきたので 予定の14:26の「はやて」を12:26に早め 横浜に帰ってきました。そこで 震災に会いました。これは、私にとって幸運であったと思います。

買主さんも 津波に遭遇され この引き渡しが 代替住居の取得になりました。お互いにとっての本当の互恵取引となりました。ホッといたしました。

          

 数えてみると、生まれてこれまでに28回の引っ越しをしている。そのうち、8回は親父の決定で、残りの20回は僕の決定だから、誰のせいでもない。

 

・マンション探しがたいへんだった。病気のことが念頭にあるから、住み慣れた横浜でも、どうしても京浜急行本線の駅から歩ける近場を探すことになる。できれば、病院のある横須賀に近い方がいい。でもなかなかないものだ。15軒ほど2か月くらいかけて見て回った。三浦半島の西海岸には住みたいのだが、何しろ交通の便が悪い。仕方なく、東海岸が候補地となる。

 

新しい発見があった。三浦半島のマンションは、みんな狭い谷戸の奥に立っているものが多いということだ。谷戸でなくても、岩山の上だ。もともと、人が住める平地は少ないのだから仕方がない。でも、心臓病を持つ僕には、行きはよいよい、帰りは恐いでは、とても困るのだ。

 

・大震災で、浦安の液状化現象が報道されなかったら、もしかしたら横須賀の10年ぐらいしかたっていない埋立地のマンション(交通は駅まで徒歩7分)を契約していたかもしれない。対岸の火事ではなかった。親しい友達が浦安の液状化で自慢の家が傾いたといってきた。僕はそのマンションの契約の前日、キャンセルした。その後、神様が今のマンションと引き合わせてくれて、やっと横浜に戻ることができたのは幸いだった。

 

・福島原子力発電所の事故には、本当に心がわなないた。東京電力、お抱え学者たち、経産省・安全保安院、原子力安全委員会、国、そして、地方自治体の首長さんたち、こんなところに、心のいら立ち、怒り(病気にとってはひどく悪いこと)が癒えたことはない。

 

 先日、野田総理大臣と、細野原発担当大臣が、誇らしげに「冷温停止状態」を宣言した。しかしちょっとおかしいぞと僕は思った。調べてみたら、日本記者クラブの外国人記者の質問で「化けの皮」が簡単にはがれていた。

 

 外国人記者は、「冷温停止状態」の定義をただした。さらに、原子力の技術専門家の世界で言われる「冷温停止」の定義を、「核燃料が取り出せる状態」だと念を押した。そこで細野氏は行き詰った。彼は言った。「定義は違うようですが、私たち(政府)は福島県民に、もうあんな悲惨な大事故は再びは起きません。安心してくださいと伝えたかったので、そう判断しました」ときた。

 

 そのあとの保安院とのさらなるやり取りで、政府は明確に「冷温停止状態」と「冷温停止」とは違うと白状した。英語で言えば、「Cool Shutdown(冷温停止)」と違う「 Quasi-Cool Shutdown」だと言った。Quasiとは、おおむね(否定的なニュアンスの)と言う意味だ。

 

 ダブル・スタンダードの話ではない。福島県民、日本国民を惑わす目的で似て非なる定義の言葉を使ったのだ。意図的であり、隠避だと思う。こんなふうに怒るのはよくないのでやめようと自分に言聞かせる日々が続く。

 

・今年は、3回も心臓のカテーテル・アブレーション焼却手術を受けた。僕の病気、心房細動、心房頻拍の根治治療と言われている唯一の手術だ。小さな左心房を合計4回(延べ22時間)も焼いたわけだが、結果としては、この手術後も180回/分の心拍数になり、ぶっ倒れそうになって、救急入院を2回も経験している。心臓の老化も病状を悪化させているらしい。でも、仕方がないので、様子見。ちなみに、禁酒、禁煙(これはもう20年も前に達成している)、禁興奮と言われている。美女を見ても心を惑わされてはならないと自戒する。

 

・悲劇は、自分自身だけではなかった。高校以来の一人の親友が5月に脳梗塞で倒れた。しかし独居。発見は半日後だった。今も言語障害と左半身の不随で、リハビリ中だ。遠くに住んでいるから、飛んでいくわけにもいかない。幸い意識は戻ったようだから、ちょっと安心した。しかし、リハビリの生活は長くなりそうだ。本当に健康な人がうらやましい思いだ。

 

・そんなこともあって、生前整理にとりかかった。遺言書の更新、財産目録の作成、エンディングノートの準備、散骨の会社探しなど、まだ時間がかかりそうだ。神様は何時まで生かしておいてくれるかはわからない。今、これを書いているこの瞬間で終わるのかもしれない。 

 

・達成感のあることもあった。それは、10月に書いた、おそらく最後になると思われる「最後の墓参り」だ。親父と姉と祖母が眠っている先祖代々の墓だ。僕はその墓には遠くて入る気にはなれない。相模湾沖の太平洋に撒かれる方がよほどいい。

 

・書き溜めたエッセイと、単行本で絶版になる紙の本を電子ブックに独力で出版した。これで、自分史の一部がアーカイブされたわけだ。子供たちや孫たちに僕の歴史が残されたわけだ。あと2冊は上げたいと考えて準備をしている。楽しい仕事だ。

 

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<プジョー君>

 

・新しい車が来た。4月のこのブログの「自分史を映し出す車たち(その2)」で簡単に触れたプジョー君の入手だ。ボルボで懲りたのに、残念ながら、日本の車で乗りたいものが全く見つからないので(最後まで残ったのはスバル・インプレッサだったがデカすぎる)、乗っていて小気味よく、楽しい車というと目が行ってしまったプジョー君だ。きっと、来年の春になれば、楽しい遠出もできるだろう。ドクターからは、禁車とは言われていない。幸いだ。八ヶ岳くらいまでは足を伸ばししたいがどうだろう?

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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